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キリスト教的な運命論は、すべては神の意志である、というものだと思うのですが、そうではない、科学による運命論は体系として存在するのですか?
つまり、今の世界をすべて科学的に解析できるとして、人間の脳も細胞の集まりだから自分が無意識にやっていると思うことも細胞の動きを調べれば次に何をするかわかる。ランダムに見えるサイコロも、初速と最初の微妙な角度がわかればなにが出るかわかる。というように、例えばまったく同じ世界をパラレルワールド的に作れたら、そのあとは何も手を加えなくても同じ人が同じ発言をして、同じ事件が起こって… という風になるように思えます。

もちろん、現実にはすべてを解析することは不可能ですし、時間は不可逆的に常に流れているので次を予想することは不可能ですが、理論的には次が決まっていることは真なのでしょうか? 僕には反証が思いつけないのですが、この世界はとても複雑怪奇に満ちていて、感覚的に納得できない自分がいます。この問題に対して哲学ではどう考えるのでしょう? なにか関連した本を紹介してくださっても構いません。

※別に運命が決まっているから厭世的になって困っているとか、そういう類の人生相談ではありません。運命とは常に不可知なものだと思いますし。

A 回答 (10件)

論理学における不完全性定理、


物理学における不確定性原理において、
決定論的な客観的存在は否定された。
(完全な公理系は無矛盾ではあり得ない、
あるいは存在の有する相補的不確定性の
決定化は無=無限不確定に還元する)

原理的な確定=本質的な因果律が存在しない事は、
物理学的な状態Aが、Bに変化する確率は、そのAが
Bになる複数のプロセスの全てを足したものとなる事から、
明らかである(=経路積分)。

それは、ミクロなレベルの話だけではなく、2本のスリットを
通してその向こうのスクリーンに電子を飛ばした場合、1個
単位で電子を飛ばしても、スクリーンに次第に描かれるのは、
2本の帯ではなく、干渉縞模様である事にも表れている。
即ち、スクリーンに1つずつ消えていく電子が、それ以前に
消えていった電子の場所を覚えていて、皆で協力しているか、
1個の電子が、2つのスリットをそれぞれ通った可能性同士が
干渉しているか、である。

「偶然か必然か」は、存在の原理的本質としての確率的実体
の集合において、そうした確率波動が相殺された上に成る=
階層現象の表面的定性化=いい加減な認識によって生じた
決定論的な幻想において生じる疑問なのだ。
(存在とは、そこに無いとは分からない事)
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#3 因果律に対する補足


因果律というものは時間軸で論じると、因・縁・果の無限連鎖なのですね。つまり原因があり、縁という作用があり、その結果が現れる、その結果が新しい原因(因)となり、それに縁という作用が働き、新しい結果が生まれる。またこの結果が新しい原因となり、と無限に続くわけです。
因・縁・果の時間連鎖の瞬時における要因が全てわかれば微視的な時間観点での未来は確定的に決定できるでしょう。これを巨視的な観点に拡張しても微視的時間集合の問題ですから確定的に決定できますね。
これは、数学的連続の概念に基づく微積分のやり方と同じですね。
時間が不可逆的であるので時間の因果律は決定論ともいえますが、一般的には原因(因)があっても、それに対する時間作用が全て把握できないので未来の結果にぶれが生じるということですね。
1日15時間勉強しよう、そうすれば東大も夢でないだろう。と思っても何年もの間それを実践できる人は少ないですね。それで巨視的な時間観点での結果は確定しないのですね。
こんなのは神が主体的に関与することがらじゃないでしょうね。
でも始まりと終わり、生・死については誰しも固定されていますからこれは神の問題かもしれません。
一方、ロケットは軌道計算しながら速度を調整し、何年もかかって遥かな星へも到達できますね。これは決定論とも確定運命論ともいえますね。これは神がいなくとも人間でもやれることですね。
こういう問題が絡んでいるということなんでしょうね。
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 運命とはあるのか、全て決まっているのか、それとも自由意志で、未来というものは変化していくものなのか と考え、それによって葛藤が生

じることと、その瞬間が、決まっていないということの証明になり、決められた未来へむかうということではないことを表している...
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ご質問になっている問題は、


様々な事例や考え方によって論じる場合には永遠に解消しそうにありませんが、
言語という観点から考えますと意外と簡単に解消します。
哲学は前者の学術として発展してきましたが、後者も是非ご参照ください。

我々は 「決定 (されている)」 という語について、2種類の概念を有しています。
I : (自然科学の大前提である) 決定論に示される決定概念。
II : 科学が採用される以前から人類が有している、神による決定。
  運命ないし宿命による決定。

