痔になりやすい生活習慣とは?

 「法華経」に違和感を感じてしまいました。
 私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。
 原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。
 しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。
 よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。
 ここで、質問です。
 (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。
 (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。
 念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。

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A 回答 (12件中1~10件)

こちらのカテゴリーには専門家の方がたくさんいて、私よりも知識のある方からたくさんの回答がよせられると思いますが……。



(1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。
仏教学を学んだ者の常識としては、『法華経』などの大乗経典は、釈尊の死後、弟子たちによって創作されたものとされています。つまり『法華経』それ自体を釈尊が実際に説いたということはないと思います。
ですが、全部が全部、弟子たちの創作かといえばそうではないと思います。
釈尊の教えを、弟子たちが極端にデフォルメしたものというふうに私は理解しています。

(2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。
機会がなかったというよりは、当時、政治や文化の面でお手本にしていた中国での“最新流行”の教義を学んだということでしょう。もちろん『阿含経』なども基礎知識として持っていたはずですが、それよりも広く人々を救ってくれる有り難い経典として『法華経』をとらえていたのだと思います。

中国ではすでに天台宗の教義ができており、釈尊が経典を説かれた順番を“五時教”(最初に『華厳経』、次に『阿含経』、『方等経典類』、『般若経』と説かれ、最後に『法華経』『涅槃経』が説かれたとする)に分けています。
実在する釈尊が実際にどういう順番で説いたか、歴史的に見るのではなく、思想の上で順番を決めて、結局、『法華経』が最後の最後に説かれた重要な経典だとしたわけです。

これがその当時の最新の教えだったわけですから、インドから歴史的にも地理的にも遠く離れた当時の日本人にとっては、中国の最新の教えが一番であるととらえていたのだと思います。
それが連綿と伝わって、今の日本の仏教が形成されたのではないかと思います。

明治以降、こういう歴史に反する仏教は本来の仏教ではないとする主張がなされ(大乗非仏説)、伝統的な仏教学と両立する形で、学問的には釈尊の時代に原点回帰する傾向にあります。
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この回答へのお礼

忙しさにかまけて、お礼が遅れてしまいました。ご回答いただき、ありがとうございます。
専門家のかたの回答を待っているのですが、中々いただけません。
(2)については、当時の日本にアーガマ等の原始仏教の経典が伝わっていたのか調べてみるつもりです。

お礼日時:2010/01/20 18:35

4です



>民衆の救済=仏教の本質とは考えておりません。

あなたがそう誤解するのは勝手ですが、仏法とは上求菩提=成仏、下化衆生=民衆共済は全宗派全世界の仏教で共通するものです。

民衆共済するもので自分だけがいいとするものではありません。成仏とは自己満足ではありません、利他がないと自己満足です。



日蓮聖人が阿含などを読んだという書き物のはいくつかありますが、小乗大乗分別抄や一代五時図があります。もっともっと仏法を勉強してください。よって天台は省きます。まだまだ入り口にも到達してないですよ!
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この回答へのお礼

 相手を尊重し、争わず、これが仏教の最大の美点です。キリスト教やイスラム教より優れている点だとおもいます。異端として相手を殺したり、異教徒と戦争をしたりしなかったのです。
 私もまだまだ勉強不足なのは、自覚しています。慢心することなく精進していきたいと思います。

お礼日時:2010/01/25 18:58

No.6へのお礼で



>>哲学する姿勢とは、常に懐疑的で批判的なのです。信じてしまったらもはや学問ではないのです。議論の対象が違うのです。立場の違いをご理解ください。

と書かれているのに、No.9へのお礼で

>>私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。いくら、理論的で優れた仏典であっても
ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。

などど書かれているのは、ちょっと悲しいですね。自分自身で結論をすでに出されていて、それを補強するものだけを受け入れているように思えます。

質問者さんが大切にされている「哲学する姿勢、常に懐疑的で批判的」な姿勢からはずれているように感じてしまいます。

ちなみに、参考文献として大切な1冊を書き落としていました

・釈迦の本心/大川隆法/幸福の科学出版

なんか「これ大切!」と思ってしまいこむと、どこいったか?状態になってしまう。本棚を整理しないと・・・
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この回答へのお礼

「私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。いくら、理論的で優れた仏典であっても
ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。」
 上記の私の意見に対するあなたのご批判を真摯に受け止めて、後段の部分は取り消します。
 しかし、現在のところ「幸福の科学」、大川隆法氏の著作については、研究対象外です。

