一回も披露したことのない豆知識

素人なんですが、辞書によると哲学は、世界・人生の根本原理を追求する学問だということです。

もし、世界や人生の根本原理やその手掛りを発見した人がいたとして、それを記号体系である言語で正確に表現することは可能なのでしょうか?
その根本原理が、未だ概念化されていない事象を含んでいたような場合、他人に正確に言語のみで伝達することは大変難しいことのように思えます。(勿論その人‘独自の’表現で言語化することは可能かもしれませんが…)

哲学が学問であるのなら、最先端のそれはどんどん高度化していると察せられますが、哲学的に高度化するということは、人間が概念や思想として理解できる範疇ギリギリの事象を取り扱っているという側面があるのではないでしょうか?
そうであれば、そういう新しい概念や思想が世間で広く一般化することはあり得ないと思いますし、一般化が進まないとすれば、その理解は特定の少人数に限られ、その特定の少人数間にしても果たして本当に相互理解が成立しているのか検証不能ということにはならないのでしょうか?

そういう理由で、学問としての哲学には限界があって、多くの人にとって、ある程度以上の根本原理の追求は、いかがわしくても宗教的実践等に頼らざるを得ない状況であると考えるのは間違いでしょうか?

A 回答 (10件)

見当ちがいにならなければよいのですが。

No.6&7です。

具体論で考えてみます。まづパウロの言葉に 《文字は殺しますが 霊は生かします》(コリント後書3:6)があります。いま きわめて端折った言い方で クリステヴァの見解をめぐって

 《記号象徴態 le symbolique 》を この《文字》に当てはめますと 

 おそらくこの文字=記号象徴態は 《霊=原記号態 le semiotique 》の代理表現なのだと思われます。

後者が 《根本原理》であって それらの構造的な動態が 意味生成の過程だという推測です。

もしこの想定で考えうるところを述べよと言われたなら こうなるのではないでしょうか。クリステヴァの理論はすでに 哲学を超えている。つまり 霊ないし神(根本原理)の力を 原記号態(ル・セミオチック)が 自由自在に 発揮して 記号象徴態ないしテクストの上に 作用させその跡を残していると言っているのではないでしょうか。

ちなみに 観想としての言説は これも――信仰ゆえに当然のごとく――矛盾を含むのですが おそらくは――具体的な奇蹟などの話を除く必要がありますが―― 存在の基本的なことがらについて述べるものだと思います。存在についてというのは 経験領域の問題としてという意味です。

神なる三位一体(父‐子‐聖霊)はそれに 人間の三行為能力(記憶‐知解‐意志)の時間的な齟齬を伴なった一体が いくらかは 似ているという理論です。それゆえ 順に《司法‐立法‐行政》の三権分立(=社会全体の協業としては回りまわって一体)なる慣習があるという見方です。

長いおとぎ話ですが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。

父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。

父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。

子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。

第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。

この父と子と聖霊の三位格(ペルソナ)の一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられると。三位一体とは 各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在であると。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛であるということ。

人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。

神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この記憶は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその内容を知解する。つまり 記憶がこの知解を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この意志は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。この人間の 記憶と知解と意志の一体性は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。

人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。

人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)として 一つの本質(存在) 一つの生命である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
超経験の根本原理が 経験存在となったという根本的な矛盾を含んでいるのですが クリステヴァの場合も いわばこの超経験と経験との交流があると言っているのではないでしょうか。

彼岸とのぎりぎりの境界を模索し探究するというとき ひとつには すでに初めに この根本原理を想定し提出してしまうという手も あるのではないでしょうか。邪道ですが 哲学の限界を再生させることもできるかも知れません。

(少しなじって言ってみれば 公理だとか先験的であるとか言う場合には 根本原理そのものをすでに前提しているようにも考えられます)。

(この投稿は おそらく rokujuuban さんとcafatabacoさんとの間を縫って あのずるい第三の道を行こうとしているものと思われます)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>霊ないし神(根本原理)の力を原記号態(ル・セミオチック)が自由自在に発揮して 記号象徴態ないしテクストの上に作用させその跡を残している

>超経験の根本原理が経験存在となったという根本的な矛盾を含んでいるのですが クリステヴァの場合もいわばこの超経験と経験との交流があると言っているのではないでしょうか

共通点はあると思うんですが、日本的にいうと言霊ということになるんでしょうか、記号そのものの中に霊性を見るという考え方がありますよね。

例えば、「さよなら」という言葉は、記号的にはそれ以上のものではないんですが、誰が誰に、どういうシチュエーション、因縁の中で発せられるかで、それぞれが無限の意味・作用を持ちうる唯一無二の「さよなら」であるという考えです。
そしてそういう考えが基本にあってのことだと思いますが、仏教(密教)的にいうと真理は遥か遠方の高みにあるのではなく、この世に遍く満ち溢れているということになります。

