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質問があります。できれば専門家・研究者の方にお聞きしたいのでよろしくお願い致します。

(1)キリスト教にある「隣人を愛する」という教えがあるそうですが、それはどういう意味での「隣人」なのでしょうか?宗教の違う相手も理解するという意味ですか?それとも、広い意味での人間としての意味ですか?同じ宗教間の中での人間という意味ですか?

(2)仏教にも似たような教えがあると思いますが、それと「隣人を愛する」とは違う意味なのでしょうか?(漠然とした質問でごめんなさい。)

(3)ドストエフスキーの言う「神がいなければ全てゆるされる」という言葉の意味が理解できません。「神がいない」という考え方の方が、「神がいるから何でも許してもらえる」と思えてなりません。「何でもあり」という感じに受け取れます。違うのでしょうか?「いなければ」という日本語も少し怪しいですが…「神がいるから許されない」という意味ですか?

とても知りたいのでぜひご回答の程よろしくお願い致します。

A 回答 (4件)

キリスト教、ドストエフスキーの専門家ではありませんが、聖書・その他の本を読んできての感想として。



(1) 「愛する」というのは「理解する」ことではありません。「理解できるかどうか」ということではなく、存在をそのまま受容し、自らの隣人として認め、抱擁することです。イエスの言う原義では、その隣人には宗教の違う相手も含みます。イエス自身は自らの「神性」を崇めて宗教とせよと述べたことはありません。その意味では、イエス自身の話した相手はすべて宗教の違う相手になるのです。しかし、その後イエスを三位一体の神として宣教の道具としたカトリック、そしてその分派としてのプロテスタント、正教諸派では、「イエスを信じないものは不信心である」という立場を取りました。また、国教としての立場を取ることができるようになった後には、建前上「隣人」はすべてキリスト教徒でなければならなくなりました。そのため、「異教の者」に対する迫害が行われることになります。「教会」の都合としては、「異教の者を許す」ことは、寄付による収入減に繋がることでした。そのため、聖書に書かれる「私だけを信じなさい」「信じる者は救われる」という言葉をつなぎ合わせ、「イエスを信じる者だけが救われる」「イエスを信じない者には天罰が下る」ということになりました。異教の者に対する迫害が正当化されたことになります。また、同時にキリスト教徒でありながら、教会に従わない者を「異端者」として迫害する風潮を作りました。カトリックがラテン語以外の聖書を認めなかったのは、そのことによって聖書を独占することができたからです。そのため、「聖書に帰れ」として民衆にも読めるように聖書の翻訳をしたルターを始め、プロテスタント諸派も、当初は迫害の対象となりました。サン・バルテルミの虐殺やフスの火刑、三十年戦争などがその良い事例です。こうした形で、「隣人を愛する」という本来異教徒も含めた教えは、同じ宗教内に押し込められた形になっております。「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」という教えは、異教徒または信仰のない者を相手にしなければ出てこないことです。それを忘れているのが、現在のキリスト教社会ではないでしょうか。

(2) 仏教に関してはあまり詳しくないので、「似たような教え」が具体的にどのことを指しているのかすぐには分かりません。根源としては似たようなものだと思いますが、キリスト教をはじめとする「一神教」における隣人の意味合いと仏教における「隣人」の意味合いは異なるものになるのではないでしょうか? その意味では、意味は似ていても意味合いは異なるものになると思います。

(3) ドストエフスキーの言う「神がいなければすべて許される」というのは、旧約に言われるモーゼの十戒を指すと思われます。モーゼは十戒として10の禁止事項を神からいただいています。そのため、「神」が存在する限り「十戒」はついて回るのです。カトリックでは「懺悔」をすればすべてが許されることになっていますが、それも「十戒」があるから「懺悔」の必要が出てくるのです。「神」が存在しなければ、その禁止事項である「十戒」もありません。ゆえに「すべて許される」という認識になるのだと思います。

以上、ご参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/23 16:29

(1)キリスト教の隣人とは敵の事です。

その敵を愛すのです。イエス・キリストも自分を十字架に架ける人類のためにお生まれになり、十字架の死によって父なる神と人類の仲介者となられたのです。

(2)浄土宗に関してはキリスト教の消極的正統教会ルター派があたるようです。また天台宗などは英国教会に近いです。浄土真宗はカルヴァン主義に近いですし、仏教のどの教派もキリスト教各教派と教義的にはよく似ています。

