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野獣、獣、それらもその巣には7つの子が在ったりするのでしょうが、
聖書で言う野獣、それはなにか?
世界で核軍縮、テロリズムの取り締まりは時代の流れですが、経済、金権、金、これらの無法、不法、人道への背任、

これらにて生計を立てる輩、聖書における野獣中の野獣といえないか?

A 回答 (4件)

あなたのご指摘は大変鋭い、聖書の正しい解釈であると思います。

正に聖書というのはあなたの仰るように「世界に於ける経済、金権、金、これらの無法、不法、人道への背任、これらにて生計を立てる輩(つまり、世界中の生活者に)聖書における野獣中の野獣」となるべきことを強く、強く信者に命令していると思います。

  その冒頭に曰く。「生めよ、殖えよ、地に満てよ!」。これはまさに「キリスト教徒によって異教徒を絶滅し、この世界中を征服せよ」とキリストが命じているものですね。さらにキリストは続けます。「あらゆる動物、一木一草、虫けら一匹に至るまで、人間(つまりキリスト教徒)の足下に組み敷け」と。
  即ち、キリスト教の聖書は、この世の生きとし生けるもの全てを、キリスト教徒をより良く生かしめる隷属者として征服し尽くせ、と聖書の冒頭からキリストが強く命じているものであると解釈できると思います。キリスト教にあってはキリスト者以外は人間の形をしてはいるが「人」には当たらないとされている事は昔から有名ですね。原爆が日本人に対して使用されたのも、日本人が非キリスト教徒であるが故に「人」ではないとの考えに支配されたものだ、と俗説として広く信じられているのもキリスト教の聖書の教えが敷衍されたものであろうと思います。これは人類最大の「人道への背任」でしょう。

  さて、このような根本教義を戴く宗教であってみれば、それを信じている人たちが無意識のうちに「弱肉強食」の潜在意識に強く染まっていくのは当然の帰結ではないでしょうか?

  キリスト教原理主義のアメリカの歴史を振り返ってみましょう。それは一握りの純粋なキリスト教徒(ピューリタン、つまりは狂信者?)の欲望からスタートしていますね。彼等は全く完全に自分たちのみにしか通用しない論理によって、勝手に他人の肥沃な土地に乗り込み、その地で平和に、豊かに暮らしていた人たちを、女性、子供を問わず、あたかも狩りを楽しむがごとく楽しみながら文字通り皆殺しにして、奪い尽くしてしまいました。この行為は、先住の人たちが非キリスト教徒であるが故に人間の形をした野獣に過ぎない、と考えなければとてもなし得ない蛮行だと思います。これは即ち、自分たち自身を「野獣中の野獣」たらしめた行為であると、私は思いますが、彼等自身はそうとは思わないようです。そして、この行為は「純粋キリスト者とその同調者」によって、まさに「聖書の教えの通りに」忠実に実行されたものであると思います。

  昔、私たちはジョンウエインなどの颯爽たる勇姿に魅せられて、彼等が「この世の悪である」インディアンをまるで風船玉を割るようにばたばたとなぎ倒すのに拍手喝采を送りました。ここ20年以上、おそらくは30年以上の間、西部劇映画の新作がばったりと途絶えてしまっています。彼等があれ程胸を張って世界中に宣伝した西部開拓史が、気がついてみれば自分たちキリスト教徒自身の野獣性を世界中に宣伝していたことになっていた、ということと私は感じています。このこと一つでも聖書の欺瞞性は充分に露見しているのではないでしょうか?

  あなたの仰る「世界に於ける経済、金権、金、これらの無法、不法、人道への背任、これらにて生計を立てる輩(つまり、世界中の生活者に)聖書における野獣中の野獣」の発祥地は全て「キリスト教原理主義」の国アメリカですね。そして、そのアメリカはそもそもの出発からして「純粋のキリスト教徒」による「野獣中の野獣」的蛮行から生まれ出た国です。現在のアメリカはある意味成るべくして成った野蛮国家ではないでしょうか?