経験と超経験の交流というよりは、本来「空」であるはずの世界で、経験同士が象徴しあったり、作用しあったりしている、その混沌を貫く法則性もしくは原動力みたいなものを真理(根本原理)として想定しているのかと思います。

クリステヴァの論は西洋的、学問的ですが、しかし仏教哲学との間にも本質的な差異は無いように思います。むしろ、宗教であればイメージ論で済むところを、宗教でないが故に涙ぐましい作業を強いられているようにも見えなくもありません。

曼荼羅なんかは、神の世界を世の中の諸相とオーバーラップさせて象徴的に表現しようとする、仏教のクリステヴァ的なアプローチとは言えないでしょうか。

>初めに この根本原理を想定し提出してしまうという手

これは、宗教的アプローチを哲学的に行なうとうイメージでしょうか。

宗教には宗教であるが故の問題もあるかと思いますから、それに対する回答も含んだような形で提出されるような場合、広く受け入れられる可能性があるかもしれませんね。

哲学にも頑張ってもらいましょう。

お礼日時:2007/07/21 14:26

下手な例えとご自身でおっしゃってますが非常によく分かります。



問題はちょっとした認識の勘違いかた思います。
さっきの例えを使うなら、日本国内で作られた車をどんどん高性能化していきどんどん走っていく。しかし車がくるまである以上空は飛べない。ということはどこまで高性能化しても日本の外にあるブラジル(真理)に車で到達することができない。
こういうことだと思いますが、まず前提が違います。日本国内で車を作るところから始めているのではなく、車で海を渡るところから始めているんです(笑)

どういうことかといいますと、言葉で表現できないことを哲学するんです。そこから始めるということはつまり日本の道路を走るところから始めているわけではないんです。一言で言えば無謀な挑戦です。いきなり海岸から地平線のその向こうにあるだろうブラジル(真理)に思いを馳せ、見えさえしないブラジルに向かって車で海を渡ろうとしてるんですよ。男のロマンです。飛行機(テレパシー)や船(頭の中を読み取る機械)があればいいんですが、いかんせん、我々人間には車(言語)しかない。

結局のとこを最初の私の回答にも書いていますが、言語では限界があるでしょう。ブラジルには行き着けないと私も思います。

しかし質問者さんと同じ結論を出しているのになぜ今ここに書いているかというと、最初の質問文から見てとれる質問者さんの考えが、私と同じ「不可能派」ではあるけど、なにか哲学の限界を感じて落胆もしくは見切りを付けているようにお見受けしました。例えのなかでも高級車が海岸線をぐるぐる周っているだけ、とありますし。
しかし私は同じ不可能でもそれは結果論であり、今もまだ確実にブラジルに近づいていると信じています。バレリーナが踊りによる表現の限界を感じながらそれでもなお踊り続けるように、画家が絵画による表現の限界を感じつつもそれでもなお書き続けるように・・・。

どの学問も芸術も突き詰めれば真理の探究です。それぞれがもつ表現方法やアプローチの違いにすぎません。だれが一番最初に真理にたどり着けるかの競争です(競ってませんけどね^^;)哲学者は最後まで言語による表現で真理を探究し続けるでしょう。

この回答への補足

ご回答にあります通り、回答者さんと基本認識に相違は無いと思います。
以下、平行論的になるかとは思いますが補足いたします。

私が質問の中で問題にしていますのは、俗な「学問としての哲学」です。ですから、多分長くても今後数十年くらいのスパンの中での動向について考えています。

その「学問としての哲学」は空洞化しています。
多くの大学で哲学は文学部の一学科に過ぎず、その内容は哲学史、つまり過去のおさらいが中心です。
そのことに落胆はしません。
哲学は基礎学問ですから、現在の「学問としての哲学」の状況は哲学の発展的分化の結果であって、衰退の果てではないと思うからです。

しかし、現在に至るも(そしておそらく永遠に)科学は万能ではありません。
そのため、「学問としての哲学」はスカスカに空洞化しつつも、死ぬことができません。
それどころか、人間の考えうる最もディープな部分だけが哲学の領域として残され、「学問としての哲学」は言語だけを頼りにそこに首を突っ込まざるを得ない、という状況なのではないでしょうか?

