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 あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。

 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。
 (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。
 社会との根本的な和解が成るか? ということ。

 この不案内のまま 問います。

A 回答 (18件中1~10件)

オコリザルです。


>やわらがしめられる。
コレ言葉としてどういう意味でしょうか。

よしと思った行いが悪のそしりお受ける。
真と思った言葉が嘘とあざ笑われる。
これらと同じく、
> 社会との根本的な和解が成るか? ということ。
これも、罪の問題も、他者との間の問題で内心においては自らに、罪など無いと言う心構えを強固に持ちうるかどうかではないでしょうか。
法を破ったという事実はまた別の話です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 やわらぐことをせしめられることです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 よしと思った行いが悪のそしりを受ける。
 真と思った言葉が嘘とあざ笑われる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようないろんなことを体験して そのあと社会の中で ひとと あるいは 世の中と 和解を得ることができるかです。
 ★ 法を破ったという事実はまた別の話です。
 ☆ が
 ★ 他者との間の問題で内心においては自らに、罪など無いと言う心構えを強固に持ちうるかどうかではないでしょうか。
 ☆ というのは どうでしょう。或る程度のこころの傷み・疼きはあるのではないでしょうか? その上で 癒やされること・和解を与えられること これは出来るか? です。どうでしょう?

お礼日時:2009/12/03 23:06

 自分自身、内面の事として、「和らがしめる?」“和らぐ”(心穏やかになる)でしょう。



 それは神や仏の心と同質であるから。

 ぞくっぽく、使い古された言葉で言うならば、「罪を憎んで人を憎まず」

 このような心境は、あくまでも個人の内面の事。

 社会とのかかわりに於いては、“複雑”と云うしかありません。

 
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おはようございます。

ブロジェンヌさん、おはつです。
サガンの悲しみよこんにちはです。

この回答への補足

 ご投稿をありがとうございます。

 ですが アドバイスの意味が読み取れなくて お応えしかねています。

補足日時:2009/12/04 10:42
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お邪魔します。


昨日締められた質問の派生、でしょうか。
以前の私の質問も関わるようで、興味深く拝見させて頂きました。
そうは言っても、未だ未だ未消化ですが。。。

>赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ

これは、被害者その他(加害者以外)の意識の話ですよね。
赦す人/赦さない人、赦せる人/赦せない人、どちらの存在も「在って当然」とする、と言う事でしょうか。

>(犯したあやまちの内実を説明してやるということ)

只「ちゃんと事実を把握する」と言う事かしら。。。

その上で
>社会との根本的な和解が成るか?
がご質問でよろしいでしょうか?

前回の質問がうまく消化出来ないままなので、もう議論済みかも知れませんが、
犯罪を含む「あやまち」を思う時、私はいつもあやまちを「起こさせた存在」を思います。
全てのあやまちは、過去の社会の歪みの現れである、と感じているからです。

特に顕著に分かり易い、と思うのは、中東の自爆テロや同時多発テロと考えています。
其処迄する状態に迄「追い込んだ者」が居るから、あやまち?を犯す者が居る、と。

あやまちを犯す者と、追い込む者。
この意識で和解へ向かう、と言うのはいかがでしょうか?
(もう解決済みでしたら申し訳ありません)

あーーでも、被害者を「追い込んだ者」に含めるか否か?は難しいですね。。。
未だ未だだ。。。汗

この回答への補足

 yukkinn66 さん ご回答をありがとうございます。

 岸田秀は読んだのですが――大昔です―― 自身も《フロイトの精神分析は そもそも社会心理学である》という見方を立てて自説を展開していたと思うのですが その中から 個人ないし個人間の《性についての解釈》を問うておられるのですよね? これはもう覚えていないと正直に告白せざるを得ません。という取りあえずひとことでした。

