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人間は不完全なものだという考えを根底に持っている上での質問です。
だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか?

古今東西、神の存在を現した芸術がたくさんあります。音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

思ったことを書いてみますね。



完全・不滅とするならば、認識することは不可能でしょう。
認識とは変化でしょう。
変化しなければ知られることも知ることも不可能でしょう。
変化しないなら関係をもてないでしょう。

関係を持った、認識したというなら、変化する不完全なものと公言していることにはならないでしょうか。

本当に完全・不滅なら我ら変化する生命とは一切関わり無いのでは。

「在る・無い」の思考などは、どのような思考をとってもかかわりが無いのだから、それによって完全・不滅によって何かしらの影響も受け得ないし与えられないのでは。

その選択によって変化が在るなら、完全・不滅とは一切かかわりが無く、人間の作り出した言葉と人間の心理面と現実との兼ね合い・軋轢の量によって数多なる結果がつむぎだされているに過ぎないのではないか。

私もそのような疑問を持っています。

参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

とても哲学的な考察で参考になりました。私の疑問が疑問として明確に把握できました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/27 00:04

神を知るための手法として、擬人化があり、


人を知るための手法として、擬神化があるのです。
人間が不完全な事実は言うまでもないことです。
問題は、初めから不完全な存在として創造されたのか、本来完全性をもって創造されたはずの存在が、何らかの理由によって後天的に不完全な存在に陥ったのかということです。
ただ、人間を不完全な存在と認めた時、同時に神もまた不完全な存在となってしまう矛盾が生じます。
また、全能の神が、はじめから完成品を創ることはありえないことでしょう。それでは全くつまらないからです。
神の気持ちになって考えたらわかります。
神が創った存在がはじめから完成品なら、自由意志のない単なるロボットと過ぎず、創る意味がないでしょう。面白くも何ともないからです。
創造や創作の根底には、その作品が喜びを与えてくれるものであることが前提だからです。
神が創る以上、神の気持ちになって考えれば、神をも上回る存在にしたかったことでしょう。
そういう作品であること以外に神がどうして喜びを感じられるでしょうか?
神は無限なる存在であるなら、その求める喜びにも無限性がなければならないからです。
そこからしても、ただ言うことに従うロボット的次元の存在に人間を創ることは考えられません。
喜びのメカニズムは相似性にあります。創造者が作った作品がその創造者に似れば似るほど喜びが大きいのです。
したがって、そのことを神に当てはめて考えれば、造られた人間は神に似ていなければならないのです。
神の持つ唯一性、絶対性、無限性、不変性、永遠性、創造性、愛などに似せて創らなければ、神も満足はしないということです。
つまり、そういうものを満たせる存在はロボットではなく、子供だけしかないのです。神が神以上に幸せになってもらいたい存在、神が寝食を忘れるほどの気の遠くなる時間性を投入して人間を創られたのだとしたら、神は人間を子として創造したことがわかるのです。
人間界の親子の姿・・・その関係性を擬人化すれば、神と人間の関係性が親子であることがわかるのです。

神以上の存在として創造しようとした神の気持ちはわかりますが、現実的には、神は創造主である限り、被創造者としての人間とイコールで結ばれることはないことは明白です。
しかし、イコールで結ばれなくてもイコールとして見做させる方法は存在します。神と人の一線、神と人の壁を取り払う方法は・・・
それは、神と被造物の境を無くすことにほかならず、即ち神が人間界に降りられる条件を満たせばよいことになります。
言い換えれば神と人が一体となる条件を成立させるのです。
即ち人間を創造するにあたって、他の原子や分子、鉱物、植物、動物との大きな違いは、自由を与ええられたということになります。
しかし、自由は必ず責任が伴います。
そして責任と喜びも一対です。自由意志と自由行動によって、自己責任を果たすようになる時、はじめて喜ぶことができるのです。
言い換えれば、人間がロボットや他の動植物との明らかな違いを示すためには、神ですら干渉できない自由意志でもって自らを創造したという条件を満たすことが必要であることがわかります。
完成品を創っても神は悲しい、空しいだけのことでしょう。
我々人間の思考でも悲しいなら、神の悲しみは無限の悲しみであるはずです。
人間にはどうしても自由意志を与えるしかなかったことでしょう。
神は唯一なら、その方法も唯一なのです。他にベストな方法があるのなら、最初からそのベストな方法を選んでいるです。
ビッグバンから始まった創造はあらゆる環境を人間にとっての最高の環境を整える・・・ただそのためだけに神は時を忘れて創造したことでしょう。人間の姿形すら人間自身では創りえないのです。
そのような創造の偉業を、実際には手掛けていない人間が相続できるのは、責任を果たすというわずかなことにすぎなかったのです。
神が干渉しないで、人間自身で自己を完成させた時、そのわずかな責任をもって、全宇宙を創造した神の子と同等に見做そうとしたのです。
しかし、この自由意志・・・神ですら干渉できない部分・・・
もし、人間が今のように不完全な姿になったのだとしたら・・・
その最初の人間の自由意志が責任を果たしたかどうかを問うてみなければならないのです。
その実際上の秘密を解き明かすこと以外なさそうです。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございました。
何度かゆっくり読ませていただこうと思います。

