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 「法華経」に違和感を感じてしまいました。
 私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。
 原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。
 しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。
 よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。
 ここで、質問です。
 (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。
 (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。
 念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。

A 回答 (12件中1~10件)

4です



>民衆の救済=仏教の本質とは考えておりません。

あなたがそう誤解するのは勝手ですが、仏法とは上求菩提=成仏、下化衆生=民衆共済は全宗派全世界の仏教で共通するものです。

民衆共済するもので自分だけがいいとするものではありません。成仏とは自己満足ではありません、利他がないと自己満足です。



日蓮聖人が阿含などを読んだという書き物のはいくつかありますが、小乗大乗分別抄や一代五時図があります。もっともっと仏法を勉強してください。よって天台は省きます。まだまだ入り口にも到達してないですよ!
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この回答へのお礼

 相手を尊重し、争わず、これが仏教の最大の美点です。キリスト教やイスラム教より優れている点だとおもいます。異端として相手を殺したり、異教徒と戦争をしたりしなかったのです。
 私もまだまだ勉強不足なのは、自覚しています。慢心することなく精進していきたいと思います。

お礼日時:2010/01/25 18:58

No.6へのお礼で



>>哲学する姿勢とは、常に懐疑的で批判的なのです。信じてしまったらもはや学問ではないのです。議論の対象が違うのです。立場の違いをご理解ください。

と書かれているのに、No.9へのお礼で

>>私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。いくら、理論的で優れた仏典であっても
ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。

などど書かれているのは、ちょっと悲しいですね。自分自身で結論をすでに出されていて、それを補強するものだけを受け入れているように思えます。

質問者さんが大切にされている「哲学する姿勢、常に懐疑的で批判的」な姿勢からはずれているように感じてしまいます。

ちなみに、参考文献として大切な1冊を書き落としていました

・釈迦の本心/大川隆法/幸福の科学出版

なんか「これ大切!」と思ってしまいこむと、どこいったか?状態になってしまう。本棚を整理しないと・・・
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この回答へのお礼

「私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。いくら、理論的で優れた仏典であっても
ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。」
 上記の私の意見に対するあなたのご批判を真摯に受け止めて、後段の部分は取り消します。
 しかし、現在のところ「幸福の科学」、大川隆法氏の著作については、研究対象外です。

お礼日時:2010/01/25 18:12

 No.9です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。 いくら、理論的で優れた仏典であっても / ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ では ご自由に。
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 こんにちは。


 
 いくらか見方をずらしてお答えのようなものを述べます。

 ★ 諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。
 ☆ 前者については 誰も問題を言う者はいないと思います。
 後者については そうは言うものの もし
 ★ 仏陀とて実体がない
 ☆ として決定したならば――つまり この場合は いわゆる《仏性》のことを取り上げようとしているのですが その仏性ないし如来蔵に実体がないと決定したならば―― 《諸法無我》という理論が普遍的であって実体だということになる。こういう問題をはらんでいると考えます。

 《無記》という答えは おそらくこの《実体 ないし 不可変の普遍性 つまり要するに絶対》を想定しておくという手もあると言っているのではないでしょうか?

 この・あたかもブラフマンと一体のアートマン(つまり 梵我一如)なる観想と軌を一にしてしまう《仏性》の理論を ゴータマ・ブッダは説かなかったが 弟子たちや後世の志を同じくする人びとは 取り上げるようになった。想定としてなら 人間の持ちうる観想として――哲学から見ても不合理ではないかたちで――この仏性がありうると結論づけたのではないでしょうか?

 その《仏性》と《人間としてのブッダ》とは別だという前提に立って 法華経などを読まねばならないでしょうね。後者は 諸行無常に従います。前者は 諸法無我を超えた次元で想定されています。

 この想定の問題については 
 【Q:神について 】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5610123.html
 のわたしの回答No.10を参照していただければさいわいです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。私の問いに対する直接的な回答では、無かったのが少々残念です。
 1については、弟子の創作であると言う意見だと理解してよろしいですね。
 私が、仏陀とて実体が無いといったのは、仏陀は神のような絶対的、不変的な存在ではないと言う意味です。仏陀とて人間ですからその死と共に滅する。死んだ後も仏陀の実体(魂)は存在し、またこの世に生まれ変わるなんて事は、無い。と言うことです。 仏性や如来蔵について言及したのではありません。
 仏性や如来蔵などという考え方は、大乗仏教隆盛の時に、仏法や八正道を実践しない大衆でも成仏できるという考えを正当化するために考えられたものですよね。ブッダ、ゴタータマはそんな事は説かなかったはずです。
 私の最大の関心事は、ブッダ、ゴータマの説いたことなのです。いくら、理論的で優れた仏典であっても
ブッダ、ゴータマが説いたものでなかったら、私の関心外です。