お礼日時:2010/01/25 18:12

 No.9です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。 いくら、理論的で優れた仏典であっても / ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ では ご自由に。
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 こんにちは。


 
 いくらか見方をずらしてお答えのようなものを述べます。

 ★ 諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。
 ☆ 前者については 誰も問題を言う者はいないと思います。
 後者については そうは言うものの もし
 ★ 仏陀とて実体がない
 ☆ として決定したならば――つまり この場合は いわゆる《仏性》のことを取り上げようとしているのですが その仏性ないし如来蔵に実体がないと決定したならば―― 《諸法無我》という理論が普遍的であって実体だということになる。こういう問題をはらんでいると考えます。

 《無記》という答えは おそらくこの《実体 ないし 不可変の普遍性 つまり要するに絶対》を想定しておくという手もあると言っているのではないでしょうか?

 この・あたかもブラフマンと一体のアートマン(つまり 梵我一如)なる観想と軌を一にしてしまう《仏性》の理論を ゴータマ・ブッダは説かなかったが 弟子たちや後世の志を同じくする人びとは 取り上げるようになった。想定としてなら 人間の持ちうる観想として――哲学から見ても不合理ではないかたちで――この仏性がありうると結論づけたのではないでしょうか?

 その《仏性》と《人間としてのブッダ》とは別だという前提に立って 法華経などを読まねばならないでしょうね。後者は 諸行無常に従います。前者は 諸法無我を超えた次元で想定されています。

 この想定の問題については 
 【Q:神について 】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5610123.html
 のわたしの回答No.10を参照していただければさいわいです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。私の問いに対する直接的な回答では、無かったのが少々残念です。
 1については、弟子の創作であると言う意見だと理解してよろしいですね。
 私が、仏陀とて実体が無いといったのは、仏陀は神のような絶対的、不変的な存在ではないと言う意味です。仏陀とて人間ですからその死と共に滅する。死んだ後も仏陀の実体(魂)は存在し、またこの世に生まれ変わるなんて事は、無い。と言うことです。 仏性や如来蔵について言及したのではありません。
 仏性や如来蔵などという考え方は、大乗仏教隆盛の時に、仏法や八正道を実践しない大衆でも成仏できるという考えを正当化するために考えられたものですよね。ブッダ、ゴタータマはそんな事は説かなかったはずです。
 私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。いくら、理論的で優れた仏典であっても
ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。

お礼日時:2010/01/22 19:23

>>ならば、何故あなたは私にそれを説くのですか。

直接釈尊から教えを受けた比丘でさえ到底理解できない事を私ごときが理解できるはずもありません。

質問者さんは、私よりはるかに多くの文献を読まれているようです。そして歴代の仏弟子たちや、現時点で仏教系大学でねじ曲がって広まっている仏教の教えの問題点を、普通なら、私が指摘できるはずはありません。

それをするのは、昨年秋に「幸福の科学」より全国公開された「仏陀再誕」という映画がありましたが、教団の大川隆法総裁が、その映画が示すとおり、釈尊の生まれ変わりであり、いくつかの書籍で、当時の教えと現在理解されている仏教とその派生宗派の教えの相違・問題点を指摘しておられ、それらを読んだからです。

参考書籍は以下のものです。
・悟りの挑戦(上・下)
・永遠の仏陀
・仏陀の証明
・沈黙の仏陀
・大悟の法
・仏陀再誕

直接的ではないですが、以下の書籍も参考になります(入会しないと手に入りませんが・・)
・君よ、涙の谷を渡れ。
・愛、自信、そして勇気

>>私のレベルに合わせた対機説法でお願いします。

仏教とはちょっと離れてコンピュータの話になりますが、初めてC言語で5,6行程度の”こんにちわ、世界!”なんて表示する短いプログラムを作った初心者が、「ネットワーク処理はどうすればいいのですか?データベースのオラクルはどう使えばいいのですか?」なんて雑誌の表紙で見かけた単語を使って質問すれば、経験者は、「それを理解するには、あまりにも多くの経験と知識が足りない。説明する気がしない・・・」ってなるでしょう。
釈尊はそれと同様の気分だったと思います。それで答えず「無記」となったわけです。

