痔になりやすい生活習慣とは?

心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん

と言う
菅原道真の歌がありますが
この"心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん"の意味を教えてください

答えが無い場合は
この意味が一番有力などでも構いません
宜しくお願いします

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A 回答 (3件)

こんばんは。

No.1です。

> ※で文字が伏せられています

「************************************」

これのことをおっしゃっているのでしょうか。
これは文字を伏せているのではなくて、引用文を区切るための単なる記号です。
その間に記述した内容が『日本国語大辞典』の全文です。
もう一度掲載いたします。



心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん

心さえやましくなければ、ことさら神に祈らなくても、自然に神の加護があるであろう。
菅原道真の作と伝えられる歌。

「廿五日の聖【「广」+「苗」】の神事、〈略〉心だにまことの道にかなひなば、いのらずとても神や守らんのニくさの御歌を、句のかみにをき、あるはその要字をとりて、から歌にのべつらねて」〔歌林四季物語-ニ・春〕

「心だに、誠の道にかなひなば、誠の道にかなひなば、祈らずとても、神や守らんわれらまで、真如の月は曇らじを」〔謡曲・班女〕

「心だにまことの道にかなひなば、いのらずとても神やまもらんとの御神詠もあるぞかし」〔都鄙問答-ニ・鬼神を遠と云事を問〕『日本国語大辞典』



上の三つの文は、後の時代に「菅原道真」の歌が使われた実例になります。

文字化けするので用例中の漢字を【「广」+「苗」】このように書きましたが、
以下にその漢字が出ていますのでご覧になってください。
読みは「びょう」となります。聖と「广」+「苗」で「せいびょう」です。

「广」+「苗」
http://www.zdic.net/zd/zi/ZdicE5ZdicBAZdicBF.htm

以下のサイトの「广部」のページを開いてもらってその中ほどにあります。

「广」+「苗」
http://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/zigen/
> 廟(广部十二畫)の古字。
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心だに → 心さえ


誠の道にかなひなば → 誠の道にかなっているならば
祈らずとても → 祈らなくても
神や守らん → 神は守って下さるであろう

こうして分解してみると、文字通りなので、分かりやすい歌です。
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こんばんは。


意味が載っていましたので以下に引用いたします。

> 心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん

************************************

心さえやましくなければ、ことさら神に祈らなくても、自然に神の加護があるであろう。
菅原道真の作と伝えられる歌。

「廿五日の聖【「广」+「苗」】の神事、〈略〉心だにまことの道にかなひなば、いのらずとても神や守らんのニくさの御歌を、句のかみにをき、あるはその要字をとりて、から歌にのべつらねて」〔歌林四季物語-ニ・春〕

「心だに、誠の道にかなひなば、誠の道にかなひなば、祈らずとても、神や守らんわれらまで、真如の月は曇らじを」〔謡曲・班女〕

「心だにまことの道にかなひなば、いのらずとても神やまもらんとの御神詠もあるぞかし」〔都鄙問答-ニ・鬼神を遠と云事を問〕『日本国語大辞典』

************************************

翻刻資料 続群書類従
http://www.books-yagi.co.jp/pub/cgi-bin/bookfind …
>
> 【歌林四季物語】四季の公事を随筆風に記した書

はん‐じょ〔‐ヂヨ〕【班女】
http://kotobank.jp/word/%E7%8F%AD%E5%A5%B3
>
> 謡曲。四番目物。世阿弥作。恋する吉田少将の残して行った扇を持った遊女の花子(はなご)が、物狂いとなって都へ上り、少将に再会する。

とひもんどう〔トヒモンダフ〕【都鄙問答】
http://kotobank.jp/word/%E9%83%BD%E9%84%99%E5%95 …
> 江戸中期の心学書。4巻。石田梅岩著。元文4年(1739)刊。石門心学の思想を、平易な問答形式で述べたもの。

都鄙(とひ)問答(もんどう)
―心学の真髄を説いた石田梅岩の主著―
http://koten.bungaku1.com/kinsei/tohi.html
>
> 目次
>
> 巻之二
>  鬼神を遠と云事を問の段

この回答への補足

※で文字が伏せられています

補足日時:2009/12/17 15:35
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Q菅原道真の和歌の、文法的な解釈について

「心だに誠の道に適ひなば 祈らずとても神や守らむ」という道真公の和歌があります。

この現代語訳ですが「心さえ誠の道に適っているならば、たとえ祈らなくても」というところまでは絶対の自信があります。

「神や守らむ」のところについて、何人かの方の訳を見てみたのですが、「神は守ってくれるだろう」と訳されています。大切なのは心であって、形ではない、ということなんでしょう。

でも、「神や」の「や」は疑問・反語の係助詞ではないかと私は思っています。つまり、「神は守ってくれるだろうか、いや守ってはくれないだろう。」心ももちろん大事だけれど、形も大事だ、という意です。

この私の解釈には無理がありますか?もし、私の解釈に無理があって、一般的な解釈が正しいとしたら、「や」は文法的にどのように考えるべきなのでしょうか?

