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いまさらながら、人生の意味、人間とは何か、生きるとは何か、について迷っています。

意味が見出せず、虚しい気持ちになってしまいます。

先哲の著作でも読めば、何かヒントを見出せるかもと思っています。

古今東西の哲学者で、こうした疑問や迷いに道を開いてくれそうな人はいますか。

お勧めの哲学者を教えて下さい。

よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

先日、爆笑問題のニッポンの教養というNHKの番組で「木田元」という先生が出ておられました。


とても哲学界では有名な先生のようで、番組中でも「人間とは」ということにたいして太田さんと議論していました。
よろしければ参考にしてみてください。

あと、個人的にそういったことを考えながら生きるよりも、毎日前向きに、普通に生きていくことが大事だと思います。
自分もそのことをよく考えてしまいますが、考えても仕方がない。言葉で理解しても仕方がないような気がします。考えるより、行動すべきだと思います。あくまでも自分の意見ですので、そうじゃないと思えば無視してください。

参考URL:http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20080422.h …
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この回答へのお礼

有難うございます。
木田元という方は、お名前だけ知っています。
検索してみます。
毎日前向きに普通に生きていく。
考えるより行動。
その通りなんだと思います。
どうも厭世観に囚われてしまっているようで、元気が出ず困っています。
このままでは拙いですね。
何か行動するように考えてみます。

お礼日時:2010/02/27 14:34

わたしが以前質問した問答でよければ参考にしてください。


ご回答くださったSさんには感謝しております。

ーーーーー質問
人間は何の為に生き、何の為に働くの?
ーーーーーSさんのご回答
物質に「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
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この回答へのお礼

有難うございます。
人が生きるのは、精神的充足感のためであり、それは「他人」を助ける=愛によって満たされる。
これは、まさに私の空虚感を満たしてくれる答えですね。

お礼日時:2010/03/02 18:00

生きる意味を見つけたいと言う事ですが、是は実は簡単な事なのです。

この答えは実は貴方は知っています。その答えが貴方に問いかけています。生きる意味を見つけたい、或いは死にたくない(永遠の命が欲しい)と言う事も皆同じ事です。

その原理を書いてみますので参考にして下さい。人間は反省と、対比と言うものをします、或いはするようになっています。それは脳の機能からそうなっています。死にたくないと言う事は、裏を返した場合には死ぬのがいやだ、つまり永遠の命が欲しいと言う現われです。

人生の意味を見つけたいと言う事と、永遠の命が欲しいと言う事は、繋がりがあります、どういう事かと言いますと、どちらも自分は持っているという事で繋がりが在ると言っています。

話を昔に戻してみます。貴方が子供の時です、貴方には生きる意味は判らなかったはずです。ですが貴方には判っていました。或いは永遠に死なない感じというものも貴方は知っていたと思います。そうして自分は何者か?という事も実感として知っていました。何故ならば自分が誰で何処から来たのかと言う事を疑いさえ持たなかったとお思います。

この事が聖書などに書かれている事です。天国に一番近い存在は「幼子」と言う事になります。思春期頃から人生に疑いを持って、人間としての悩みが始まります。その事を失楽園と言う風に呼んでいます。つまり脳が人間らしくなって完成に近ずいた、と言う意味になります。

それは分離脳の研究成果を見た場合に判ります。昔世界中で「テンカン治療」の一環として左右の脳をつないでいる、脳梁というものを切断する治療法が一般におこなわれていた時代がありました。今はその治療法はなくなったようですが、当時左右の脳が分離されていた大勢の人達を対象に様々な実験が行われた事が有りました。

その分離脳の実験から導き出された結論が有ります。その結論とは「左脳には一つの人格が存在している、そうしてその人格とは、自我意識である」という事でした。驚く事に「右脳にも一つの人格が存在している」と言う事です。驚くべき事は「この二つの人格は、全く別な人格である」と言う事です。