お礼日時:2009/07/27 00:13

 回答番号:No.9


 お礼を拝読しました。所謂るキリスト教信者、クリスチャンが信奉している、教えの神とは異なります。
 はい、どの宗教の神でもあります。
 その中で私自身は、ここ45年ほどはParamahansa Yoganandaの思想に解答と精進の道を発見したつもりでおります。
URLは信仰の団体ですの、ここでは貼り付けられません。
 Self-Realization Fellowshipというものです。
 インド発祥の多神教で一神教です。
 勧誘も宣伝もしておりませんが、URLはだしております。
 自己の意志と思想だけの、精進の団体です。
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>だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。

もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか?


その疑問はある意味で正しいと思います。いささか哲学臭がしますが・・・w
人間は神をイメージするが、神はそのイーメージに収まることは決して無い。小説の主人公が、創作している作家のことをすべて知ろうとしてもできないのに似ていると思います。(←この例えは「ソフィーの世界」ヨースタイン・ゴルデル著に出てくる)

また、旧約聖書のヨブ記でも、人間は神の経綸を理解することができないことを示されています。
つまり主さん流に話せば、人間は不完全な存在ゆえに、ある程度までは神を理解できるが、完全なる神のすべてを理解することはできない、となりますね。ある程度までは理解できるという点が大事と思います。
芸術は、その人間らしさがひたむきに(ときには不器用に)、自分の信じる神(不完全な理解で間違った解釈もあるが)に向けて全精力を注ぐ姿、生き方、形、色などが作品に表れて、共感を呼ぶのではないでしょうか。人は聖人君子に感動するのではなく、不器用な人間のひたむきさに感動するのでしょう。
人間は不完全ではあっても、何が悪くて何が良いことかを理解できる力を持っている(持たされている?)から、その良心を抱えて世を生きていくということこそが生きるということなのでしょう。
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この回答へのお礼

ソフィーの世界の例え、分かり易かったです。

>芸術は、その人間らしさがひたむきに(ときには不器用に)、自分の信じる神(不完全な理解で間違った解釈もあるが)に向けて全精力を注ぐ姿、生き方、形、色などが作品に表れて、共感を呼ぶのではないでしょうか。人は聖人君子に感動するのではなく、不器用な人間のひたむきさに感動するのでしょう。

この解釈で自分が芸術に対して感じる何かがすっきりしました。神そのものを感じているわけではなく、「人間」に感動していたのですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/27 00:09

ギリシャ神話では、自然を擬人化しており、人間が想像した神だけに、自然なのに妙に人間くさい考えをしている。



神の息子を人間界によこしたら、息子だと神すらわからないくらい、ボロボロにされたという人間が人間の獰猛さを皮肉った物語も残している。

>古今東西、神の存在を現した芸術がたくさんあります。音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが

<アレテー>
http://74.125.153.132/search?q=cache:527nIVLQ5t4 …

このアレテーとは<美>のこと。
馬のアレテーは、早く走ること。
では人間のアレテーとは何か?
ソクラテスは人間のアレテーは<徳>だとした。

古代ギリシャでは美について探求して、神々を石で掘ってアレテーの美しさを表現した。

古代ギリシャの石造や建築物って感動するでしょ?
美を芸術で表現したので、絵画や音楽や建築や文学が盛んになったわけです。

古代ギリシャでは、ドームに人々が集まって、観劇とかやったわけです。
神の美と悲劇を演じたわけです。

悲劇は特に心にずしんとくる、感動を起こすわけです。
人々が信仰をする理由は、感動(美)を味わいたいからだと思うんですね。


だから、人間の罪を肩代わりして自己犠牲を払ったってギリシャ悲劇風な物語が人々の心を打ち、神はすごいとなり、信仰されるようになったんじゃないか と。


>神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?