Aベストアンサー

お示しの和歌が次のページ(の下のほう)で言及されています。これを見る限り、「反語」の文脈ではなさそうですね。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7722/7722104.htm

この歌を載せるという『四季物語』とは、鴨長明の著とされる(実際にはやや後に成立したらしい作者不明の)随筆ですが、たしかに、この歌からは、道真の時代というよりももっと中世的な印象を受けます。

--------------------

調べてみると、中世の和歌には「神や守らむ」「神ぞ守らむ」「神も守らむ」といった(おそらく決まり文句的な)句を含むものがかなりあるようです。「や・ぞ・も」の違いはあれ、基本的には、神が守ってくれることを祈り、期待する表現だと思われます。すべての出典を確認してはいませんが、だいたいが13世紀以降、つまり上記『四季物語』と同時期の歌のようです。

津の国の 難波のしわざ みことのり みな住吉の 神や守らむ
春日山 峰に生ひ添ふ 松の根の 絶ゆることなく 神や守らむ
石清水 かざす雲居の 藤の花 万代かけて 神や守らむ
祈り置きし 千代の光を 照らしても 契りを知れる 神や守らむ

踏み分けて 問はるる雪の 跡を見て 君をぞ深く 神は守らむ

君が経む 千代の景色を み熊野の うらやましとや 神も守らむ
春日山 頼む甲斐ある 君が代を 幾万代か 神も守らむ
君が代は 幾千歳にか 葵草 変はらぬ色に 神も守らむ
春日山 峰の木の間の 月なれば 左右にぞ 神も守らむ
さらに今 君を助くる 君なれば 国頼めとや 神も守らむ

敷島の 道を捨てずは 住吉の 神ぞ守らむ わが君の御代
五十鈴川 流れて清き 瑞垣の 久しき代をも 神ぞ守らむ
和らぐる 光の庭に 居る塵の 末をも山と 神ぞ守らむ
跡絶えず をひえの杉の しるしあらば 末の代までも 神ぞ守らむ

和歌の検索には日文研の和歌データベースを用い、仮に漢字を当てました。

http://tois1.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/menu.html

--------------------

こういう定型があるらしいことからすると、お示しの和歌の場合だけを反語と取るのは難しい気がします。

辞書で「や」を引くと、確かに「疑問・反語」としか定義されていませんが、語調を整えたり詠嘆を込めたりするための「や」も(中世以降には特に?)かなり存在するように思います。詠嘆の「や」は、俳句の切れ字につながるものかもしれません。

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したがって、ご質問の和歌の場合、「神は守ってくれるだろう」という意味に取って間違いではないと思います。あるいは、疑問といっても反語的ではなく、むしろ希望を込めて「(道を外れなければ)神は守ってくれるだろうか、そうであってほしいものだ」といった気持ちと取ることもできるでしょう。

辞書の定義は実際の用例から帰納されたものですから、辞書の定義に従って無理やり解釈するというのは、厳密には本末転倒ともいえます。辞書が疑わしいときは、同時代の類例を見渡してみると役に立つことがしばしばです。特に古語辞典の場合は、1000年を超える歴史的日本語を「古語」とひとくくりにしているわけですから、もともと相当に無理があるものです。

お尋ねの「文法的」な説明が物足りないかもしれませんが、取り急ぎ。

お示しの和歌が次のページ(の下のほう)で言及されています。これを見る限り、「反語」の文脈ではなさそうですね。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7722/7722104.htm

この歌を載せるという『四季物語』とは、鴨長明の著とされる(実際にはやや後に成立したらしい作者不明の)随筆ですが、たしかに、この歌からは、道真の時代というよりももっと中世的な印象を受けます。

--------------------

調べてみると、中世の和歌には「神や守らむ」「神ぞ守らむ」「神も守らむ」とい...続きを読む

Q菅原道真の和歌について

菅原道真公の和歌と伝えられ、同一と思われる次の和歌の二通りの表現に出くわしました。
「心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん」
「心だに誠の道にたがいなば 祈らずとても神や守らん」
上の「かないなば」と「たがいなば」はどちらが正しいのか教えてください。
なお、「たがいなば」は「違わなければ」の意味との説がありますが、私には「違うならば」のように感じられ、それでは意味が反対になってしまうなあと疑問になります。
古文に詳しい方が解説くださればありがたいです。