これはもう、最高に男のロマンをかき立てる状況ではあると思いますが、同時に、一般的な学問として成立することを阻害する構造的な欠陥をも持つことになってしまったのではないかと思うんです。
つまり、ひとりの哲学者が孤高の高みに到達することができたとして、言語の表現力の限界ゆえ、それを他人、それも不特定多数に伝達することが出来ないのではないかということです。共有できない知識は学問に成り得ませんよね。

言語の可能性は信じます。
しかしそれは、「みんなのもの」である言語がそれ自体成長を続けていくという可能性です。
現状の枠組みの中で、個人が不特定多数に対してツールとして行使できる言語には(無限のバリエーションはあるにせよ)やはり限界、もしくは制約があると思います。

そういう意味で、「学問としての哲学」が立ち行かなくなるのではないかと考え、当質問をさせていただきました。

補足日時:2007/07/20 20:57
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>なにか哲学の限界を感じて落胆もしくは見切りを付けているようにお見受けしました

それはまあ、そういう部分もあるんですが、私が哲学に後ろ向きなのは、どちらかというと子供が親に甘えて駄々をこねてるようなものだと思って下さい。

いまごろ反抗期なんです。

お礼日時:2007/07/20 21:02

何の根本原理を説明するかによる気がします。



ですが言語では表現することができないことが存在するのは確かでしょう。
言語はツールである以上限界があります。

人間には出来ない、だから出来るように道具を作った。しかし道具にも限界があった。だから改良した。でも出来ないことがある。更に改良・・・。
これの繰り返しですから、結局は出来ないものが存在すると思います。

哲学も発展していけば出来ない言語で表現できないものが出てくるでしょう。

しかしこう考えてみてください。
言葉で表現できないから哲学するんじゃないですか?
哲学した結果表現出来ないものに行き着くのではなく、もともと表現出来ないものに哲学して、言葉を付けていく。

そう考えれば、哲学において「表現出来ない」という段階は行き着いていないとも言えます。ですので、行き着いた結果、表現できないのは矛盾しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>言葉で表現できないから哲学するんじゃないですか?
>哲学した結果表現出来ないものに行き着くのではなく、もともと表現出来ないものに哲学して、言葉を付けていく。

おっしゃる通りかと思います。

>言語はツールである以上限界があります。

こちらもまたその通りだと思います。
人間が存在する限り、哲学的な営みが無くなることはないと思いますし、人は言語というツールを永遠に磨き上げていくと思います。

しかし、言葉はどこまでいっても言葉(記号)なのではないでしょうか?

自動車はどんどん速く、快適に、燃費が良くなっていますが、空を飛ぶことはありません。
哲学が言語にこだわることは、どんどん性能が向上している高級車で、しかし海を渡れずに海岸をウロウロしていることのように思えます。
しかし人はいずれ飛行機を開発するか、自動車を飛べるように改良するかもしれません。
それは大変素晴らしいことですが、哲学でいうとそれは言語以外のツールを活用するか、言語を言語以上のものに高めることを意味するかと思います。

そうなったとき、たぶんその思想(?)は言語を超えていますから、論文で発表できないし、本に著すこともできないし、大学で講義することも至難なのではないかと…。
つまりそれは“学問としての”哲学を超えたものではないかと、逆に現状の言語というツールにこだわった哲学では、いつまでたっても海岸付近を高級車でグルグル周る現状から脱することはできないのではないかと、そういうふうに思います。

下手なたとえで失礼しました。

お礼日時:2007/07/17 12:00

No.6です。



《狭義の哲学、或いは学問としての哲学としてはどうでしょう?》――そうなると これまた おっしゃるような事態と情況にならざるを得ないと思われます。

すなわち 表象し得ないものを表象しようという最先端の探究は そこで得られた《そういう新しい概念や思想が世間で広く一般化することはあり得ないと思いますし、一般化が進まないとすれば、その理解は特定の少人数に限られ、その特定の少人数間にしても果たして本当に相互理解が成立しているのか検証不能ということにはならないのでしょうか?》という実態だと思います。

もっと率直に述べるならば わたしは哲学が苦手です。受容として つまり読んで理解する側面では まだ いいのですが 学問として追究していく営為は やる気が起こらないようです。

引き下がらざるを得ません。

なお 《何が〈根本原理〉でないか》を前提として明らかにしていれば そして 教義や組織上の要請として行なうようなその意味での宗教的な実践(あるいは 無限判断と言うんでしょうか)でないならば いわゆる観想としての思索も 哲学に いくらか寄与しうるのではないかとは思っています。

そして勇み足で余計なことを申しますが どうも哲学は 道具であるように思えております。もしくは 地図や見取り図のごとくであると。それゆえ 《学問としての哲学には限界があ》るというところまでは 見ていないのですが。

とりとめのなく もうしわけのなく。 
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この回答へのお礼

哲学を究めようとする立場ではなく、哲学から何かを得ようという立場の人(こちらが大多数だと思いますが)からすれば、哲学は《地図や見取り図》として十分有効であるということですね。よく分かります。

