よろしくお願いします。
五木寛之の親鸞などの思想をもとに書かれている
本はもともと執着を離れる意味で
努力を重視しないという思想があるように感じるところが
ありました。
ただ、あくまで執着の害悪をといているだけで否定するものでは
ないのだろうなと思っていました。
ただ、最新の本に
『努力するのは自分が特別でありたいという心から(欲望的好意)
そもそも人の営みの中で努力はしてもしなくても変わらない
誤差のようなものだ』
と努力を否定するようにも取れる表現がありました。
もちろん、親鸞と言えば悪人正気説ぐらいは思いつきいますので
努力をするから救われるというものではないという事はわかります。
であれば、仏教は執着を生む根源として努力を否定しているので
しょうか?
五木さんが伝えたいのもそういう事なのでしょうか?
また、例えばそうだとすると、皆が全く努力をしないとすると
世はすさみ疫病と餓死の累々と死体が転がる世になるでしょう。
たしかに、執着と煩悩は消えるかもしれませんが、その世が
仏教が希求する世界なのでしょうか?
ご専門の方、体系的に理解されている方、どうしても抽象論に
なりがちですが、本質的なご教授をいただけたら幸いです
No.1
- 回答日時:
仏教といっても、それぞれが「信じる」基軸が異なれば、様々な解釈が可能な様ですね。
。。たとえば、原始仏典では
>>>スッタニパータ(ブッダのことば)、中村 元 訳(岩波文庫)
779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世もかの世も望まない。
<<<
とあり、今生や来世への執着を捨ててでも、努力しようとする姿勢が現れています。
仏教が「救うべき対象」としての概念が、大乗系での思索の流れで大きく変遷してきたことも影響していることでしょう。。。
たとえば、
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5265789.html
でのNo.1およびNo.2の私の回答を参照願います。
>>>>>>
さて「迦羅羅虫」(迦羅求羅虫、伽那久羅虫)を、仏典の成立経緯との関連から眺めると、非常に面白い虫であることが判ります。
1.おなじ「大般涅槃経」でも、原始仏典系から大乗系のものまである。
>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83% …
阿含経典類から大乗経典まで数種ある。略称『涅槃経』。大乗の涅槃経 は、初期の涅槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なるので、相互を混同してはならない。
<<<
2.大乗の「大般涅槃経」では、(一度、排除した)小乗系をも取り込もうとしている。
>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83% …
作成意図 [編集]
上記のように、涅槃経はそれまでの大乗経典を参照として、それらの教説の食い違いや矛盾をこの涅槃経をもって帰結させるという目標のもと成立した経典といえる。
仏滅後の小乗と大乗(声聞・縁覚・菩薩の三乗)の差別的な概念が成立した流れを踏まえ、法華では一乗平等を目標とし示したが、いまだ論理的な説明が成しえなかった。涅槃経は法華経で説明されなかったそれらの教説を極めて明瞭に説明し、すべての教説を融和させようとしたものである。
<<<
wikiにて記述されている大乗系涅槃経の訳本の内の2に
>>>
『大般涅槃経』40巻〔北本、また大本ともいう〕(421)、曇無讖(どんむしん)訳)
<<<
とあり、No.1で引用した涅槃経の巻数に一致します。
すなわち、大乗系の涅槃経内に『迦羅羅虫の必ず母の腹を壊りて、然る後生ずるが如し』の文が含まれ、かつ、「父親を殺して良心の呵責に苦しむアジャセ王を」慰めるために使われているのは、まさに、「排除すべきもの」として捉えられている人々をも包み込もうとする意図なくしてはなりたたない文章だと思われます。