プログラム経験者は、「それよりも、地道で、面白みもないけど、C言語の標準ライブラリの使い方を覚えなさい」って指導するでしょうね。でも、それは、経験者がネットワーク処理・データベース処理のプログラムを書く技術が無いわけではありません。
同様に、釈尊も、そのとき「来世の生存がない」とも「転生輪廻がない」と言ったわけでもなく、「宇宙のはてがあるかないか知らない」と言っているわけでもありません。

ちなみに、あまりにも弟子たちにこういうことが多かったので、その後の流れの中で禅宗という「不立文字」という文字を立てない一派ができたそうです。
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ここでは論争はしないこととなっていますが、相違点を明らかにするだけならいいでしょうね。

まあ、この手の問題は、「どっちが正しい」なんて判定は困難ですし、判定が出ないことが宗教である証拠でもあると思いますからね。

>>諸法無我とは、全ての存在には実体が無いのだ、と言う教えだと理解しています。

すでに亡くなられた有名名仏教学者も、そういうことを言われていたようです。が、その方は地獄に堕ちて苦しまれているそうです。なぜ有名な仏教学者の私が、地獄にいるのか理解できないそうです。
そして、こういう考え方の延長には、「死んだら全ておしまい!」という唯物論が待っています。
ただし、それはとても恐ろしい思想ですよ。死んだとき、全て無くなっていればいいのですが、実際には、霊となって、目は見え、考えることもできるわけです。

自分の信念では、死んだらお仕舞いであり、「この世」には私は存在しない。そして、「あの世」も存在しないはずである。では、考えているこの私は何で、ここは何処だ?という疑問でいっぱいになります。あの世にも行けず、フラフラとこの世を浮遊霊のようになってさまよい歩くことになります。

(現在、釈尊の仏教は、おおきくねじ曲げられ、唯物論として仏教大学等で教えられているようですので、こうした思想が仏教と思われるのは悲しいことです)

>>もし、釈尊が霊魂の存在や輪廻転生を肯定していたのであれば、比丘の問いに「ある。」と答えていたはずですよね。

それは、先のお礼のなかで引用されている釈尊のセリフにあるとおりです。釈尊には、宇宙即我の体験で、宇宙のこともわかっていたし、霊魂の存在や転生輪廻の存在は当たり前のことだったはずです。ですが、比丘をはじめ、多くの弟子達にはとうてい理解ができないと思えたので、あえて「ある」と答えなかったわけです。これは、相手のレベルに合わせた対機説法です。これは「無記」といわれますし、「毒矢のたとえ」で説明されたりします。
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この回答へのお礼

釈尊が、霊魂の存在や輪廻転生について説かなかったのは、弟子達たちがとうてい理解できないと思ったからだそうですね。ならば、何故あなたは私にそれを説くのですか。直接釈尊から教えを受けた比丘でさえ到底理解できない事を私ごときが理解できるはずもありません。私のレベルに合わせた対機説法でお願いします。

お礼日時:2010/01/21 00:26

創価学会の者です。



法華経に違和感を感じるとか、法華経が誰によって書かれたとか、そういう問題よりも、果たして法華経で人々は救われるのか、という問題のほうが大切なのではないでしょうか。そもそも仏教をはじめ、宗教の目的は、民衆を救い、利益することにあるからです。

いずれにせよ末法では、釈尊が説いた一切教はもちろんのこと、釈尊が説いたそのままの形の法華経(文上の法華経)ですら、末法では全く無益なのです。

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と日蓮大聖人は仰せです。詳しくは論じませんが、「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(開目抄)とある通り、法華経に秘沈された真髄の法、南無妙法蓮華経(文底の法華経)でこそ、末法の衆生は救われ、利益できるのです。南無妙法蓮華経の日蓮仏法は、世界192カ国・地域にまで広がり、現にこの日蓮仏法で、幸福境涯を築いている人は、世界中に数多くおります。理論によってではなく、実践の結果、「現証」が現れてこそ、その教えは正しいと証明されるのです。

「南無妙法蓮華経」という、いわば立派な建物が完成したのに、その建物を建てるために仮に作られた足場に過ぎない、文上の法華経やその他の一切経についてあれこれ論じる価値は、もはや今日においては乏しいと言えます。

質問趣旨から離れた、横やり的回答をお許しください。
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この回答へのお礼

せっかくご回答くださったのですが、あなた方のような法華経や日蓮の教えを信じている人々とは、一線を画します。宗教を信じる事になど興味がありません。哲学する姿勢とは、常に懐疑的で批判的なのです。信じてしまったらもはや学問ではないのです。議論の対象が違うのです。立場の違いをご理解ください。