考えてみたら、しるしとしての言語も、根本原理の“表象”が不可能であることを前提としているだけで、理解することまで放棄しているわけではないんですね。
言い換えれば、“言語として”表象不可能ということで、そうであれば、それは哲学の限界というより、言語や記号体系の限界なのかなあと、そして言語や言語的思考に頼らないアプローチを模索するなかで、観想や、その他の実践の需要が発生するのかなあと思いました。
そこから得たものを理解と呼ぶのかどうか分かりませんが。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/15 12:12

しるし(代理表現)としての言語で表現可能です。



一般に日本語では 神と言います。

愛なり空なり無なりでもいいのだと思います。

かみと言えば 情況に応じて紙や髪やなどを思い浮かべる場合を除いて 神を 或る種の仕方で一定の概念において表象させますし わたしたち一人ひとりもそうすると言っていいのではないでしょうか。あくまで主観としてですが その神を分かったものとして ということは いまここでは 《根本原理》の何たるかとして――けっきょくは 全体として直観として――捉えていると言っていいのではないでしょうか。

これまで《哲学が学問であるのなら、最先端のそれはどんどん高度化して・・・哲学的に高度化するということは、人間が概念や思想として理解できる範疇ギリギリの事象を取り扱っているという側面があるの》だとわたしも思います。一昔前のラカンだとか ついにわたしは分かりませんでした。じつは クリステヴァですとか その言説は 分からなくて構わないと思っています。

おそらく 根本原理の問題は 経験科学・経験思想としての《範疇ギリギリの事象を取り扱って》 しかも 《何が〈根本原理〉でないか》を明らかにすればよいのだとも考えます。(これが 上に触れた《或る種の仕方で》の意味です)。

経験事象や経験的な概念と区別し さらにあるいは人間の精神とも峻別しつつ かみと発すれば――あるいは 自己でも わたしでも そのような言葉を発するならば―― なにがしか わたしは内面へ向き変えられて 自己に到来するのであり 根本原理なる神に相い対しているという場合があるのではないでしょうか。

上の思想家らは たしかに表象し得ないものを表象しようと努めたのだとも捉えられます。しるしであることを超えて 実体験のごとく表現しようとしていたように思えます。(というより 分かってもらおうと思って書いていたとは思えないくらいです)。

したがって 根本原理は おっしゃるように そのものとして《記号体系である言語で正確に表現することは可能なの》ではありません。そもそも そういう想定なのですから。

したがって ちなみに 思想・思考を超えた個人の信仰は――むしろ哲学として―― それ(神)が 表象不可能と言っていく立ち場だと思います。

それに対して 《宗教的実践等》は 何の目的でそうするのか 教義や組織上の要請からなのか たとえ善意で自己の良心の訴えからするものであっても 《いかがわしい》ものと言えると思います。

それが 教義として 経験思考に訴えるかたちで 言語記号によって説き明かし尽くすと言うのであればです。よって それら《に頼らざるを得ない状況であると考えるのは間違い》だと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご推察の通り、私が質問の中でイメージしている哲学としての追求は、回答者さんが例示されているラカンやクリステヴァみたいな《表象し得ないものを表象しようとする》アプローチであるかと思います。

それとは別物として挙げて頂いている《しるし(代理表現)としての言語》を用いた表現につきましては、果たしてそれが哲学と呼べるのだろうか、という疑問が残ります。

>思想・思考を超えた個人の信仰は――むしろ哲学として―― それ(神)が 表象不可能と言っていく立ち場だと思います。

回答者さん自身こう書かれていますから、宗教的な思想も含めて、しるしとしての言語を用いた解釈も哲学であるというご認識かと思いますし、事実そうなのかもしれません。しかし、狭義の哲学、或いは学問としての哲学としてはどうでしょう?
根本原理をはじめから《表象不可能》を前提として、《全体として直感として》捉えようとする姿勢は宗教でなければ、文学か、もしかしたら芸術的活動に属するもののようにも思えます。
そして、《表象不可能》を前提としている時点で、宗教的実践(瞑想や山林修行)へ通じる《いかがわしさ》の芽みたいなものを内包しているように思います。

でも、考えてみれば、本当に根本原理を希求する人、翻って“生きる意味”や、“死の恐怖の克服”を目指す人たちにとっては、《表象し得ないものを表象しようとする》姿勢よりは、しるしとしての言語の方が有効なのかもしれませんね。

お礼日時:2007/07/14 22:49

ご質問の主題からは少しずれると思いますがどこか関係があると思うので書いてみます。

根本原理というのは最後は自分とは何かにまでさかのぼるのではないかと思います。この問いに対する回答は本質的にあるいは原理的に不可能であると思います。問いを発している主体そのものは問いの対象にはなりえないと思うからです。したがって根本原理はあったとしてもそれがどういうものかは対象になって答えが得られたとたんにその答えの内容である根本原理は求めていた根本原理ではなくなってしまうと思うわけです。このことはなたの質問文末で述べられている哲学の限界ということなのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

根本原理を追求した果ての回答があったとして、それは自身で想定し得る様態での回答ではなく、まして言語による回答なんかではあり得ない、という解釈で間違いでは無いでしょうか?