このような思想が、浄土系の思想内部で変化するのに合わせ、No.1にて引用したところの曇鸞の「浄土論註」内にて、虫自体も「裂くもの」から「包み込むもの」へと変遷したのかも知れません。
<<<<<<
さらに、仏教は、解釈を誤ると、虚無主義へと変容することでしょう。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html
No.2
- 回答日時:
仏教は努力精進の勧めですから、努力精進を取り除けば仏教にはなりませんね。
生まれて来る事自体が努力精進であるということですから、努力精進がなければ生まれて来る事自体無いことでしょう。
生まれて気がつくと大変な世界なので「お助けください」と日々お祈りしてすごしましたという宗教は仏教では異端ですね。キリスト教ではあるかもしれませんが仏教の本道ではないですね。
そういう観点では浄土やお題目は仏教では異端であるということがわかりますね。
『努力するのは自分が特別でありたいという心から(欲望的好意)そもそも人の営みの中で努力はしてもしなくても変わらない誤差のようなものだ』
に関しては思慮が浅い言葉としかいいようがないですね。
質問者のご指摘が正しいということです。
仏教的には「努力精進しなさい。自身を高める努力は買ってでもしなさい。ただそこで得たものは死んでもっていけるものではないので同時に捨てる努力もしなさい。」というのが本道ですね。この中で努力で得るものと捨てるものがあるという自己矛盾のバランスを取っていくことが理解できないことがおおいですね。どちらか一方ではないことが難しい点で誤解されやすいのですね。多くの過去の宗教家も難しいので一面を強調したがるのですがそれが行き過ぎると仏教では異端になるのですが、仏教には異端裁判はないので何でも仏教になってしまっているということです。
つまり仏教はキリスト教でもイスラム教でもなく、努力精進を勧めるのが仏教の特徴ですね。「努力精進しなくて良い。」といって仏教を名乗るなかれですね。
釈迦は弟子にわが背中をみよ。わが精進する姿をみて精進せよ。といって精進の大切さをわざわざ弟子に見せていますからね。ぽっと出て「我は神だとか神の使徒だ、信ぜよ。信じれば救われる。」などといって弟子を集めてはないのですね。実際に神以上の存在であるにもかかわらずそのように教化しているのですね。そのことを忘れてはね。
ご回答ありがとうございます。
「努力精進しなさい。自身を高める努力は買ってでもしなさい。
ただそこで得たものは死んでもっていけるものではないので同時に捨てる努力もしなさい。」
こういう事なんですね。一面だけを強調してバランスを
失った論だということですね。
仏教は難しいですね。
大河の中で翻弄される木の葉のような存在である人間
ただ、そこに精進を求める。その努力は何かを変えるものではないし
死して持って帰れるものではないのに。
No.3
- 回答日時:
あまり時間が取れないので、そっけない回答になりますが、とりあえず疑問を解消するヒントになればと思います。
人間の欲望も、いろいろ。
神や仏の立場で見るところの人間の好ましい欲望といえば、道徳的により良い人間になりたいと言ったような向上心。また、神や仏の世界に近づきたいと言ったような信仰心。そして、悪魔とか煩悩と表現されるような世界の、自身に執着する肉我的欲望。
質問文を読んだだけでの感想ですが、五木寛之さんの言うところの欲望は、肉我的欲望を念頭に置いての事かと思いますが。
ご回答ありがとうございます。
立身出世についての否定でした。
確かに、出世したい、事業に成功したい、自分に力をつけたい!
などは我欲のきわみ、煩悩まみれなので、、それを手放さないと
って言われると反論できません。
ただ、それを否定するとニートこそが求道者になってしまい
それってどうなの?とおもって今回質問させていただいた次第です。
No.4
- 回答日時:
>>> No.1 お礼欄
虚無主義と努力精進。
この二つが仏教の中でどのように
折り合いをつけているのでしょうか?
<<<
>>> No.3 お礼欄
立身出世についての否定でした。
確かに、出世したい、事業に成功したい、自分に力をつけたい!
