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私は人を傷つけたり悪い事をしたりすると自分にバチが当たるという考えでいます。
でも私の知人で人を傷つけても平気で幸せそうに生きてる人がいます。

1人は男性でずっと特定の女性と数年不倫していて、
奥さんにバレても謝罪もせず、
男性と不倫相手の女性とのそれぞれの手紙を見ても、
それでも奥さんはその男性を深く愛し続けていて、不倫発覚後も奥さんから大切にされ変わらぬ愛情を注いでもらっています。
どうして人の心を傷つけているのにここまで幸せに人生を送れるのか不思議でなりません。

もう1人は女性で、自分がいつも注目されていたいがために
影で根も葉もない事をいいふらし意地悪をしている女性がいます。
その人も何のバチも当たらず幸せそうに何不自由なく暮らしています。

この人達を見ていると、私の人を傷つけるとバチが当たるという考えが古臭いというか因果応報なんてないんだろうか?と思えてきます。

人を傷つけてもノウノウと生活している人は強運なのでしょうか?
いつかバチが当たるから人を傷つけないようにしよう・・という私の考えが古いのでしょうか?

A 回答 (8件)

私もバチは当たるもんだ、と考えてます。


だって、そう考えないとやってられませんよね。
バチが当たるって考えは、人間が周りに迷惑をかけずまっすぐに
生きるための戒めとしての働きもあると思いますし。

でも、質問者さんは今現在だけを見て判断されてますよね。
その人の人生、終わるまでを見て判断しなくては。
今は良くても、その内病気になったり、会社をクビになったり、
奥さんが出ていったり。
何が起こるかわかりません。
それは質問者さんにも言える事ではありますが。

誰だって、人生の中でいいこともあれば悪いこともある。
その回数や大小の違いがあるだけで、みんな状況は同じです。
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科学の法則ならば、万人共通にあてはまります。


重力に反して空に浮かぶことのできる人間は一人としていません。
しかし、「因果応報」のようなものは科学の法則ではありません。
個人のものの見方、つまり宗教にも通じるようなものです。

宗教的ともいえる信念の内容は、個人によって全く異なります。
例えば、神の存在を信じる人もいれば、絶対の無神教の人もいるのです。
そのようなとき、一体何が正しいと言えるのでしょうか?
それぞれの人にとって「自分自身が深く信じる考え」が一番正しいはずです。
答えが一つに定まらず、何とでも言いようのある事柄については特にです。
「正しいか?間違っているか?」の答えは、人の心が決めるものなのです。

「因果応報のある・なし」も、はっきりとした答えのないことで、
言いようによって何とでも言えそうなことに、ほぼ間違いありません。
「人間万事塞翁が馬」といいますが、長く生きれば幸・不幸を繰り返します。
また、他人に与える幸・不幸もいろいろとあるでしょう。
あることと、別のことに因果関係があると言えば、あるのだといえ、
それら同士は関係がなく、たまたま起こったのだと言えば、そう言えます。
「ある」という人にはあり、「ない」という人にはないと言えるのです。

そもそも、「幸・不幸」や、「良い行い・悪い行い」というのも、
個人個人の見方次第で決まるもので、絶対的なものではありません。
自分の捉え方次第で、物事の良い悪いは変わります。
例えば、自分が誰かに嫌な思いをさせられたとします。それでも、
そこから教訓が得られれば、自分にとってプラスの経験になるでしょう。
もしかしたら、相手は教訓を与えるためにそうしたのかもしれません。
その相手が、その後事故に合い不幸になったとして、
それが天罰なのか、偶然なのか、解釈次第で何とでも言えることでしょう。

