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唯物主義に生きがいはありますか?
人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものですよね?
水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう?
尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。
クオリアや自由意志も錯覚でしょう。まだ解明されたわけではないですが、
その機能も物質の化学反応によるものだと考えることが自然です。
何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、
すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。
しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか?
精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで
自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎないんじゃないですか?
いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。
しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか?
虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。
哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。
どうかよろしくお願いします。

A 回答 (31件中11~20件)

No.4 and 13 and 20です


(連側投稿お許し下さい)

>>> No.16 お礼欄
要は気の持ちようということでしょうか
よろしければ、この世界に対してどのようにして素晴らしさが湧いてくるのか教えて頂けないでしょうか
<<<

質問者様が信奉しておられるかどうかは不明ですが、件の「前野氏」のブログに「素晴らしさが湧いてくる」についての学問として体系化しようとしておられるようです。
>>> http://blog.takashimaeno.com/?cid=40175
なるほど,禅寺はそうなるための雰囲気に満ちているのだ,と思った。
(中略)
この幸福な感じを,学問として体系化し,多くの人に伝えられれば,と思っている。乞うご期待。
<<<

前野氏は気づいておられるかどうか分かりませんが、
>>>
なるほど,禅寺はそうなるための雰囲気に満ちているのだ,と思った。
<<<
といった文脈を「受動的に」そのままたどれば、そう思った「こころ」は、まさに、そういった雰囲気によって「作られた」となります。

しかしながら、「受動的にそう思った」を、後から(能動的に)「そうは思わない」と否定することも可能なわけです。

もし、どうしても(観察可能な脳の一部の電位変化のみに着目した)実験時間軸に沿った因果律の手順という思考から逃れられないとしても、すなわち「受動的な認識」→「能動的な肯定ないし否定」と考えたとしても、たとえ「あとづけ」であったとしても能動性は担保されています。

この場合の能動性はピンポン球がぶつかり合うといった程度での比喩では説明しきれないからこそ、前野氏が「新たな学問体系として確立したい」と(能動的に)思う程度のものなのです。
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この回答へのお礼

(先に21番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対するお礼は必ずします。)

回答ありがとうございます
>(連側投稿お許し下さい)
嬉しい限りです

確かに、いくら科学的に真実が分かったとしても、真実と違うように曲解して、
あたかも自分の都合のいいように認識することも可能ですね
(言葉は悪いですが、ポジティブな意味で言ってます)
例えば、恋愛は生殖活動の一部にすぎないが、実はそれ以上に魔法のようなパワーが秘められている!と考えれば、自分の中ではそのようにして生きることもできますね
何だかとてもロマンチックですね
真実は化学的な反応にすぎないが、わざと騙されて、化学的な反応ではない!という立場をとることも大切なのかもしれません

前野さんの記事、紹介して頂いてありがとうございます
前野さんの本は受動意識仮説についての最初の二冊を読んだだけです
それ以外知りませんが、勝手にこの説は正しいのではないかと思っております

お礼日時:2010/09/15 15:38

No.4 and 13です


>>> No.13 お礼欄
>「こころ」はもっと広く大きなものです。
というような表現がされますが、そもそも心など存在しないというのが私の立場です。
<<<

そのように「決定」されたのが、貴方御自身の「こころ」(の意志の領域)だということです。
その「決定」が御自身で為されたものではなく、「受動的」に為されたものであるなら、「こころがある」といった「決定」(判断)もまた「受動的」になされるということでしょうし、もし「能動性」がなければ周囲の見解によって、一方から他方へと変わりうるはずです。

そうは思いませんか?

