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少し前にテレビで、若い日本人の女性が「哲学とは矛盾したことを言うものである」というようなことを言ったときに、フランス人の大学教授が(フランスは哲学が盛んです)「それは大変危険な考えです」と言われていました。尤もですね。

我々は日本に住んでいると、ともすればそのような感覚に陥りがちだと思います。このカテでもしかり。日本人は哲学が苦手であると思います。
だからでしょう、「哲学とは何か?」という質問がしばしば立てられます。私自身この問いに淀みなく答えることができるかどうか、正直自信はありません。

改めて問いたいと思います。「学問としての哲学」とはいかなるものであると認識していますか?

質問者からの補足コメント

  • 哲学の中核的な領域

    美学 – 美、芸術、味の性質と、美の創造および美の評価に関する研究
    認識論 – 知識と信念の性質・射程の研究
    倫理学 – 道徳、善、価値ある者の研究。応用倫理学の研究を含む。
    論理学 – 主張の妥当性の評価や主張に含まれる誤謬の記述によるよい推論の研究
    形而上学 – 存在の状態と真実性の性質に関する研究
    存在論 – 存在や実在に関する研究
    社会哲学 – 社会的行動に関係する問題の研究
    政治哲学 – 政治的な価値になる概念の研究

    哲学の主な分野

    言語哲学
    法哲学
    心の哲学
    宗教哲学
    科学哲学
    応用倫理学
    生命倫理学
    環境倫理学
    数理論理学
    哲学的論理学
    メタ倫理学
    応用哲学
    メタ哲学
    人工知能の哲学
    生物学の哲学
    科学哲学
    教育哲学
    工学の哲学
    歴史哲学
    数学の哲学
    音楽の哲学
    知覚の哲学
    物理学の哲学
    心理学の哲学
    社会科学の哲学
    時空の哲学
    目的論

    参考までに

      補足日時:2022/04/02 15:30
  • 上記補足はwikiより

      補足日時:2022/04/02 15:33

A 回答 (19件中1~10件)

知(ソフィ)を愛(フィロ)する。


ここからフィロソフィー(哲学)の名が起こった
ことは、周知の事実です。

哲学とは、ある特別な領域を形成している
学問の一分野ではなく、人間が善く生きるためには
誰しももたねばならぬものなのです
ソクラテスは、このことを、文字通り死をもって
後世に示したのです

近代哲学というものは、「自我の自覚から始まる」
と言われております

いわゆる自己知は、単に哲学の根源であるばかりでなく、
人間が人間らしく生きるための根本でもあるのです

「魂の健康」を育む哲学こそ民主制を支える柱なのである
と訴えます

魂を満たしてくれる哲学が必要ではないでしょうか
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この回答へのお礼

哲学というものの、そもそもの起こりを考えれば、「人間が善く生きるため」つまり、人間の深い幸せのためにはどうしたらよいか、を追求せんとしたものと言えると私も思います。

そう考えれば「学問としての哲学」は、学者先生がその哲学の範疇の中で、重要であり興味を持っている「部分」に過ぎないと言えますね。
そして、その本来の目的を考えなくなっていると思います。

>「魂の健康」を育む哲学こそ民主制を支える柱

とても重要な発想だと思います。

「魂」とは人間の潜在意識、深層心理と言っていいと思っています。人間の幸せとは、そこに関わってくる問題でしょうし、民主社会というものの概念も、そこに関わってくるのであろうと思っています。
まあ、それだけに定義が難しく、論理的にまとめることも至難の業であるでしょうが、頑張って思索してゆきたいと思います。

お礼日時:2022/04/26 03:19

ふむ。


客観的価値もそうですし、自分の成長を実感できると嬉しいですよね。
他者評価や自己評価に値する成果を上げることが必要なのだと思います。
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この回答へのお礼

結局、主観の要素が多くなってしまうことは宿命的?でしょうが、
仰る通りですね。

お礼日時:2022/04/24 14:31

>何にもならない観念であったらどうしようかと、ふと恐怖にかられることはありますよ。



実践されると良いと思います。ニャンポコさんの哲学を実践して、出来なければただの観念に過ぎないと言う事だと思います。実践出来たら、考えとして実のあるものだったと言う事になると思います。
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この回答へのお礼

実践はしているものの、それが本当に価値を生むものかどうか、できうる限り客観的に検証をしたいと思えば、少し時間がかかるかなという感じです。

お礼日時:2022/04/17 21:50

人間って


どんなにあがいても

恵まれてる者と、恵まれない者との
戦いなのかも?