  最後に、私が著名な映画「ダビンチコード」を見たときに聞いた、主人公が発した一言が何時までも耳に残って離れませんので、ご紹介しておきます。
「一神教があるかぎり神の名において殺人は行われ続ける」
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この回答へのお礼

ちからのこもった回答、有難うございました。

お礼日時:2010/09/11 10:10

A no.2です。


何かを世に出すという行為は、一人の手によって出来るものではありません。
人間である農家が作った作物が食卓へ届くまでには、
やはり同質の人間の努力によって運搬され、保管・管理・選別され、
販売され、調理され、ようやく我々の口へ届くわけです。


もし芸術家が画商を非難するならば、
あるいは研究者が出資者を非難するということがあるならば、
私はその厚顔さにあきれるばかりです。
仮にその芸術家に世に認められる才があったとしても、
その対価を支払わないということがあるとすれば、
それは彼は自身の作品が人の目に届く過程に存在する、
世のあらゆる他人の努力を認めていないということに他なりません。



金融や物流は、現代においてまさに一つの学問そのものなのです。
その研究と美を、一生産者である芸術家や研究者が独り占めにする社会は、
金融や物流という学問・芸術、そこからもたらされる美を辱める行為では
ないでしょうか。
それは役者が絵画の静性を非難し、画家が役者の生命の短さを非難するがごとく
まったく傲慢でナンセンスな行為であると、私は思います。


芸術家や研究者が、もし経済的に困窮するというのであれば、
それは彼らが、金融という学問を学んでいない
(あるいは"傲慢にも"学問ではない、と蔑んでいる)ためです。
同時に彼らが理解すべきはまず、物流という人間社会の芸術そのものなのです。

この回答への補足

_何かを世に出すという行為は、一人の手によって出来るものではありません_
まったくそのとおり。日本の食の安全、安定を不動のものとする。まして世界の...。政治家、調理師等の英知を結集しても難しいのが現在か?しかし、
 ”人間が生きていくうえで必要なものがある。衣・食・住がそれである。
 社会はこれら三つの物を、すべての人間に何の代償もなしに供給すべきである。(ラエル)”

_もし芸術家が画商を非難するならば_
天才たちが人類全体の境遇を改善するために働くのに対し、政治家たちは自分自身が利権を得るために公約をする。どちらが統治に値するだろうか。

 どの世代も、発明家たちを生み出すが、人類という種の生存を危険にさらすために、権力がそれを利用する。そして、こうして利用され裏切られた発明家たちは、自分の発明品が、罪もない人びとを殺りくするために用いられるのを見て、嘆く。
 こうしたことは、もう続いてはならない!
 人類を今も進歩させ、また常に進歩させてきた唯一の人びとに、権力を与える時である。それは、統治している時に、自分たちに何ができるかを示す機会をすべて持っていた、筋骨たくましい乱暴者や有産者、専門知識人、政治家、軍人のいずれでもない。そうではなくて、それは、自分たちに何ができるかを示す機会を全く持つことができずにきた唯一の人びと、すなわち天才たちである!

所有することしかできず、自分自身が画家であろうとは決してしないものたちに、いったい何を教えなければならないというのか!

_金融や物流は、現代においてまさに一つの学問そのものなのです。_
見方を変えれば、そろばん塾という学問が政治に混ざり、入りもしない人災を撒き散らしている感が高いが、例えば航空宇宙時代、益々発展し、従来通りなら今後天文学的な数字を計上するはずだが、二股かけて大丈夫だろうか?

_それは彼らが、金融という学問を学んでいない_
ドルや円と言ったものを取り扱うより、それ無しで、ダイレクトに物資を研究開発、全人類にその必要数を文句なく揃える、そのほうが爆発的な芸術だと見えるがいかに?

補足日時:2010/08/29 00:45
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この回答へのお礼