お礼日時:2010/01/20 20:15

私など、三日で見抜きましたね、「法華経」などインチキだと。


難しく考える必要はありません、難しく考えると向こうのペースに陥るだけです、そうなると単なる下等動物、畜生ですよ
結局、宗教は自分で作るしかないんです
私はそのように悟りました、そして「人の道」ー我々の宗教に至りました
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仏法の捉え方の問題ですね。

理論とか歴史にとらわれてしまえば釈尊の本質を失います。その本質に最も迫ったのが法華経ですので、人生の答えとか覚りを示されています。

いきなり人生の答えを島されても当然それを受けとれない人もいますし、また理解できなくても不思議ではありません。

ですので理解できないものを自分なりに理解しようとして法華経の真偽論争があります。今回の質問もそれです。

民衆救済という仏教の本質に迫っているかどうかが一番問題とすべきで、最も人々を救う経=女人成仏や悪人成仏、不自惜身命などの究極を書かれてあることからすれば仏法の究極そのものですので、その本質に立脚すれば1の質問などどうでもいいことになります。真の法華者はこの立場です。

2、伝教大師や日蓮聖人の著書には阿含からの引用がありますので読んでいなければ書けなかったでしょう。しかも日蓮聖人は一切の経文を読んだと言ってます。ですが、1と同じで物理的には日本にある一切の経を読んだとしても印度から伝わってない経が有るでしょうから全ての経を読んでないから読んでないのだと捉えるならば仏法の本質に永遠に迫れないでしょう。

本質に迫るには、わが国に最初仏教を取り入れたのが聖徳太子で彼が書いた法華注釈書「法華義疏」があり、これは日本最古の書物でもあり、このことからして仏教の最高峰として捕らえる人は多いです。また岩波から文庫としてでているほどの本でもあります。

上述の本と合わせこれらの本を読んでもっともっと勉強を重ねてください。
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この回答へのお礼

あなたが、おっしゃるように仏法のとらえかたが全く違いますね。民衆の救済=仏教の本質とは考えておりません。民衆の救済=教団の本質ではないですか? 仏法を理解し四諦八正道を実践し、仏陀となる=仏教の本質だと考えています。
 最澄、日蓮の著書に阿含経の引用があるそうですが、なんと言う著書のどの部分ですか。ぜひ読んで見たいので教えてください。
 法華経だけでなく、他の仏典特に原始仏教経典等を読んだ上でなお、法華経が一番だとあなたが考えるのであれ批判はいたしません。しかし、日蓮や聖徳太子がそのように考えたからなどと言うのは、論外です。

お礼日時:2010/01/20 20:01

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Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

Q仏教 法華経が真の仏陀の教えなのですか?

仏教には、様々な経典や宗派がありますが、、
ある宗派の方から仏陀の真の教えは法華経であり、他の経典は方便に過ぎない。だから法華経を礎とする日蓮上人の信仰が本道だと聞かされました。
経典自体は仏陀が書き残した物が無いのに、何故言い切れるのか不思議です。
また法華経は現世では理解できないも聞きました。現世で理解できない経典を礎にするのに反感を持ってしまいます。

Aベストアンサー

こんばんは。
私は本来の「仏陀の教え」は「哲学」だと思っています。

数ある仏典の中で「法華経が最高の教え」ではなく「最も難解な内容の教え」と言う事ではないでしょうか?また、大乗仏教の経典は、法華経を含めて全てが方便だと思います。

釈迦はそもそも「自帰依」と言うか、他人に頼らず、各個人が自分で真理にそって努力、行動しなければ救われないといっています。つまり「仏」ではなく「法(真理)」が人を救うと言う事になります。

もし釈迦が実際の教えに出来るだけ近い、忠実な内容を知るには、前の方がおっしゃるように、上座部仏教のサンスクリット語やパーリー語の経典から見出すしかないのでしょう。
また、もっとも古い部類の経典には、仏陀が自ら「実際に超常的存在(霊の類)を見た」、と発言したと書かれていたものが無かったはずです。いろいろな仏教の経典には悪魔や古代インドの神が仏陀の前に現れ問答したと書かれていますが、これは後に信者の誰かが仏陀を神秘化するために付け加えたないようだといわれています。