などは我欲のきわみ、煩悩まみれなので、、それを手放さないと
って言われると反論できません。
ただ、それを否定するとニートこそが求道者になってしまい
それってどうなの?とおもって今回質問させていただいた次第です。
<<<
仏教が成立した時代背景に、カースト制度と輪廻転生があったようです。
これら両者に縛られていた人々にこそ、仏教は福音だったことでしょう。
たとえば、
>---
ニートという身分が固定化され、生まれてくる子もニートとなる。前世の業が元でそのような生まれになる。現世でニートだったとしても、努力精進によって来世では、ニートから脱出できるかも知れない。
---<
といったことが当然のごとく受け入れられていた(ブッダが生きていた)時代・世界では、下記のごとく、非常に卓越した思想であったことには違いないでしょう。
>>> 浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)仏教青年 Q & A 魂という概念 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html
仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
---<
「諸関係の束」とは、「因果で編まれた関連性の中に生きている存在」といった概念に相当するとしていいでしょう。
その「関連性に輪廻転生を織り込んでは考えない・考えるべきではない」という主旨と解して間違いではないと思います。
ただし、「何のために生きている・努力している」という概念について、どういった視点で捉えるのか?
は、まさに、「諸関係」をどの程度として捉えるのか?に関連することでしょう。
たとえば、
>>> 浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)仏教青年 Q & A 魂という概念 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html
僕は、さっきも言ったように、そのころは、そんなこと(死や死後のこと)ばかり考えていて、いろんな本を読みましたよ。丹波哲郎から、つのだじろうまで読んだ(笑)。あの「幸福の科学」の前身の本も読みましたよ。だから、霊界とかそういうことには詳しかったのです。そのころ、アメリカで仕事もせずぶらぶらして、(中略)それからまもなく、エドワード・サイード(学者・批評家)という人と会ったんです。
僕は、そのとき自分の関心から抜けられないから、あなたは死についてどう思うかって馬鹿な質問をしたわけです。彼はパレスチナ人だから、何かあるのではないか、と僕は思って。しかし、彼は、自分は宗教、一切の神秘主義を否定する、自分にとって死というのは、残った家族をどうするかという問題である、と言った。なぜならば、自分はイスラエル右翼のヒットリストに載っているからだ、と。
そのとき、僕は目が覚めたような気がしましたね。ああ、そうだった、と。僕の妄想は、単なるナルシシズムにすぎない、と思った。
(柄谷行人×日野啓三「死について」、柄谷行人『ダイアローグV』第三文明社)
<<<
ようするに、自身が関心を持っているもの(意識しているもの)との関連性のみを考えてしまうものですが、そうではない。通常でも「はっと気づく」程度の範疇でも、他者や外部との関連性を持っているわけです。そういった関連性へと目を向けるとき、意識の程度で「固定化」されたり「片方向のみが重要視」されたりしているわけです。
「生きている」という事実を中心に捉えたとき、それら諸関係の束に自身の中心があるわけですから、偏った関連性の捉え方や、固定観念化した関連性の捉え方に「とらわれる」ことを排除するというのが、仏教的な思索の本質になろうかと思っています。
逆に、仏教というものを、それら諸関係からの現実的な開放をも説いているかのごとく錯覚してしまうと、(そういった関連性の本質を見極めるために行ったであろう)出家を通り越して、極端な場合には(生きているということをも否定してしまう)虚無思想へと雪崩落ちていくかもしれません。
時代背景が異なる以上、仏典などで語られている事柄は、参考となる思索(哲学的概念)として捉え、他人の言動にとらわれることなく、自身の思うところを見つめて、どうするか?を考えるというのが本質だろうと思っています。
No.5
- 回答日時:
追伸
仏教は「欲」を否定しているわけではないですよ。「食欲、色欲、名誉欲、・・」これ全部なくしたら死体ですからね。
断食して即身仏になるばかな坊主もいますが要は死体でしょ。死んでも餓鬼地獄にしかいきませんよ。
こんなばかな坊主よりはニート坊は生き抜いてるから良いほうですね。
仏教は「欲」を管理しなさいといっているだけですね。欲も行き過ぎると身を滅ぼしますからね。肉体から生まれる欲を心で管理しなさいといってるのですね。例えれば肉体はいろんな種類の自動車、それを運転する運転手が心といったとこですね。運転手がハンドルの手を離すと自動車は暴走するからね。