 将来はどうなるのだろうか?労働時間はますます短縮されるだろう。そのことは、既に誰もが認めている。一日六時間、次に五時間、四時間、三時間・・・・・と次第に短くなっていくはずである。
 逆に、年次休暇は長くなっていくだろう。夏に一カ月半、冬に二週間、復活祭に二週間(小学生のように合計二カ月半)が、次には夏に二カ月、冬に一カ月、そして復活祭に一カ月、合計年に四カ月という具合にである。仕事も次第に二人の人間によって行われるようになり、それにつれて労働時間も短くなり、二人の「共同従業員」の各々が、一年に八カ月の休暇を自由に使えるようになる。また引退の年齢は、五十歳、四十五歳、四十歳・・と次第に早まっていくだろう。
 そのとき人間はどのように時間を費すだろう?あなたはどう思うだろうか?ここに一つの問題が浮かび上がってくる。あなたの受けた教育があなたをも汚染し、強制労働の終身刑に同意するようにあなたを形造ってしまっていることだ。人間には二つのタイプが出てくることになろう。一方は、一つの天職「天賦の才」を持ち、余暇もしくは引退後に、自分の好きな領域で自発的に労働することで自己開花する人びと、他方は、余暇を、自分の教養を高めたり文化活動やスポーツなど、各人に応じた娯楽のために活用する人びとである。
 各人の自由時間が次第に増えるにつれ、常時あるバカンスでこれらの大衆を楽しませるために、あらゆる種類の作家、画家、詩人、エンターテイナー、芸術家がますます必要となるだろう。あるときは生産者、あるときは消費者というように、各人がその能力と嗜好に応じて自由にその立場を変えるのである。
 一定期間(できる限り早急に)が経過すると、労働時間はますます短縮され、引退年齢もますます早まり、最後には義務的労働、強制的労働は完全に廃止されることになるだろう。働くことが好きな人々のみが「自発的に」労働を続けるのだ。そのとき人びとは、「人権宣言」の第一条に「すべての人間は何の代償もなしに、その出生から死亡に至るまで、快適な生活を享受する権利を有する」と記すであろう。
 それではその時、必要不可欠な仕事をいったい誰がやるのかと、あなたは私に問うだろう。それは、機械がやるのだ!まだあなたが十分気がつかない程度ではあるが、既にロボットは人間の負担を軽減し始めている。もし私たちが「既に」一日八時間以上は働かなくなっているとしたら、それは機械のおかげに他ならない。もし機械が存在していなかったなら、私たちは五十年前と同じく、いまだに一日十時間は働かなければならないだろう。例えばフィアット社では、車一台製造するのに二十年前には百人の労働者を必要としたが、今ではたった一人の人間で十分だ。私はいま「たった一人の人間」と言ったのだ!この工場で作動している百パーセント自動化された新しい組み立てラインは、一台のコンビユーターによって完全に制御されている。
そして、中央制御室でたった一人の技術者が、繰作と監視をしているだけである。そして、この技術者自身も近い将来は、さらに精巧な一台のコンピューターにとって代えられるであろう!農業においても同じことが言える。カリフォルニアでは特定のぶどう栽培者たちが、必要な時にはいつでも自動的に、ぶどうの株を暖めたり、水をまいたり、肥料をやったりする、一台のコンピューターと連結された栽培システムを整えている。
 しかし、明らかに資本主義社会では、このシステムは成功の見込みがない。というのは、例えば工場の所有者は、全労働者を解雇し、かれらにはもはや給料を払わず、そうすることでかつての労働力であった労働者を飢えるままにしておきながら、機械のおかげで自分たちは荒稼ぎするからである。これは不正であり容認できないことである。百人の労働者に代わる一台の機械を製造させた経営者は、もはや働くことのなくなった百人の労働者たちに給料を支払い続けねばならない。その時機械は、労働者たちがレジャーと開花の文明に入ることを可能にするのだ。
 ところが、人は愚かにも、機械は人間を隷属させ、技術は社会における人間性を喪失させると言う。しかし、それは間違いだ′ 確かに工場は人間を隷属させる。というのは、工場は人間が、そこで終身の強制労働につく場所であるからだ。工場は人間を隷属させるが、ロボットは人間を自由にする。
また、人間が強制労働の機械、もしくは強制労働の場所へ行く通勤の機械と混同されている限りは、技術は社会の人間性を喪失させることになろう。機械と人間とは決して混同されてはならない。人間は開花のための場所で存在するように造られており、いっぼう機械は、ロボットやコンピューターに管理されて、労働のための場所で存在するように造られているのだ。人間によって遂行される労働はすべて..._ラエル著

お礼日時:2010/09/10 13:12

根拠の無い全能性を主張し、


自らの陰湿さを社会に責任転嫁し、
あまつさえ、不当に社会を批判し、
社会の生産活動へは加わらず、
負担すべき公共の税を支払わず、
その贅をもって口に糊をする厚顔さを持ち、
閉じた社会で恒常的に性犯罪が立件される。

そんなろくでもない集団の巣なんて、
現代では"宗教団体"以外には無いですよね。



金銭とは、人間同士の取引の対価としてのみ、
その価値が認められる、ただの数値です。
何かをしてもらって、その対価を支払わない。
そんなことがあるとすれば、これは相手の価値を
認めていないということに他なりません。