グローバル経済なんてなことで
世界中の国々と、石油や石炭・ガスなどの化石燃料はもちろん
食料や車・家電にその他もろもろ

色んな意味でひとつの世界として
混ざりあったけど

混ざり合うことで
持つ者とと、持ってたけど失った者となどなど

新たな貧富の差や、権力の差が発生して

豊かになった分だけ
新たな争いの資金や資源として
流用されてますもんね

豊かになると、戦争がおきる!

これって
人間の性なんでしょうか

EUから独立したイギリスなんかも

EUの加盟国であった時期に
EUてな枠組みのために
イギリス国民に不利益を被らせる

これが我慢できなかったみたいですもんね

フランスなんかは
大統領選挙結果しだいでは
イギリスと同じような方向性らしいですもんね

人間って
纏まると揉める

揉めると争う

争いに勝つために、他の国を巻き込み
大きな勢力として纏まっても

また、揉める


これの繰り返しであって

日本が平和なのは
纏まってるとか、纏まってないとかってよりも

色んな意味での無関心が
争いを減らしてるのかも?


哲学で、新たな人の在り方って
模索するのは

超人に成れと主張した
ニーチェなんかを思い起こさせるけど

ニーチェが求めたなのは
個人の思考や思想で、悔いのない人生を歩めって

意味なのかと個人的には受け取ってて

人間って
自己責任を追及するよりも
責任転嫁しやすい生き物だから

人生の指針を宗教にもとめたり!
宗教ではなく思想にもとめたりと!

してるみたいですもんね

新たな枠組みってな話が

ウクライナとロシアの戦争が元で議論されたり!

フランスの大統領候補が、EUにかわる新たな枠組みをもとめたりと

どんなに枠組みを取り替えたとしても

根本的に人間って

纏まったり、離れたり
仲良くしたり
ケンカしたり

そういった行動が
感情が原因なのか
貧富の差などの不利益を解消するために
争いを求めるのか?

ありのまんまの人間って

そんなに高尚な生き物でもないと思ったりもするんですよね


機会の自由や機会の平等

それすら無い人も居てるから
義務教育なんて行われてるけど

機会を生かす知識って
在り来たりな義務教育では
教えたり、諭したりすることは
出来ないですもんね

そもそも、生きてるてな意味こそ
平等なんだけど

どのように生きるのか

そこらへんを考えさせるのは

哲学であるべきだとは思いますよ

学問てな枠組みではなく
知的好奇心てな枠組みで捉えてもらえる哲学てのが

個人的には理想なんですけどね
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この回答へのお礼

>恵まれてる者と、恵まれない者との戦いなのかも?

そうですね、才能や運や心の強さなど(これは生来のものでしょう)に恵まれた者が、それらに恵まれないものを「支配」してきて、これからも支配してゆこうとしているとも言えるでしょう。

以前どこかで書きましたが、人間って「安心したい」という心が深いところにあって、そのために富を自分の手に集めたり、権威を欲しがったり、名声を求めたりする。その欲望は限りないように見えるのは、「不老不死」が叶わないと分かってしまったからではないかと思います。

戦争というものは支配の力を広げたいという限りのない欲望の一つでしょう。
その限りのなさは、仮に世界を統一したとしてもそこにとどまらず、更に支配を強化してゆくだろうと思います。恐ろしいです。

