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 最近 あらゆる哲学書を読むのにはまっているのですが
 いまいち“人間の尊厳”という概念が理解できません。

 現在はカントを読んでいます
 自律や他律は理解できます
 先人の思想はおおかた分かってきたのですが
 どうしても この“尊厳”とやらが分かりません

 どうして尊いのか
 なにが尊敬に値するのか

 パスカルの思想も受け入れがたいです

 思考に価値はありませんし
 価値は普遍的じゃない


 “尊厳”のもとに展開される思想は多いです
 ほかの著書を読み進めていくためにも
 なぜ人間が“尊厳”に値するのか
 その条件はなんなのか
 条件を満たしていれば なんでも尊厳するのだろうか

 まとまりがなくて
 申し訳ないのですが
 おねがいします 

A 回答 (8件)

 こんにちは。



 ★ ~~~~~~~~
 人間の尊厳について
 ・・・
 どうして尊いのか
 なにが尊敬に値するのか
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《人間の尊厳》というときには 一般には 《意志――自由意志による選択行為――》を言うものと思います。
 むろん《考える》のですが 考えた結果選択肢の中からどれをえらぶか なぜえらぶか この意志決定に人のとうとさがあると考えられているのではないですか。

 早い話が 質問者がこのように 一般によく聞くけれどもいったい何がとうといのか? と考えしかも最終的にどう決断するか ここにすべてはかかっています。いかに《人間の尊厳》を言おうと 一人ひとりの人間がそれぞれの意志において納得するのでないかぎり 絵に画いた餅になります。
 なぜなら 否という自由さえ人の自由意志にはあるわけです。他人にさからうだけではなく おのれの心にさえ逆らって選択する自由があります。したがっていわゆる民主主義は この個人の意志自由を尊重します。

 なお自由意志がとうといと言うのであれば 生命ないし存在じたいが大事であるのは言うまでもありません。生きているのでなければ 意志の自由を発揮することはできません。
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彼らは、ヨーロッパの一神教の考えから離脱できていないからです。



「選民思想」の元にあるのが「人間優位思想」です。
ノアの箱舟的な、他の動物を家畜のように扱う思想です。

古代エジプトやマヤの時代であれば、多神教として野生動物たちでも崇拝の対象でした。
尊厳のある扱いで存在を尊重していました。

一神教の差別思想の元での哲学であれば、「人の尊厳」という詭弁を使います。

あなたが「なんかおかしい」と感じるのなら、それが正しい解釈です。
哲学は完全な答えのあるものではなく、先人の意見を無批判で受け入れるモノではないからです。
(そういう場合は宗教と呼びます)

哲学の教祖は自分自身ですから。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 すんなりと入ってきました

お礼日時:2010/12/20 20:54

質問の趣旨からは外れるかもしれませんが、



欧米の哲学書を読まれ、またそれを身につくように(頭ではなく、心で)吸収したいと望まれるなら、キリスト教の教義のさわりだけでもなぞってご覧になったらいかがでしょうか。信者になる必要はないのです。理解するだけ。

カントはともかく、パスカルは相当カソリック教の下地がないと、理解不能だと思います。

聖書に、

”神は人間を愛してくださったので、たった一人の子(イエスキリストのことです)を人間界に送ってくださった”という箇所があって、それを信じるならば、人間は神の愛を受けるに値する存在であるということになります。

即ち、人間には生まれながらにして尊厳がある、というのは自明の理となります。

以上、ご参考まで。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 哲学書は まだ 数える程度しか読んでいないので
 なにか この思想を身に付けたいというものは
 恥ずかしながら ないのです。

 ただ ほとんどすべての思想を学びたいと感じています。

 そうですね
 宗教や時代背景に影響を受けたものも多いですし
 家には新訳聖書しかないので 旧約も探して 読んでみることにします

 ありがとうございました
 

お礼日時:2010/12/20 20:56

>なぜ人間が“尊厳”に値するのか<



と問うてしまえば、他の回答者様も述べておられるように「人間」が相対化され、人間が尊いと言うことはなくなります。

実は「人間の尊厳」という言葉は、「自分は殺されたくない」という事を言い換えているだけだと思います。

質問者様も(別に人間の尊厳などなくても)殺されたくはないでしょう。自分の都合だけで殺人を犯す事を禁止するために「人間の尊厳」と言っているだけです。

哲学者は(上記のことが解っていても)何か人間だけが特別の資格を持っていると考えたいので、いろいろ難しい言葉で(ドイツ語では全然難しくないのですが。。日本語に訳すと・・)理屈をつけているだけです。(宗教の影響もあります。神に対抗したいのです。)