社員が出世欲で社長になった。いいことなんですよ。なぜなら社長になれば数百,数千の家族の生活が肩にのしかかるのですから自我欲のままでは生きられないですよ。また多くの家族の生活を守るということはよいことなんですよ。また、社長を下りればただの老人ですからね。その現実に直面しますから大いなる学びはあるのですね。
ニートよりは社長になったほうがより多くの経験がつめるので良いということですね。努力精進の勧めとはより多くの経験を積めということでもあるのですね。そこで欲との付き合い方も極端はだめ、中道を心がけなさいというのが中道の教えですね。中道だから課長でいいと言ってるのではないですよ。あくまでも欲は際限ないからいつも自身の各位置での中道を確認せよという意味ですね。
なんにせよ仏教は高等哲学で二重否定論理を駆使してますから単純な解釈では外道(仏道を外すという意味)になってしまうのですね。山の尾根を歩くようなものですから難しいといえば難しいですね。どちらの谷へでも簡単に転がり落ちるのですね。転がり落ちても念仏やお題目、アーメンの救いはあるということでしょうかね。でもそれは仏教の尾根ではないことは知っておかないとね。
最澄が中国天台の教えががわからず谷底ですから、弟子筋の親鸞も日蓮も尾根にいられず谷底で仕事したのでしょう。五木さんもその流れですからわからないのは極自然なのかもしれませんね。
ご回答ありがとうございました。
>>仏教は高等哲学で二重否定論理を駆使してますから
>>単純な解釈では外道(仏道を外すという意味)になってしまうのですね
ようやく得心し、少し仏法がわかったような気がします。
>>五木さんもその流れですからわからないのは極自然なのかもしれませんね。
確かに反論はできないけど、五木さんの意見は極端だなーという
と自分は感じていたという事も今回始めて気づきました。
ありがとうございました、
No.6
- 回答日時:
私は五木寛之さんではないので五木寛之さんのお考えは知りません。
知りませんが、五木寛之さんに限らず人間は誰もが全ての著作で一貫して整合性のあることは言ったりはしないと思います。全ては文脈次第でしょう。
ですから文脈が分からないとなんとも言いにくいと思います。
たとえば、親が先ず子供に法律違反なことはしないようにしなさいと言ったとします。その文脈では、そのときにには、誰が聞いても特におかしくない発言であるとします。その後、その子供が何らかの理由で犯罪をおかしてしまい刑務所に入っているときに、同じ親が面会に行ったとして、同じ人間なのだから終始一貫、整合性をもって、犯罪を犯したことを非難せよ、叱責せよ…とは、なりません。整合性は全くありませんが、「いやあお前のおかげで刑務所の中が見学できたよぉ、まあ、哲学書でも読んで勉強したら良いよ」くらいのことを言っても、決しておかしくないと思いますね。
同様に、五木寛之さんが、努力一般を、抽象的、普遍的に一貫して否定して、戦後、満州から引き上げてくるときもその後も、努力しないで来ているとは、思えません。働かない(小説とか本を書かない)とか、していないと思います。
そのことは、五木寛之さんがうそつきだということにもならないでしょう。
たとえば、人間には、努力ではなんともしがたいこともある、そういう自分の限界を知るということも大事だったりするかもしれない…というだけのことではないでしょうか?だけと言いますが、人間には我執があるわけで、自分の限界を知るというのは理屈では言えても、実行は難しい、もしかすると不可能かも知れませんね。でも不可能と知っても、人間には、努力ではなんともしがたいこともある、そういう自分の限界を知るということも大事と言ってはいけないとか、間違いとか、うそにはならないですよね。
たとえば、自分の親が寿命を全うして、老衰で亡くなったというときでも、子供は皆、ちょっと鬱になるのが普通でしょう。それは、人の死を自分のせいだ、つまり、自分は他人の死を支配できると無意識に信じているからと考えられますから、考えようによっては傲慢なことです。しかし、人は皆そのような幻想、自分の思うとおりになるという幻想、全能感を多かれ少なかれ持っているものでしょう(健康な自己愛)。
何か思うような結果が得られないとき、人間は自分の能力に限界があることは認めずに、周囲が悪い、環境が悪い、あれこれ別のことで忙しかったからだ…という屁理屈をつけて自我を防衛するのが普通です。それは悪くありませんというか業というか、もう人が人である病で、治りません。(程度問題で完全治癒は無理)。
けれども、自分の親が死んでしまったのは、自分が子供のときに親なんていなければ良いのだと思った念力で死んだというような幻想を持っていしまうのは自分にとってとても辛いことです。自我の防衛機制がバックファイアしてしまっています。ですから、そういう文脈では、必ずしもなんでも思うようにならない、努力が報われるとは限らないと思ったほうが苦は減少するとは言えないでしょうか?