それぞれの人は自分独自の信念に従い、自分の世界を解釈しているのです。
「自分にとっては、自分の信じていることが最も確かである」
ということが言えます。

つまり、因果応報を信じておられる質問者さんにとっては、
おおむね、人生に因果応報の法則は働くのだと言えましょう。
実際は、因果があったりなかったりというのが本当のところであっても、
因果応報のありそうなケースに特に大きく注目し、反面、他を見過ごし、
また、なるべく因果応報に結び付けるような解釈をしがちであるはずなので、
経験を重ねるにつれ、益々その信念を深めていくことになることしょう。
(但し、このたびのように、自分自身の信念を改めて問い直し、
信念を修正したり、ま強化したりする機会を持つこともあるでしょう)

きっと、「バチの当たらない人たち」は、因果応報を信じておらず、
「自分の好き勝手にすれば幸せになれる」と強く信じているのかもしれません。
他人に迷惑をかけていたとしても何の自覚もなく、
むしろ良いことをしたと思っているのかもしれません。
しかし、あまりに羽目をはずし過ぎ、いつか誰かに罰を喰らうかもしれません。
でも、ずっと何も大きな不幸はなく、楽しくおかしく過ごすかもしれません。
また、偶然食べたフグに当たって死ぬかもしれません。
それを罰だとも言えば言えます。違うと言えば、そうも言えるでしょう。

直接の因果関係のないことに関しては、人の解釈・見方が答えを出します。
もしそうならば、常に自分にとって最善のものの見方や信念を持つように心がけ、
それらによって、自分の世界や人生をうまくいくように解釈してきたいものですね。
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「誰にとっても『因果応報』がある」というものではないと思います。



人を傷つけまくり、悪事の限りを尽くしても、本人が悪いとは思っていない場合などは、幸せな一生を送ることも大いにあり得ます。
何故、「因果応報がある(あった)」と、人が思うかと言えば、それは「後ろめたい気持があるから」「罪の意識があるから」なんですよ。

例えば、占いで「今日はケガに注意」なんて出たとします。
そうすると、気にする人は「ケガしちゃいけない、いけない」と思うあまり、緊張しすぎてケガをしてしまいがちです。
全然気にしない人は、ケガしません。そもそも、「気をつけなきゃ」なんて考えもしないでしょう。
そういうことです。

天(神)が見ているのではなく、「自分が」見ているのです。
意識・無意識にかかわらず。

ですから、その人に罪の意識がなければ、因果応報などというものはありません。
どんなに悪いことをしても、本人がそれを罪と思っていなければ、幸せな一生を送り、幸せな死を迎えるでしょう。

でも、「因果応報があるのだから、努めて善根を施そう」と考えるのは立派なことです。
私は、そうありたいと思っています。
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 はたして、この世の中に「自分は正しくない」と思っている人がいるでしょうか?。

不倫しているその人は、「自分には幸せになる権利がある」と思ってるのでしょう。意地悪に見えるその人は、「あの人は根性が悪いから、これくらいのバチが当たってしかるべきだ」とでも思っているのでしょう。理由はどうか判りませんが、「自分は間違ってる」という自覚100%のひとはいない筈です。何らかの‘正当性’を主張できる理由があって、そう行動しているはずです。
 あなたは、『私はこんなにも(言いたいことも言えず)我慢しているのに、あの人たちは、どうしてあんなわがままが許されると思うのか』と怒りを感じているのです。
 逆にお尋ねしたい。なぜ、あなたはわがままに振舞わないのですか?と。人のご機嫌をうかがい、自分を犠牲にし、他人も自分と同じように自分を犠牲にして我慢すべきだ、という感じ方があるのではないでしょうか。そういう怒りを正当化するために「因果応報‐バチあたり」理論を持ちだしているのではないでしょうか。
 “自分は正しい”と思うのは構いません。自己肯定感が無ければ、生きていけません。しかし、本当のところは、「人間には、自分は正しいと思いたい欲求が常にある」という点だけが真実で、何が正しいかは人によって見方が違うのです。
 この「因果応報‐バチあたり」理論というのは、「自分は正しい」と思いたがっている人が良く使う、安直な自己肯定論法であると、僕はにらんでいます。世の中はもっと複雑で、人が何を考えているかは、外からは想像もできないのです。事情も知らないのに、「あの人はあんな人」と決めつけてしまう傲慢さこそを戒めるべきです。複雑なこの世を自分の頭のサイズに単純化して把握しているに過ぎません。