「こころ」は「無」から「無限」まで「こころ」の持ち方次第で自由に境界が動きうるものです。

「ゲーデルの不完全性定理」を理解し、「ラプラスの悪魔」が古典的だといったことができるようになった現代、「こころ」という概念が「ピンポン球がぶつかり合うような」といった程度の比喩で説明できると考えることが、如何に貧弱な思想であるかが分かることと思います。

ゲーデルの不完全性定理:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC% …
ラプラスの悪魔:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97% …

あと、参考になるかどうか不明ですが、私がmixiに2008年04月01日に書き込んだ内容を引用しておきます
>>>
多義図形での「曖昧さ」と「決定」といった概念について、よく考えることがあるんですが、そもそも人間の脳が「一つの事象に対して、A か B」といった拮抗する概念(二者択一概念)に対して、一つのみを選択しようとする(統合しようとする)方向性(力)は、意志とは無関係に無生物的に(たとえば脳構造レベル的に)決定されているんだろうか? といった疑問を抱くことがあります。

要するに、あたかも、「下位レベルからの信号を処理する“ひとかたまりの”機械として(論理的に)安定する“ため”に(分裂しないように)、拮抗する二つ以上の概念から一つのみを選択しようとする(脳機能上、設計されている)」として捉えれば、納得できるかもしれないと、ふと、思ったりするんです。

しかし、そう思ったとたんに、即座に、「いやいや、“AかBか”といった概念に対して、そのままでは“矛盾”しうる“AもBもあり”だと思い続けることができる」ので、脳機能上、多数の分裂した状態を保持し続ける(=思い悩み苦しみ続ける)ことも可能な訳です。

でも、よくよく考えてみると、拮抗する二つ(以上)概念を、そのまま保持し続けるのではなく、「拮抗する・二者択一的」といった概念と「共存する・並列する」といった概念の二種類のどちらかを選択しているんですよね。すなわち、さらなる「二者択一的概念」にて処理している(はずです)。

さらに、上記の二者択一概念ですら、並列的に扱おうと思えば、扱いうるんですけれど。。。

さて、脳機能として説明できるにしても、できないにしても、「二者択一問題を“両方ともあり”だと認識しようとする力(=「意志」といっていいだろう)は、どこから生じるのだろうか?」 を考えたりしています。

量子力学でのエンタングルメントの類の並列性(どちらもあり)は、いわゆる「マクロ」レベルで選択・決定される(どちらか一つ)のですが、高次脳機能レベルでは、再び並列性(どちらもあり)の(非決定論的な)選択も可能になっているわけです。

量子力学と無関係である「はず」なのに、似ている状態を選択可能だからこそ、量子力学を「理解しようとする」ことも可能なんだろうと思っています。

そういう観点自身、量子効果が(ひょっこり)顔を出しているのかもしれないと、ふと、思ったりしています(笑)。
<<<
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この回答へのお礼

(先に20番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対するお礼は必ずします。)

回答ありがとうございます

>そのように「決定」されたのが、貴方御自身の「こころ」(の意志の領域)だということです。
>その「決定」が御自身で為されたものではなく、「受動的」に為されたものであるなら、
>「こころがある」といった「決定」(判断)もまた「受動的」になされるということでしょうし、
>もし「能動性」がなければ周囲の見解によって、一方から他方へと変わりうるはずです。

出力が決定されたのは、関数(数学は苦手なのであってるか不安)でいう、
経験と遺伝により定数項が決まり、外部からの刺激がxに代入され算出されたことによるものです。
決定したのではなく、自動的に決定されたということです。

「ゲーデルの不完全性定理」については私には難しいようなので、これを理解し返信するのはかなり時間がかかりそうなので、とりあえず先に書き込んでおきます。
(ラプラスの悪魔は多分わかります)

以前、mixiに書かれていた文章ですが、これも受動意識仮説についての本の中で
ある程度分かってるふうなことが書いてありました。し、私もそう思います。
拮抗する二つの選択肢の決定についてもおそらく算出された脳内出力(肉体がアクションを起こす前段階の信号の強さ・・・のつもりで勝手に書いてます)により自動的にきまると思います

>量子力学でのエンタングルメントの類の並列性(どちらもあり)は、
>いわゆる「マクロ」レベルで選択・決定される(どちらか一つ)のですが、
>高次脳機能レベルでは、再び並列性(どちらもあり)の(非決定論的な)選択
>も可能になっているわけです。