これから書く事は、私の体験です。教科書や本には出ていませんが、後ほど、参考になるものも挙げてみたいと思います。

人間には分かりにくい事ですが、人格が二人存在しています。子供時代には脳の機能分化が進んでいないために、人格は一人と言う事になります。つまり心に矛盾や対立や、分裂がないと言う意味になります。思春期頃から悩みや精神疾患が多くなり始めると言う事と符合しています。

人間の悩みや苦しみとは「心の矛盾や対立や分裂」と言う事です。心が苦しくなるその訳は、もう一つの意識(人格)からの圧迫と言う事がいえます。心の矛盾の正体とは自我意識の他に自分にはもう一つ人格が(自分には分からないながらも)存在しているからです。

もう一つの右脳に存在する意識とは、無意識や潜在意識や、体中のホルモンや、自律神経など自我意識には出来ない事をするような機能になっているようです。従って今までは説明できなかった事が全て説明する事ができることになります。

例えば「精神疾患の原因を解明できていない事は、精神医療の恥」と言う言葉があるくらいです。精神疾患の完治が今までに無かったという事は、原因が特定できていなかった事によります。寛快が限度という訳は、原因が特定できていなかったからです。

自律神経失調症にしても、精神疾患にしても、神経症にしてもその原因は全て同じ事が原因となっています。貴方の問いかけ「人生の意味」を求める事も皆同じ原因があります。それは「心同士の問いかけ合い」つまり心の矛盾から始まっています。

もし興味があるようでしたら、A.V.フランクル博士の書いたものを読むことをお勧めします。その中の言葉に「識られざる神」と言うものが有ります。又そのものずばりの題名の本もあります。『「生きる意味」を求めて』 や『意味への意思』と言うものも有ります。それは参考になると思いますが、話を続けます。

人間の疑問や、悩みや、苦しみと言うものを突き詰めた場合に突き当たるのは「心の闇」或いは精神的な苦しさ、或いは「魂からの叫び」というものが聞こえそうになると言う事です。もっとはきりと言うならば、有限の壁を越えたいという呻きになるかもしれないと言う事です。永遠を掴めないものか!という事になります。是が人間の闇を見せ付けています。

つまり心の矛盾と言う事になります。是は右脳の意識は永遠で出来ています。この事が人間の心に不安を抱かせています。精神疾患や自律神経失調症や、神経症などの原因は「生きる事の不安」がその元となっています。その不安が何処から来るのかが分からない事によって、さらに不安になっているからです。

その事が全ての宗教の根本になっています。ユダヤ教においては「ヤーウエー」この意味は「在りて在る者」と言う意味です。キリスト教においては「神と和解せよ」仏教においては「悟りを開く」という事です。違う形に見えていますが、全てが同じ事を言っています。つまり「左脳の自我意識が、感情の元になっている右脳の意識と出会う」という意味になります。

つまり自分の自我意識を働かせている「自分自身の命の働きを知る」という意味となります。人生に疑問を抱く事は自分自身の答えが自我意識に問いかけているという意味になります。その答えは自分自身が答える他には無いと言う意味になります。その参考となるものが経典と言う事になりますが、昔の言葉を、それも外国の言葉を翻訳して、又翻訳しています。分かるはずが有りません。ですが今の日本にはその自分自身を知るためのテキストが存在しています。

それが禅問答という事になります。自我意識は機能から言いますと、「分別」で出来ています。分別という事は割り切れる計算で出来ていると言う意味です。従って自我意識の出来る事は有限の壁の中で、生きてゆく以外には無い、という事になります。

永遠を掴むと言う事は、自我意識には不可能という事になります。その不可能を可能にするところのものが、「禅問答」という事になります。どういう事かを言ってみます。自我意識には言葉があります、ちゃんと理解できるように出来ています。ですが右脳の意識(無意識の意識)には言葉が無いからです。是はそういう機能になっているからです。

悟りを開くのが難しいわけが此処に有ります。言葉で考える事に慣れている脳に、違う思考方法でなければ、出会う事が難しいと言うわけになります。二つの意識の出会いが「悟りを開く」という意味になります。或いは「神に会って和解する」と言う事も同じ事を言っています。自力本願では「悟りを開く」と言う言い方ですが、他力本願ならば「阿弥陀様に救われる」という事になります。キリスト教では「神に会って和解する」という事になります。