※中国の天台大師智顗が、最初に五時八教説(簡単に言うと、世の中に存在する経典のうち法華経がもっとも重要な教えだと言うこと)を唱え、その後の時代、法華経を学んだ人間達の(世界的視野から見て)一部の人間が法華経が最高の教えだと主張しています。
実際には、後の客観的な研究で法華経のみならず大乗の多くの仏典が、後の時代に色々な人間により内容が付け加えらたり、各人の解釈が加えられた事が明らかに成っいます。

私の場合は色々な宗派の経典を読んだ事はありますが、宗派とは関係ない者です(いわば中立です)。仏陀の本当に近い説法を読んで、考えたり実践したり、何かの足しになればと思っている程度の者です。
参考になれば。

こんばんは。
私は本来の「仏陀の教え」は「哲学」だと思っています。

数ある仏典の中で「法華経が最高の教え」ではなく「最も難解な内容の教え」と言う事ではないでしょうか?また、大乗仏教の経典は、法華経を含めて全てが方便だと思います。

釈迦はそもそも「自帰依」と言うか、他人に頼らず、各個人が自分で真理にそって努力、行動しなければ救われないといっています。つまり「仏」ではなく「法(真理)」が人を救うと言う事になります。

もし釈迦が実際の教えに出来るだけ近い、忠実な内容を知る...続きを読む

Q日蓮宗と創価学会の関係

先日初めて日蓮宗の葬儀に参列しました。
日蓮宗にあまり馴染みがなかったので、「教えて!goo」で日蓮宗を
検索したところ、「創価学会」とつながりがあることがわかりました。
具体的にどういう関係なのか教えてください。

あと、日蓮宗って仏教ですよね(違っていたらごめんなさい)
なぜ、仏壇の中に仏様がいらっしゃらないのでしょうか?

Aベストアンサー

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

創価学会なんですが、最初は創価教育学会といいまして、
宗教団体ではありませんでした。それが、道徳教育には宗教が必要だという考えもあって
日蓮正宗へ参加します。でもって袂を分かつんですが、日蓮正宗方の言い分は
邪流に走ったから破門なんですが、創価学会方の思いは「散々、貢がせておいて
いらなくなったらポイっかい」というものです。
なので、創価学会は寺院も坊さんもおらず、葬式も友人葬として学会員で行います。
日蓮正宗が学会を池田教といえば創価学会は正宗を日顕宗と呼んだりしています。
悪く言えば、しいたげられても尽くしてきたのに、必要がなくなったら
あっさりとフラれたときの逆恨みとでもいいましょうか、
聖教新聞なんかを見るとあからさまな攻撃記事がありますね。
共通点と言えば、双方とも何か言えば必ず反論してくるところです。

仏壇に仏像がない理由ですが
現在の仏像というのは仏教を広めるために他の宗教の神様が仏に帰依したという
考えのもとできあがったもので、本来、釈迦が説いたものには偶像という概念が
ありませんでした。日蓮大聖人もまた釈迦が説いた仏法への回帰を目指していたため
正統な日蓮系には偶像崇拝はないんですね。

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

創価学会な...続きを読む

Qなぜ日本人は法華経を愛しているのでしょうか?

私は日本の仏教史について調べていて疑問に思うことがありました。それは、著名な日本の仏教家の多くが法華経をどの経典よりも重要視してきたことです。
天台宗の教祖最澄、日蓮宗の教祖日蓮はもちろん、聖徳太子、道元、白隠なども法華経を最高の経典としています。
また、民間信仰でも法華経信仰が浸透していて、法華経の塔が各地にたてられていると聞きます。
近代の知識人にも影響を与え、有名なところでは、宮沢賢治、石原莞爾、北一輝、高山樗牛らがいます。
朝鮮では華厳経の影響が強いようですが、日本では華厳経の影響はあまり強くありません。
なぜ、日本ではこれほど法華経が愛され続けてきたのでしょうか。法華経には日本文化と共鳴する部分があるのでしょうか。
皆さんのご意見をお待ちしています。

Aベストアンサー

ある先生が言っておられましたが、法華経は論理よりイメージの世界の広がりが大きく、左脳の「ロゴス脳」よりも右脳の「パトス脳」での理解に向いているお経だそうで・・・
中国人や韓国人などの大脳は、欧米人と同じように左脳の働きが強いそうですが、イメージや情念を司る右脳型の日本人には、法華経は打って付けだったそうです。
因みに、同じ法華経を読みながら、中国人である天台智顫は、左脳を駆使して精緻な論理を構築しましが、そうしたロジカルな天台の教義は日本ではあまり花咲かず、法華経のイメージ的な部分から様々な宗派が生まれました。
日本人は七面倒臭い論理よりも、直感や情感が好きなんですね。
宮沢賢治の世界は、まさに論理を越えた情感と直感そのものですよね。

法華経って、絵画的で文学的ですよね。

Q創価学会の方、南無妙法蓮華経について教えてください

創価学会の人に、毎日、南無妙法蓮華経を唱えれば道が開けるといわれております。

たとえ意味もわからずとも、ただただ、唱えて行けば御利益があると聞きましたが本当でしょうか?