>量子力学と無関係である「はず」なのに、似ている状態を選択可能だからこそ、
>量子力学を「理解しようとする」ことも可能なんだろうと思っています。
少し難しいので保留させてください

お礼日時:2010/09/15 08:55

No16です



>要は気の持ちようということでしょうか
>よろしければ、この世界に対してどのようにして素晴らしさが湧いてくるのか教えて頂けないでしょうか

素晴らしいものをなぜ素晴らしいと感じるのか、という質問ですね。
生命には目的があります。
その目的のために体は作られています。
体のシステムも、その目的のために作られています。
感情も人間の行動を決定するシステムのひとつです。
素晴らしいものを素晴らしいと感じるのは、素晴らしいと考えるからではなく
人間がそれを素晴らしいと感じるように出来ているからです。

何かを良い悪いと判断するためには、まず目的が必要です。
良い悪い、というのはその目的にとって良いか悪いかということだからです。
何の目的もなければ、ただ現象があるだけです。
人間の目標は、簡単に言えば遺伝子にインプットされています。

人間が機械的な存在だとわかったからといって、それらのインプットされた本能が消えるわけではありません。
だから素晴らしいものは依然として素晴らしいままなのです。

どんなに素晴らしさの根拠を探しても、自分の体の内にしか答えはありません。
逆に言えばインプットに対してアウトプットを返すf(x)という関数があたなの中にない限り
それを素晴らしいと感じることはできません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに、その考え方だと素晴らしさというものがよくわかるのですが
それと同時にやはり素晴らしさも自動的なものではないかという虚無感も感じます
当初の質問に対してはベストアンサーなのですが(偉そうですみません)
今、その生存欲に追随する「素晴らしい」という概念すらも
物質(生命)のエントロピー増大に抵抗する手段としてとった自動的な化学反応だという虚しさが湧いてきます
その生きる活力である「素晴らしさ」すらも物質からの自動的で機械的な欲求だとすれば
どうすればよいのでしょう
苦しいです
肉体が崩壊するまで延々とインプットに対しアウトプットを返す計算機でしかないのでしょうか
その過程に付随する「素晴らしさ」などの感情も錯覚で、正体は物質間の引力のようなもので(例えが飛躍しすぎかもしれないです)虚無の世界が広がってるのではないでしょうか
個人的な考えですが、その素晴らしいや嬉しいなどというクオリアすら僕は存在しないと思います
それは連続的な情報処理による肉体変化の感覚からのフィードバックと言語処理に由来するものだと思います
冷静に考えるとクオリアの実感などないです
例えば「おいしい」という刺激も脳の処理によって、胃腸が反応したり血管が拡張したりという肉体の反応だけであろうと思います
それが連続的なためあたかも今こうして起こってるように錯覚するわけです。
それが意識として言語処理によって表出しているのではないかと思います
その証拠に参考記事は見つかりませんが、脳に入力される情報を全てシャットダウンすれば
意識が消失するというのを聞いたことがあります
つまり、その”連続的”な情報処理を言語処理したものが意識ではないかと思います。
そこには言語であたかも実在するかのように記述されただけで、初めから何もなかったと。

非常に怖いです。気が狂いそうです。このことについてどう思いますでしょうか
ちょっとパニックになって文章めちゃくちゃかもしれませんがよろしくお願いします

お礼日時:2010/09/15 20:22

生き甲斐とは、その人の目的意識によって決まるもの、ではないですか?