そうであれば、なんとなくですが分かる気がします。

お礼日時:2007/07/14 14:41

続き




これは当たり前のことに思えるかもしれないが、アップル社がコンピュータを発売するまでは、全くそんなふうに考えられていなかった。主流を占めるコンピュータの形式は、年がら年中コンピュータの仕事をしている技術者が開発した原則に基づいている。当然ながら、そういう技術者は、コンピュータ内部の状態を表現する。ありとあらゆる奇妙な符号や略語を平均で覚える。何故なら、彼等にとって興味があるのはコンピュータそのものであって、それを使って何ができるかではないからだ。ところが、一般人にとっては逆だ。

<省略>

ユーザー側に負担の大きいコンピュータから手軽に使えるコンピュータへの大変革が遂げられたのは、スモールトークが開発され、それにユーザーイリュージョンが適応されたおかげだった。ユーザーイリュージョンという概念は、ユーザーインターフェース──モニターやキーボードなど、人がコンピュータとのコミュニケーションに用いる部分──の革新的な変化を意味する。初期のコンピュータを開発した技術者達は、ユーザーインターフェースのことなど配慮しなかった。ユーザーは全て専門家だったからだ。そのため一般人には、コンピュータは不可解で扱い難いものに思われた。アラン?ケイは書いている。「かつて、ユーザーインターフェースは、システムの中で最後に設計される部分だった。それが、今では最初に設計される。なぜ最優先に考えられているかといえば、初心者にとってプロにとっても、感覚器官が接するのはコンピュータなのだ。ゼロックスのパロアルト研究所で、私と同僚達が〈ユーザーイリュージョン〉と呼んでいたのはシステムの動きと次にするべきことを説明するために誰もが作り上げる、単純化された寓話である」
つまりユーザーイリュージョンとは、ユーザーが描くコンピュータのイメージだ。このイメージは、筋の通った妥当なものでありさえるれば、正確かどうか、或いは完璧かどうかは、実のところ問題ではないことに、ケイと同僚達は気付いた。例え不完全で比喩的であっても、コンピュータがどう作動するのかというイメージがあるほうが全くないよりましだ。
従って、大切なのは、コンピュータがどう作動するかをユーザーに説明することではなく、首尾一貫した適切な寓話をでっち上げることだ。それも、コンピュータではなくユーザーの立場に立って。現在この単語を記録しているコンピュータは、ユーザーである私に対して、デスクトップのフォルダに整理された一連のテキストを表示している。私は、出来の悪い章をドラッグして右下のゴミ箱に放り込む。一つの章が長すぎるかどうかを知りたいときは、机の引き出しのアイコンから電卓を取り出して使うことができる。
しかし、コンピュータ内部にはフォルダもゴミ箱も電卓もない。大量の0と1が並んでいるだけだ。その量たるやとても書き表せるものではない。コンピュータには何千万という0と1が入る。だが、ユーザーはそんなことは全く気にかけない。ユーザーにとって必要なのは、原稿が仕上がったとき、それをコンピュータから引き出すことだけだ。ユーザーは、大量の0と1に全く無関心でいられる。ユーザーにとって興味があるのは、ユーザーイリュージョンが示すもの──書きかけの章、未解決の事柄やメール、未整理の考えなどが収められたフォルダ、といたものだけだ。
ユーザーイリュージョンはメタファーであり、実際の0と1など相手にしない。その代わり、0と1が全体として何ができるかを問題にする。そう考えると、ユーザーイリュージョンは、意識というものを説明するのにふさわしいメタファーと言える。私達の意識とは、自己と世界のユーザーイリュージョンなのだ。
意識は、世界全体や自己全体のユーザーイリュージョンではない。自分が影響を及ばせる世界の諸側面と、意識が影響を及ばせる自己の一部の、ユーザーイリュージョンだ。
このユーザーイリュージョンは、まさに自分独自の自己の地図であり、自分がこの世界に関与する可能性を示している。イギリスの生物学者リチャード?ドーキンスは言う。「意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自体のモデルを含めねばならぬほどになったときであろう」
意識が、私が抱く私自身のユーザーイリュージョンであるならば、意識は、私というこのユーザーイリュージョンこそが、まさしくユーザーなのだと主張せざるを得ない。そして使われる側ではなく、使う側の視野を移し出さなくてはならない。その結果、意識というユーザーイリュージョンは、〈私〉という名のユーザーと共に機能しているわけだ。
〈私〉の経験では、行動するのは〈私〉ということになる。感じるのも〈私〉、考えるのも〈私〉だ。だが、実際それをしているのは〈自分〉だ。私は、私自身の私にとってのユーザーイリュージョンなのだ。
コンピュータの中にはユーザーにとって興味のないビットが山ほどあるように、〈自分〉の中には〈私〉にとって興味のないビットが山ほどある。〈私〉は、どうやって心臓が〈自分〉の隅々にまで血液を送っているのか、気にかけてなどいられない。少なくとも、四六時中、気にかけなくてもよい。それに〈私〉は、どういうふうに〈自分〉の中で連想が起こるのかも気にしてはいられない。〈私〉は〈私〉自身に関係があることが知りたいのだ。
しかし、個人のアイデンティティとして、また、行動の主体として経験される〈私〉だけが錯覚なのではない。私達が実際に経験しているものもまた、ユーザーイリュージョンだ。私達が経験する世界は錯覚なのだ。私達の周りの世界には色も音も匂もない。それらは私達が経験するものだ。だからといって世界がないのではない。だが、世界はただ存在するのみで、人が経験しないかぎり、世界には属性がない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご回答の内容は、脳科学はじめ自然科学からのアプローチによる成果を元にした考察かと思います。
ですから、十分明確であり、現代においてはそういう科学的成果を踏まえない哲学的思考はあり得ないのかもしれません。
ですが、根本原理というのは、その更に先にあるものかと思うのですが…うまく言えませんが…。