 この質問は 《不案内のまま》という文字通りに見切り発車したものです。何かどこかトンネルを抜けることができるような《錯覚》を覚えたのでした。

 さて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 犯罪を含む「あやまち」を思う時、私はいつもあやまちを「起こさせた存在」を思います。
 全てのあやまちは、過去の社会の歪みの現れである、と感じているからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは同感です。と同時に それは甘やかしであるという反論をつねに聞いています。世の中はそんなに甘いものではないのだぞというわけだそうです。
 それなら・そこまで言うのなら あやまちを起こすようなことのない形で甘くない世の中を築けばよいではないか? なぜそのことに注意を払わないのか? と訊いてみたくなります。
 なぜ耐えよ耐えよの――いわゆる精神主義の――合唱なのでしょう?
 なぜいつも無私のこころだよの繰り返しなのでしょう?
 しがらみの中で死ね 死んで(つまり 死んだつもりで)寿命をまっとうせよ たとえ奴隷の自由であっても楽しいときもあるはずだ そのおかげで長寿大国になったではないか。といま《幸せな》方々は言いたいようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 特に顕著に分かり易い、と思うのは、中東の自爆テロや同時多発テロと考えています。
 其処迄する状態に迄「追い込んだ者」が居るから、あやまち?を犯す者が居る、と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから あやまちを犯す境遇や情況に追いやっている場合があるということをいま幸せな人びとは知っている。この咎めをかわすためにかどうか すでに《追い込まれた者》を実際にあやまちを犯すようにと 資金を供給したりして仕組むということさえ行なっているのではないか? という疑いがかけられるようになっているのではないでしょうか?

 誰もが暮らしよい世の中を願いそれにつとめるのであると言うのならば そんなからくりで いまの幸せを保守するということは考えもしないでしょうに。

 以上 すっ飛びました。

 ★ 赦す人/赦さない人、赦せる人/赦せない人、どちらの存在も「在って当然」とする、と言う事でしょうか。
 ☆ そういうことでしょうね。つまり 個人の主観内では まったくさまざまに思いは起こるし揺れ動くこともあるでしょう。それを公言してもよいはずです。ただ こころの底では
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >(犯したあやまちの内実を説明してやるということ)

 只「ちゃんと事実を把握する」と言う事かしら。。。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という仕事もこなしておけるほど 大海のごとく静やかなやわらぎを感じている。感情丸出しである でもひとを裁いてはいない。

 熟さぬままにて。

補足日時:2009/12/04 11:26
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人と人とは決して分かりあえないもの、共感はない、だけど、間接的な共感、つまり同感はある。

ある観念を通じてのとかなにかを通じてということです。
和人の立場といたしましては、すべてをしなやかにある一定の距離を持ちつつ取り入れて同感していきたいのです。
和解はきっとないけど、決して癒やされることのない悲しみを悲しみとして深く味わうことはできる。悲しみよ、こんにちは。

この回答への補足

 heartmind さん あらためまして こんにちは。始めましてです。ご回答をありがとうございます。

 サガンの物語の筋とは一応 別なのですね。
 ★ 和解はきっとないけど、決して癒やされることのない悲しみを悲しみとして深く味わうことはできる。悲しみよ、こんにちは。
 ☆ 孤独を深く味わうと孤独を突き抜けると考えたことがあるのですが 悲しみについては そういうわけには行きませんか?
 孤独は その奥底において 孤独関係であるのですね。悲しみは 悲しみの関係にはなりませんか?
 
 《かねる》は 《赦しかねる》と言えば 《赦そうと思ってもどうにもしがたい》という意味になるごとく 《不可能・困難》の意を表わします。ここから 《悲し》は来たそうです。(二つの役を兼ねるの兼ねるとは 別のことばのようです)。
 ○ 行く∽ゆかし(そちらへ心が行きたい気持ちだ)
 ○ 痛む∽痛まし(心が痛む状態だ)
 ○ 頼む∽頼もし(頼みたい気持ちだ)

 ○ かねる∽かなし(おのれの力ではどうしようもないという思いだ。/ ただし 《愛し》とも書くように どうしようもないほど切ない つまり いとしい・かわいくてならぬの意をも兼ねていたようです)。

 個別のことで質問を兼ねて見ていきます。
 ★ 人と人とは決して分かりあえないもの
 ☆ これは 《おのれの内面のことよりほかは 人に向き合っても その心が分からない。つまり分かりあえたと思ったことは すべてが自分の心の中にある思いのみである》という意味で 同意します。