だとすると、唯物論者たちは唯物的な生き甲斐(目的)を持てばよい、という話ですよね。
彼らが生き甲斐を持てない、ということは必ずしも無いと思います。

彼らの生き甲斐としているであろう唯物的な目的を、唯物論者でない者がはたから見て、あいつは一体何であんなつまらん事に血道を上げてるんだろうな?と理解に苦しむことはあり得るでしょうが。

ところで、他の回答者さんたちはあまり触れられていないみたいですが、私の世代(1960年代生れ)は、唯物論と聞けばまず真っ先に「弁証法的唯物論」つまりマルクス主義を思います。

マルクスの弁証法的史観がなぜ「唯物論」かと言うと、それまで中世の学問の伝統は、偉い順に「神学」「法学」「医学」「哲学」であったが、人間社会を論ずるには神学や法学よりも先に経済面に着目しなくてはいけない、と説いたから、というのがその端緒です。
このマルクスの弁証法的唯物論、ベルリンの壁が崩れ去って東西冷戦が明け、共産圏が瓦解した現代なお、歴史学的にはその輝きを全く失っていない、と個人的には思います。
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この回答へのお礼

(先に18番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対するお礼は必ずします。)

唯物論的価値ですか、正にその通りだと思います。
頭がすっきりしました。
弁証法的唯物論にはそのような時代背景があったのですね。
>生き甲斐を持てない、ということは必ずしも無い
ということなので頑張っていこうと思います。
回答ありがとうごました

お礼日時:2010/09/14 17:38

この手の命題は、とても面白いですね。



まず、私はあなたの意見に異なる部分で同意します。

死後の世界も無ければ、転生も無い、人の脳など電化製品と同じで、電源が切れれば、ハイ、それまでよ、と思っています。
しかし、そのことを考えて憂鬱にはなりませんね。

理由は、世界が素晴らしいから。(ちょっと自分でも表現が間違っている気がしますが)
私は、この世にもし神が居るのだとしたら、その経典は物理学だと思っています。

なぜなら、この世界には物理的に矛盾が無いから。
矛盾の無い世界が構築されていることは、実はきっと奇跡です。
だから、それを研究している物理学者こそ、神の考えを汲もうと努力していると考えています。
むしろ、超自然現象をオカルトと同一視している人々は、無責任な気すらします。
この矛盾の無い世界に、幽霊等が存在するなら、その方法を証明して発表するべきだと考えます。
…極論ですが。

しかして、矛盾の無いこの世界ですが、新しい事実がいまだに発見されます。
私は、これらのことに非常に興味を持っています。
出来れば、行き着く先がどこにあるのか、ずっと見続けていきたい、と感じます。
素晴らしい、ホントにそう思います。
ひょっとしたら、様々な超常現象の仕組みが解明され、日常生活で利用されるようになっていくかもしれませんしね。

ところでこの思考、唯物論的では無いですか?


そんな私は、脳は情報収集端末である、と考えます。
私たちは、情報を欲して生きているんだと思います。
五感は、いわばデバイスで、脳で処理できる情報に変換して、私たちに外界を知覚させていると考えています。

すなわち、入ってくる情報を疑うことは出来ないが、感じることは出来る。
そして、入ってきた情報によって満足することが、生きていくことの意味だと思っています。

そして私は、もう一つ踏み込んで、こうも考えます。
われわれ人類はなぜ存在しているのか。
情報を蓄積し、物理法則を紐解きどこに至るのか。

それは、無機質の生命体の創造では無いかと思っています。
でなければ、なぜ脳の構造に興味を示し、コンピュータに模倣させるのか。
アシモは、なぜ二本足で歩かなければならなかったのか(若しくは、歩かせたかったのか)。
誰かが言っていました。
ロボット作るより、人間の増えかたのほうが効率的だ、と。
なのに何故こんな手間隙掛けて…。

無機質の生命体は、恐らく我々がいくら進化しても誕生しないでしょう。
いや、それこそ自然界からみたら進化と呼べるのかも知れない。
我々の手でしか発生しえない、生物。
そして、無機質の生命体は地球と云う呪縛から離れて生き続けていくことでしょう。


なーんて、妄想してると、これから来る未来が楽しみでしょうがないですけど…(汗)
唯物論者の生きがい、とは云えませんかねぇ?

