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タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

質問者からの補足コメント

  • ん~個別でお礼書こうかと思いましたが今は止めておきます
    (質問に私の持論という指向性を更に持たせてしまう為)

    閲覧して思う事が有れば好きなよう自由に回答願います
    色々参考にしています。質問してよかったです

      補足日時:2019/03/02 06:23
  • うーん・・・

    申し訳ないけど貴方のその文体での主張って
    他で行える手段も手法もありますよね?
    bragellone文体での主張はご自身で
    新たに質問して主張して下さい

    好きに、自由に~ってのは常識の範囲内でって事です
    (私の常識が正しいのか?って問題が有るので
    あまり常識云々言いたくないですが)

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/02 08:23

A 回答 (20件中1~10件)

>私個人の現在の考えでは


「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。
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>物理屋さんなど、計算してなんぼの世界で生きている人々には数学基礎論は合わないのかもしれないよね。



その通り!よくわかってるね。物理学をやるには数学基礎論は肥やしになる。それも結構重要な肥やしだ。でも、物理屋は肥やしを食って楽しんでいるんじゃなくて、その肥やしで成長した実を食って楽しんでるんだ。
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その無限は 《可能無限》であり 経験事象としての限りなさ・つまり


全体として有限なものである。

極限値としては 《実無限》である。


無限――《真無限》――とは 二で割っても三で割ってもその商が 元
のまま無限であるというそれだ。




カントールの対角線論法は 間違いである。
列挙したリストには 拾い漏れがある。その拾い漏れのことを あたら
しい数の発見だとして 間違えている。
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無限とは無限集合の要素の数の以外の何者でも無い。



つまり、アレフ0の加算無限集合の要素の数、アレフ1の連続体無限集合(実数の全部)の要素の数、アレフ1の連続体無限集合の冪集合(難しいけど、べき集合と読む)の要素の数、など、いくつもの異なる無限があるけれども、どれも無限であるが、「無限大」などという曖昧な言葉は、上記のどれを指すかもわからない。

双曲線関数の極限値を例として意味するのかもしれないけれども、そもそも極限値というのは実現値ではないので、その値に達することはないのです。

無限の概念は、20世紀初頭にゲオルグカントールが整理してくれた数学基礎論の根幹をなす概念で、物理屋さんなど、計算してなんぼの世界で生きている人々には数学基礎論は合わないのかもしれないよね。

数学の本質は、解析ではなくて、むしろ哲学だからねぇ。
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Q:古代のギリシャとインドの哲学の関係について

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8292190.html?pg=1の質問者さんと回答者No.6,12,14,16,17さんは話をしているような通じてないようなバビロニアが無くなりつつ分かれてギリシャとインドになったようなわりとすっきりしないです。パレスチナっぽくDudu Tassa&The Kuwaitis『Bint El Moshab』
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No.15の補足



そこでの表現に書き忘れたことがあった。

No.15で上半球と交わるのは、xの絶対値とyの絶対値が共にに1より小さくない場合に限る。そのことを書き忘れたんで、訂正しておく。

無限大の話をするときには、この訂正はあまり重要じゃないんだが、数学の話をするとうるさい奴が必ずいるんで、訂正しておかないと、煩わしいハエどもがブンブン飛び回ってうるさいからね。

昔、物理学者のボルツマンでいう偉人が

「摩擦のない場合の力学では無限大に飛んでいかない軌跡は何回でも初期状態に帰ってくる」

という議論をして、時間の向きの対称性の破れに関して大変重要な主張をしたことがあった。そしたら、数学屋のハエどもがうるさかったんだよ。

「その表現は間違いだ、摩擦のない場合の力学では無限大に飛んでいかない軌跡は『ほとんど全ての場合』に何回でも初期状態の『近傍』に帰ってくる」

っていうのが正しいんだって。ボルツマンはそんな五月蝿さに堪え兼ねたんだろうか、自殺しちまった。そりゃ厳密には下の表現の方が正しいんだけれども、ボルツマンの言い出したことの本質は、その曖昧な表現で十分だったんだ。でも、右を指で差しなたら「左、左」って言ってると混乱する奴がいるってえのも解らないわけじゃない。人間の表現は口で言っていることよりも、体で表現している方が正しいっていうのが解っていてもだ。
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No.12のでえくの反論に対する反論:



No.9で述べた、

>無限大の正確な定義は、
「あなたが想像できる最大の数を思い描いてください。その数に1を足したものが無限大です」
とも表現できます。

にケチがでえくから付いたので、それにケチをつけておこう。

もちろん、その数に1を足してたものが次の最大数になるので、上の定義から、それにまた1を足さなくてはならない。でまた、それに1を足し、、、と繰り返して行く。だから、無限大って言う一つの数があるわけではなくて、無限大とはこの過程を表した概念のことなんじゃよ。