美が人間の知性で理解できるから、芸術が盛んになったんじゃないでしょうか。

美は驚きや感動のことで、人間にはそれができます。
動物も確かに驚きますが、その後畏怖しますよね。

人間は畏怖したあと畏怖対象を賞賛するって変な生き物。

日本のkamiは自然のことですが、病原菌もkamiだとしている。
病原菌が正体だとわからないので、結界を作り、そこに近づかないようにして病気にかかるのを防ごうとした。
畏怖して、近づいて祟られないようにしたわけです。


というわけで、西洋の神と日本のkamiの概念は違うんですね。
あなたのは西洋の神の概念。
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この回答へのお礼

>あなたのは西洋の神の概念。

確かに。宗教、信仰とかかわりの薄い人生でしたが、なんとなく想像の中にある神は西洋の神です。

お礼日時:2009/07/26 23:28

 minmin916さん


 認識って、知ることですか。受け入れることですか。
 その状態になることですか。
 objectたる対象たるものをそうするのですか。
 神が我らを経験していて、我らがobjectであり神が主格だということは間違いでしょうか。
 完全というものは何か、それは神というものである。
 としたら、神が経験しているものは完全である。といえませんでしょうか。
 人間が理解するのでなく神が理解するということかもしれませんね。
 神が何を超えているのか、それでは超えてないものは何か。
 超えたものと神との関係はどうか。
 神にとって超えたものは何か。
 人間を感動させるもの、それは人間の次元のなしているもの、しかして神はここを超えていないものか。
 そういうご質問でしょうか?

 これを宗教学や神学が答えているのか、哲学がテーマとしているのか。
 浅学の私もそのことを、ちらちら垣間見たことがあります。
 でも回答になっていませんよね。そういうのって。
 判らないからゴタゴタ多くの難しい展開をしていたのを、たくさんの権威にみています。

 明確にいえば、客体としてではなく、自分の中にそのお方にお会いし経験することしかないと存じております。
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この回答へのお礼

神が主格である、という見解に初めて触れ新鮮です。私は宗教について知識が乏しいのですが、主格たる神、対象である人間という関係性であるから信仰というものが成り立つのかも、と考えが浮かびました。ここで言う神とはキリスト教的な一神教の神を勝手に想像しています。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/23 11:14

>非常に人間的であるからという結論。



そうですね、芸術や現代哲学の潮流は「神」を問う(What)ではなく、
Howの記述に努めていくものだそうです。「神は如何にあるか」を問う
わけです。
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この回答へのお礼

>Howの記述

そう言われて捉え直してみると確かに神の存在そのものをあらわす目的ではないのだなと納得できる作品がいくつか思いあたります。

ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/23 11:00

なにごとのおはしますをばしらね ども かたじけなさに涙こぼるる



さあ誰歌でしょう。昔日本人は神の前では何ごとも願い事を祈らず、ただ無心に頭を下げていたそうです。こちらから願い事を言わなくては分からないような神様を日本人は相手にしていなかったそうです。
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この回答へのお礼

畏怖、畏敬の念ですね。神とは何ぞや、と思考していても現れてくる存在ではないのかもと思いました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/07/23 10:57

>人間は不完全なものだという考えを根底に持っている上での質問です。



自分にとって自分の存在は疑う余地はありませんが、自分にとって自分の存在が不完全であることを知性は理解しますね。

存在に疑う余地のない自分が体感した神は自分の確たる神となるでしょう。
しかし、知性はその神を否定しているということですね。

知性は楽園から追放されている訳ですね。

>音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?

神を芸術的に表現することと、神を知的に理解することで、後者は前者に遅れた理屈付けをするということであって、結果は懐疑的、否定的ということですね。
でも、これは面白いことで、神を大々的に崇めるお祭りの最中に、神なんて人間知性では理解できない代物ですよと主張してみても御輿は止まらないということですね。
これは、誰も、自分という知性が存在しているのではなく、自分そのものが存在しているからでしょうね。
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この回答へのお礼

自分という存在の有無についてあまり考えたことがなかったです。
「神」をとらえる自己という存在について。神の哲学的考察。いろいな角度の意見をありがとうございます。

お礼日時:2009/07/21 22:09

宇宙の大元は、完全調和の世界です。

調和の世界が成長、拡大するためには、回りの周辺部の不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が作られました。その地球に、調和世界から神の子が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して人が誕生しました。現代人は、脳の思考に依存してますが、脳は不調和な存在です。だから脳の科学は、自然を破壊しました。また宇宙の主役ではないので、科学は限界があり、相対的にしか、宇宙は理解出来ません。また自我は対立と争いの源です。他方調和世界の、自然の心は、情緒は、人の心を癒し、人を育て、人を調和へ導きます。また宇宙の主役だからすべてを知ってます。脳が思考してる時は、脳が人と自然の交流を、遮断するのでストレスになります。脳が休むと、人と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。だから物事の判断は、論理的思考を止めて、情緒的判断が必要です。脳を休めると、自然の情緒の調和の世界と、交流出来ます。幸い日本には、脳を休める方法が、たくさんあります。仏教の座禅があります。また日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを目的にしています。雅楽、文楽、能、日本画、浮世絵、演歌、茶道、華道、短歌、俳句などなど
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