お礼日時:2010/01/22 19:23

>>ならば、何故あなたは私にそれを説くのですか。

直接釈尊から教えを受けた比丘でさえ到底理解できない事を私ごときが理解できるはずもありません。

質問者さんは、私よりはるかに多くの文献を読まれているようです。そして歴代の仏弟子たちや、現時点で仏教系大学でねじ曲がって広まっている仏教の教えの問題点を、普通なら、私が指摘できるはずはありません。

それをするのは、昨年秋に「幸福の科学」より全国公開された「仏陀再誕」という映画がありましたが、教団の大川隆法総裁が、その映画が示すとおり、釈尊の生まれ変わりであり、いくつかの書籍で、当時の教えと現在理解されている仏教とその派生宗派の教えの相違・問題点を指摘しておられ、それらを読んだからです。

参考書籍は以下のものです。
・悟りの挑戦(上・下)
・永遠の仏陀
・仏陀の証明
・沈黙の仏陀
・大悟の法
・仏陀再誕

直接的ではないですが、以下の書籍も参考になります(入会しないと手に入りませんが・・)
・君よ、涙の谷を渡れ。
・愛、自信、そして勇気

>>私のレベルに合わせた対機説法でお願いします。

仏教とはちょっと離れてコンピュータの話になりますが、初めてC言語で5,6行程度の”こんにちわ、世界!”なんて表示する短いプログラムを作った初心者が、「ネットワーク処理はどうすればいいのですか?データベースのオラクルはどう使えばいいのですか?」なんて雑誌の表紙で見かけた単語を使って質問すれば、経験者は、「それを理解するには、あまりにも多くの経験と知識が足りない。説明する気がしない・・・」ってなるでしょう。
釈尊はそれと同様の気分だったと思います。それで答えず「無記」となったわけです。

プログラム経験者は、「それよりも、地道で、面白みもないけど、C言語の標準ライブラリの使い方を覚えなさい」って指導するでしょうね。でも、それは、経験者がネットワーク処理・データベース処理のプログラムを書く技術が無いわけではありません。
同様に、釈尊も、そのとき「来世の生存がない」とも「転生輪廻がない」と言ったわけでもなく、「宇宙のはてがあるかないか知らない」と言っているわけでもありません。

ちなみに、あまりにも弟子たちにこういうことが多かったので、その後の流れの中で禅宗という「不立文字」という文字を立てない一派ができたそうです。
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ここでは論争はしないこととなっていますが、相違点を明らかにするだけならいいでしょうね。

まあ、この手の問題は、「どっちが正しい」なんて判定は困難ですし、判定が出ないことが宗教である証拠でもあると思いますからね。

>>諸法無我とは、全ての存在には実体が無いのだ、と言う教えだと理解しています。

すでに亡くなられた有名名仏教学者も、そういうことを言われていたようです。が、その方は地獄に堕ちて苦しまれているそうです。なぜ有名な仏教学者の私が、地獄にいるのか理解できないそうです。
そして、こういう考え方の延長には、「死んだら全ておしまい!」という唯物論が待っています。
ただし、それはとても恐ろしい思想ですよ。死んだとき、全て無くなっていればいいのですが、実際には、霊となって、目は見え、考えることもできるわけです。

自分の信念では、死んだらお仕舞いであり、「この世」には私は存在しない。そして、「あの世」も存在しないはずである。では、考えているこの私は何で、ここは何処だ?という疑問でいっぱいになります。あの世にも行けず、フラフラとこの世を浮遊霊のようになってさまよい歩くことになります。

(現在、釈尊の仏教は、おおきくねじ曲げられ、唯物論として仏教大学等で教えられているようですので、こうした思想が仏教と思われるのは悲しいことです)