ちょっと自己陶酔入ってて、鬱陶しい文章になってますが、御気を悪くなされませんように。
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この回答へのお礼

(先に17番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対する返信は必ずします。)

その部分で同意して頂いて、少しホッとしました。
ということはやはり唯物的な価値観を持つことが答えなんでしょうね

Kelickさんは宇宙が規則的であることに素晴らしく感じるということですが
私はどうしてもそれができません
規則的=無機質=虚無感
と連想されていきます
それを克服することが問題解決の糸口になるのかもしれません

>それは、無機質の生命体の創造では無いかと思っています。
やはり、子孫を残すように新しい生命を残すことなんでしょうね

回答ありがとうございました

お礼日時:2010/09/15 07:51

そう認識したとして、なぜそれで絶望するのかよくわかりません。


僕はその認識を元にした世界観をもっていますけど、十分楽しいですよ。

その認識をもうひとつ押し進めたものに決定論的世界観というものがありますが、それもまた刺激的で
絶望すること請け合いです

別に精神、生命、存在の素晴らしさがどこかに書いてあるから素晴らしいというものではありません。
あなたが素晴らしいと感じるから素晴らしいのです。
それを素晴らしいと感じることが、生命という目的をもった存在にとって良いことだから、そう感じるのです。
価値とはそういうものだと認識したほうがいいと思います。

この回答への補足

ごめんなさい
16番目の回答者さんでした。訂正します
本当に失礼しました

補足日時:2010/09/14 18:32
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この回答へのお礼

(先に15番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対する返信は必ずします。)

回答ありがとうございます
要は気の持ちようということでしょうか
よろしければ、この世界に対してどのようにして素晴らしさが湧いてくるのか教えて頂けないでしょうか

お礼日時:2010/09/14 18:31

>>精神活動が化学反応のみであるとしたら,生物が今のように多様である必然は持たないように思います.


>これはちょっと言っていることが分かりません
>オカルト的なことではないですよね
>おそらく生物の欲求が遺伝子に変化をもたらすみたいな意味ですか?
>その生命の欲求すらも水を貯めたダムのようなもので、外に出よう出ようしてるのと同じふうに見てしまいます.

すみません言葉足らずで,私もうまく説明できるわけではないのですが...
生物の生態などが,すべて化学反応のようなことで説明が付くのであれば,一番よい反応をする種のみが生き延びればいいわけで,生命が多様な種になる必然性はあり得ないのではと思います.ですが,実際は隙間を見つけては自分の生きる場所を見つけ多様な生命が存在しています.

また,動物行動学では,動物の行動は遺伝に支配されているわけではなく,明確には区分けできないが(自然な環境での実験では区分けが難し為),遺伝による部分と親やグループの構成員の行動などをみてまねるや習う,後天的部分があることが分かっています.

別の例では,量子力学では,多数の粒子を扱う場合はうまく説明可能ですが,1個の粒子を扱う場合は全く確率的にしか説明できない.つまり1個の粒子の挙動は予測できないことになります.このことはかなり示唆的で,確率的な行動をとる粒子全体の予測は高い精度で可能であるが,経済学でも同じはずで,確率的行動をとる個人の集合である経済全体はほとんど予測不可能である.(金融工学などという学問がありますが,確率分布は理論を作りやすくするため正規分布を用いています.例えば,為替レートや株価を金融工学で推定しても1日などのレベルであればそれなりですが,日にちがたつと全く外れた物になってしまいます.それよりも正規分布から外れた変動だけを集めた方が予測として正確だなどという事実があります.)と言うことが何故なのかがよく分からないと言うことになります.

>精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎないんじゃないですか?

これは,同じ事柄を別の日に考えてみれば分かると思いますが,同じ出力にならない場合があったり,同じ道を通らない場合があったりします.つまり自動計算とはちょっと違った物になっているものと思います.関係ない物をみて突然ひらめいたりね.解析していけばもしかしたらすべて遺伝や化学反応で説明が出来るようになるのかもしれませんが,それで自然についてすべてが分かった気になってしまっても問題があると思います.

>しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか?