(3)これはショーペンハウアーや、ニーチェの神は死んだ、超人、永劫回帰に至った言葉です。神という存在はもはや礼拝対象ではなく「私」という宿命になったのです。この「私」は一人のことではなく全人類の「私」です。学問的に民主主義的バランスが取れるので倫理崩壊を心配する必要はありません。「神がいなければ全てゆるされる」とは「私」という宿命への気付きであり、民主主義への革命的な転換です。これによってキリスト教が、人類の神認識が、完成へと進んだと評価されている言葉です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/12/23 16:26

専門家でも研究者でもありませんが、倫理学者・聖書学者の講義を受け単位が取れたレベルの者の解釈です。



1)まず、イエス物語を書いた人は、ユダヤ教とは違う宗教を作るべきだと思っていなかったと思います。

この民族はエジプトで奴隷となって生活しており、いろんな民族の坩堝だったエジプトにおいて、神はこの民族のみに自由を与えエジプトから脱出させたとなっております。
だからこの民族は、神から選ばれた民となっているわけです。

長年の末に今のパレスチナに定住することになり、定住したら人口が増えますよね。
そうなると集団を統率するためには法律が必要だった。
共通了解を設定することで、ばらばらにならないようにしたわけです。
その共通了解をトーラとしたと思えます。

この民のリーダーは宗教のリーダーでもあり政治的リーダーでもあり一人だったのですが、国を持ちたいという要望が大きくなり、ついに国を作り、そうなると王も選び出したので、宗教のリーダーと政治のリーダーの二人になったわけです。

この民族が作った国がイスラエル王国で、12+1氏族で構成されていました。
ギリシャの首都が女神アテネの名前にちなんでつけられていますが、古代イスラエル王国の首都は女神のマリアにちなんでサマリアでした。

ソロモンなど外交政策で手腕を発揮したので、この国は栄華を極めたわけですが、ソロモンが死ぬと後継者をめぐり、内部紛争が起こったんです。

派閥があり、それぞれが次に立てたい王が違った。
ここらあたりから派閥による宗教における考え方が大きく違ってもきて、結局イスラエル王国からユダ族とベニアミン族は分離し、自分たちの新しい王国を作ったんです。

便宜上 元の統一国家だった国を北イスラエル王国、分離した国を南イスラエル王国としましょう。

北イスラエルはアッシリアに侵攻され陥落。アッシリアの人々が住み着いた。

南イスラエル王国はバビロニアの侵攻で、上層階級の人々3000人ほどが、バビロニアの上層階級に登用された。


北イスラエル王国は二度と再建されることはありませんでしたが、南の方は他の国がバビロニアにつれていかれたユダ族とベニアミン族を解放するように交渉してくれ開放されて、また王国を作ったんです。
ユデアとかユダ王国とか呼ばれる。


で、その頃になると聖職者以外に律法学者なる職業もできたわけです。
ユデアの人々は、なぜ神はバビロニアによってバラバラになるようにしたのかというと、偶像崇拝をしたからだろう となったんです。

外交的に才能を発揮したソロモンは、交易の中心地になるように異民族の人がビジネスで地元を離れてこの国にやってきている間も、侵攻行為をしやすいようにと、神殿にそれぞれの神様の偶像を作ってやったんです。
大サービスをしたことで、交易が盛んなイスラエル王国になり、ソロモンの時代は大繁栄をしたわけです。

しかし、そんなことをして異民族の神の彫像を神殿に立てたので、神様は怒ってバビロンに侵略させたのだろう ってなったわけです。


もっと純粋に律法を理解しなければと、律法学者たちが活躍するわけですが、まるでロボットのようになってきた。

たとえばイエス物語で、イエスの弟子が安息日に腹をすかせて穂を摘んでいたら、安息日を破った と律法学者が指摘した箇所あります。
人を監視し、今か今かと待ち構えるKGBみたいな状態。
これでは律法は人を罪人とするために存在するようなもの。