>>もし、釈尊が霊魂の存在や輪廻転生を肯定していたのであれば、比丘の問いに「ある。」と答えていたはずですよね。

それは、先のお礼のなかで引用されている釈尊のセリフにあるとおりです。釈尊には、宇宙即我の体験で、宇宙のこともわかっていたし、霊魂の存在や転生輪廻の存在は当たり前のことだったはずです。ですが、比丘をはじめ、多くの弟子達にはとうてい理解ができないと思えたので、あえて「ある」と答えなかったわけです。これは、相手のレベルに合わせた対機説法です。これは「無記」といわれますし、「毒矢のたとえ」で説明されたりします。
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この回答へのお礼

釈尊が、霊魂の存在や輪廻転生について説かなかったのは、弟子達たちがとうてい理解できないと思ったからだそうですね。ならば、何故あなたは私にそれを説くのですか。直接釈尊から教えを受けた比丘でさえ到底理解できない事を私ごときが理解できるはずもありません。私のレベルに合わせた対機説法でお願いします。

お礼日時:2010/01/21 00:26

創価学会の者です。



法華経に違和感を感じるとか、法華経が誰によって書かれたとか、そういう問題よりも、果たして法華経で人々は救われるのか、という問題のほうが大切なのではないでしょうか。そもそも仏教をはじめ、宗教の目的は、民衆を救い、利益することにあるからです。

いずれにせよ末法では、釈尊が説いた一切教はもちろんのこと、釈尊が説いたそのままの形の法華経(文上の法華経)ですら、末法では全く無益なのです。

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と日蓮大聖人は仰せです。詳しくは論じませんが、「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(開目抄)とある通り、法華経に秘沈された真髄の法、南無妙法蓮華経(文底の法華経)でこそ、末法の衆生は救われ、利益できるのです。南無妙法蓮華経の日蓮仏法は、世界192カ国・地域にまで広がり、現にこの日蓮仏法で、幸福境涯を築いている人は、世界中に数多くおります。理論によってではなく、実践の結果、「現証」が現れてこそ、その教えは正しいと証明されるのです。

「南無妙法蓮華経」という、いわば立派な建物が完成したのに、その建物を建てるために仮に作られた足場に過ぎない、文上の法華経やその他の一切経についてあれこれ論じる価値は、もはや今日においては乏しいと言えます。

質問趣旨から離れた、横やり的回答をお許しください。
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この回答へのお礼

せっかくご回答くださったのですが、あなた方のような法華経や日蓮の教えを信じている人々とは、一線を画します。宗教を信じる事になど興味がありません。哲学する姿勢とは、常に懐疑的で批判的なのです。信じてしまったらもはや学問ではないのです。議論の対象が違うのです。立場の違いをご理解ください。

お礼日時:2010/01/20 20:15

私など、三日で見抜きましたね、「法華経」などインチキだと。


難しく考える必要はありません、難しく考えると向こうのペースに陥るだけです、そうなると単なる下等動物、畜生ですよ
結局、宗教は自分で作るしかないんです
私はそのように悟りました、そして「人の道」ー我々の宗教に至りました
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仏法の捉え方の問題ですね。

理論とか歴史にとらわれてしまえば釈尊の本質を失います。その本質に最も迫ったのが法華経ですので、人生の答えとか覚りを示されています。

いきなり人生の答えを島されても当然それを受けとれない人もいますし、また理解できなくても不思議ではありません。

ですので理解できないものを自分なりに理解しようとして法華経の真偽論争があります。今回の質問もそれです。

民衆救済という仏教の本質に迫っているかどうかが一番問題とすべきで、最も人々を救う経=女人成仏や悪人成仏、不自惜身命などの究極を書かれてあることからすれば仏法の究極そのものですので、その本質に立脚すれば1の質問などどうでもいいことになります。真の法華者はこの立場です。

2、伝教大師や日蓮聖人の著書には阿含からの引用がありますので読んでいなければ書けなかったでしょう。しかも日蓮聖人は一切の経文を読んだと言ってます。ですが、1と同じで物理的には日本にある一切の経を読んだとしても印度から伝わってない経が有るでしょうから全ての経を読んでないから読んでないのだと捉えるならば仏法の本質に永遠に迫れないでしょう。