でも、それは恵まれた者が力を手に入れ欲望の虜になったケースであり、「庶民」は戦争など望んでいなくて、平和を望み、日々の安穏を望みます。それで庶民は一応満足するものですよね。
その庶民の「人間らしさ」が戦乱渦巻く社会を支えてきたと思うのです。それは、庶民の哲学の力と言えるでしょう。

つまり、権力者の哲学よりも、庶民の哲学の方が優れている、と。

お礼日時:2022/04/17 06:21

にゃぽりつさんおはようございます。


 あなたが何を言っているのかわかりません。鉤括弧のついたものとつかないものと学問としてのと形容のついたものとつかないものの違いを述べてください。哲学と「哲学」と学問としての哲学と「学問としての哲学」の違いを教えてください。

ピーチジョンさんおはようございます。
 No.2とNo.10がよかったです。ありがとうございます。
 球が転がって動く場所が変わる瞬間を1点切り出すことができません。哲学は古代 Greece で始まりました。始まりが本質です。本質はそこにあるそれがどんなものであるか言葉を使って表すことです。現代の科学や哲学はいずれも本質を保っています。ものはどんどん分解されて量子力学に発展しました。古代 Greece と現代の間に基督教と中世の scholastici 学があります。基督教は Hebraism です。基督教は古代 Greece を取り入れました。古代 Greece 哲学は基督教から一神教に変えられました。その変化がまだ現代に残っています。ものは正しいひとつの何かですという確信があります。多く残っているのは西洋です。独自の一神教が『日本における一神教と多神教:日蓮 vs. 円仁』https://sites.google.com/site/ishidaseiji/notes/ …さんのようにありました。ほとんど影響がないのが日本です。『神様を信じるっていう言葉はあるのに、なぜ人間を信じるという言葉はあまりないのでしょうか?』のNo.12https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12851356.html#an109 …より引用します。引用が「『予定説と自由意志は本当に矛盾するのか?- 因果律をも包含する<絶対神>』https://neo-buddhism.com/predestination-free_will/さんは「
妬むということは妬む対象としての別の神を想定していますので、その時点で「唯一神性」を放棄していると同じことなのです。
妬む神=ヤハウエ(ヤーヴェ)はユダヤ教の民族神であり、イエスの言う”天の父”とは別存在であると思います。
もともとパレスチナ地方では最高神を”エロヒム”と呼んでいました。このエロヒムが愛の神、普遍神であり、ヤハウエはユダヤ教の民族神であるとネオ仏法では考えています。
」と言います。」です。 西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755 …があります。英語に論理が他と比較して多くありません。Nice をにけと読まないようにはを wa と読むことがあります。児玉徳美『言語の本質 : 普遍性と多様性』https://ci.nii.ac.jp/naid/110009691534があります。『問題解決能力』https://www.yokohama-cu.ac.jp/academics/core/out …さんがあります。教養が人によってまちまちに定義されています。近年科学から生まれた哲学とは『科学哲学』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6 …さんでしょうか?1個目の補足の下から13行目に挙がっています。それを信仰する人が増えているのでしょうか?増えてる量がどのくらいなのでしょうか?日本語だから曖昧に応答しても大丈夫だと日本語を曖昧だと決めつけてそれを根拠に自分の言葉を貶めていませんか?No.4さんへの質問者さんのお礼 comment を読んでみてください。哲学的な人でかつ有能で無くまたは勤勉でない人は哲学科の教授職には就けないの対偶は哲学的な人のうち哲学科の教授職に着いている人は有能でかつ勤勉な人です。話が通じない相手として質問者さんをあしらっていませんか?そしてそれは質問者さんにバレているけれど流されているとを感じませんか?

もくぞ~さんおはようございます。
 完全な回答です。よかったです。ありがとうございます。
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この回答へのお礼

相変わらずキッチリモノを考える方ですね。

哲学:世界観、人間観、人生観及び、その結論に至る考え方。

「哲学」:哲学のようなもの。自分の頭で考えず、既製品を取り入れただけのもの。

学問としての哲学:大学で研究されているもの。

今のところ、このように定義しています。

お礼日時:2022/04/13 15:43

ニャンポコリンさん



(  ̄▽ ̄)にっこり!