Aベストアンサー

「かなひなば」が正しいと思います。

文法解釈すると、「かなふ(ハ行四段活用動詞『かなふ』連用形)」+「完了助動詞『ぬ』未然形」+「接続助詞順接仮定条件『ば』」ということになります。
直訳すると、「もしかなったならば」です。
歌意としては、「もし心さえ誠心誠意の人道に添うたならば、祈らなくても神様は守ってくれるだろう」という内容です。

「たがひなば」が、「違わなければ」という意味だという説がある、とのことですが、信頼できる資料によるものでしょうか?
質問者の指摘どおり、「違うならば」の意味であり、歌意が通らなくなってしまいます。
「違わなければ」という意味にするなら、「たがはずは」または「たがはざれば」(無理に順接確定条件を接続させると考えた場合、「たがはねば」)などのように、打消の助動詞が入らなければなりません。
打消の助動詞「ず」の未然形に古く「な」の活用形はありますが、「たがひ」という連用形には接続できません。

藤原時平左大臣の讒言により、太宰権帥に左遷された菅公が、自らの清廉潔白を和歌に託したものでしょう。

Q読み方と意味を教えってください。

(日日是好日)、(枯野抄)と(巧名心)はそれぞれ何と読みますか?あと、意味も教えってください。お願いします。

Aベストアンサー

○日日是好日
日日是好日(にちにちこれこうにち)というのは中国の「碧巌録(へきがんろく)」という禅の公案集の中の有名な公案の一つです。
(これを、ひびこれこうじつと読んでいる人が多いのですが、正しくは、こう読みます)

○枯野抄(かれのしょう)
芥川 竜之介の著書

○功名心(こうみょうしん)
功名を求める心。

○功名
手柄を立てて、名誉を手に入れること。また、その手柄。こうめい。

Q神社参拝の際、「祓い給い 清め給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?

神社参拝の際、「祓い給い 清め給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?

以下のホームページを見ると、次のような神拝詞(となえことば)があるようです。
http://allabout.co.jp/gm/gc/4971/2/

<神拝詞(となえことば)>
祓い給い 清め給え(はらいたまい きよめたまえ)
神ながら(かむながら)
奇しみたま(くしみたま)
幸え給え(さきわえたまえ)

そこで、質問です。

神社参拝の際、上記の「祓い給い 清め給え・・・(中略)・・・幸え給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?
また、個人的なお願いごとは、上記の神拝詞(となえことば)を唱えたあとに、お願いすればいいのでしょうか?

それとも、個人的なお願いごとをする場合は、上記の神拝詞(となえことば)を唱えなくてもよいのでしょうか。よく、神社やパワースポット関係の本には、参拝作法に、上記の神拝詞(となえことば)を唱えなさいと書かれていないと思います。

ただ、時々、神社に行ったとき、拝殿の御賽銭箱の近辺に、上記の神拝詞(となえことば)のうち、
「祓い給い 清め給え(はらいたまい きよめたまえ)」と書かれた表示物を見たことがあります。

そもそも、参拝の際に、神前での願い方について、何を唱えればいいか、何が正しいかわかりません。

よろしくお願いします。

神社参拝の際、「祓い給い 清め給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?

以下のホームページを見ると、次のような神拝詞(となえことば)があるようです。
http://allabout.co.jp/gm/gc/4971/2/

<神拝詞(となえことば)>
祓い給い 清め給え(はらいたまい きよめたまえ)
神ながら(かむながら)
奇しみたま(くしみたま)
幸え給え(さきわえたまえ)

そこで、質問です。

神社参拝の際、上記の「祓い給い 清め給え・・・(中略)・・・幸え給え」と唱えたほうがいいのでしょうか?
また、個人的なお願...続きを読む

Aベストアンサー

私は、宗教が神道ではない者として、口を挟むつもりはありませんでしたが、書かざるをえない気がしました。出来れば、新興宗教の方は、その身分を明らかにしてほしいものです。知っている人には分かります。教義に書かれていた内容は、必ずしも一般的な情報とは違いますから、読み手は間違った認識を持ってしまいます。私自身は宗教団体には関係してませんが、生まれながら、仏教と神道の狭間で、相矛盾した中で割り切れない問題を背負って育ってきましたが、ある意味で時代に翻弄された一人だというしかありません。

昨年でしたか、大相撲の朝青龍が、手刀を切り、懸賞金を左手で受け取り、大ひんしゅくをかいました。相撲というのも、神の御前でする神事ですが、形から入り、心が入り、そして、そこに美と調和が生まれるわけです。これを「様式美」と言い、ただ、勝てばそれで良いというわけではない、という端的な例を表しています。