これですが,科学を信じていても,科学は今のところ万能ではありません.何でも分かっているわけではないのです.科学者であれば,もっと知りたいもっと分かりたいと言うところが生き甲斐かと思います.私はエンジニアなので現在抱えている技術的課題をどうにかして解きたい.と言うところが生き甲斐かな?
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この回答へのお礼

(先に15番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対する返信は必ずします。)

>生物の生態などが,すべて化学反応のようなことで説明が付くのであれば,
>一番よい反応をする種のみが生き延びればいいわけで,
>生命が多様な種になる必然性はあり得ないのではと思います
一番よい反応(子孫を残していける)をする生態のみが生き延びてるんじゃないでしょうか
種ひとつひとつで考えればそうですが、人間も豚や魚を食べないといけないように
人間は人間という種だけでは生存できません
生態内全ての生物(種)の反応としてのベストな選択肢が生き残ったと。
こういうことではないでしょうか

>また,動物行動学では,動物の行動は遺伝に支配されているわけではなく,
>明確には区分けできないが(自然な環境での実験では区分けが難し為),
>遺伝による部分と親やグループの構成員の行動などをみてまねるや習う,
>後天的部分があることが分かっています.
これも個人的には部屋にばらまいたピンポン球のようです
各々の球(個体)が他の球(個体)に影響されたまたまの結果でしかないアクションを起こすという・・・
粒子や経済学、日によって変わる人間の出力の例も私としては同じ感想です

>科学者であれば,もっと知りたいもっと分かりたいと言うところが生き甲斐かと思います
そうなれるように頑張ります
回答ありがとうございました

お礼日時:2010/09/14 17:51

解析的な知的好奇心が強そうなタイプですね。



「神」の解析を楽しめますよ。

「神=宇宙の原理」と定義すれば、宇宙物理学や生物学などの最新の科学情報は必須です。
唯物主義でも精神分析は否定しないので、人の心のあり方や宗教学も楽しめます。

ビッグバンからビッグバンに至るサイクルを繰り返すのが宇宙の法則だと信じられてきましたが、
最近ではそうではないらしいと解ってきました。
永遠に拡散し続けて素粒子まで分解されて消滅するのが宇宙の終焉で、
それに至るまでの包括的な物理法則があるようです。

かつてブッダという人物がいて、この空しい世の法則を探求していました。
彼が見つけたのは食物連鎖の法則で、科学的分析術の存在しない時代に得た快挙です。
今では小学生でも知っている地球生物の法則ですが、
もし現在にブッダが生まれたのなら、最新の科学情報には興味津々だと思います。

ご自身が知っている解析術など、近い将来には稚拙な考えだとされるでしょう。
どんな科学者でも、知った気になって虚無感に囚われるのは早すぎるし傲慢な態度です。
仏陀が歩いた道を行こうとするのだから、謙虚に最新の情報を集めましょう。
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この回答へのお礼

(先に14番目の回答者さんにお礼を書きますが、回答に対するお礼の順番は気にしないでください。後で必ず返信します。)

今分かっている知識など100年後からすればたいしたことないのだから
楽しみながら解決していこうということでしょうか
そういう方向に向かっていけば楽かもしれませんね
心に留めておきます
回答ありがとうございました

お礼日時:2010/09/14 12:46

No.4です



物理学者が二元論だという本質的な意味は
量子力学での「観測問題(解釈問題)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E6%B8%AC% …
にて明確に現れています。
エヴェレット解釈では、「こころ」を含めて一元論的に扱うことを明確にしていますが、他の解釈は、「隠れ二元論」になります。「客観的」という概念は「隠れ二元論」の概念を含みます。

そもそもある事象について「科学的・客観的」という概念は、ある事象に対して「私と貴方」の交換が可能だということです。完全な交換可能はあり得ないので、良く用いられるのは「統計的な操作」すなわち「平均」といった概念です。
交換可能な状態に設定することで、ある事象に対して「何の影響も与えていないように扱いうる」ということになるのですが、量子力学での解釈問題では、マクロ系を含めて考えなければならない必要性から、本質的に「こころ」を含めて記述するというのが本来的な立場になるはずです。

