A 回答 (20件中1~10件)
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No.1
- 回答日時:
自我という言葉に悪い印象はありません。
個我という表現なら尚更です。「私は私である」と知っていて、心に余裕があれば、他者に対して抜きん出ようとしたり、他者より優位に立とうとしたりしないのでは...個性というものがないと考え(認めず)、「みんなおんなじ♪」と考えるから、競争して優位に立とうとしたり、勝者になることで 虚心を満たそうとする人がいるのではないですか.
幼少期の環境がすべてかもしれません.
無我とか無欲とか全体回帰主義に、考えの浅さを感じます.
無我って、一体...
しかし、子を産み育てる女性の生き方としてはそれで良い、と言うより、むしろそうでなくては役割を果たせない。と言えるかもしれません.
この回答への補足
真我、なんて言葉も在りますね。
これは、仏教の世界でも、哲学の世界でも確か使っていたような。
無我というと仏教的でしょうか。
全体回帰主義という言葉は知りませんでした。勉強不足で。
wikiで調べてみます。
自我=個性、というより個性が存在する、と受け止めたほうがいいのですね。
自我を悪い印象を持って取り上げましたが、必ずしも全面的に(欲とか)否定してはいないのです。
でも、その気持ちが強くてこんな表現の質問になってしまったようです。
わが子を思う母親の気持ちは、無我の世界かも。
また回答で仰るような心の余裕は、私が受け止めている「自我」をよく見つめることの出来る個我の精神の表れかもしれないと思いました。
ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
オコリザルです。
転載しておきます。
自我ってのは宗教、心理学、哲学、人生論、などいろんな分野で取り上げられていますよねWIKIなどで概要を読んでも、様々な角度から記述されています。
そのように、自らを検証する上で、ただ単に便利なモデルに過ぎないのは確かな現状です。仏教的に有る無しで語る話題でも有りません。
自らの意思が、他者の働きかけなどで、その他者の意思と、もつれたり衝突したりした場合に、何らかの悪感情がよぎったりしますが、そのような場合に自我を想定すると心の均衡が可能になるので、自我が想定されます。
自我が我である。自我はある。と解釈すると先ほど出た悪感情のことが自我ということになります。そうでなく学問上必要な検証用のモデルです。
今回の質問は、オコリザルさんのこの回答がwikiで調べても分からなくて、したんです。
本当はオコリザルさんの考えが一番知りたいのです。
だから一生懸命読んでみました。
たぶん、オコリザルさんの頭には「縁起」と言う言葉があるのではないでしょうか。
そこが視点になっているように思えました。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
自我と言う言葉は真面目に考えると大変難しい言葉ですね。
あえて何も資料調査する事無く、私のこれまでの経験や生活実感より
コメントしてみたいと思います。大丈夫かなぁ・・・
自我とは、この世に誕生してから自分自身を自分以外の環境や人と
区別し、自分は存在する事を認識する事から始まる意識の事ではない
でしょうか。当然その自我は家族の愛情や躾・家庭環境により様々に
成長する事になります。これは自我を植物の生長する姿にたとえると
分かりやすい気がします。人としての真っ当な自我を形成するのは、
複雑な要素が絡んでおり、その人が持って生まれた個性・才能・障害
も自我に大きな影響を与えると考えます。
私には二人の娘がおりますが、長女は高校1年生で次女は8ヶ月の
乳児です。特に次女の成長過程を間近に見ていると、自我の芽生えの
過程を実感出来るようです。
この回答への補足
人間が成長する段階で、作り上げられるもの、という意見であると受け止めましたが。
でもその自身の心を認識できなければ、自我とはいえない。
と、云っているようでもあります。
認識するということは、自身の心を客観視できるということでもあると思いました。
客観視できるからこそ、理性の働きによって全うな自分に育てることも出来るのだと。
「自我」には我をより良く生かそうという心がある。
さらに考えて見ます。
ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
人の心は広くて深くて・・・
自分でさえも掴めない心があるかもしれませんね。
意識できる心の範囲を自我というのでしょう。
或いは、意識の及んだ心の範囲でしょうか。
いずれにしても、自我という言葉は、自我という意識に縛られていない心の大きな存在を暗示しているものとも受け止められます。
そう見ると、自我とは意識の限界を指すものとも言えますね。
自我流の解釈ですが・・・・・
失礼しました。
No.5
- 回答日時:
これが自分だ、と、自分で思っている自分。
かな?No.6
- 回答日時:
自我には、2つの側面があります。
1.ひとつめは、自分自信について他者を通じて知ること。また、その知識を自分自身と結びつけることです。同一性の歴史的プロセスです。
2.ふたつめは、病的自己。無意識を他人になすりつけようとだけする醜い自己です。「自分ということについて考える」能力のない自己のこと=「じじ我我」ともいいます。
具体的には、
自分が「頻繁にうそをつく」という現実
また、「学のない自分が馬鹿である」という事実から推し量り、
全ての人間は「うそつき」であり、ある意味「おろか」であると主張し、
(ここまでは批判の対象ではありません)
「そうかそうか、あんたもそうか」といって寄り付いてきて、
ワシの「なかま」になれば、赦してやる「罪は消える」、
「全部帳消しにしてやる」と叫び、もともとない罪を「ワシには罪を拭い去る力がある」と信じ込んでいる邪教集金老人の糞尿自我のことです。