最後に仏教哲学と言ってしまうとあまりに広くなりすぎ、話が発散しすぎになると思いましたので、その点には触れないことにします。そもそも仏教哲学って何?という定義があいまいすぎると思います。
No.7
- 回答日時:
神経症と云うものを交えてお話をすると分かりやすいと思います。
神経症とは「自我意識」と本人の「命そのものを働かせている意識」とが噛み合わなくなってしまうと言うものです。言い方を替えたなら人間の「心の矛盾」が生み出した妄想=症状となっています。これは自我意識が上がらないようにした時に上がってしまって、また上がるのではないかと恐怖してしまう事です。
或いは自我意識が書こうとして書く事を意識をした場合に、書こうと言う意識が先に立ってしまって、書く事が出来なくなってしまう事です。
つまり神経症とは自我意識が単独で(自我意識)のみで全てに対応しようとしている現象の事です。是は意識性が強い事によって引き起こされている現象の事です、或いは言葉を替えたなら「心の使い方を誤ってしまった現象」と云う言い方も出来ます。
大勢の前で「意識をしてしまって」上がらないようにしている状態の時にますます上がってしまってにっちもさっちもゆかなくなった状態の事です。
この反対がオリンピックで優勝を果たした体操の選手や、スケートの選手と云えば分かり易いと思います。この場合には「意識」が出ている暇は有りません。言い方を替えたなら「自我意識」が出ないようにした方が有利になります。
自我意識が出ない時には「無意識の意識が」体を支配しています。
他力本願は自分の計らいを「阿弥陀様」が救ってくれると説きます。自分の計らいは全てが(無駄となるから)計らいを否定した方が良いという教えです。その否定したところを「阿弥陀様」が救いの手を差し伸べて呉れると言う事になっています。
自力本願では自分を忘れて仏になれと言う言い方をします。
そのどちらにも言える事が在ります。自我意識の計らいを忘れなさいと言う事です。その計らいを忘れた処から「全ての救いが始まる」と云う教えになっています。自我意識の計らいを捨ててしまって、もう一つの意識に全てを任せなさいという事になっています。
もう一つの意識とは仏性と云う事になります。是は自力本願の時です。
他力本願では阿弥陀様が救ってくださると言う事になります。
自我意識が本当に困ってしまって、自分を捨てた時にもう一つの意識が顔を出します。是が命そのものの働きの意思=仏性と云う事になります。
自我意識が自分自身のもう一つの意識(人格)と出会うと言う事が仏教の根本になっています。この事で「心の矛盾が」解消されます。是は「神に会って和解した」と云う事になります。二度と心が騒がなくなる、言い方を替えたなら、自我意識を罪悪感や不安や恐怖感等で圧迫をしていた者の正体が分かったと言う事になります。
この経験以後心には矛盾が無くなります。この静寂な心持の事を「涅槃」と名を付けたものと思います。二度と「自分の心の中では、心と心が争わなくなる」と云う意味です。精心疾患、神経症、自律神経失調症等は「心の矛盾」の名を替えた障害です。
ご回答ありがとうございます。
オリンピックの本番では他力本願でいたほうが良い結果がでる
事は理解できます。
ただ、オリンピックの舞台に立つためには自我意識で自分を何度も
律する、端的に言えば『克己』が必要に思えます。
克己こそ努力そのものだと思うのですが
その克己と他力本願とのバランスをどう仏法ではといているので
しょうか?
