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梵我一如とは

A 回答 (6件)

 宇宙を支配する原理(ブラハマン)と自分個人を支配する原理(アートマン)は、同じだ、という思想。

詳しくは

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91% …
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この回答へのお礼

SPS700様

  早速のご回答有り難うございます。

  思想から抜け出し、現実にそのようになることもあるのでしょうか。
  
  参考になりました。

お礼日時:2010/04/24 08:09

【梵我一如】意味は「梵と我は一つの如し」



簡単に言うと、『個々のものに見えているもの(例:宇宙・僕・君・壁・猫・しゃもじ・自販機etc..)も、実は一体である』

と私は理解してますが♪
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この回答へのお礼

UZweb8000様

梵と我は、常に一体なのですね。私もその様に思います。

簡潔なお言葉で梵我一如を説明頂き有り難うございます。

お礼日時:2010/04/25 22:22

梵我一如とは



そうですね。「思想」と捉えると間違いですね。「意識の様」が正しい捉え方でしょうね。
難しすぎるから、判りやすい例がいるかな。
例えば、講堂で何千人もが講師の講義を聞いています。その中の一人があなたとしましょう。あなたはあなたの肉体があなただと思って講義を聞いてますからあなたの肉体以上の空間にはなりえませんが、もしあなたがあなたの肉体を忘れて意識だけになると、あなたは何千人もいる講堂を包み込むようなあなたになれるはずですね。それを拡張していくと講堂から町へ都市へ地球へ太陽系へ銀河へ・・といかようにもあなた自身の意識は広がるはずですね。
その様が「梵我一如」ということですね。
釈尊は宇宙ボールぐらいの意識になれたということですね。一方、空海上人は、空海が土佐の室戸岬で座禅中に体験した神秘体験「心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照らし来て、菩薩の威を顕す」
を参考にすると、明けの明星が口に入ったという感じですから、地球ぐらいの大きさにまでなれたということですね。
・・・・あくまで意識ですよ。肉体が変身するわけないからね。
人の心は「握一点、開無限」と同じ意味ですね。つまり蟻にも宇宙ボールにもなれるということですね。蟻のような心で固まっている人多いから勉強して地球ぐらいの心の人になってくださいね。
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この回答へのお礼

mmky様

肉体を忘れ意識だけになることが「梵我一如」ですね。

分かりやすい具体例で説明頂きまして、理解が深まりました。
有り難うございます。

お礼日時:2010/04/25 22:23

 バラモン教の根本思想の一つで、宇宙の根本原理ブラフマン(梵)と個人存在の本体であるアートマン(我)とは同一である考えられ、この知識を得ることによって“解脱”が達成される(インド思想の主流)、と辞典にありました。

【要約です】

 宇宙の精神も人の精神も同質、同じである。ということを言っているのではないでしょうか。
 
 宇宙の精神を大海にたとえれば人の精神は岩に砕ける波しぶき。
 海水であることに変わりはないということ。

 また、神や仏と人間との関係を宗教の世界では、親と子の関係に例えますね。
 天に在します我らが父よ、とか、聖母マリアとか。仏教なら御親とか仏子とか。

 さらに考えます。

 母親のみ胸にい抱かれた幼子は心安らかにしています。
 その幼子の心を思うと、この世界が“平安、涅槃”というものではないかと。

 その行き着くところ、究極の世界が神や仏の心。
 その神、仏の御胸にい抱かれた状態が“梵我一如”。

 こんなことを思ってみました。

 ちょっと舌足らずで回答としては中途半端な気分ですが、うまく表現できなくて残念です。

 
 
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この回答へのお礼

vv8vv8az様

ご説明いただいた、母親のみ胸にい抱かれた幼子は、“梵我一如”の状態だと思います。人は、言葉を覚えるに従って、肉体を維持するために、インストールされた自己防衛プログラムが解凍され、煩悩の渦に巻き込まれるのではないかと思っています。

有り難うございました。

お礼日時:2010/04/25 22:26

自らが判ると言う事です。


身の程を知る。
こういう口繰りを理解できるならば、それは自らに過小評価がある片鱗です。
このような物言いは自らに煩悩があることの表れです。
そうでは無く等身大であるべきが「自らが判る」事です。
でも、身の程知らずは最悪です。
そこで出てくるのが「梵我一如」です。
この観念は仏性の探究で無くバラモンの見出したインド初見の神の姿に由来します。
お釈迦様はそのバラモンの神の姿を明白に継承して仏性を語りました。
したがってお釈迦さまも信仰に根ざして生きた人間です。
仏と言う言葉にはこの面では誤解がはびこっています。
よって仏とは現代語訳で人間の事を指します。
お釈迦さまも人間であるからでして、彼は仏と言う言葉で人間らしさを象徴したに過ぎません。
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この回答へのお礼

primeape様

自分を等身大に評価することを教えて頂き有り難うございます。私も、お釈迦さまは、一人のヒンディー教徒と考えています。

有り難うございました。

お礼日時:2010/04/25 22:27

No.1様の云う通りと思います。

その事を知識で捕らえようとしてもそれは『机上の理論』が分かった、というに過ぎません。本当に分かったという事は、体が分かった。『体得』という事にならないといけません。それが悟りです。悟りの原理を書いてみますので、ご自分で体得する事お勧めしたいと思います。