>強者、弱者があっても、強者が弱者を敬愛し尊重できればいいわけです

社会的な弱者や強者
この考え方も取っ払らって

個人が個人を尊重できる社会

個人の定義に、自分と他人が含まれるんですけどね

これが、簡単なようで難しくて
自由や平等てな考え方も
個人の価値観てな範囲にとどめれば可能なんだけど

自由や平等てのを、個人の価値観ではなく
強制や強要!義務や権利のように個人に押し付けてしまうと

自由や平等ではなくなる

自由や平等てのを
自発的に、自主的に個人・個人が望む為に学問があるとは思うんだけど

学問じたいも、社会の一員としての義務的な強制力が伴ってしまい

人の自主性や主体性を封じ込めてしまうとは思うんですけどね

わかりやすく言えば

戦前の日本の帝国主義
戦後の日本の自虐史感

個人が自他共に尊重できるなら

帝国主義者であっても、平和主義者であっても

お互いの価値観を等しくおもい
尊重でき共存できるはずなんだけど

なぜか、学問の弊害で
お互いに尊重できず、共存できず、反目してしまう

自主性や主体性
個人の思想や心情を理解しょうとしない社会になってしまわないでしょうか?

言うなれば、同じ人間であるけど
まったく同じ人間ではない

この矛盾が、学問てな考え方だと
解けないとは思うんですよね

学問てな哲学よりも
自主的な哲学なら

個人の尊重にたどり着けるはずだけど
個人の尊重てのは突き詰めると
社会からの解離に繋がりかねなくて

人間らしさ、自分らしさ
社会的な生き物としての人間と
弱肉強食な動物としての人間との
矛盾点でもあるんですけどね


人間は群を成す、動物として捉えると、群てな集団だと
個人の尊重てのが尊重されなくなるのは、野性動物なんかをみてると
群れの残すためには、個の犠牲は当然ですもんね

草食動物が、肉食動物に食べられるのも

群を残すためには、個の犠牲は必然であるみたいな話ですね

草食動物が個の犠牲を認めないで
肉食動物を駆逐してしまったとすると!
草食動物がたべる植物が追い付かなくなって

いずれ、草食動物も飢え死にしてしまう

肉食動物が草食動物をすべて食べてしまっても
肉食動物が食べるための草食動物が居なくなって
肉食動物は飢え死にしてしまう

人間の弱者や強者も同じであって

お互いに必要性があるから
弱者や強者てなカテゴリーを取っ払うべきなのかもですよ

まとまりのない乱文でm(._.)mです
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この回答へのお礼

高い知能と複雑な精神と強い自尊心と、弱さとか狡さとか残忍さも持ち合わせた「人間」というものの集団をよりよくするためには、どう現状を変化させるべきか?難しいです。

現在の大学の先生方に任せてもまず埒はあかないと思います(怒られるでしょうけれど)。新しい哲学がないもの。

新しい人材が生まれないと無理だと私は思っています。そのために、たとえ僅かでも社会に動揺を与えるようなことができれば、私は死んでも悔いがないです。

自由や平等というのは、機会の自由・平等であって、結果の平等ではないことは明白です。
能力や運、そして努力の違いにより、結果には違いが必然的に出てきます。その結果というものには競争による勝ち負けがあります。これをなくすとしたならば、結果の最大値が下がるでしょう。だから、競争そしてその結果としての勝ち負けは必要であると思います。

勝った人間は収入的にも評価の面でも社会的報酬を受け、自尊心を満足させることができます。一方負けた人間は自尊心が傷つき悔しい思いをします。その悔しさが新たな勝ち負けの為に生きてきます。
かつての勝者が慢心を起こして怠けていれば、敗者に転落することもあるでしょう。