本質に迫るには、わが国に最初仏教を取り入れたのが聖徳太子で彼が書いた法華注釈書「法華義疏」があり、これは日本最古の書物でもあり、このことからして仏教の最高峰として捕らえる人は多いです。また岩波から文庫としてでているほどの本でもあります。

上述の本と合わせこれらの本を読んでもっともっと勉強を重ねてください。
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この回答へのお礼

あなたが、おっしゃるように仏法のとらえかたが全く違いますね。民衆の救済=仏教の本質とは考えておりません。民衆の救済=教団の本質ではないですか? 仏法を理解し四諦八正道を実践し、仏陀となる=仏教の本質だと考えています。
 最澄、日蓮の著書に阿含経の引用があるそうですが、なんと言う著書のどの部分ですか。ぜひ読んで見たいので教えてください。
 法華経だけでなく、他の仏典特に原始仏教経典等を読んだ上でなお、法華経が一番だとあなたが考えるのであれ批判はいたしません。しかし、日蓮や聖徳太子がそのように考えたからなどと言うのは、論外です。

お礼日時:2010/01/20 20:01

(1)と(2)については私もNo.2さんの回答に賛成です。



で、それ以外の部分について

>>自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。

これは、正しいと思います。が、誤解を生む可能性のある記述でもあると思います。地上に生まれた仏陀と、霊界における創造主的な仏陀、そしてイエスのいうような「神の国」をさす「仏国土」と2つの意味があり、この記述は、霊界での仏陀を表現したものだと思います。地上に王子として生まれた仏陀は、当然ながら死んで肉体は滅んだわけです。そして、永久に存在する、この世ならざる存在のお方も「仏陀」と呼ばれています。幸福の科学の言い方をすれば「エル・カンターレ」ですね。

>>法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。

これは、弟子の創作で、仏法の教えからみてウソでしょう。

>>諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。

これはインドで誤解されて、「仏教は無神論である」と批判された論理ですね。諸行無常は、「この世」のありさま(物理法則?)についての教えであり、諸法無我も「この世だけを見て、我が身だけ可愛いと思って迷える人間の心」について、その迷い、ワガママな心を指摘するものです。この2つを理解し、「自分自身は、この世だけの存在ではない。魂は(霊は)転生輪廻をして、永遠に生き続ける」と悟ったとき、「涅槃寂静」の境地に一歩近づけます。

「諸行無常だから、仏陀が永遠じゃない」とか「諸法無我で、我が無いから、転生輪廻する実態がない」という批判は、この世だけをみているからです。

幾何学でいえば、「リーマン幾何学によれば、それはウソだ!」と論じているが、その論じる対象は、「非リーマン幾何学」の世界であったっていうようなものです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。三法印の理解の仕方が、貴殿と私では違っています。諸行無常とは、物理的なものだけではなく人間の精神的な働きも無常(色。受、想、行、識は、全て無常)であると理解しています。宇宙の全てが無常ある。勿論、仏陀も例外ではありません。
 諸法無我とは、全ての存在には実体が無いのだ、と言う教えだと理解しています。人間は、意識や心などを生じさせる本質を「わたし」つまり「我」が存在してるからだと錯覚しています。しかも「我」は永久不滅の存在で、肉体が滅んでも「我=霊魂」は存在し続け、死後の世界や転生したりもするという考えが、釈尊が生きていた時代の常識でした。しかし、そのような「我」の存在が執着を生み苦となると考えた釈尊は、「我」の存在を否定したのです。(相応部経典「無常」、雑阿含経「清浄」)
 マールンクヤー・プッタという比丘が、釈尊に質問しました。(1)、この世は有限であるか無限であるか。(2)霊魂と肉体は一つであるか各別であるか。(3)人は死して後も存在するかしないか。と。しかし、釈尊は何も答えなかった。さらに、その比丘が血色ばって詰め寄ると「わたしは、世界の常住。無住、あるいは有辺・無辺については、なにも説かない。また、霊魂、肉体のことあるいは死後の存在については、何事も説かない。それらの事は、道理の把握に役立たず、聖道の実践には役立たず、究極の目的の実現に役立たないからである。」と語ったのです。(中部経典「摩羅迦子」。中阿含経「箭喩経」。)
 もし、釈尊が霊魂の存在や輪廻転生を肯定していたのであれば、比丘の問いに「ある。」と答えていたはずですよね。

お礼日時:2010/01/20 19:38

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