人間は自我意識で考えています。それは左脳の意識です。顕在意識です。自我意識は『言葉』で考える意識です。言葉には限界が在ります。他の言い方をするなら、自我意識の考え方にも限界があります。如何云う事かというと、物事を割り切ってゆくという分別心に限界が在ると言う事です。

何故なら、割り切れる事を『有限』と定めて在るからです。従って左脳に在る『分別心』で考えている間は『有限の壁』は越えられないという事になります。それで禅坊さんは『分別を捨てろ!』と言います。

人間を苦しめる事になる『漠然とした不安、或いは有限の壁を越えられないじれったさ、或いは自分は何ものか?、或いは自分は何処から来て何処へ行くのか?』と言った悩みや、生き難さや、根本的な疑問が湧き上がってきます。

この疑問や悩みが何処から湧き上がってくるのかが『宗教の目的』となって来ましたが、その解決が『悟り』という事になります。或いはキリスト教的に云うならば『神に会って和解する』という事になります。何故ならばこれ等の問題の、全てを解決してくれるからです。自分自身を脅かせていた者、或いは自分自身を不安におとしめていた者、或いは自分自身に疑問を抱かせていた者が『誰』であったかが分かるからです。その者と和解が成立する事で『全ての不安や、疑問が』氷解するからです。

『意識の根底』からの疑問や、不安が『意識の根底から』分かるという事になります。それが『心身脱落、脱落心身』という事になります。それが『真理を体得した』という事です。この事を理論的に書いてみます。

天国に一番近い存在は『幼子』と聖書に書いてあります。それは脳の機能が『未分化』だからです。子供から大人になってくる過程で脳は成長してきます。この脳の成長とは左右の脳の機能が『分化』してきます、この事が『失楽園』という現象になっています。つまり心が二つになってくると言う現象の事です。

人間の苦しみとは『心の矛盾や対立や、分裂』という事になります。人間の心が二つ在るところに人間の苦しみが存在していると言う事になります。思春期頃から昔の宗教家は『無情』を感じて出家しています。今の時代は宗教家のところには行かないで『医師』の元に通うようになっています。医師は、薬を出して、クルト.シュナイガーの言葉{内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。}としながらも、『薬を出しておきます、治療をすれば治ります』と言っています。

原因が特定できていなくとも『治る』という事には、合点が行きませんが、今の医学の限界が『寛快』というものかと思います。

本当の意味での心の病い、精神疾患、神経症、自律神経失調症などは『心の矛盾』が原因です。人間には『識られざる神』が内在しています。それは右脳の意識です。『無意識界や潜在意識界』を統率しています。その意識は人間の体の調節や、ホルモンの分泌や、呼吸や心臓の速さも自在に替える働きがあります。正に『命の働きそのもの』という役目があります。

その者は誰の脳の中にも内在しています。右脳の意識として、無意識の意識として、仏性として内在しています。その者は自我意識と常に一緒に行動をしています。その者は言葉を持っていません。気配や、言葉によらない情報で自我意識に常に働きかけています。その働きの一端を書いて見ます。

誰の心にも湧き上がる感情の中で、その感情を湧きあがらせる『者がそれ』です。高い所に上がった時、納期が迫った時、スピードを出しすぎた時等です。急ブレーキを掛ける時には『自我意識に替わって』体を働かせています。その証拠が『思わずに』体が動いています。自我意識が関与しない時にも、体は反応します。

誰もいない野原で歩いている時には、歩いている事さえ『意識』していません、が自由に歩けます。大勢の人の前で話をするとなったら、壇上に上がるために歩く時には、歩く事さえ『自我意識』が出た場合には自由になりません。この事が関係しています。

もう残りの字数に限りがありますので、結論です。人間には『自覚できなくとも』もう一つの意識が存在しています。その意識は目の前の事を『自我意識』には分からなくとも、事実を事実として認識をして『言葉によらない』情報で自我意識に絶えず教えています。事実と一体となっている者です。その者とかけ離れた時が、人間の障害となります。その者と一体となる時が『無病息災』の時です。

梵我一如です。
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この回答へのお礼

tumaritoul様

(左脳の)自我意識が(右脳の)無意識の自分を明確につかみ取ることが「悟り」ということになるのですね。『言葉によらない』情報で自我意識に絶えず教えてくれるのは、言葉を変えれば神ということになるのですね。

有り難うございました。

お礼日時:2010/04/25 22:30

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