神社では、鳥居の前で脱帽し、礼をし、二礼二拍手一礼のマナーというものがあります。また、手水舎(てみずや)で片方ずつ手を清め、口をすすぐというのは常識ですが、直接、ヒシャクに口をつけてはいけません。今は、常識が常識でなくなってきているようです。確かに、出雲大社などでは違う作法があるところもありますが、それは注意書きが入っていたはずですし、こういう作法は、混沌としているということでもありません。明治以降、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)を一般としてしてきているわけですから、それに従えば済むことです。知らなければ、覚えれば済む話です。この作法は、明治時代に作られた「神社祭式」を根拠としています。

また、女性は、柏手(かしわで)を鳴らさないというのは、占い師の細木数子氏が言ったそうです。しかし、女性は鳴らさないというようなことはありません。柏手は、神様を呼び出すという意味を持っているのですから、死者の前(葬式やお墓)では鳴らさない時(しのび手)があるという常識さえ知っていればよいことです。また、お寺では、二礼二拍手一礼はしないということも心がけてほしいものです。

それが、いつの時代に作られたものであれ、統一されたものなら、それに従わないということはありません。マナーのひとつとして、ぜひ、守って欲しいものです。それを守らなかったら、どうにかなるということではありません。日本的な表現ですが、「美しくない」ということです。

それから、祝詞というのは、簡単にいうと、「かむながら」という言葉がある通り、「神の御心のままで」という意味ですから、もともとは、「神の言葉として上から下に申し伝える言葉」だったわけです。唱え詞(となえことば)で一般的に知られているものは、

「祓い給へ 清め給へ 守り給へ、幸(さきは)え給へ」
というものです。私は、特に参拝客が声を上げて唱えるという話は聞いたことがありませんが、神社に詣でたときに、どこかに書かれていたら、黙読し、心の中で、「清い心で、神様の御心のままに、みなを守り、みなが幸せになれますように」と祈ればよいと考えています。

なお、浄土真宗の話に触れておきます。
日本の宗教の中で、戦前戦後、妥協を許さなかった宗教であり、西洋哲学でいうなら、日蓮宗が日本型の強者の理屈を持つ宗教なら、(浄土)真宗は、それに対抗する弱者の宗教です。

浄土真宗は、現代まで靖国神社を反対している唯一の仏教団体です。ここでは、日蓮系の新宗教団体は除きます。明治政府は、事実上、仏教と神道を分離しました。祝詞を唱えると願いが叶うという発想は、空海の真言密教を起源とする両部神道であるかもしれませんが、仏教色が残るものとして、これ自体も廃仏毀釈運動によって排斥されました。

浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と唱えることは、日蓮宗のように題目を唱え利益(りやく)が得られるというような意味合いを持ちません。念仏は念仏を唱えること自体に意味を持ちません。それは、信仰そのものの現れだと考えています。

真宗大谷派大阪教区『銀杏通信』靖国神社に対する考え方。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_042.htm

明治の初期、森有礼の建白書や浄土真宗の島地黙雷僧侶が、明治政府に信仰の自由を訴えましたが、逆に神道側は、その体制を整えることになりました。

明治憲法が発布されたとき(明治23年)に、神道とは国家神道として、別格な地位を得て、「国民の道徳」としました。断じて、浄土真宗が、神道に影響されたり、政府に擦り寄り、神道に影響を与えたなどということはありません。

また、見えない霊自体を肯定するかどうかは別としても、霊体が危害を加えようとするという、オカルティズムは、私たちの一般社会には馴染まない考えだと思います。

参考:国家神道

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93#cite_note-6

私は、宗教が神道ではない者として、口を挟むつもりはありませんでしたが、書かざるをえない気がしました。出来れば、新興宗教の方は、その身分を明らかにしてほしいものです。知っている人には分かります。教義に書かれていた内容は、必ずしも一般的な情報とは違いますから、読み手は間違った認識を持ってしまいます。私自身は宗教団体には関係してませんが、生まれながら、仏教と神道の狭間で、相矛盾した中で割り切れない問題を背負って育ってきましたが、ある意味で時代に翻弄された一人だというしかありませ...続きを読む

Q丁寧語の「ご質問」「お問い合わせ」の使い方

問い合わせ窓口に自分が質問したとき、よくオペレーターは質問者である私に
「お問い合わせの内容は」とか「ご質問は」とかいう感じで
「お」「ご」を付けますが、
質問者である方の自分がオペレーターに「お問い合わせ」「ご質問」と言うのは
おかしいでしょうか。
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「お問い合わせ」「ご質問」と言うのはおかしいでしょうか。

Aベストアンサー

「美化語」と解釈することも可能ですが・・・。

「説明」などであれば、「ご説明します」でも良いですが、「質問」とか「問い合わせ」は、方向性がある語句です。

即ち、質問者側が「ご質問」「お問合せ」と表現すれば、質問や問い合わせする主体である「自分自身」に敬意を向けた表現と受け取られる可能性があるので、質問者側は、余り使わない方が良いと考えます。


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