本来は統合のためだったのに、取り締まり目的でトーラが悪用されだしたわけです。

で、イエス作家は、トーラはそのために作られたわけではない として、トーラの解釈を完成させようとしたのだと思います。

トーラ自体が悪いのではなくトーラを使用する人が使用法を間違えているので、罪が発生することになった。



で、隣人愛については、旧約聖書に明確に書いてあります。(トーラの中にある)

たとえば日ごろよく思っていない隣人が服を質に入れお金を借り、日没までに借金を返せなかった場合、利子をとらずに服をかえしなさい と諭している。
その理由は、服なしでは夜凍えてしまうから。

寡婦や子供についても、助けてあげなさい となっています。

で、これは日本国憲法が日本国籍を有するものにのみ適用になり、日本にいる外国籍の人まで適用にならないように、あくまでトーラはイスラエル民族(12+1氏族)のための法律なんです。

従いこの法律で「隣人」とするときは、同じ神から選ばれたイスラエル民族の人をさす。
日本国憲法がアメリカ人に適用されないのと一緒。
日本の法律にアメリカ人が触れても、日本の法律では裁けないのと一緒。
アメリカ人を本国に帰して、アメリカで裁いてもらうのと一緒。

日本国憲法の前文でわずかに他の国も助けるようにと書かれているように、トーラにもわずかに異民族に対して情をしめせと書いてはあります。

例えば、奴隷を雇ってもいいのですが、一定期間働いてもらったら、それ相当の財産を渡して奴隷の地位から開放しなければならない とトーラには明記されています。
理由もやはり書かれています。
この民族はかつてエジプトの奴隷で、奴隷の地位から開放されたから。
自分たちがされて幸福になったように、奴隷担った人は7年だったか忘れましたが、年季を儲け年季が明けたら開放して自活できるように財産わけをしなければならないとあるんです。

で、イスラエルの民は奴隷になってはならない というトーラの法律があります。
身をやつして奴隷になってしまった人に対して、、、、とあります。
この身をやつして奴隷になってしまったのは、イスラエル人ではないってことです。
なぜなら法律でイスラエル人は奴隷になってはならないと定められているから。
従い奴隷になった人は、外国人。

この民族はお互い助け合うようにと律法で定められているので、不幸が起こっても一文無しになっても、親戚 あるいは隣人のイスラエル人が助けるので、イスラエル人の他のイスラエル人の奴隷となることは無いってことです。
第一立法になるなって書いてあるのになったら、律法を破ったことになりますから。


で、イエス作家は厳しく人を縛るためにトーラがあるのではなく、人が助け合うように生きるためにトーラがあるんだ って言いたかったのだと思います。
つまり国内問題についての解決策であって、諸外国と仲良くしましょうって言ってたわけじゃない。

例えば、ユデアはローマ帝国から寵愛され特別待遇だったわけですが、その代わりに高額の納税をローマにしていたわけです。
要するに日本が高額の安全保障費用を日本国民からとって、アメリカにあげているようなことをしていたわけです。

ユデア国の人は税金が高いので不平を言っていたわけですが、ローマの貨幣で税金を払ってるのだから、それはローマ人のものなので返してやれ と言っている。
外に目を向け煩わされるな、ユデア内部のことを考えろ って言ってたわけです。

諸外国のことより、まずはバラバラになってしまった自分たちのことをどうにかしなければ、って言ったわけですね。


このことからしても、イエス作家が教えとして解いた中に出ている隣人とは、神から選ばれた民イスラエル人のことをさすのは明白だと思います。
サマリア人もイスラエルの子ですから。
だから良き隣人のたとえ話として、サマリア人が登場してもなんらおかしくない。
サマリア人は異邦人、異民族ではなく同胞です。


3)この言葉は聴いたことがありませんが、、、
罪と罰でラスコーリニコフは超越した存在になろうとしたと描かれている。
普通の人間である限り、殺人をしたら悪になるが、人間を超越したものなら、人間の善悪は適用されないので、殺人を犯しても罪にならない とラスコーリニコフは考えた。
(それどころか英雄だと考えた。)