他の方のお礼にも書きましたが
五木さんは
『筆不精の人は仕方ないので礼状も書かなくて良い』(生きるヒント1)
と書かれています。
私はそこは大げさですが克己して書くべきなのでは??
と疑問に感じます。
ただ、五木さんは親鸞の考えでは、、、と上記のように述べられます。
その努力の完全なる否定、完全に人間など大河に翻弄される葉みたいな
もの、、所詮努力など誤差、という考えが少し理解できないのです。
仏法は本当にそう教えているのか、五木さんの真意はなにか?と
考えてしまうわけです
No.8
- 回答日時:
> ちょっと難しくて理解が大変ですが
多分、五木寛之さんは、いわゆる「」つきの、定冠詞つきの、超歴史的、歴史貫通的な、一般的、普遍的、なものとして語られている、人間の本質なるものは、実際には関係から自立した実体としてあるわけではなくて、それは抽象に過ぎず、哲学者の頭の中にしかないのであって、現実にはどこにも存在せず、実際に歴史上あって、人間の本質と間違ってみなされているのは、実際のところは、もろもろのあれやこれやの具体的な諸関係(関係には「諸」を前につける必要があります。これは、もともとの原語では複数形だということを表します。)のアンサンブルである…というようなことは、どこにも言っていないと、私は思います。私が不勉強で、知らないだけかも知れませんが…。
いわゆる人間の本質なるものは実際には諸関係のアンサンブルである…というテクストを文脈から切り離して抽象的に考えると確かに難しくて分かりません。それは単に文脈から切り離してしまっているからです。このテクストに意味が生じるのは、あくまでも、階級闘争なくして階級なしという文脈においてでしょう。あらかじめ資本家階級と労働者階級が別個にあって、しかる後に、資本家階級と労働者階級が後から階級闘争に入ると考えるのは間違いだ…という文脈です。そうではなくて、先ず階級闘争という関係が(歴史的に、時間的にというよりも、論理的な順序として)先にあるから、その関係の中で、関係において、資本家階級は資本家階級であり、労働者階級は労働者階級だ…という意味になります。
黒人Aは黒人Aそのものとしては(←つまり関係から人間の抽象力によって切り離されたものとしては)、奴隷ではない。黒人Aは、奴隷主Bとのかんけいの中で、関係において、奴隷である
という言い方もしますね。
たとえば、ある異性がすばらしく魅力的なのは、というか世界で一番すばらしいのは、あなたとの恋愛関係の中で、です。あなたとその異性との関係から抽象力で切り離して、その異性を火星に置いた場合には、その異性が魅力的かどうかを言うことができません。魅力的かどうかは誰にも分かりません。その異性が魅力的でないともいえません。あなたとその異性との関係の中では、世界で一番魅力的であると断言してかまいません。何ら間違いではないです。
五木寛之さんは、多分、書かれたテクストのどこでも、上記のことは言っておらず、その意味では、無関係とは思います。
たびたびご回答ありがとうございます。
今回読んだ本は
『人間の運命』という本で
本書のテーマは
運命とは何か運命は変えられるのか。
『大河の一滴』から11年―。いま五木寛之が到達した、
究極の人間論!親鸞のことばの真実の意味がここによみがえる
というもので、五木さんの本でありながら、五木さんが親鸞の言葉を
解説するという本でした。
そして努力とは、、という章で
自己啓発だ、自分を高めるだ、なんだ最近流行っているが
努力なんて人間の運命では誤差のようなもので、運命を変えるもので
はない。努力なんて自分は人と違うんだと思いたい自己愛なだけだ
という趣旨の話が書いてあり、
努力に関する短い章で述べられているので文脈の影響は少ないように
感じます。
で、私として最近、仏教をはじめキリスト教の聖書なども高度な哲学書
だなとようやくわかってきた段階の人間ですので仏法では努力を
はたしてどのように捉えているのだろうと思って質問をさせて
いただきました。
今回の本だけでなく大河の一滴、生きるヒントなどでも、
できない事はできないのでから良いのではないか?