たくさん唱えればそれだけ効果があるのでしょうか?

その方は「宇宙のリズム」だと言うのですが…・

教えてください。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>たとえ意味もわからずとも、ただただ、唱えて行けば御利益があると聞きましたが本当でしょうか?

本当です。

ただし、邪悪な願いは叶いません。
また、他人の不幸を願えば、返って自分自身に災いが降ってくるでしょう。


>たくさん唱えればそれだけ効果があるのでしょうか?

もちろんです。

しかし、日蓮大聖人は「ただの一遍でも唱える事でも、大きな功徳がある。」と仰っています。
それを沢山唱えれば、計り知れない功徳となるでしょう。


>その方は「宇宙のリズム」だと言うのですが…・

その通りです。
森羅万象の現象を、慈悲の功徳の方向へと導いていく“法”なのです。
これは、釈尊が法華経に現した“法”を、末法の御本仏である日蓮大聖人が、末法の衆生のために『御本尊』として現したものです。

また、日蓮が現したものだから、『日蓮宗』も一緒だと言われる方がおりますが、『日蓮宗』に伝わるものは日蓮大聖人よりの相続を受けておりませんので、同じ『南無妙法蓮華経』だったとしても全く粗法であり功徳はありません。全国には沢山の日蓮宗の寺院がありますが、そこに帰依しても何の功徳も得る事はできません。

では、『日蓮正宗なら良いのか』という事になりますが、日蓮正宗、法華講、妙観講等の信心でも功徳はありません。

細かくなり申し訳御座いませんが、同じ『南無妙法蓮華経』を唱えたとしても、唱えていく題目からして違うのですから、功徳があることはないでしょう。

今、日蓮大聖人の信心というものは、創価学会にしか流れていないのです。ここが大事な点です。

創価学会 壮年部の者です。

>たとえ意味もわからずとも、ただただ、唱えて行けば御利益があると聞きましたが本当でしょうか?

本当です。

ただし、邪悪な願いは叶いません。
また、他人の不幸を願えば、返って自分自身に災いが降ってくるでしょう。


>たくさん唱えればそれだけ効果があるのでしょうか?

もちろんです。

しかし、日蓮大聖人は「ただの一遍でも唱える事でも、大きな功徳がある。」と仰っています。
それを沢山唱えれば、計り知れない功徳となるでしょう。


>その方は「宇宙のリズム」だと言...続きを読む

Q般若心経はすべての宗派でもよいと思っていたのですが…

日蓮宗だけはちがうのでしょうか?
写経を納経したいのですが…

そして~
法華経を写経したいのですが、日蓮様が祭られている、〈例えば池上本門寺など〉でお経を購入できるのでしょうか?

Aベストアンサー

一般に写経といえば、般若心経といわれるように、京都の大覚寺などに書写のため訪れる人は年間に相当数に及びます。
般若心経を唱える宗派は、古くは奈良時代の南都仏教から、空海、最澄が伝えた密教(真言宗、天台宗)に加え、いわゆる禅宗三宗といわれる臨済宗、曹洞宗、黄蘗集などです。
しかし日蓮宗、浄土宗、浄土真宗といった鎌倉仏教諸派は、拠り所としている経典が違うため般若心経を唱えることはありません。
私は個人的に浄土真宗(門徒)ですが、同宗は浄土三部経といわれる阿弥陀経を中心とした経典を称えます。また日蓮宗は法華経を根本に据えるはずですね、
それらのお経の据え方の違いの大きくは、その時々の時代背景によるものとだけ申し上げておきます。
ただ、浄土真宗開祖の親鸞上人も日蓮宗開祖の日蓮上人も修行時代はどちらも比叡山(天台密教)に教えを請い、その遍歴の中から衆人の救済のために自らの解釈をお説きになったものと考えます。
お経とはそもそも、釈迦の言葉をお弟子さんたちが書き残したものです。
般若心経は数ある経典のなかでも、人々が生きるための知恵を纏めた大般若経600巻といわれる大経典のエッセンスといわれ、最も短く、もっともありがたいお経といわれています。
もちろん、上記の二大上人も勉強しているはずですし、称えているのは仏教に限らず神道の在家の方々も称えるそうです。
古くは、後奈良天皇の時代、世に疫病がはやったため同天皇が自ら般若心経を書写して諸国の神社に奉納したという話もあるくらいです。
生きるための心理を説いているので何物にも妨げられないということでしょうか・・・
日蓮宗の解釈を理解もせず軽軽には申せませんし、日蓮宗のお寺に納経するのはどうかと思いますが、日頃、般若心経を写経することは構わないのではと私は思います。
また、それぞれの宗派のお経のポピュラーなものはどこでも売っていますが、法華経や阿弥陀経などは大変な量となりますので、功徳を積むには達成感もあろうかと思いますが、よくお考えになってはどうでしょうか。
以上、私の解釈として自信ありでご回答させていただきます。