神がというよりトーラが無ければ罪は発生しない という考えと一緒かもしれません。

例えば隣人愛について旧約聖書(トーラの部分だったと思います)ではこんなことを言っている。

<あなたの家畜が誤って隣人の家畜を殺してしまった場合、神に祈りをささげる時間であっても、隣人のところに謝罪しにいきなさい。そして謝罪された側は許しなさい。>

説明すると、家畜のいざこざで、隣人同士が被害者と加害者に分かれたわけです。
このままなら隣人は被害を受けたといって裁判所に訴え、加害者は罪人になってしまう。

裁判に訴えられる前に謝罪し受け入れてもらえれば、裁判に訴えられない。
従いトーラにより罪が確定しない。

何故謝罪された側は許さなければならないとされるのかというと、逆お立場になったとき、自分が許されてトーラにより罪が確定せずにすむから。
罪人にならなくてすむから。


パウロだったと思いますが「文字は殺す」と言ってますが、この文字とはトーラのことなんです。
トーラにより罪が決定され、律法学者がなんでもかんでもトーラを引き合いに出し、これも罪、あれも罪 罪 罪 罪 罪 ってやってた時代のことです。

イエス作家はそういうトーラを悪用して人を罪人にする原理主義的な律法学者がいたご時世を生きた人。


で、キリスト教はさかんに罪 罪 罪 罪 ってなんとか自分の中にある罪を見つけろ と言いますよね。
律法学者と同じ行為。
そういう人のあら捜しをする宗教、「神様は常にあなたを監視していますよ」という宗教にドストエフスキーはつかれきってしまって、なんとかそれを超越できないものか と思ったんじゃないかと。
それが罪と罰。
ラスコーリニコフは自分が悪を行ったと最後まで思うことは無かった。
ドストエフスキーのキリスト教に対する疑惑が、ラスコーリニコフを通して描かれているように感じます。

自分の価値は誰が決めるか、自分以外の人。
自分に罪を定めるのは誰か、自分以外の人。
他人がいなければ、価値は定められない。
他人がいなければ罪は発生しない。

これを超越できないものか という考えだったと思えます。
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この回答へのお礼

長文ありがとうございます。
5cmくらいある参考書を一時間で読んだ気分です。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/12/23 16:30

専門家でも研究者でもないですが、答えられる範囲で。



(1)「あるそう」と言っているくらいですから、実際に聖書のどの箇所にあるか確認されるのが先でしょうね。ルカによる福音書の10章25節から37節です。ここでは反対者(というか言葉尻をとらえて陥れようと狙っている律法学者)が「わたしの隣人とは誰ですか?」と尋ねており、それに対してイエスがたとえ話をもって答えています。これがキリスト教における「隣人愛」の考え方の根拠となる箇所でしょう。
この箇所を文章通りに読めばイエスの主張は明白なのですが、残念ながらというかなんというか、それが必ずしもキリスト教の歴史の中でその通りになっていたかというとやはり苦しいところだと思います。

(2)慈悲心あたりでしょうか。いずれにしろ、「他人に親切に」というのは社会道徳の基本であり、文化の差こそあれ、ある程度は似通う部分も出ると思います。「他人に親切になどとんでもない、他人は踏みつけるものだ」、という思想を持つ文化もあるかもしれませんが。

(3)ドストエフスキーが言う、というより、登場人物イワンに言わせているのでしょう。実際そのようにドストが思っているかどうかは怪しいですね。とりあえず、「神がいなければ全てゆるされる」という言葉を考える時に、この登場人物にとって神というのは禁止する存在なのだと思います。普通の人は「禁止されていなければそれは許可されている」と考えます。だから、「神がいなければ(誰も他に禁止する存在がいないのだから)全てが許される」という意味合いになるんじゃないでしょうか。
(余談ですが私は「禁止されていなければそれは許可されている」という考え方はしないので、「神がいなければ(禁止もされていないが許可もされていないので)人間は自由であり孤独である、そして虚無である」というあたりに導かれると思うんですけれどもね。)
ニーチェの「神は死んだ」という言葉と絡めて考えてみるとよいかと思います。
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この回答へのお礼

とても分かりやすかったです。
ありがとうございます。

お礼日時:2009/12/23 16:28

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