 ★ 共感はない、だけど、間接的な共感、つまり同感はある。ある観念を通じてのとかなにかを通じてということです。
 ☆ 用語がわたしとは違っています。違いを記しておきます。よりよい定義のあり方があれば わたしもそれに従いたいと思います。
 《同感》は 《同意》と同じ意味に使います。《見解を同じくすること。賛成》の意です。
 《共感》は 《同じ見解ではないけれど 趣旨として・大筋において・方向性として賛成である。もしくは 同じ感覚になった》を表わすと考えていました。同感よりは賛成の度合いが弱いかたちです。
 初対面で言うのも何ですが ついでですから言いますが
 ★ ある観念を通じてのとかなにかを通じてということ
 ☆ これは 当たり前だと思いますよ。人格が互いに違うのですから。これと同じように当たり前だと思ったのは
 ★ ある一定の距離を持ちつつ取り入れて
 ☆ です。人格が違うのですから。いくら感情移入しても 距離は置いています。

 ★ 和人の立場といたしましては、
 ☆ これは例の《和を以って貴しと為す》と唱えるときの人のことを言うのですか?
 ★ すべてをしなやかにある一定の距離を持ちつつ取り入れて同感していきたいのです。
 ☆ これはどうでしょうかねぇ。そこまでの力量やふところの深さがあればよいのでしょうけれど。
 ふつうは 経験合理性に照らして妥当であるかどうか これを互いに明らかにし合うのではないでしょうか? 自由な批評や批判に互いにさらされている。これでこそ 表現や言論の自由が成り立つ。つまりいま言っていることは
 ★ すべてを・・・取り入れて同感して
 ☆ の《すべてを取り入れる》という行き方に物言いを唱えたものです。それとも 賛同・反対の両方を含むはずなのだが まづは相手の発言というもの自体を受け容れるという意味でしょうか? 批判はそのあとだということでしょうか?

 このように考えますが どうでしょう?

補足日時:2009/12/04 15:47
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 恩恵というものは――それが何なのかよく考えてみると、何となくそのようなものがこの世にはあるのかもしれないと、――それについて、生まれて初めてよく考えたとき、


 そのときにはすでに、恩恵を受け取った後だったのではないかと僕は思います。

 だから慌てて見直してみて、受け取った分だけはせめてお返ししたい――人間として真面目にそう思えたとき、自分は負った者だったのだと定義されるのだろうと思うんです。つまり人間は、(誰でもそうだと思いますが)気付いたときにはすでに、自らが負った債務に対して「赦されたい」という望みを抱く存在となっている、つまり債務者となっているはずです。

 信仰というものをひとまず置いて、自らの経験だけで真面目に自分を定義してみようと考えたとき、「自分は債務者である」という前提は、極めて重要な公理であり、この公理を抜きにしては社会人としての営みのほとんど全てが説明できないものになってしまうと僕は考えます。
 恩恵という言葉の意味をもしも知ったなら、そのとき、その人間は、債務者となっている筈なのであり、もしもそうではなく、自分が0から始められると思っていたのなら、その人は恩恵の意味を知らないというふうに言い換える事ができる。

 この短いセンテンスである古い時代の存在論が、「赦し」あるいは、「学び」、そして「労働」、これらのような全ての社会的営みの基礎となっている。ある・なしという極めてシンプルな存在論は、いつの時代かはわかりませんが、少なくとも自分の生まれる遥かむかしからずっと続けられており、このような掟があるなどとは終ぞ知らないうちに、ふと気付いたときには、どうやらそんな世界に自分は紛れ込んでいた――という状況です。

 誰かから受けた恩恵に対し、その価値に値するか否かはわからないまでも、自分の持つ力(すなわち労働力)を、自分と世界の境界線である肉体の行動によって提供する――これが労働の(そして赦しの)基本だと思います。
 その行動が、果たして受けた恩恵の価値に見合うかどうかはわからない。
 人と人との係わり、これは一種の交易だと思いますが、そうであれば尚のこと、より原初的なニューギニアの人々の交易に原型を見ることができるだろうと思います。10月に亡くなったレヴィ・ストロースの受け売りですが、海辺の住人たちは、隣村との境に漁で得た魚を置いて立ち去ります。すると、山の住人たちは魚を受け取った代わりに山芋を置いて立ち去る。
 このような言葉を介さない交易の習慣が古い時代にはあって、賢明な彼らは、来月はエビにして欲しいとか、蕎麦を食べたいとかいう要望を決して相手に要求したりはしない。交易の基本は恩恵であり、恩恵の基本は相手が何を求めているかわからない状態でなければ、意味がないからだと思います。決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。