参考URL:http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/deai/013kizoku.h …
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因果応報は、あると思います。


私事ですが、無かった経験がありません。
ただ、結果を見るまで20年かかった事柄もあります。

幸せそう、に見える人も、本当に幸せかは分かりませんよ。

仏法でこんな話を聞いたことがあります。
「思いやりも優しさ。
相手が間違いを犯したら、時に拒絶して突き放してやるのも優しさ」

不倫しても大切にされる、人の悪い噂を立ててもそのままでいられる。
これが果たして、愛情からくるものでしょうか。
私は、放置という最も残酷な刑に処されていると思います。
もしかしたら、不倫男性の奥様は関係修復のために
努力なされておられるのかもしれませんが。
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>いつかバチが当たるから人を傷つけないようにしよう・・という私の考えが古いのでしょうか?



古くはないと思います。私もよく思いますから、実際クズみたいな人周りに沢山います。デスノート欲しいぐらいですw

少し見方をドライに私の解釈です。

因果応報とかは宗教上の人間的あり方の例え話みたいなもので、実際は結果論だと思います。
何か不幸な事起これば、何かに理由をつけたいと思う心境ではないでしょうか?人間生きてれば何か起こる確率が高く、悪い事してる人は当然普通の人に比べれば、その分もっと確率が高くなるだけの事です。

真面目に生きていても冤罪などで人生無茶苦茶にされた人は不運の一言で片付けられてますし、そういう意味では人を傷つけてノウノウと生きてる人は強運って事になるかもしてませんね。

身の回りに起こった事を非現実的要素とみるか確率的要素でみるかの違いだと思います。呪いなんてものもこの手の類と一緒ですね。
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貴女の考えが正しいです。



ただ「バチが当たるから、、」というのは間違ってます。

神さまは バチなど与えません。
「バチが当たる」という貴方(貴女)のその思いが バチを引き寄せてしまうのです。

不倫をしてる男性も、根も葉もない事をいいふらし意地悪をしている女性も 貴方(貴女)からみれば 何も無く幸せに暮らしてるようにみえますが、必ず なんらかの罪はうけなければなりません。
それは、彼や彼女に直接はバチはないかもしれませんが その子供たちに出ます。

因果応報は必ずでます。
ただ、その人にでるかどうかは解りません。その人の子孫に出ます。

人はだいたい60回から70回くらい生まれ変わるそうです。
その中で 夫婦は同じ人と夫婦になることが多いそうです。

ですから その浮気男を許してる奥さんは前世で逆にその浮気男の夫でもあったのです。(浮気男が前世では妻だった)

前世でその奥さんは自分が男として散々浮気して、妻だった男に今浮気されるという経験をしてるのです。

人はかならず「縁」があってふれあっています。

根も葉もない事をいいふらし意地悪をしている女性にしても、この女性から意地悪されてる人も前世で この女性に意地悪をしていてその
お返しが今来てるのです。
意地悪されるということで前世」での罪を消しているのです。

人には「バチが当たるから」 親切にしたりするのでなく
すべてなんらかのご縁のある人なので常に「愛」や「優しさ」で接すると 貴方(貴女)の運も向上してきます。

よって因果応報はあります。
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> いつかバチが当たるから人を傷つけないようにしよう・・という私の考えが古いのでしょうか?




あなたの考えは間違っていないと思います。

因果は巡る糸車、一見幸せそうに見えていても、必ずどこかでその報いを受けると思います。

報いの受けたはそれぞれなので、人間の小さな考えでは判断が難しいと思いますが・・・
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