これをもって「全ての疑問が氷解する」或いは「人生の苦悩が終結する」或いは人間としての「全ての障害が解消される」という事になります。何故ならば、全ての元になっていた者が誰だか分かるからです。ソクラテスの言う「汝自身を知れ」と言う事です。禅問答が解けた時に「生死の問題が解決した」と言う言い方をします。この心境を「涅槃」と言います。「絶対の安心」の事です。心が限り無く静かになっている状態の事です。「心の矛盾が解消した姿」の事です。

自我意識のみで苦悩していた事から、自我意識は一歩引いて、もう一つの意識に自分の至らない処を全て任せ様という事になります。人間の苦悩とは抱え込んでいる問題を、機能的に出来る方の脳にインプットできるのか?出来ないのかと言う言い方も出来ます。人間は天国に住むことは出来ます。自我意識の分別を捨てないと難しいと言う事になります。

尚禅に付いては、鈴木大拙博士の著書を参考にして下さい。私の場合には大変参考になりました。禅の門はたたいた事はありません。只神経症から治った時の感想が「生死の問題」が解決した事で完治した経験が在ります。
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この回答へのお礼

有難うございます。
フランクル博士の著作は、だいぶ昔に読んだ覚えがあります。
なかなか難しい問題ですが、自分なりに歩を進めたいと思います。

お礼日時:2010/03/02 17:52

答えはあります。

仏になるため。

それは「完全を目指すこと」です。注意してほしいのは「完全」ではなく「完全を目指すこと」にある点です。東洋ではその「完全を目指すこと」を擬人化して「仏」または「本仏」と言います。

では仏とは何かというと法=完全=完璧=宇宙=永遠=最大=最強=究極=正義=絶対=ポジティブ=最小=最弱=ネガティブ=心理学=最小=最弱=ネガティブ=無=有=正義(しょうぎ)=幸せ=地獄=全て(=としましたが本来は「即」です)でそれらは知ろうとすれば仏法を学ぶことです。
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この回答へのお礼

有難うございます。
仏教には関心があります。
少しずつ書物を読んでいきたいと思います。

お礼日時:2010/03/02 17:15

高校生の頃『ソフィーの世界』という本を読んだら、色々な哲学者の考えが易しく読めましたよ。


物語にもなっているので、物語自体も楽しめました。
易しすぎたらごめんなさい。

ちなみに人生の意味、人間とは何か、生きるとは何か。
私も答えは出せませんが、きっと答えはシンプルなんだろうな、と思っています。
悩めば悩む程に迷宮入りしてしまう気がします。
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この回答へのお礼

有難うございます。
「ソフィーの世界」は、読みたいと思いながらまだ読んでいません。
是非読みたいと思います。

お礼日時:2010/02/27 14:40

明石家さんま。

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はじめまして。

私はキリスト教徒(カトリック)なので、質問者さんのような話をきくと、
ついつい、「教会に来てくれたらいいのに」と、思ってしまいます。
でも、日本では、「宗教」っていうだけで、イメージ悪いですからね。。。(^_^;)

でも、電化製品にも「製造物責任法」(PL法)なんて言葉があるくらいですし、
困った時には、最終的には、それを「作った人」に問いただすというのは、アリだと思います。
電化製品なら、メーカー。自動車なら、自動車会社。本なら作者。
人間とか、人生とか、この世の事なら、やっぱり、造り主=神様だと思います。

「ものすごく嫌」とかでなければ、伝統的な宗教。
つまり、新興宗教ではなく、1000年、2000年の歴史のあるもの。
具体的には、仏教とかキリスト教とかのうち、新興宗教化、異端化していない物を、
覗いてみるのは、悪くないと思います。
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この回答へのお礼

有難うございます。
キリスト教は、どうも敬遠してしまいます。
聖書もろくに読んでいないので、あれこれ言えないんですけど。
仏教の方が身近に感じるので、名僧の教えなど覗いてみます。

お礼日時:2010/02/27 14:38

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