話をもうちょっと面白くして、無限大を一つの点で表せるかどうか考えてみよう。一般に複素数

z = x + i y

に対して、実数 の組み (x,y) を直交座標系を使って平面の一点で表すことができる。これをガウス平面と呼ぶんだが、その空間の中では一つの数は一つの点で表される。んで、無限大を一つの点で表されるかどうかだ。

実は、その方法があるんだね。

このガウス平面の原点を中心にして半径1の球を描いてみる。そして、xy平面でちょん切られた上半球だけを考えることにする。その球の中心からxとy軸に直行する直線を描き、その上半球と交わる点を北極点と呼ぶことにする。その北極点から下斜めに一本の直線を描く。そうすると、その直線は必ずその上半球のとxy平面の2点で交わる。そこで、 xy平面の一点(すなわち、それで表された一つの複素数)に対応した一点が上半球上のその一点に一対一対応をする。そこで、その上半球上の一点が上記の複素数zを表す点と考えても良いことになる。

そこで、xかyかあるいはその両方ともの値をどんどん大きくして行く。そうすると、その上半球の対応する点はどんどん北極点に近づいて行く。そして、xかyかのどちらかの無限大の極限をとると、その上半球上の点は北極点に収束する。だから、北極点の一点が無限大の点になる。

あれ?じゃあ、無限大って数があるじゃんて思うだろう。ところがどっこい、北極点に対応する点がガウス平面上にはないんだね。なんせ、上で定義された北極点から引かれる斜め下の直線は、xかyかのどちらかの無限大の極限をとるとxy平面と平行になってしまい、その直線はガウス平面とは交わることができなくなってしまうからだ。な、複素数をガウス平面上の点の集合だと考えると、この上半球上の北極点はそれに対応した点が無いんだよ。

この操作によって、無限大が一つの数ではなくて、ある数の並びに関するある接近の過程の状況を表していることを視覚的に捉えることができるだろう。

どおだでえく、ドヤ顔で言ってるんだが、数式を弄くり回して遊んでる俺はトンカチで遊んでるでえくよりは、数のなんたるかに関して一日の長があるだろう。
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★ (回答№13への補足要求) 


申し訳ないけど貴方のその文体での主張って
他で行える手段も手法もありますよね?
bragellone文体での主張はご自身で
新たに質問して主張して下さい

☆ わかりました。したがって 回答№7における要請については あなた
が 答弁をなさってください。




また 同じ回答者による次の回答内容についても お礼欄でのコメントをで
きれば なさるよう お願いします。
◆ (№9) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
検証しようのないものは善意に解釈する。

これが欠けてるんですよ。両者にね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり――なお舌足らずの部分がありますが―― なかなかよい見解だ
と思います。

わたしはこれを読んでいながら コメントを出すことを失念してしまいまし
た。

言ってみれば 顔が耳のうしろまで赤らんで止まらないほどに くやみます
が 質問者さんまたほかのみなさんから エールを送ってやるというのは
よいことではないでしょうか。






あと一点:
★ 主張
☆ というのなら ひとりの例外もなく 誰でもおこなっているものですよ。

みやさんご自身の価値判断を明らかにする――というところまでは まった
くの自由世界であるのですが。
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話が噛み合わないのは:


◆ (A№7) 意味や前提が異なるから。

☆ そうであっても それらについての主観から自由に まづ第一に
世界を前にしてその事実認識をおこなう。
――これが 価値自由性です。

言いかえると すべての異なる意味づけや前提として持っている定義
づけの違いを乗り超えて それらを高いところからすべて含むような
普遍性のある理論を問い求め きづきます。
――これが 哲学にとっての必要条件です。



あとは 思う存分自由に――もっと自由に もっともっともっと自由
に――おのれの主観を自己表現する。たとえ恣意性にあふれた内容で
あっても それは 論理の飛躍として大目に見てもらえますから あ
りったけの思いを込めて 自論を展開することです。
――これが ほぼ十分条件です。

(あとは 定義の整合性やそれを用いるときの一貫性などの条件を満
たすことです)。





つまりのつまりは 仮りに話が噛み合わないようになれば そのこと
をも解明すべき主題として――双方が哲学することの(人間であるこ
との)義務として―― 互いに自由に対等に対話をすすめること。
――これが いろはのいなる心得です。


つまり 話の――どうしようもなく――噛み合わない対話は 哲学で
は起きない。複数の相い対立する理論もあるという状態が起きるとい
うのみです。


この哲学心得いがいのことは 哲学カテの初心者らが所属する文芸部
――またそのゴシップ担当――のおままごとです。
この回答への補足あり
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あなたが思う最大の数を思い浮かべてもらい、その数に1を足したものは、無限大ではない。

依然として有限の数ですね。(ペアノの公理)

つまりcyototu先生と愚拙は相反すること言っているので、どちらかが間違えであるが、かと言って、cyototu先生と愚拙は話が噛み合わない訳ではない。さて、どうしてだろう?
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