お礼日時:2007/07/14 13:51

ユーザーイリュージョンとしての意識



意識が私達に示す感覚データは、既に大幅に処理されているのだが、意識はそうとは教えてくれない。意識が示すものは、生データのように思えるが、実はコンテクストというカプセルに包まれており、そのカプセルがなければ、私達の経験は全く別物になる。つまるところ、私達は接吻された、或いは蚊に刺された、という体験をするのであって、皮膚に漠然とした刺激を体験してから、それを解釈する羽目になるのではない。
意識の内容は、人がそれを経験する前に、既に処理され、削減され、コンテクストの中に置かれている。意識的経験は深さを持っている。既にコンテクストの中に置かれている。沢山の情報が処理済みだが、その情報が私達に示されることはない。意識的自覚が起こる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられる。そして、その捨てられた情報は示されない。だが、経験そのものは、この捨てられた情報に基づいている。
私達は感覚を経験するが、その感覚が解釈され、処理されたものだということは経験しない。物事を経験するときに、頭の中でなされている膨大な量の仕事は経験しない。私達は感覚を、物の表層を直に感知したものとして体験するが、本当は感覚とは、体験された感覚データに深さを与える処理がなされた結果なのだ。意識の深さだが、表層として体験される。
意識は、世界に対する大幅に異なる二つのアプローチを結びつけるというトリックをやってのける。一方は外界から感じる刺激にまつわるアプローチであり、もう一方は、そういう体験を説明するために持つイメージに関するものだ。
人は感覚データを経験するわけではない。光の波長形を見るのではなく、多彩な色を見る。ニュースキャスターの声は、ヘッドホンからではなくテレビから聞こえる。そういう色やニュースキャスターの声を、今ここで起きているかのように経験する。あたかも自分が体験しているとおりのものであるかのように経験する。だが実はシミュレーションの結果なのだ。
人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションとは現実についての仮説だ。このシミュレーションを人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。
この見解は、非常に意味深い事柄を述べている。すなわち、人が直接体験するのは錯覚であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データのように示す、というのだ。この錯覚こそが意識の核であり、解釈され意味のある形で経験される世界だ。
なぜ人は単純に、感覚器官から入ってくるものを経験しないのだろうか?それは、毎秒何百万ビットという、あまりにも多くのインプットがあるからだ。だから、感知するもののごく一部、すなわち、そのコンテクストで意味を成すものだけを経験する。
しかし、経験するデータが処理済みであること、そしてほんの少しの情報が示される前に、膨大な量の情報が捨てられていることが、なぜ私達には分からないのだろうか?
一つの可能性としてこう考えられる。この深さに達するには時間がかかるが、そんな時間が過ぎたことを知っても役に立たないからだ。その間になされる途方もない量の計算は、この世界における私達の行動に関係がない。私達は、〈結びつけ問題〉を解決してからでなくては全く何も経験できない。まず、音がどこから来ているかについての仮説を立てなくては、その音は聞こえないのだ。
ベンジャミン?リベットは、感覚器官から脳に繋がる特殊系の神経線維が、感覚の時間調整を許していることを実証した。非特殊系の神経線維が0.5秒の活動を起こし、その結果、経験されうるようになるまで、その感覚は経験されない。
こうして、例え感覚様相からの入力を脳の中で処理するのにかかる時間が同じでなくても、同一の対象からの刺激を受けた様々な感覚様相が送り込んでくる情報を、結びつけて経験することができる。もし、入力情報に同時性を持たせるために0.5秒がなかったら、リベットが言うように、私達は現実の認識に乱れを経験するだろう。
意識は、周囲の世界について、意味あるイメージを示さなくてはならないので「遅れる」。だが、示されるイメージは、まさにその周囲の世界のイメージであり、脳によってなされる素晴らしい仕事全てのイメージではない。
事は、感知、シミュレーション、経験の順に起こるのだが、シミュレーションについて知っても意味がないので、その階段は経験から外される。そして私達は、編集された感覚を未編集のものとして体験する。
意識とは、表層として体験される深さだ。
人はたまに、あるアイデアに出くわした途端、何故かは分からないが直感的に、自分にとってとても重要だと思えることがある。アイデア自体は既に登場していたのだが、ようやくそのアイデアが、リベットの実験に興味を抱いた私にとって決定的な意味を持つに至ったのは、それが世に出てから数年経ってからだった。だが、出会った瞬間に閃いたものがあった。
そのアイデアは、コンピュータ設計に由来している。〈利用者の錯覚=ユーザーイリュージョン〉と呼ばれる概念で、認識論のうえで相当の深さを持っており、先に述べた意識のイメージを非常にうまく象徴している。
ユーザーイリュージョンという概念は、著名なコンピュータ科学者アラン?ケイが書いた論文に登場した。ケイはゼロックス社のパロアルト研究所で働いていた。1970年代、ゼロックスには先見の明がなかったため、スモールトークのとてつもない潜在能力の実用化は、アップル社に譲ることになった。その結果でき上がったのがマッキントッシュのような機械、つまり、友達と一緒にお茶を飲みながらお喋りするような感覚で手軽にコミュニケーションができるコンピュータだ。
その根底にあるのは、コンピュータはプログラムしてやればどんなことでもこなせるのは勿論、愛想よく協力的に自己表現するべきだ、という考えだった。つまらない仕事をするべきなのはコンピュータであって、ユーザーではない。