 人間は言葉と通貨を用い始めたとき、この交易の基本を少しだけ限定したものにしたのだろうと思います。勝手に質問を閉じてしまった質問者に対し、少し書き残したことを補足する意味で、答えてみました。赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。

この回答への補足

 よう モテモテ男。文学音痴(!! へへっ)の ri_rong さんにしては しゃれたご見解で。ご回答をありがとうございます。

 まづ 結論において使われている用語の定義の問題があります。半ば重箱の隅のほじくりですが でも必要だろうと考えます。
 ★ 赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。
 ☆ もしこの《赦し》を 仮りに〔母や父の恩などを含めて〕もっぱら経験行為にかかわる債権債務関係をめぐってのものだとすれば 《信仰》とは――と言っても 信仰は結果的にその経験行為をつつむことになるようですが―― 次元がちがうと考えます。そういう定義です。
 ぎゃくに言いかえます。いわゆる《人生は貸しを与えたり その借りの返しっこの連続である》という意味での《負い目》についての《赦し》の問題であるとすれば 《信仰》とは直接にかかわらないと言っても――信仰は生きる姿勢のようなものですから―― 大きく同じ主題だと捉えなければならないでしょう。
 このげんみつさを据えてみるならば なるほどと合点のゆく――なみだのちょちょぎれる――すばらしいお答えであると思います。
 ★ 決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。
 ☆ つまり 赦し合い――やわらがしめられたこころどうしの――としてのおつき合いが続く。スサノヲ市民社会( die Susanowoschaft )は歴史のかまどである。(えっ? なんでマルクスなの?)( krya1998 さんの世界ですね。浅草下町だそうです)。

 長期の展望としての理論を提出していただきました。これが――つまりなお 現場における現実のやわらがしめられや臨床の応対実践がひかえているとも言わねばならないからですが―― 思想内容を別としたファビアン主義だと思いますし いわばハンニバルがジブラルタル海峡を渡って長期遠征に出るといった気構えであると思います。
 しかも いまここでただちに やわらがしめられる。と言ってしまうのは 信仰という安易な奥の手です。非思考というのは ときを超えていますから。
 レヰ゛ストロースの主義思想はおもしろくなさそうですが その個別の研究成果は生かされましたね。そう言えば トロブリアンド諸島で各島の各ムラのあいだで 円環貿易をしていたとか。Aムラから始まって Nムラまで交易の流れがたどりつくと このNムラは Aムラに品物を提供する。環が完結する。
 ということは あれですか つまり この円環をどこででも破ってもよいから 重層無尽に世界中に交通網を張り巡らせばよいとも考えられます。ま いまもそうなっていますかね。あとは こころだけでしょうか。

 あとは 《掟》などと言われると いわゆる《律法》のにおいがするので 過剰反応しときます。しかも安易な奥の手によって。
 《正義や善悪や裁き》などの律法規範は モーセによってもたらされたけれども 真理と恩恵とはかのイエスによって指し示された。そのときには 石の板に記された規範やムラムラの慣習法としての掟をとおしてではなく きみたちのむねに刻まれた愛のちからとして 真理がはたらき 恩恵は 恩恵の上に恩恵が与えられるというところまで――暗示のごとく――示されたようなのです。

 書き残したことがあるような感じですが いまは放っておきましょう。

補足日時:2009/12/04 20:23
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何か bragelonneさんの文章が、いよいよわかりにくい言い回しになってきているように思うのですが、 それは無学な(アカデミックな哲学等の世界を知らなさ過ぎる)私のみの感想でしょうか?



理解不能とかではなくても、 いろんなふうにとれて、回答が難しくなってきたりします。

例えば、 

あやまちを赦す赦さない と言っても、

自分や仲間が傷つけられた(心身どちらでもいいのですが)から、赦せない、 という時と、

そのあやまちを赦したら、その人は不幸になると思えた時の だから赦さない という時とでは、 論議の性格がまったく違ってくると思います。

その時、 この新しい質問は、 どちらかと言うと後者の方を問うているということなのでしょうか?