一般に写経といえば、般若心経といわれるように、京都の大覚寺などに書写のため訪れる人は年間に相当数に及びます。
般若心経を唱える宗派は、古くは奈良時代の南都仏教から、空海、最澄が伝えた密教(真言宗、天台宗)に加え、いわゆる禅宗三宗といわれる臨済宗、曹洞宗、黄蘗集などです。
しかし日蓮宗、浄土宗、浄土真宗といった鎌倉仏教諸派は、拠り所としている経典が違うため般若心経を唱えることはありません。
私は個人的に浄土真宗(門徒)ですが、同宗は浄土三部経といわれる阿弥陀経を中心とした経典...続きを読む

Q「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。

「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。
自分なりに調べてみたのですが「諸行無常」と「諸法無我」の意味や違いが理解できません。できれば具体例をまじえながら説明していただければ幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q主に「仏教」のいわゆる人間の「死後」の過程について

●こんにちは、特になんらかの信仰者というわけでもないし、死後の世界を信じるわけでもない(全否定ではないですケド)のですが、こういう考え方があること自体に個人的に興味があったので質問しました。
●本題ですが、主に仏教(他教でもぜんっぜんかまいません)の事なのですが、「三途の川」を渡るとか「輪廻転生」とか言いますが、実際死んだ瞬間からどのような過程を経て最終的にどうなるとされているのですか?
●もう一つ、おまけ的な質問してすいませんが、マンガとかで死者の頭上にある「輪っか」は、宗教上存在するものですか?名前などあれば…。
よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

仏教では、人が死ぬと輪廻転生により、六道(天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄)の
いずれかにまた生まれ変わります。
今私たちは、人間界にいるのですが、死ぬまでに徳を積む、簡単に言えば善い事をたくさんすると、
天上界に生まれ変わるし、悪い事をすると、修羅界や餓鬼界に生まれ変わってしまいます。
でも、天上界生まれたとしても、そこで悪いとをすると、また地獄界に落ちることもあります。
この繰り返しを永遠と行うのです。
ところが、「ある事」をすると、この永遠の輪廻から外れて、(解脱といいます)
極楽浄土(ほかにも瑠璃浄土とかもある)に行くことができます。
その「ある事」は、宗派によって違います。
念仏を唱えるだけでよい!と教える宗派もあれば、修行をしなさい!と言う宗派もあります。
仏教の基本的な考えでは輪廻は、人が死んだ瞬間に起きる(すぐ次の界に生まれ変わる)はずなんですが、
日本仏教では、この変がちょいと違います。(インドや中国の仏教でも似たような考え方はあります)

人が死ぬと、その人が次にどの界に生まれ変わるかを、裁判で決定するのです。
この裁判期間にいる場所のことを「中陰」と言っています。(早い話しが拘置所です、笑)