という主張が五木さんのテーマのように感じます。
例えば、生きるヒントでは
筆不精な人は、大切な礼状は書けないのだから、書かなくても仕方ない
という記述があります。
でも、やはり私はそこは努力すべきでは?と感じるのです。
で、他の方が仏教の二面性の一面を突き詰めるケースがあるとご指摘
されましたが、そこでやはり私は得心いく気がします。
No.9
- 回答日時:
No.1 & No.4です
>>>No.8 お礼欄
そして努力とは、、という章で
自己啓発だ、自分を高めるだ、なんだ最近流行っているが
努力なんて人間の運命では誤差のようなもので、運命を変えるもので
はない。努力なんて自分は人と違うんだと思いたい自己愛なだけだ
という趣旨の話が書いてあり、
(中略)
今回の本だけでなく大河の一滴、生きるヒントなどでも、
できない事はできないのでから良いのではないか?
という主張が五木さんのテーマのように感じます。
例えば、生きるヒントでは
筆不精な人は、大切な礼状は書けないのだから、書かなくても仕方ない
という記述があります。
でも、やはり私はそこは努力すべきでは?と感じるのです。
で、他の方が仏教の二面性の一面を突き詰めるケースがあるとご指摘
されましたが、そこでやはり私は得心いく気がします。
<<<
仏教における(運命観を含めた)因果概念の取り扱いと、努力概念の取り扱いについての態度(本質)は、私を含め、多くの方が指摘しておられるところです。
問題となるのは、そういった受動的態度と能動的態度を、どういったときにどういったバランス感覚で取り扱えるのか?といったことになろうかと思われます。
科学的側面からの説明可能性として「受動意識仮説」というものがありますが、そういった観点から自身を理解しようとして、納得する方もおられるわけです。
「意識」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98
>>> ヒトとロボットの心の研究,「意識」は受動的だろうか?,慶應義塾大学理工学部 前野 隆司 http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/conscious …
筆者は次のような新しい「意識」の見方を提案する。『人の「意識」とは,心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて,人の心の「無意識」の部分がやったことを,錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。自分で決断したと思っていた充実した意思決定も,自然の美しさや幸せを実感するかけがえのない「意識」の働きも,みんなあとで感じている錯覚に過ぎない。そしてその目的は,エピソードを記憶するためである。』「意識」は「無意識」のあとにやってくるというこの仮説は,なんだか突飛でショッキングに思えるけれども,考えてみれば天動説と地動説の関係に似ている。昔の人は,地球が太陽のまわりを回っているという事実をはじめは信じられなかった。地球は世界の中心だと思いたかった。でも,実は,地球は小さな惑星のひとつに過ぎなかった。これと同じだ。意識は自分の中心だと思いたいけれども,実は小さな脇役に過ぎないのだ。そして,そう考えれば心の謎を簡単に説明できるだけでなく,ロボットの心も簡単に作れるのだ。
<<<
しかしながら、「わたし・こころ」というものの本質が、チャマーズのいうところの「ハードプロブレム」という概念にかかわっているのであれば、「受動性」のみを重要視しようと「努力する」こと自体、本来的な行動ではないということは、明らかでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC% …
このことは、量子力学での解釈問題(いわゆる多世界解釈を採択するかどうか)とも関連する事項になるでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E4%B8%96% …
>>>
有名なシュレーディンガーの猫について一般的な解釈(コペンハーゲン解釈)とエヴェレットの多世界解釈の両方を示す。
一般的な解釈
シュレーディンガーの猫は観測者が観測するまで(観測者にとって)、「生きている猫」と「死んでいる猫」の重ね合わせの状態にある。観測者が観測する過程で(観測者にとって)、猫の状態はどちらか一方に定まる。これがいわゆる波動関数の収束である。
多世界解釈
シュレーディンガーの猫のいる世界は、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」に分かれる。当然、「猫が生きている世界」にいった観測者は猫が生きていると観測し、「猫が死んでいる世界」にいった観測者は猫が死んでいると観測する。もちろん、観測者は、猫を観測するまで自分がどちらの世界にいたのか知ることは出来ない。
<<<
どちらの解釈を選択するのか?といった問題ではなく、「そのような概念のいずれかを選択せざるを得ない」と(知的に)錯覚しているということ自体が問題になるでしょう。
人が本質的に「能動性・受動性」の両方を有している限り、その両者のバランスの狭間に活路を見出そうとすることは、本来「努力」せずとも、ごく自然な態度だと思います。
しかしながら、仏教(および科学・宗教を含めての広義の)哲学を「知的に考えすぎる」と「能動・受動」のバランスをとることに「努力」が必要だというジレンマに陥ってしまうことも当然のことだろうと推察できます。
書かれている言葉は、書き手(この場合「五木寛之」氏)の立場・思索というフィルターを介しているということを、常に念頭に置きながら、読み込む以外に手立ては無いと思われます。
No.10
- 回答日時:
> 今回の本だけでなく大河の一滴、生きるヒントなどでも、
> できない事はできないのでから良いのではないか?