例えば 後者ならば、子どもが嘘をついた場合、 その利己心が故の嘘をそういう嘘と見抜いたならば、あるいは親としてそう思えた場合は その親は その子の嘘をついた非を 非と解からせるまで徹底してそれを追及するのが正しいのかもしれません。

そこからさらに、 では、その親の見解はほんとうに正しいのかどうか?という点に発展するにしても、 まず、最初の親の気持のあたりを問い正しておかないと、 話は 両方ともまざった複雑な議論となってしまったりすると思います。

そして、そこまで議論が進んでくると そこに》あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。《 という 神ならぬ身の自覚(相対性の自覚)の問題とかが浮かび上がってきたりするのかとは思うのですが…。

さて、その次が さらに、私にとっては問題となってしまいます。

》 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。
 (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。
 社会との根本的な和解が成るか? ということ。 《

本来“文章についても見識の深い”bragelonneさんであるのに(ずっと昔の 文章についての回答に感銘を受けたことを憶えていますので。 どこだったかは忘れましたが)、 この文の並べ方では 脈絡がよく解からなくて、全体として何が質問の主旨なのかが 見えてこないように思われます。

それに続いての、

》この不案内のまま 問います。《

何かを模索していて それが解からないから 解かりかけてるから その不安定な気持のまま正直に 迷ったままの文を並べたというとかいったことなのでしょうか?

やっぱり、私にはということかもしれませんが buragelonneさんの文章は、以前よりもずっと回答が難しく感じられるようになっています。

言葉の並べ方で、 詩であるなら むしろ稚拙な並べ方のほうが その心の内実を、あるいは生きられた体験の姿をよりよく表出しているかもしれません。   哲学においても、 そのような言い回しの在り処(ありどころ)があるのかもしれません。

私が知らないだけなのかもしれません。

が、 私は このようにも思うのです。

何か 心の世界について 論議を深めたり、考えを深めたりする時には、

単純に、 「幸せとは何か」という論議や思索と、もう1つ「苦しみがどんなに苦しい存在か」についての記憶との 2つの間をしっかり考えた上で進めてゆくのでない限り、  どんな論理性も 私たちの五感の大地に根ざしたものとはならず、どこまでも ややこしいものへと進んでいってしまうのでは?

というふうにも、 ここ、この議論の場にても 本気で危惧する気持にもなるのです。

相手の幸せを もし本気で考えてのことならば、 時と場とそのケースによっては、赦さないということも相手に寄添う《愛》の立場となるかと思います。

が、その場合も 裁く(罰を与える?とうことですか?)というのは、 》内実を説明《してあげる行為としての 模範的ですぐれた行為とは確かに思えません。  もっといい方法がたくさんあるはずです。

(》裁く《については ぜんぜん違った意味で捉えているかもしれません。 でも 全体の中の意味合いがうまくつかめないので、こんなふうに、いろいろと解釈できてしまえたりするわけです)

たとえば、 ある教育者が言っていたことですが「長所を見つけて その中に包んで、 相手の非をも説明するならば そういう方法も無きにしもあらず、 でも長所だけを指摘するのが教育の実践の場での帰結だ。 そのほうが むしろ火花は散るし、その火花は自分自身も学べるところのものとなる」と。  そうだろうと私も思うのです。

それに添えば、 bragelonneさんの質問文の長所は、たしかに深いとも言えるものとなります。  どう思われるかには頓着しないで ほんとに ほんとうに言いたいことを書いている、 書かないではいられない その情熱の根拠の深さを たしかに、そこに想定させます。

(この回答の中での場合 「無きにしもあらず」の方にも したがっているわけです)

その何がしかによって 文の並びも 独自のものが生まれているのだと思います。

ですので、 それ自体を批判するとかではないのですが、 私のように回答がしずらくなってしまう文章、ややこしい文章となっていることは 私の方からは指摘しないではいられなかったところなのです。

それが、 社会(ここでは 質問者と回答者の交流に例えてみました)との間において、 その全体にとってより発展的になるかどうかを それが間違ってるか正しいかまでは次の議論とするならば、 私自身は 吟味した上で 全体にとっても ここは語ったほうが、 そういう文章の悪しき面の方は赦さないほうが、私は よりよいと思える。 がゆえに そう、こここの場を借りて 回答に含めて書いてみた、 ということなのですが、回答になっていますでしょうか?