続く
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続き




「私達は創り出した世界はもうない。そして、私達は新しい世界を創り出した。だが、人間がそれを理解する能力は、いまだに未発達のままである」認知科学者ロバート?オーンスタインと生物学者パウル?エルリヒは共著の『新しい世界、新しい精神』に書いている。二人の科学者は、私達は世界の知覚の仕方を変えなくてはならないと説く。「文明は何年何十年という歳月をかけて起きる変化に脅かされているが、何年何十年をかけて起きる変化は、私達には余りに緩やかすぎて、にわかには感知できない」
二人は言う「私達は旧来の心を新しいもので置き換えねばならない」。世界が直面する問題に適した方法で人々が世界を理解できるように導かねばならない。視覚的な錯覚や無意識の経験、「変化に適応する」すべを教えなければならない。なぜなら、「生命に不変なものは“変化”に他ならない」からだ。
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意識の役割



情報は予測不能性、無秩序、混乱、混沌、驚嘆、記述不能性、意外性、他者性の尺度であり、秩序はその反対の尺度である。
意識はさほど多くの情報を含んではおらず、自らを秩序あるものを見なす。情報を捨て去ることによって、周りの無秩序や混迷のいっさいを、現象の起源を示す単純で予測可能な法則に還元できることを誇っている。
文明は、私達の生活から取り除く社会体系や技術体系から成る。文明は、進むにつれ、意識が世界から退くのを可能にしていった。
こうして、世界の有り様を解釈したものが世界そのものであるという世界観が生まれた。その中では、地図は地形と同一視され、〈私〉は〈自分〉の存在を否定する。神の摂理という形以外の他者性はいっさい排除される。人は、他者性もまた良いと信じないことには生きていけない。
しかし、意識も平静の時代を迎えた。人とその意識について意識的な研究がなされ、人は意識を遥かにしのぐ存在であることが明らかになった。人は意識が知っているより遥かに多くを知覚したり行なったりしついることがわかった。私達は周囲の世界のシミュレーションを行い、それが世界そのものであるかのように経験し、信じているが、そのシミュレーションは、錯覚と還元の産物だ。それは、私達の外側の世界に満ちている予測不可能な他者性の大半を捨て去ることで得られる。系統だった錯覚と還元によってのみ可能となる。
意識ある〈私〉は、自分の周りにある世界を説明できないことを悟らねばならない。世界について私達が与えることのできる形式的で紛れのない記述では、その世界を余すところなく予測することはおろか、記述することさえおぼつかない。人間の意識のように狭い帯域幅の意識に取り込みうる、単純化された形式的記述では、私達の外側にある異質なものの豊かさを記述するには、決して十分でないのだ。
私達の内側、言わば意識を持ち歩く人間の中で起こる認知プロセスや心的プロセスは、意識が知ったり記述したりできるよりも遥かに豊かなものだ。私達の肉体は、口から入って反対の端から出ていく周りの世界との協力関係を持っているが、それが意識に上がることはない。肉体は、強大な生命系の一部であり、その生命系が、生命を帯びた惑星地球を全面的に形成し管理している。
意識ある〈私〉は、外なる世界も内なる世界も説明できない。従って、これらの二つの世界の間のつながりを説明することもかなわない。