I と II の違いは、それぞれの適用例を見ればよくお分かりになるでしょう。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
お手数ですが、上のページの itsuki7927 の回答を一読していただいて、
◆ I の語用については ・・・ 冒頭の決定論の説明を構成している決定概念を
◆ II の語用については ・・・ 回答最終行の 「決定していない」 を
それぞれご確認ください。

ところで、因果律とは 「一定の原因に対しては一定の結果が継起する。
原因が同じなら結果も同じ。よって、結果が別様であれば原因が異なる。」
という、ニュートン力学以前にさかのぼる旧い説明です。
この説明中の 「一定の」 とか 「同じ」 といった記述を見る限りでは、
自然科学も II の決定概念に負うものであるかに錯覚してしまいますが、
因果律が ( I の決定概念からなる) 決定論を足場として述べられる説明である以上、
そういった記述は
「ニュートン力学以前の時代の人々には、決定論が 『量子力学や複雑系といった
当時にはなかったタイプの諸法則を導くものとして自然科学の大前提であること』
の認識が乏しく、またそういった配慮も未だ不要であった」
ということを示すものでしかありません。

ここでご質問に立ち戻りますと、ちょうど 「ラプラスの悪魔」 という考えが
magne65さんのご質問で述べられた世界観にあたるように思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97% …
要するに、「初期条件がもれなく与えられれば、全ての成り行きが確定するはずだ」
という見解ですね。
ラプラスはニュートン力学全盛の1800年代の人物なので、「一定の」 とか 「同じ」
といった記述からなる因果律に負うことで、みずからの主張を意味したのでしょう。
ですが、自然科学は ( I の決定概念からなる) 決定論を大前提とするものであり、
上で見たように因果律は決定論を足場として述べられる説明なので、
「ラプラスの悪魔」 は因果律によって正当化される見解ではありません。
以上より、magne65さんの世界観は斥けられます。
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 こんにちは。



 サイコロを神が振るかどうかは知りませんが サイコロを扱うのは人間です。
 振るかどうか どう振るか あるいは振らないで済むように計らう場合 あるいはあるいはサイコロに細工を施しておく場合等々 人間が扱うところでは すべて意志行為です。意志行為が与っています。
 あるいはさらに サイコロを振るという場面でも のらりくらり時間をかせいでいると 情況が変わって振る必要がなくなったということもあります。
 これを複雑系と言うのかどうかこれも知りませんが 問題は 全体観のほかに 一人ひとりの人間がいて この個体としての存在から出発するほかにわれわれの生きる道はないというものです。
 その帰結は ひとつに民主主義という社会過程です。
 哲学では このように考えると思います。

 ただ――不用意に言うのですが―― この人間の意志行為とその社会的な総合によりも神の意志のほうに どちらかと言うと軍配が挙がると言わねばならないようです。
 そして 組織や教義としてのクリスチアニスムのことは知りませんが 個人のキリスト信仰は――これはあくまで動態ですが―― そこで軍配が挙がったほうの神の意志は かえって人間の意志を建てることになるというどんでん返しを用意しているようです。
 決定論の只中を突き抜けてすすむもののようです。
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#4です


>つまり、神経細胞は受精卵には戻れない、新しい事態だと。
これちょっとあやふやです、ES細胞とかip細胞とか、確か皮膚から受精卵ではないのかもしれませんが、いろいろな細胞に変化する、原型的な細胞が、実験的に得られているようです。
真に、乱文乱筆、おさがわせ、ご容赦を。
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興味深い質問ですね。


食後の運動に、考えてみましょう。

要するに、決定論(質問者様がこの質問をして、現時点で何名かの回答者様が現れている、と言う事はすでに事前に決まっている)と言った、直感的に違和感のある決定論は気にしていないが、理論的には因果律に拘束されている事実に対して、どのように考えればよいのか、と言ったご質問でしょうか。

これに関しては、いろいろな考えがあると思うのですが、素人の私見としては、還元主義を批判すれば、可能だと思います。決定論は、概ね、還元主義・モナド論(ライプニッツに代表される原子論)さらには演繹主義と言った考え方が、基本的に含まれています。

これらの考え方のうち、還元主義やモナド論は、比較的に批判しやすい対象です。
たとえば、#1様が書いているように、
「全体は部分の総和ではない」という立場に立てば、還元主義も原子論も批判できます。

さて、そうなると、「全体は部分の総和ではない」を擁護しなければなりません。「全体は部分の総和ではない」と言っただけでは、還元主義者から、それは間違いだ、「全体は部分の集合それ以上でもそれ以下でもない」と批判されてしまいます。