以前にも 文章については書いたことがありますが、 その時にはbragelonneさんは「私は 解かりやすく書くという点は苦手だ」と、解かりやすく^^語ってくださったことがあったと思います。

また、 これはプリメアペさんの文についてなのですが、 以前は とんでもないほどわかりにくくて それでもよ~く読んでゆくと抽象的すぎるだけであり、何かを適確に掴んでいることはなんとなく解かるという文だったところ、 今回は とても解かり易くなっています。

プリメアペさんも 同じように「解かりやすく書くのは苦手」と語っていましたが、それは どうなってしまったのでしょう(笑)。

bragelonneさんの場合は、 さらに解かりやすく(書こうと思えば)書けると思えるので、 そのへんが謎です。

このケースは赦すべきところか? 私の脳では判断できません。(この場合 個人の能力の限界の問題でしょうが)

判断できないけれども、 ともかく書いてみました。(やってみないとわからない 人間の限界性と それでも未来に向かって進むことで、 和解が成ってゆく 賭けの悲しさと、それでも存在の中にある希望とにおいて) (なお「希望」はもしかしたら、私の無意識の中にいつしか芽生えていた《信仰》によるものなのかもしれませんが ここは よく解かりません)…。

この回答への補足

 arayata333 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自分や仲間が傷つけられた(心身どちらでもいいのですが)から、赦せない、 という時と、

 そのあやまちを赦したら、その人は不幸になると思えた時の だから赦さない という時とでは、 論議の性格がまったく違ってくると思います。

 その時、 この新しい質問は、 どちらかと言うと後者の方を問うているということなのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もともと《赦す・赦さない》については ひとはその自然本性において 能力を持たない・なじまないと推し測っていますが まだ定かになっていません。特には 赦せないという感情が起こることは実際ですから そのような言語習慣にしたがってあたかも赦す・赦さないの能力を持つかに見える側面があるようです。
 ここでは その感情や感情にまつわる言葉の言い回しの側面については 焦点を当てないという意味で 《赦し》を《さばく》と関連させて捉えようとはしています。
 裁くという意味で赦さないということは 能力もそのような感情にもとづく習慣もないのではないか。これです。
 ★ 子どもが嘘をついた場合、 その利己心が故の嘘をそういう嘘と見抜いたならば うんぬん
 ☆ というときのように 《犯したあやまちの内実を説明してやるということ》すなわち事件の分析ないし事情の説明は つねに伴なわれます。

 ★ 何かを模索していて それが解からないから 解かりかけてるから その不安定な気持のまま正直に 迷ったままの文を並べたというとかいったことなのでしょうか?
 ☆ 見切り発車ですから そのとおりですよ。見切り発車と舌足らずとは 必ずしも同じではないではないか? そうですが 表現の舌足らずのままも 見切り発車なのです。

 ★ 裁く(罰を与える?とうことですか?) 
 ☆ これは違います。ひとをおのれと同じ存在であるとは思わなくなることです。おのれより下に見下すことです。

 ともかく
 ○ ひとは やわらがしめられうるか?
 ○ 社会との根本的な和解が成るか? ということ。
 ☆ これが主題なのですから これなら分かると考えてよいと思うのですが どうでしょう?

 それに これまでのやり取りはすでに趣旨説明になって来ていると思いますよ。

補足日時:2009/12/04 23:43
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オコリザルです。


A1の続きです。

>よしと思った行いが悪のそしりを受ける。
>真と思った言葉が嘘とあざ笑われる。

この続きとして、
誉を称えたつもりが「我はそれを成さぬ」と劣情を生む。
としておきましょうか。
前回の御質問では主観内に収まること。と、言う表現をお見受けしました。
誤解を生む表現ですがこれらの要素は自己完結と言う言葉をよういて一人っきりの思索に入ってはいかがでしょうか。
私を含めて外野席からの言葉はもう、どうでもいいのだと思います。