> という主張が五木さんのテーマのように感じます。
確かにできないことはできないですね(^o^;)。
ただいかなる場面でも、どんな文脈でも、一般論として、普遍的に、なにがなんでも努力するな…とは、おそらく言ってはいないのではないかと想像します。
また、別に、仏教と考えなくても良いと思います…。少なくとも仏教一般(そういうものがあるとして、まあ、ないと思いますが)と考えなくても良いのではないでしょうか。
動物の欠如、欲求と、人間の欲望というものを、とりあえず、抽象的にはなりますが、区別して考えることもできるのではないでしょうか。
動物はお腹がすいた→食べて充足で終わりと抽象的に想像することも可能ですね。(本当かと言われると、人間と動物をそもそも区別して論を進めており、そもそもの論のはじめから人間と動物は違うと仮定して話していますから、本当に動物の身になることはできない道理になるのでわかりませんが…。なので「考えることもできる」という言い方を一般にします。)
それに対して、人間独自の、動物にはない欲望とはどんなものだろうと考えてみると、それは他の人間に認められたいという欲望である…と誰もが考えるでしょう。
尊敬されたい、畏怖されたい、愛されたいなどなど。他人との比較になりますね。競争ないし闘争。そういうことを五木寛之さんは「努力」と五木寛之さんの文脈では言っているということがありえますね。
他人と比較して私は偉いという気持ちがよーーーく考えるとどこかに入っているような努力。人から頭いいねぇと言われたいという気持ちがどこかにあって、私もこの投稿をしているかもしれないわけです。実際には、まあ、いちいちそんなに深く反省して行動してませんが(^o^;)。けれども、そう考えてみたら、人間が努力することの、かなりの部分が、どこかで、私は偉いと他人から認められたいという、結局、完全に満足はしえないことのための努力ではないかと、そう考えられないこともないですね。もちろん、そういう動機があったとしても、結果、他人を幸せにする努力というのはありえますし、人間の全てのすばらしさはそこからやってきている…と考えてもおかしくはありません。
ただし、どこに注目するか、文脈というのはあるわけで、おそらく、五木寛之さんは努力の人なんでしょう。満州から引き上げてくるときから努力し続けている。けれども反省として、そういう努力は、傲慢になってしまうこともありえるし、はた迷惑なこともありえる、疲れてしまうこともある…程度の、バランス感覚を説いているとは考えられないでしょうか?
必ずしもいつでもつねに努力することが良いとは限らない…程度の話ではないでしょうか。
「努力」という日本語が書いてあった、そのときに、文脈から切り離して、「努力」という日本語の意味は、これこれだろうとは決め付けられず、どういう文脈で言っているのかによると思います。
あくまでも五木寛之さんのテクストの中でだけ意味があるわけで、それを、日本大乗仏教は仏教じゃないとか、上座部仏教は正しいが、鎌倉新仏教はだめとか、大風呂敷を広げる必要はないように思います。
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