そこで使われる道具もいろいろあるのでしょうが、私の貧しい知見ですと「創発」だったか、部分が集まる事によって、新しい事態(これは特にヴィトケンシュタインの用語とは関係ありません)が『発生』する、というような事らしいのです。このソウハツという概念を、私は正確には知りませんが、私の理解で身近な例えをだすと、私たちの身体は、約80兆の細胞の集まりですが、共通の起源をもったさまざまな細胞が、膨大な量の関係を結ぶ事によって、各々が不可逆的な変化を受け、新しい事態に変化(私は個人的には変化すると表現したいですから、上記の説明では発生をカッコつきにしました)する、つまり、神経細胞は受精卵には戻れない、新しい事態だと。

取り敢えず、こんなので、役に立つでしょうか、乱文乱筆ご容赦を。
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>>時間は不可逆的に常に流れているので次を予想することは不可能ですが、理論的には次が決まっていることは真なのでしょうか? 



より正確には、「次を予想することは可能であるが、正確には決定できない。」ということでしょう。
「次を予想することは可能である。」は運命論的であるが「正確には決定できない。」ので運命論が正しいともいえない。
一方、科学的論法では、「次を予想することは可能であるが、正確には決定できない。」を確率論として捉えているということでしょうね。
さて、どちらが正しいかということですが、一長一短でどちらも厳密な意味では正しくないですね。つまり、運命論も正しくないし、科学的確率論も正しくないのですね。
例えば、あなたの日々の行動はあまり変わらないとおもいますので、運命論でも説明できるし、科学的確率論でもいいわけですが、一念発起して明日から生き方を変えれば、今までの運命論には当てはまらなくなるし、科学的確率論の許容範囲にさえ当てはまらなくなるわけですね。
まあ、家を建てようと思えばそれなりのことをしないと建てられないということですね。偶然に材料があつまって家が偶然に建つことはありませんからね。ところが科学的確率論ではそういうこともありうるのですね。
つまり運命論でも決定できない、確率論でもないのは個々が持つ自由意志のためですね。
この自由意志に焦点をあてると、
個々の事象では因果律が一番正しいということしかいえないですね。
更に、大きな集合では個々の因果律によって生まれた新たな集合の因果律としか言いようがないということでしょう。
つまり、最後にのこるのは「因果律」だけということですね。
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無矛盾な公理的集合論はその内部現象たる人間の無矛盾性を証明できない。

 という、どこかで聞いたせりふです。
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おっしゃるところの考え方は「決定論」と呼ばれるものに該当します。


現行、科学は「非決定論」という考え方が主流です。「非決定論」といっても、ダーツの的当てゲームみたいに「ある範囲内で、確率的に決定される」といった意味です。さらに、その確率自体、「全体との関連性とは切り離せない」といった意味を含んでいます。
→※二重スリットの片方を塞ぐかどうかが、確率に影響するという実験を参照してください

ただし、微妙な差が、後々の状態に対して大きく影響することもあります。
→※※カオス理論、複雑系

===

>>> 決定論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E5%AE%9A% …
自然科学と決定論 [編集]
近代科学においては、物理学者であり決定論者でもあったピエール=シモン・ラプラスは、もし宇宙の全ての原子の運動および位置が分かるならば未来は完全に予測できると主張した(ラプラスの悪魔)。

しかしその後、「宇宙の全ての原子の運動および位置が分かる」可能性は、現在ではハイゼンベルクの不確定性原理によって否定された。このことは、量子力学の観測問題と直接的に関わってくる問題であるが、現在の量子力学の標準的な解釈であるコペンハーゲン解釈の登場により、決定論は否定されたのである。

抵抗する人もいた。例えば、アインシュタインは「神はサイコロをふらない」と言い、自ら創設者の一人となったはずの量子力学の標準解釈を否定し、決定論を擁護しようとした。そしてアインシュタインは思考実験「標準解釈のパラドックス」を提示することで反論しようとした。だが、実際に実験を行ってみると、それは現実に起きている現象であることがわかり、彼のもくろみは失敗した。決定論的な考えに固執したアインシュタインは次第に当時の物理学の本流から取り残されていった、と指摘する書もある。

現代の自然科学では非決定論が主流である。
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※二重スリットの実験
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8D% …
http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doublesl …

※※カオス理論、複雑系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AA% …

>>> 複雑系 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91% …
複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。こうしたことに関する哲学的で深い議論は現在でも、哲学の一分科である科学哲学の世界などで行われている。現在のいわゆる「複雑系の科学」などと呼ばれているジャンルは、広義のホーリズムのひとつである、と位置づけられていることが多い。
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