私自身の取り組みでは、「私が私である」の延長として「我」の一語の概念を「我はある」の立場から検証を必要とする壁にぶつかっています。
「我はある」をブラフマンになぞらえて、ブラフマンとは神で無く「我」の一語であるという前提から自我論を集約する取り組みの最中です。
人間としての普遍性と、人間本性と言う言葉は、表現はともかく同根であると言う前提でブラフマンと言う神を「我」と規定する取り組みです。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。ブラフマンは たしかに類型的に《絶対者》であり《神》に相当すると思いますが そしてアートマン(それとして 我れ)との一体を言えば 非思考の信仰についての類型としても 有神論のひとつの典型であるかと思いますが そのあとが はっきりしません。
 もしくは いろんな経験的な事物がからんで来て――ヰ゛シュヌやシワ゛などの神々ですが それらの半分はすでに 台風など自然の力であったりそれがおさまるところの力であったりするので―― はっきりしすぎなのではないでしょうか? 正直に申せば 哲学の探究に耐え得るか 疑いが持たれます。(もっともそれほど明るいわけではないので 横眼からの感想でした)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 前回の御質問では主観内に収まること。と、言う表現をお見受けしました。
 誤解を生む表現ですがこれらの要素は自己完結と言う言葉をよういて一人っきりの思索に入ってはいかがでしょうか。
 私を含めて外野席からの言葉はもう、どうでもいいのだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはまったく違います。逆です。赦す・赦さないという感情やその表現は 主観の内におさまるゆえに たとえば事態の説明がだいじであるからそれにつとめるといったように ほかの人びととの交通の継続が肝心です。
 思索は独りでするものですが それがそもそも《一人っきりの思索》というふうな性格を持つこととは正反対ですよ。社会ゆえに考えるのです。社会に《わたし》は含まれます。

お礼日時:2009/12/04 23:58

オコリザルです。


☆ これはまったく違います。逆です。赦す・赦さないという感情やその表現は 主観の内におさまるゆえに たとえば事態の説明がだいじであるからそれにつとめるといったように ほかの人びととの交通の継続が肝心です。

これは、bragelonneさんならできるだろうと考えてなのですが、ひとりっきりの思索の延長で、「我はある」その「我の独断と偏見で」すなわち「赦せる」と表明したうえで「我は無し」に迷う優柔不断な軟弱者を口八丁手八丁でいじめ抜いてはいかがでしょうか?
まずは自らの意見なり立場を表明し、それに対する反対意見を募る形式です。
哲学に必要な検証ですから、質問として認められるでしょう。
私が質問を立てる場合の常とう手段ですよ。
不平不満が集まりそうですが、まずは、自らの見解を表明しなくては、回答を寄せる事も出来ないでしょうよ。
「教えてください」は、姿勢としてすでに哲学の放棄です。

蛇足ですがbragelonneさんは知識の公開として過去に読んだ文献の公開なり引用を哲学ではないと一刀両断にしていますが、多分この行いは勉強熱心な方々には恨みを買う、赦すべからづの行いです。
もしかしたら本題を論じる前に哲学に対する姿勢でふるいにかける必要があります。
私の姿勢では「私ほどのアホウはいない」と言う姿勢で回答次第ではどんな罵詈雑言も浴びせる構えで質問に及びます。これは懐かしのソクラテス形式でしょうが、一度「考える」とは、いかなることかと言う初歩に関して合意を取り付ける事が出来たなら、ソクラテスすらなしえなかったbragelonneさん独自の大金星です。人類史上に残る高額の懸賞金がかけられています。私はご免ですが、bragelonneさんならいかがでしょうか?

>誉を称えたつもりが「我はそれを成さぬ」と劣情を生む。

まさか、こうはなりませんよね。、
やってみてください。
もう、21世紀ですもんね。
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この回答へのお礼

 ええ 細かく行きます。
 ★ ひとりっきりの思索
 ☆ 思索は 片や 独りでするものであると同時に片や その独りたるわたしは 社会とともにあるからには 何かほかの人びとから離れた中味のことを思惟するというものではない こういう二面性があります。そのことをあいまいにしたまま 使われていると言わざるを得ません。ですから
 ★ ひとりっきりの思索の延長
 ☆ と言われても どう捉えてよいのかはっきりしません。ですから
 ★ 「我はある」その「我の独断と偏見で」すなわち「赦せる」と表明したうえで
 ☆ となると その《われ》は 片寄った形になっているのではありませんか?