この中陰の世界ですが、
まず、険しい山路から始まります。この山路を7日間歩きます。
歩き切ると、第一の裁判官「秦広王」の前に行き着きます。
ここで、1回目の裁判ですが、この裁判は略式で行われます。
そのあと、また歩いていくと、かの有名な「三途の川」を渡ります。
川を渡ると、1本の木があり、その木の下には、爺さんと婆さんがいて、
着ていた服を全て剥がれてしまいます。
素っ裸にされた後、2回目の裁判です。
担当する裁判官は、「初江王」です。この時点で14日が経過しています。
その後は、7日ごとに、全部で7回裁判があります。
3回目(21日目)は、宋帝王、4回目(28日目)は、五官王、5回目(35日目)は、閻魔王
6回目(42日目)は、変成王、そして7回目(49日目)は、泰山王です。
7回目の最終裁判が終わると、判決が出ます。
判決は、口頭で行われるのではなく、6つの鳥居が示され、そのいずれか一つを
くぐることを言い渡されます。
6つの鳥居は、それぞれ、六道につながっていますから、くぐった瞬間につぎの輪廻先が決定するわけです。
と!見てきた様なことを書いてしまいました!(爆)

マンガでよくみる、頭の輪っかですが、あれは、キリスト教のものでしょう。
宗教画家たちが、「知徳の象徴」として書いたもののようです。
書き方も、時代によっては、輪っかじゃなくて、円盤状のものもあります。
仏教で似たようなものといえば、仏像の後ろに付いている放射状の物ですね
あれは、「光背」と呼んでいます。

出来るだけ、簡単に書こうと思ったんですが、長文になってしまいました。

仏教では、人が死ぬと輪廻転生により、六道(天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄)の
いずれかにまた生まれ変わります。
今私たちは、人間界にいるのですが、死ぬまでに徳を積む、簡単に言えば善い事をたくさんすると、
天上界に生まれ変わるし、悪い事をすると、修羅界や餓鬼界に生まれ変わってしまいます。
でも、天上界生まれたとしても、そこで悪いとをすると、また地獄界に落ちることもあります。
この繰り返しを永遠と行うのです。
ところが、「ある事」をすると、この永遠の輪廻から外れて、(解脱...続きを読む

Q法華経と般若心経

法華経と般若心経は、どちらの方が優れた経典なんでしょうか?
独断と偏見でいいので、教えて下さい。

Aベストアンサー

真理はシンプルです。

色即是空、空即是色  ← これだけです。

真理を理解するのに、万巻の聖典は不要です。

よって、
間違いなく、
軍配は、
般若心経にあがります。
分厚い聖典を広げて、
おれはこんなに理解してるんだぞ~
おれは聖典を知らないやつより、
一段高い所にいるんだぞ~
などと、思ってる輩は、偽者です。

分厚い聖典が必要と思っていたら、
釈尊自身が、それを書かれているはずです。
釈尊自身は何も書き表していません。
その理由は、

色即是空、空即是色 ← これしかないからです。

膨大な言葉の羅列は、
真理を歪め、
人心を惑わす。
そのことを、
釈尊は理解されていたのでしょう。

以上

Q創価学会の人かどうかの見分け方を教えてください。

事情で、創価学会の人とできるだけ関わりたくありません。
(詳しくは書きませんが、かなり迷惑を被っています。)
これからいろいろな人と知り合いになると思いますが、
創価学会の人かどうか見分け方がありましたら、
知っておきたいです。

ちなみに自分なりに考えたのが、
・どこの新聞をとっているか聞く
・どんなスタイルの結婚式を挙げたかを聞く
(神式、キリスト教式だと大丈夫かも)  です。
最近知り合った人には、さりげなく聞いてみて一安心でした。

たまたま私の知り合った人が熱心すぎる人だっただけで、
学会の人全てを否定しているわけではありませんが、
この事にかなりナーバスになっていますので、
学会の方はお気を悪くされないで下さいませ。
あと、学会の批判ではなくて、見分け方のみご回答願います。

Aベストアンサー

学会会員です。比較的簡単な見分け方は.

1.死者がいないのに(紙製の)仏壇を持っている
2.木製の仏壇の場合は.つくりが派手(他の宗派の場合には.分家したときに作った仏壇をいつまでも使いつづけるので.結構古い物が転がっています)。
3.お守り.破魔矢.熊手.達磨等の縁起物を持たない・買わない(私のような例外もいますが)
4.命日など家族で遠距離の墓参りに行く。(近所の宗派の方は.命日の近くの都合のよい日に出かけます。)
5.若い人のばあいには.「宗教の話をする」。今の若い方々は.宗教関係に興味を持たないのが大多数ですから。
6.夕方特定の遊びまわるわけでもないのに集まる(勉強買いです)。若い方の場合には.酒飲んでカラオケで騒ぐのが普通ですが.これをしない場合です。
7.宗教(日蓮)関係のわけのわからない本がある。


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