人間の自尊心というものの存在がここで意味のあるものになってくる、と。

お礼日時:2022/04/10 16:19

お元気でしたか?にゃんぽこさん^_^



僕は、今まで自分が哲学して来たと思っていたことは、心に到達するための手段だったと思いました。
そして、僕の哲学では心に到達は出来なかった。
一般化したことを訂正します。
少なくとも僕の哲学は、愛に生きられない臆病ゆえの人生の言い訳に過ぎなかった。
愛ある人の言葉は生きているものです。
20年を費やした私の哲学と称した言葉たちは、それに比べればただの空疎な形骸に過ぎない、言葉の形をしただけの虚言だったのだろうと、思います。いや、その時は精一杯の言葉だったけれど、独りよがりだった。

ただ、その形骸の連続たる言葉の修練がなければ、この地平を飛ぶこともまた無かった、のかも知れません。いや、多分あったな^_^
ソクラテスを知らなくても、ブッダを知らなくても、諸々の偉人を知らなくても、ただ身近な、自分が小さいとみなしていた人の痛烈な一言で、こころのつっかえが取れて、溜まっていた、堰き止められていた本当の気持ちが溢れて流れ出る。自分の本心がわかる。

こころの扉は内鍵で、自分でしか開けることができない。外からは声をかけられるだけ。開かずの扉を挟んで延々と会話していても、本当に刺さる言葉というのは、痛く矛盾を孕んで、扉を開けざるを得なくする。
扉を開けるのが怖い、しかしそれを凌ぐ望みの切実さと、傷つき続ける覚悟と、優しくしたい、ありたいと言う気持ち、後悔と、二度とその過ちはしないと言う誓い、それらがこころの扉を閉じてしまった原因となった過去のトラウマを凌駕して、めでたく人生の一歩を踏み出すに至る。

僕は好きな人を傷つけて、それで自分の愚かさに目が覚めたのです。目を覚ますのに、哲学なんて関係なかった。

陳腐なことと笑われるかも知れません。にゃんぽこさんは笑わないでしょうけど^_^
ですが私はこの私で良かったと、心から思う事ができます。

人は人との触れ合いの中で心を交わし、その扉を開き、成長するのでしょう。

にゃんぽこさんは、今、哲学を本心からしたいと思えていますか?
それならばその哲学は必要なもので価値があると思います。
生きた哲学になる。
そうで無いなら、それはただの形骸で、言葉の形をした虚飾に過ぎなくなる。

僕はついに解放された。自分自身を閉ざした、この小さな心の部屋から。

貴方もきっと、そうであれることでしょう。きっと。
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この回答へのお礼

私の、あほなさんのイメージは、明晰で少し強気な人、でしたが、大変に内省的な文章は少し意外でした。
しかし、人間はそういうこと幾度か繰り返してゆくものですよね。でも、近頃はそういう内省をしない人が増えてきていると憂えています。

失敗のない人は自分の非を認めない人間になってしまう。

あほなさんの仰ることは、自分の経験の中を通過させて分かる気がします。しかし、見事にご自分のやってきたことを否定されましたね。心の中に自信と勇気がないとそうそうできないことだと思います。

私はこれからも哲学してゆきたいと思っています。でも、正直、結局、虚飾とは思わずとも、何にもならない観念であったらどうしようかと、ふと恐怖にかられることはありますよ。

その恐怖を払拭するものは、人に笑われようが嫌われようが、「クソ真剣」であると思っています。

お礼日時:2022/04/10 15:51

#10です。

お礼ありがとうございます。

>私は、「宗教」と「信仰」とをほぼ同義であると考えています。即ち「ある哲学(世界観・人間観等)を信じて実践すること」です。

同意します。

>近年においては科学的思考から生まれた「哲学」というものがあり、それを信仰するものが増えていると思います。

その通りだと思います。
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この回答へのお礼

自分の主張したいことに賛同していただくということは、嬉しいことです。

お礼日時:2022/04/10 15:29

学問は闇を照らす光だが、その光には往々にして色がついている。


哲学は、果たしてこの光は正しいのか?と問う学問である。

ところで、
始祖のソクラテスは言っていました。
「良妻を得ていたなら、私は哲学なんてしていなかった」
気鋭のウィトゲンシュタインも言っています。
「飛行機乗りになりたかった」