質問者様のように「思考に価値がない」と断言されているのであれば「哲学」などは単なる言葉の遊び(・・が悪ければ「言葉の定義」の分析・・)にすぎません。

人間の尊厳は突き詰めていけば宗教にならざるを得ません。質問者様は宗教には関心が御有りですか?多分、御関心はないと思います。

「人間の尊厳」は「自分が無意味に殺されたくない」ための単なる理由づけと考えればあまりこだわることではないと思います。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 宗教や哲学などに 生きることや死ぬことや
 日常の些細な諍いや小さな満足や
 なにも 興味がないのですよね 笑

 意味のあるものはないです
 価値も存在しません
 人生などなおさらです。
 だから せいぜい愉しければいいかなぁ と
 ・・・最低ですね わたし。

 現在、高1なのですが
 進路相談でも 金を得るために働きたくないとは思っているので
 「ひたすら哲学を勉強したい」と言うのですが、担任が困っています
 とくべつ、いい成績ではないんですね

 哲学を学べる大学は 私立のほうが多いですが
 やはり 語学を学び 原文の読解が授業の中心となるらしい。
 西洋哲学コースやインド哲学コースや芸術哲学…など分類されており
 ほんとうに 自分の思う“満足”には行きつかないんですよね

 それこそ “鵜呑み”になってしまいます
 考えなければならないはずです。

 ごめんなさい
 愚痴になってしまいました。

 やはり たくさんのかたの考えを聞いていきたいです

 ほんとうにありがとうございました

 

お礼日時:2010/12/20 21:03

>なぜ人間が“尊厳”に値するのか


もちろん、個別に見れば尊厳に値しない人間もたくさん居ると思いますが、それは当人の出自にはよらないということでしょう。
>その条件はなんなのか
人間であるということでしょう。植物人間も、痴呆老人もそれの範疇です。
基本的に、人間は人間を虐げてはいけない、人間は人間だというだけで他の人間たちと同等の価値がある、ということだと思います。白人も、モンゴリアンも、アフリカンも、ニューギニア高地人も、アマゾンのヤノマミ族も、みな人間として同等の尊厳を保持している、その権利を持っているという抽象概念だと思います。
証拠として、その種としての形態、ことに可能性としての能力は皆同一であるということが上げられると思います。

泣く子と地頭には勝てぬという日本の古い言葉がありますが、更に
文化人類学者たちの頻繁な応接に嫌気をさしたヤノマミ族が、彼らをどんな目でみていたか。彼らの仲間内でお互いに軽蔑し、罵りあう言葉として「文化人類学者!」という語彙があったというエピソードがこの端的な例として挙げられると思います。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 価値のない人間はいません
 人間自体に価値はありまん。
 普遍的な“価値”など存在しないからです。価値は個人の概念です。
 おっしゃるとおり、当人の出自により生れるものでしょう。


 抽象概念は 苦手です 笑
 まだまだ 勉強が足りませんね

 罵りあう言葉として「文化人類学者!」
 とは おもしろいです 笑

 使ったかれらと わたしとで
 意味が違っていたとしても。 

お礼日時:2010/12/20 21:07

我欲を満たすためにすぐに隣人を殺すような人が増えると、社会がギスギスして住みにくくなりますね。


その昔、我欲を満たすためには隣人を殺して良いと考える人々がいたとして、その人たちを諌めるために「人間の尊厳」という概念を使ったのではないでしょうか。

我欲を満たすために豚を殺すのは良いが、我欲を満たすために隣人を殺すのはイケません、と。

時代が変わって、今は、人々が隣人を殺すことも少なくなり、たまに隣人を殺す者が現れると全国ニュースになるほです。
結果として現在地球上に69億もの人間がひしめき合うようになりました。
そして、多くの人間が尊厳とは縁のない状態で生まれ、尊厳とは縁の無い状態で生き、尊厳とは縁の無い状態で死んでゆきます。