無償を賛美するということは、
相手の能力と、努力と、そこからもたらされる献身を貶める、
全くの下劣な行為であると言えるのではないでしょうか。


現代の獣たる"宗教の信奉者"の皆様におかれましては、
まず、カエサルのものはカエサルに返却されることから
始めればよろしいかと思います。

この回答への補足

貨幣の廃止すなわち真実の価値への復帰
 現代社会において、人がある個人に置く価値は、しばしばその財産に比例する。作家、画家、発明家、音楽家、研究者に関しても、文無しの者は世間の関心を引くことがない。人は、個人に特有の価値よりも金銭的な価値の方を重んじ、それを強調するものとして「金持ちにしか金を貸さない」という諺がよく引かれる。このことは単に金を貸す場面だけではなく、人の気を引く場面においても全く同様に真実である。天才画家も、かれの絵を通りに並べると誰の気も引かないのに、この同じ画家が著名な画廊に展示すると、世の女性たちを有頂天にさせるのである。音楽家や詩人についても同じことが言える。貨幣の容認は、現代人の目にとって価値を持つ唯一のものなのだ。
 現代の一流画家として認められはじめた私の友人は、かれを掘り出してきた画商が、どのようにしてかれを世に出し、かれの絵を人びとが先を争って非常な高値で買い求めるようにしていったかを、私に説明してくれた。この画商はまず手始めに、この画家の絵を買うことが大変な投資(いつも金がからむわけだが)になる、と映画の大スターに持ちかけた。次に大新聞の再重要ポストにいる記者たちにかれの絵を見せて、この若い天才画家に興味を示している大スターの話をしながら、この若い芸術家を世に出す記事を書くように、そうすれば一週間もすればその絵は莫大な価値をうみ、何の問題もなく売れるだろうと頼みこむ。こうして世に売り出す運動が始められ、他の新聞も後に続き「その作品を人々が争い求める新進気鋭の天才」とほめそやし、次にはテレビ・・・・・・。そうしておいて画商は、財界の大物たちに、値が非常に高く吊りあがる前に「まだ手に入るいくらかの作品」を買うようにと持ちかける。そこで一万フランを受けとり有頂天になっていた記者たちに見せた絵を、その大物に売りつける。卸商人の所に蓄えていた百枚近くの絵はたちまちのうちに売り切れ、あとはもう、ひとりでに値が上がり続けていく。上流社会の者たちは互いに見せて自慢し合い、あらゆる新聞が新たなピカソの出現と書き立てているあの有名なX のうちの一枚を、相場の二倍で買い戻そうとする。私の友人はこの間に、月々相当の金(まさに管理職の給料に匹敵する)を画商から受け取った。その代わりこの三年間、毎年何枚かの絵を画商に描いて渡さなければならないのだ!勿論、モンマルトルの家の下で、腹が空いて死ぬ思いをするよりはましであったろうが。
 こうして、自分の好きな作品を創作できるという情熱は全くなく、もっぱら金と利益に基づくプロセスを経ることによって、芸術家のスターが作り出されていく。そして、名前はふせるが、このシステムの醜悪さを知りつくしている例の私の友人は、毎年彼が渡さなければならない二十五枚の絵を、その搾取者に預けるのである。かれはそれらの絵を、自分のものではない全くの見せ掛けのスタイルで、週末にぞんざいに描いて渡し、一年の残りの期間は、自分の好きな、そして自分自身のために残しておく絵を描くのだ!かれは契約が切れたときは、自分の本当の作品を展示するつもりでいる。しかしこのようにしてまで、天才が認められるためには、かくも暗い道を通らねばならないのだろうか!
 貨幣が廃止されるとき、画家、音楽家、発明家および研究者は、自分のすきなことを行うことができるようになる。そして、かれらと同時代の、一人の画家の原画を手に入れるチャンスがあるのは、銀行に多くの預金を持つこと以外に何の価値も認めない者たちではなく、画家が描きたかったものに強く心を動かされて、画家の前に姿を現す者たちである。その情熱と感動があまりに大きいので、画家は好意でもって自分の絵をその者たちに与えるのである。そうしたときにこそ、真実の価値が定着するのだ。人はもはや、非常に高価なコレクションで画廊をびっくりさせようとはしなくなる。そしてたくさんの絵画、彫刻、タピストリー(壁掛)を手に入れる人とは、芸術家たちを最も良く評価して理解し、最上の情熱と友情と私心のない激励を芸術家たちに贈った者であろう。個人的な価値への礼賛が、貨幣への礼賛にとって代わるのだ。かれは芸術家たちと同時代に生き、かれらの創作物がうまれるのを目の当たりにする最初の者となるだろう。そして、かれらと生活を共にすることのできるよろこびで打ち震えている信奉者やファンたちと共に、芸術家たちは本当の創作活動を持つであろう。
所有することしかできず、自分自身が画家であろうとは決してしないものたちに、いったい何を教えなければならないというのか!
 貨幣が廃止されるとき、人びとはなぜ「最初の者が最後の者になるであろう」と書かれてきたのかを、本当に理解することであろう。《ラエル著天才政治》