1930年、クルト?ゲーデルは、形式的体系には限界があり、完全かつ無矛盾たりえないことを記述した。有限の記述では無限の世界を絶対に記述できないというのだ。
意識は、自分の内側と外側、いずれの世界も記述することはできない。内側にいる人間も、外側にある世界も、意識が知りうる以上に豊かなのだ。どちらも図に描いたり記述したりはできるが、余すところなく知ることはできない深みだ。そして、両者の間には意識の知りえない繋がりがある。内側と外側の深みは、二つ合わせて「ゲーデルの深み」と呼べるし、意識はゲーデルの深みに浮かんでいる、と言える。
ゲーデルの定理は、嘘つきのパラドックスの現代版を踏襲している。嘘つきのパラドックスは、意識が産声を上げた古代ギリシアで発見された。
意識は人間に嘘をつく能力を与えた。真実ではないことを述べる能力、言ったことと意味したこととの間にずれをもたせる能力を与えたのだ。
このパラドックスの現代版とも言えるゲーデルの定理は、ポーランド哲学者アルフレッド?タルスキーの手にかかると、ある命題が自らについてその真偽を証明することはできないという知識、というふうに定式化される。
従って、「私は嘘つきだ」という命題の特徴は、このパラドックスに名を残している「私」という言葉であり、話し手が自分の話に言及しているという事実だ。
この自己言及のせいで問題が起きる。肉体は嘘をつけない。肉体は帯域幅が広すぎて嘘をつけない。だが、〈私〉にはそれができる。いや、〈私〉にはそれしかできない。〈私〉はあたかも〈自分〉であるかのような顔をする。だが、事実は違う。〈私〉は〈自分〉であること、〈自分〉を支配していることのシミュレーションをする。しかし、〈私〉は〈自分〉の地図にすぎない。地図は嘘をつくことができる。地形にはできない。「私は嘘つきだ」は嘘つきのパラドックスではない。意識についての真実だ。

意識は、地球上の生物の進化によってもたらされた、素晴らしい産物だ。不断の自覚、大胆な解釈、活気をみなぎらせる手段だ。しかし意識は、世界を支配してはいないと認めることによって、そしてまた、世界の単純な法則や予測不可能の原理を理解しても、世界が一体どういうものなのか推測できないと認めることによって、今まさに平静を保とうとしている。
意識はそれほど古いものではないが、人の生活を支配するようになってからの数千年間に、私達の世界を変えてきた。その変化が余りにも大きかったため、自らを生み出したメカニズムの餌食になりつつある。意識は、自らの経験している世界シミュレーションが世界の本当の感覚であり、人が意識の上で経験しているものこそが、実際に知覚されているものであり、人が知覚しているものこそが世界そのものである、というふりをしている。
従って、意識は、それ自身にとって危険な存在になってしまった。自身がただの意識であり、本当の世界の有り様ではないと意識していないからだ。人間は周りに起こる急速な変化を感知して、それに気づくことができる。そもそも意識は、私達が周りで起きる特定の変化に気づくために発達したものだ。意識は急速な変化、明滅する明かり、既知の危険を見出そうとする。
しかし、意識が生み出した文明は、今や完全に新しい形の変化をもたらしつつある。それは、緩やかな変化、潜行性の変化、地球規模の変化、すなわち、種の絶滅と地球環境の劣化。環境危機によって私達がさらされている危険や難題は、人間の注意が自動的に向くようなものではない。人間も一つの種として、周囲の様々な事柄に気づくことを学んだが、そうした要素はもはや真の脅威ではなくなった。


続く
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