 そもそもどういう《われ》であっても その主観内では
 ★ 「赦せる」と表明
 ☆ することは出来ます。表明するという行為じたいは 出来ます。
 ★ 「我は無し」に迷う優柔不断な軟弱者を口八丁手八丁でいじめ抜いてはいかがでしょうか?
 ☆ となると今度は この《我は無し》とか《〈我は無し〉に迷う》ということが何を指して言うのか 分かりかねます。この表現じたいは これまでのやり取りで出て来たことを知っていますが こういうふうに用いられると はっきりさせないと判断が下せなくなります。

 一般にブディスムから引っ張り出したかのような《無私》をよくひとは口にします。まるですべてのひとの理想であり高尚な境地であるかのようにです。
 あるいは いわゆる独我論に傾くようなひとは その受信としての鎖国政策においてけっきょく《〈わたしのみが世界に存在する〉と言っているその本人としてのわたしが無い状態に陥っている》と考えられるとわたしは思います。しかも その独我論者は その一定の期間において 《〈我は無し〉に迷う》ことなく 相手の意図や発言にまったくかまうことなく 《確信をもって 堂々と 元気よく》同じことの繰り返しのような送信をあきもせずおこなっています。
 ★ 優柔不断な軟弱者
 ☆ なのかどうか。要するに 《わたし》の放棄 人格の放棄によって生きつないでいるかのように思われます。

 あとの部分は――まだまだ 多くが語られていますが―― 全体として言って まとまりがついていないと考えます。どの部分について答えればよいか。こちらの部分について答えると あちらの部分とまとまりがつかない。こういうことになると思います。

お礼日時:2009/12/05 14:18

ごめんなさい。

私の言葉づかいって結構適当なんですよ。ほとんどあっています。和人は日本人です。でも特徴をよくあらわしてる言葉だなって思って和人って書いときました。

平和を願っているのか、それとも、平和を願って苦悩している自分が救われたいのか、なんて結局分からなくなっちゃいますよね。
いつも、あれ?またやっちゃったかなって感じです。

絶対精神はそれは素晴らしいと思うけど、マルクスは通俗的でルサマンチンかもしれないけど、でもかわいいんだもん。
ケーキは5人で分けるなら72度にしてね、絶対だよっ、わーん僕の71度しかないずるーい。
だめなのかな、ヘーゲルさん。
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この回答へのお礼

 ふうーう。これから何を書くかどう書くかを思うと まづはため息です。
 ご回答をありがとうございます。

 ご自分をつねにみづからの鏡に映してお考えを運ばれる方のようで その点もうわたしは悩まずに 主題の項目ごとにお応えしていけばよいかと思いますが 思うのですが そうなのですが こりゃまた ゲオルク・ヰ゛ルヘルム・何とかかんとかさんとカルルさんとを並べて出されたなら いったいどう対応すればよいか。
 とほほほほ。とまづは弱音を吐きまして。

 わたしは ほとんどいつも――へたをすると おやぢからも―― そのおまえの分度器が間違っているんぢゃと言われつづけてきた・か弱いひつじでして しかも三十歳くらいまでお人よしだったのです。その意味のある教訓に満ちたいぢわるを意に介さなかった歴史があります。
 (ただし 二人の妹と三人兄弟の中では 母親がいつも 少しはほかより余分におかずを食わせてくれました)。
 おやぢは わたしがちいちゃなことでももし意見なるものを言った場合には まづ ちがう そうぢゃないと言ってから その答えを言いました。つまり合っていた場合にも そういう形式が つねなのでした。おかげで 自分で言うのも何ですが  ものごとをばか精確に言うようになっております。
 たとえば
  ――みんながそう言っている。
  ――みんなって誰だ?
  ――友だちの○○ △△ □□・・・だよ。
  ――言っていない者もいるんだろう?
  ――いると思うけれど 承知していないので 名前を挙げることはできない。
 うんぬんという具合いです。

 ★ 絶対精神はそれは素晴らしいと思うけど、
 ☆ いいえ そうではありません。世界精神が歴史に姿を現わした日には おてんとさまが西から出て来ます。
 絶対を知らない者が 絶対に囲まれているからおもしろい。相対存在が そのこころに窓を明けているから たのしい。これほどの恵みが どこにありましょう。

 そう言えば 毎年クリスマスには妹に小さなケーキを持って行ってやるのですが 丸いケーキから分けて食べたのは果たして何年前だったかなぁと しょぼい思い出の話にて。
 だって マルクスがかわいいと言うひとに何を話せばよいのでしょう。

お礼日時:2009/12/05 14:49

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