自分が脱税をしていいのは、自分が普通の人であるから、
また、
人間は嘘を着くものであるから、違法行為を働いてもよいと信じる病に犯された狂いの自我です。
下のQ&Aをご覧ください。質問者・回答者とも自我のある方です。
根拠のない「女は奴隷だ」という主張もこういう人たち(質問者のみ)の常識です。
http://okwave.jp/qa5407971.html
この回答への補足
自分で言うのも変ですが、素直な性格なので、婉曲な言い回しでの回答は苦手で、nananisseさんのいいたいことがわかりませんでした。
明日もう一度よく読んでみようと思います。
ありがとうございました。
2つの側面のふたつめ、
「無意識を他人に・・・」を「無意識に自分の意見を他人に・・・」と読み替えてみましたが。
自我には学ぶ心と主張する心があるということですね。
自我とは醜いものと受け止めました。
ありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
「わたしが、わたしである」
「わたしは、あなたではない」
そういった感覚を持つということの理由付けのために、西洋哲学も、仏教も、アトヅケの説明しかできないでしょう。。。
「わたしが、わたしである」という観点から離れないで、いや、そこにこそ、立脚点を保ちつつ、思索を広げたのが西洋哲学的な論考だと思います。
「わたしは、あなたではない」という観点から、思索を広げたのが仏教的な論考だと思います。
出発点として、たとえば自己を能動的・肯定的に捉えるのか、受動的・否定的に捉えるのか・・・
たとえば、それぞれが一神教としての主眼であり、多神教としての主眼ともなり得るでしょう。。。
本来的には、「わたし」に関連する対立する二項以上の関係が、(程度の差こそあれ)同時に成り立つところにこそ、「わたし」という概念が存在しうるのだと思います。
言い換えるなら、たとえば「自ずから(受動的)、自ら(能動的)、我」という概念について知らない限り、無我や非我という概念は生まれ得ないということであり、無我や非我という概念なくしては、自我という概念も生まれ得ないということです。
・・・と、アトヅケの論を考えざるを得ないのも、自我の為せる技です・・・
この回答への補足
ググーっと私を引き込んでしまうような回答になっていますが、実は意味は解らないのです。
解らないからゆえ興味を持ってしまったのですが。
頭が単純なので、とりあえず疑問点の一つを解決しておきたいので、再度の回答お願いします。
「わたしが、わたしである」と「わたしは、あなたではない」は、両方とも西洋哲学的思考スタイルのように思えるのですが。
よろしくお願いいたします。
No.8
- 回答日時:
.
wikiで分からなければ、説明の簡単な辞書(例えば広辞苑)で調べるのもいいと思いますよ。なにしろ、分かることを前提に書かれているから。
ちなみに、広辞苑で「自我」を調べると。
[哲]
認識、感情、意思、行為の主体性を外界や他人と区別していう語。
自我は、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体を含めて言う場合もある。
[心]
意識や行動の主体を指す概念。
と書いています。大分分かりやすいのでは?
質問者の考えている、「欲」みたいな意味は含んでいないようですよ。
.
No.10
- 回答日時:
No.7です
ふふふ・・・
引き込まれました?
仰るように、「○○ではない」という攻め方は、西洋哲学にて否定神学的な攻め方に相当します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A% …
近年の西洋哲学は否定神学的な要素を抜きには語れないと思われます。
しかしながら、仏教系(インド哲学)では、それ以前に「空・無」という概念を用いています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/0
「零と空」
http://ja.wikipedia.org/wiki/0#.E9.9B.B6.E3.81.A …
私がNo.7で述べたのは「スタート地点」の差です。
西洋哲学の出発点としての有名どころは、「我思う、故に我あり」です。
この回答への補足
最初のURLはなんとなく解りましたが、あとの二つは読むのがいやになりました。だから読んでません。
否定神学なるものは、私の考え、受け止め方と同じように思います。
神という表現がしっくりしないので、私の知っているあるお坊さんの表現をお借りしてみます。
「宇宙の本体は絶対の大心霊態である」
この表現のほうがぴったりのような気がします。
ここには善という言葉が入っていません。
私の受け止め方はここ、教えて!gooで云っているか思い出せませんが、自分のブログでは云っているので、それと同じ事を云うことになりますが。
宇宙の存在は物と精神が合体して現象していると考えています。雌雄が合体して生命が誕生するように。
そして宇宙に遍くいきわたる精神が、命を与えられた我々一人ひとりの精神に宿っていると。いわば宇宙の精神と人の心とは同質であると思っています。
そして我々の心に「善」的、心もあれば、「悪」という心があるように、宇宙の精神も、人間が考えるところの「善」「悪」両面の性質?性能?特性?といったものを含んでいると、考えています。
言い換えれば、人は心を自分から離れる方に向けているときは「善」的な心情になり、それが自信に向きすぎると「悪」という心情を味わうという性質があると思っています。
神は善で創造主であるというキリスト教的考えではないのです。
このような私の考えを知っていただいた上で、さらに回答をお願いしたいのですが。
できれば語自身の言葉で、噛み砕いて解りやすくお願いしたいです。
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