補足日時:2010/08/28 22:51
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この回答へのお礼

所得格差の是正から貨幣の廃止へ
貨幣に関して、貴族政治の時代、すなわち農民から搾取した領主たちの時代では、農民を一とすると小領主が約千、大領主が一万、そして、その国を治める国王が十万以上という所得格差が存在した。今日この格差は著しく縮小している。フランスだけをとってみても、「フランス革命」の際には暴力的に、それ以降は漸進的に格差縮小がなされて、法定最低賃金制の導入にまで至っている。かつての国王に相当する国家の頂上にたつ人物、すなわちフランス共和国大統領も、現物給付される官舎や公用車といった特典を考慮しても、一九七七年度におけるその所得は、法定最低賃金の約三十倍以上はないのである。わずか二百年という年月を考えても、その格差はいまだに大きいが、格差は引き続き縮小していくことであろう。
また、大領主に相当するものとして代議士、将軍あるいは実業家をあげることができるが、かれらも平均して最低賃金の約十五倍以上は得ておらず、前述した、かつての一万倍に比べると比較にならない数である。 最後に、小領主に相当するものとして、市町村長あるいは小企業の経営者をあげることができるが、かれらも最低賃金の約七倍以上は得ていない。

世界中のあらゆる政府が、所得格差を減少させるための計画を立案している。
そして、この傾向は労働時間の短縮傾向と連動しながら、全地球上で所得格差がゼロになる日まで続いていくだろう。所得格差がなくなるとき貨幣はもはや何の役にも立たず、その時何の問題もなしに、貨幣を廃止することができるのは明らかである。おそらくその時、もしくはそれより少し以前に、次の根本原理があまねく認められることになるだろう。すなわち「すべての人間は何の代償もなしに、その出生から死亡に至るまで、快適な生活を享受する権利を有する」

配給経済
「終身強制労働」の廃止は、配給経済の確立に依存している。この経済システムが貨幣の廃止を可能にするのだ。
この経済システムは、緒生産単位が、人間がちょうど必要とするものを、多くもなく少なくもなく生産すべきであるという原則から出発している。
人間が生きていくうえで必要なものがある。衣・食・住がそれである。
社会はこれら三つの物を、すべての人間に何の代償もなしに供給すべきである。
国家は廃止されなければならない。実現される必要があるのは、生産手段の国有化ではなくして、世界共有化である。
もし、その職業、人種、宗教もしくは性別に関係なくすべての人間が、ロボットやコンピューターによる生産で衣食住に必要なすべてのものを供給されるならば、価値あるものはその本来の価値を取り戻し、それに似合うだけの金銭的価値しか持たないものは、価値がなくなるであろう。
例えば、芸術家はその作品が売れるかどうかを、気にかけることなく絵を描くことができ、そしてその作品を、通人気取りや欲がらみではなく、本当に評価してくれていると思う人たちにのみ、与えることができる。
ある一つの発明が興味深いとみなされるやいなや、たとえそれが無益なものであっても、その作品は大量に生産され、一つ持ちたいと望むすべての人びとに配給されることになる。
また、希少品についてはどうだろう。二十一世紀の文明は、人間の天才以外の希少品を知ることはないであろう。キャビア、シャンペン、ダイアモンド、何であれ、これらすべての物は実験室で合成され、好きなだけ生産することが可能になる。ぶどう酒、ダイアモンド、キャビア、肉、香水等々、すべては化学的なものである。つまり、あらゆる化学式は、科学的に再生産され得るのだ。生命そして人間でさえも、その遺伝子コードの中にその個性のすべてを含んでいる、D・N・A の分子に他ならないのである。(ラエル著)

人間がちょうど必要とするものを、多くもなく少なくもなく生産すべきであるという原則から出発している。
人間が生きていくうえで必要なものがある。衣・食・住がそれである。
社会はこれら三つの物を、すべての人間に何の代償もなしに供給すべきである。

現代の権力、権力と言える政府ならびに資本家、各種圧力団体、開かれた計画を創造するべきである。人びとの邪魔になるのだから。?

thanks.

お礼日時:2010/09/10 12:57

この回答への補足

カラスが突っつかないものはカラスだけか?

「カラス なぜ鳴くの_ カラスの勝手でしょ~」_

補足日時:2010/08/28 23:07
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この回答へのお礼

で、何なのでしょうか?

thanks.

お礼日時:2010/09/07 14:19

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