ショボ短歌会

人間が無限(にあるもの)に打ち勝つにはどうしたらいいですか?
ヒントをください

A 回答 (10件)

無限は、分割された領域や累積される領域を超越する視点の仮称ではないでしょうか。



人間の時間にしても空間にしても、量と順序と配置にあるものごとにおいて、先のことは存在していません。
ただ類推を可能にし想定を為さしめている記憶および記録を保存するところの、現在、現前が、仮の平衡状態のようにしてあるのみです。

しかし、人間は、超時間・超空間的にむすばれている約束によって、動いています。一個の人間また一団の社会にとって、自然にしろ経済にしろ神にしろ、その約束自体が力動的な現れを見せるものであり、静止した図像のように表れるものではありません。そしてこの形而下に統合現象としては捉えられない力動性が、無限の貌であると言えます。

つまり、シジフォスの山と考えられるものごとも同じで、鎖状の約束のひとつひとつと自己が対峙するのであり、超越的静止の俯瞰視から無限の営為とみなすかわりに、刷新ないし更新においてただ一度のいまここであるとに気付くところに突破口があります。
ふつう、苦行でもないのにこんな突破口から突破できるものではないので、無限という蜃気楼に打ちのめされるのが人間であり、それでよいのではないでしょうか。

約束に包まれた、仮の平衡状態を破るとすれば、いまという一点のうちで自分に負けないこと、いまここの自己に対して誤魔化しや偽りや妄念を許さないことになるでしょう。

もうひとつ方法があります。
それは、現前を忘却することです。この境地は待てば誰にもいずれは訪れるものと思います。
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ヒントに為り得るのであれば嬉しいのですが。



人間に備わっている有限について、僕は判断基準の観点から次の様に理解しております。

(1)人間は誰もが皆、判断基準を持っている。
(2)人間の判断基準は一人ひとりがバラバラ。
(3)判断基準を一つにさせたら機械やロボットの様になりもっと危険。
(4)判断基準で完全なものは無い。
(5)その判断基準に観点が固定されている。

人間に機能している有限について、判断基準の観点から共有させて頂きました。

後は、人間五感覚脳の認識の仕組みでしょうか?

以上、ヒントになるのでしたら嬉しいです。
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質問を読んで不思議なのですが、「打ち勝つ」についてどういったイメージがあるのですか。

そして「打ち勝つにはどうしたらいいか?」と方法論を聞いていますが、無限に打ち勝った人などそうそういるものでしょうか。打ち勝とうと努力している人がいるだけではないでしょうか。

論理的に考えたら、我打勝ったりと誇れる人は、まずいないことが分かると思います。
たとえば不老長寿になれば、無限に等しいのかもしれませんが、そんな人などいません。芸術家は半永久的に残る作品を残しているという点で、時間という無限に打ち勝ったと言えるかもしれません。しかし、それも人それぞれ見方が違います。この程度では満足できないかもしれません。
あるいはそんな大げさなことでは無くても、子供を残して、立派に育てたら、自分の存在の証が残せるという意味で、打ち勝つように十分に努力したと言えるのかもしれません。

「ヒントをください」と仰いますが、「何をもって打ち勝つとみなせるのか」「それは誰なのか」を問うことが先に必要なのではないでしょうか。
そうすれば、その勝利者について調べたり、あるいは教えを請うことで、次のステップに進めるでしょう。他の回答者の方も書いてらっしゃいますが、打ち勝ったか否かの判断は主観的な問題が入ると思います。

しかし、そもそも無限をどう認識するかという問題が大本にある気がします。論理的に言えば、そもそも自分の有限性を思い知り、受け入れなければ、無限の存在を知ることもできないでしょう。いたずらに勝ちを目指すより、負けを知ることで、見えてくることもあるような気がします。
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無限に勝つ為には二つの手法があります。



ひとつは、無限を変容させることもうひとつは、自己を強くすることです。
両立することはおそらくかないません。

無限を変容させるというのは早い話が、自分を偽るということです。キリスト教で言う「父」の認識です。=「サンタさんは存在する!おまえらは、それを信じろ、俺は信じるフリをする。俺様は世紀の預言者であるからだ。思想家と呼びたまえ!」ということです。ゴミムシは、神聖なるオサムシであると信じて疑わないこと!

二つ目を実現する為には、まず自己に勝つことが出来ることです。自己の能力を滋養および陶冶することです。

どちらかが実現すれば、無限に勝とうとしているといえるでしょう。
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そもそも、打ち勝つとか、そう言った対象に考える事は、理にかなわない。


その勝敗は、自分が勝ったと思えば勝ちであるし、負けてると思えば負けていると言ったモノなのでは?
ある意味、右と左どちらが勝っているのか考えるのと、同じようなモノだと思いますが。
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嫌なことを忘れましょう。

ただし現実を見ましょう。
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どうやらわれわれが住む宇宙は有限のようです。



ですから、無限に打ち負かされることもないし、無限に打ち勝とうと悩む必要もないと思います。

すべての物事は有限のなかの大小・長短・軽重・高低などでかたずけることができます。
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無限を区切って領域を作り、その領域で打ち勝つ。




例えばたばこをやめる、ということを考える。
一生は、無限ではないが相当に長期間である。その間止め続けるのは難しい。
しかし一日だけ止めることは比較的容易に可能だ。一日止める。これを毎日続けて一生に至る。
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自己中心的な自我に基づいて物質的に得ようとせず、


愛によって自己の方を拡張(他我)することです。
人は「何かを得た」と思っても、それはそこに、以前
と同じように在り続けている訳で、それを書類上で
「得た」といっても、何も変りはしない(幻想である)。

社会生命性に於て個人の生は、社会全体の営為によって
成り、その社会性(分業)の更なる発達と自覚化(愛)
により、「自分のため」と「皆んなのため」は合一となる。
その延長に、量子論的世界像に於て「存在(有限的性質)
は認識に於て派生する=自我仮説と時空仮説の相補分化
=全てはあなたが存在するための(物理的根源にまで
遡った)補完である」という観点があります。

「得る」「打ち勝つ」ということが、“自分の思い通り
にさせる”ことであるならば、自分の思いの方を自然に
合致させれば、全ては(宇宙の果て、永遠の未来に於ても)
、予めあなたの意志を果たしているのです(あなたはただ
認識を及ばせるだけでいい)。
(歌にもあるように‥‥「愛は勝つ」(^o^))
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人間が無限(にあるもの)に打ち勝つにはどうしたらいいですか?


ヒントをください

○ 人は皆、念(おも)いにおいて無限界であることを知れば良いだけですよ。
禅の言葉であれば「握一点開無限」ですね。つまりあなたの心は蟻にもなれるし、はたまた星にもなれるということですね。無限には無限界人間になれば良いだけということですね。
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