動機は、不平不満、不納得です。

昔いた猪突先生の師も、学問をする動機は、不満だと言っていたらしい。

僕もそう思う。不満の無い人は哲学をしないし、知ろうとしない。

その意味で、全ての哲学は愛を持たないことの言い訳に過ぎない。
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この回答へのお礼

あほなさん。すごく久しぶりですね。

久しぶりなのにやかましいことを言ってしまいますが(笑)、ソクラテスもトルストイもリンカーンも、不平・不満・不納得の塊だったのでしょう。
個人的なものもあったでしょうが、社会に対して、社会の常識に対して、それについて何にも疑問を抱かない人々に対しての不平・不満・不納得であり、だから真実や価値や理想の政治を求めたのだと思います。

それって、深い人類愛がないとできないことだと思います。

お礼日時:2022/04/09 21:29

#2です。

お礼ありがとうございます。

>一神教=西洋、多神教=日本、という宗教的影響からくる考え方の違いは、そのことを自覚することさえなく、その上に作られた多くの文化によって分からなうなっているのでしょう。

哲学的な土台、または科学的もしくは宗教的土台を意識するには、それなりの教養が必要です。

なので、日本に限らずほとんどの文化で「自覚しないで宗教的影響に嵌っている」人たちは多いと言えます。

たとえば日本では「私は無宗教(無信仰)です」という人が多いですが、これも誤謬があり、自分たち日本人の宗教特性をまったく認識しないで、西洋的な宗教価値観で判断している人が多数存在するからです。
(日本人は西洋的な戒律を重んじる宗教観からいえば、無宗教(無信仰)に近いですが、宗教的規範はあるし宗教的行動も行うので、無宗教とはいえないです)

>また、西洋の言語は主語的論理で、日本語は述語的論理で成り立っていると指摘する学者がいますが、これもやはり、宗教的影響が由来するものなのか、どうか?

違うと思います。むしろ「言語の論理構成の好みによって、宗教的特性が異なるようになった」というほうが実態に合っていると思います。

なぜそう思うかというと、現代人が考える「西洋的宗教特性」であるキリスト教やイスラム教の「一神教」や「戒律の重視」よりも先に、ギリシャやローマで哲学や法学などにロゴス(論理性)が求められていた、のが事実だからです。

哲学的な論理性を有する宗教があり、その影響で言語が論理的になったというのは歴史をみれば明らかにそうは言えません。

日本語も古代から一定の法則を維持している言語で、そのために中国語を導入することができませんでした。万葉仮名や訓読文などを使って中国語を翻訳していたわけですから、儒教などの影響のはるか前に、言語構造は固まっていたといえます。
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この回答へのお礼

私は、「宗教」と「信仰」とをほぼ同義であると考えています。即ち「ある哲学(世界観・人間観等)を信じて実践すること」です。

そう考えますと、すべての人間は宗教・信仰を持っている、と。
物事の根本は科学では分からないわけですから、人間は、科学的根拠なく何らかの世界観・人間観・人生観などを持っています。つまり、それを「信じている」ということです。

勿論「宗教」と分類される分野からのものが多いとは思いますが。

宗教の教義、哲学書からのもの、あるいは、それらに影響を受けた文学、芸術からのもの、身近な人間からの影響、経験からのもの、等々たくさんのものがあり、その由来が分からないものもあるでしょう。
それから、近年においては科学的思考から生まれた「哲学」というものがあり、それを信仰するものが増えていると思います。

人間の「言語」については非常に興味がありながら、これまでほとんど勉強をしたことがありません。少しづつ勉強したいです。

お礼日時:2022/04/09 21:20

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