受動意識仮説は「仮説」の域をでません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98
そもそも脳内反応を「意識」レベルと「無意識」レベルとに分けることで、「こころ」(≒自我・自由意志)をあたかも「意識」レベルのみに局在しているかのごとく扱っているだけです。
自由意志:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1% …
※リベットの実験および関連実験についての説明が後半に含まれています。

少なくとも「こころ」は「無意識」レベルを含みます。受動意識仮説で扱いうる「意識」概念のみを「自我」的に捉えるならば、無意識領域を担っている悩の部分や脳幹、身体は、「わたしではない」と主張するようなものです。

「こころ」については唯物論で考えるよりも、少なくとも複雑系で考える必要があります。
>>> 複雑系:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91% …
複雑な現象を複雑なまま理解しようとする学問、手法は「複雑系の科学」などと呼ばれることが多いが、その源流に眼を向けると、アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」といった言い回しにまで遡ることができる。近代になって還元主義が蔓延すると、それに対して警鐘を鳴らすように、全体を見失わない見解を深化させ、個々の分野で具体的な研究として全体性の重要性を説く論文・著書などを発表する学者・研究者らが現れるようになった。現在ではこうした見解・立場の研究は「ホーリズム」または「全体論」などと呼ばれている。
<<< (引用時点で「独自研究に基づいた記述が含まれる可能性あり」の範疇です)
ホーリズム:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC% …

これらの見解が意味するところは、構成要素を「受動系」としてのみ捉えるだけでは説明ができないということに直結します。少なくとも、構成要素は「全体」との関係で「能動性・受動性」の少なくとも二方向の関連性を有していなければ、
>>>
アリストテレスの「全体とは、部分の総和以上のなにかである」
<<<
といった状態には成り得ないでしょう。

受動性のみで「こころ」は成立し得ないことは、当の「こころ」が一番良く「知っています」。
なぜ「能動性」という言葉が理解され、「やる気・気力」といった概念が受け入れられるのでしょうか?

すくなくとも「ハードプロブレム」や「決定論」に関する問題は、いずれも仮説のレベルで「知」の範疇で「理解・解釈」可能かどうか?が論争されているに過ぎないでしょう。
ハードプロブレム:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98% …
決定論:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1% …

「こころ」はもっと広く大きなものです。

「知的論争」は「こころの一部の知的領域」で繰り広げられている仮想的・幻想的な争いにしかすぎません。
そのような解釈に囚われること自体、「こころ」を自ら縮小して捉えようとしていることになるでしょう
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この回答へのお礼

(先に13番目の回答者さんにお礼を書きますが、全ての回答に対する返信は必ずします。)

回答ありがとうございます。
最初の物理学者が二元論だということについてですが、量子力学が難しすぎて理解することができませんでした。自分から突っ込んでおいてすみません
ですが、「客観的」という言葉自体が二元論だということでしょうか
そういった意味ならなんとなく分かります

そして受動意識仮説における問題ということですが、無意識もこころだとは思いますが
その無意識も自動的な情報処理に他ならないのではないでしょうか
顕在意識も潜在意識もシラミつぶしに出力を決定する自動的なプログラムだと思います


複雑系については私も精神活動は予測できないものだと思います
でもそれは部屋にばらまいたピンポン球の挙動のようなものと思います
そこで能動性の起源は他のピンポン球からのアタックに他ならないと思います
そういったふうな「能動性」なら分かります

ハードプロブレムなどの問題についてですが、首尾一貫とした説明ができないというだけで、その正体が物質のふるまいによるものだということは皆概ね理解してると思います

>「こころ」はもっと広く大きなものです。
というような表現がされますが、そもそも心など存在しないというのが私の立場です。

お礼日時:2010/09/14 18:24

#11です。

化学反応がまるっと科学反応になっておりました。お恥ずかし・・・。
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この回答へのお礼

いえ、大丈夫です。ありがとうございます

お礼日時:2010/09/15 19:50

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