一方、オオアリクイは絶滅危惧種なので、一匹たりとも殺してはならいとし、オオアリクイの生活維持の為、生命維持の為に膨大な労力が払われています。結果として、殺されるオオアリクイの数よりも、殺される人間の数の方がはるかに多い。
これはべき論ではなく、現実です。ゾルレンではなくザインですね。

私見ですが、今のように人間が過剰になり、人間の希少性が失われていては、人間の尊厳というのは”使えねぇ”概念となってしまったのではないでしょうか。
今後、地球の人口が急激に減少する時代を迎え、「このままでは、今後5世代も人類を維持できないぞ」という時代がくると、また人間の尊厳という考えかたが重要になるのではないかと考えます。

最近、倫理観希少性依存説というのを発表したところ、結構な弾圧を受けました。
しかし、哲学の課題としては議論に値すると思うのですが、いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

もともと 尊厳 は
西洋で生まれた概念で
社会契約と同じく 日本人では理解しがたいのかと思っていました

あたりまえのように 尊厳 という言葉を耳にしますが
最初に和訳したひとの考えかもしれませんし
あらためて 概念をじっくり考えることができました

それまでは 「やられたらやりかえす」が成り立たなくなるから
殺人はいけないと 自分のなかで勝手に思っていたんですね 笑

いまでは 道徳観なんて個人や環境でいくらでも変化するのだから
・自分がやられたら嫌だと感じることはしない
それだけで法としては十分じゃなかろうかと思って感動したのですが
孔子曰く、「己の欲せざるところひとに施すことなかれ」でした 笑


オオアリクイのはなし
とても興味をそそられました

倫理観希少性依存説
ですか なるほど。
ググってみます

勝手な見解ですが 自然を保護しようと思うのは
地球環境を保っていきたいと思うのは
それが結果として大きな死から避けられるからではないかとも
思っているんです。

自分のからだの衰え
死に近くなっていると 大半の人々は
感じると思うのです
いつまでも若々しく
生きていける余裕といいますか
なにか 物事が
進行していくのを恐れているように感じます。
それは わたしのことではなく
勝手に 周囲の人間を見ていて思った
思いつきなんですけどね 笑

新しい考え方といえばいいのか
視野が広がりました。

言葉も 受け取り方も
変遷していくという重要なことを忘れていました

恥ずかしい気分です

ほんとうにありがとうございました

お礼日時:2010/12/19 19:45

人の命など、大自然界ではたいした意味も持ちません。


人は考えることができる生物であるからこそ、命の大切さや尊厳などと言うだけで、自然界では単なる一生物と言うだけです。
子を持つ親でなければ本当の親子の愛が解らないように、家族が無ければ肉親の情が解らないように、人の命を大切と思えなければ尊厳など存在しませんし、何ほどの意味も持ちません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

ひと ではなく 命自体にも価値性は見出せません 笑

価値のあるものはないと思ってます
せいぜい自分の人生で世界なので 唯、からだと浅はかでも思考だけは大事にしています
嫌なやつですね わたし。

こどもを親がかわいがるのは
半分 流れている自分の血が愛しいのかしらん
なんてひねくれた考えですが
現在の社会的な生活をするまえは ずばりそうだったのでは
生存本能とかっていう本能は 未だ 理解できていませんが
交尾したり 食事をしたりするのは動物共通です

ひとは一度に産める量が少なく
ましてや赤ん坊は 走れないし 空も飛べない(大人になってもそうですが)
厚い毛皮もないし するどい牙ももっていない
それでも 所謂繁栄しているのは 知能が発達したからだといいますが
知能を伸ばすしか生き残る方法はなかったのではないか と思ってます

弱い赤ん坊
だけど 生存が本能なら
助けますよね。手助け
鳥もそうですが
餌を与えてやったりする。

弱い同族をまもるのは分かりますが
他人の子を愛しいとおもうのはどうしてか
その理由は あまりにも人間が 社会的に生活しているからです

群れをなしているということもありますが
責任 に似たものがうまれたのでしょうか
浅学のわたしには 答えは分かりませんが
ひとつ 疑問に思ったことがあります

人間はいつから 子を愛するようになったのでしょうか

ネアンデルタール人や
クロマニョン人
ほかにも様々な種族がうまれ
闘い 勝ち残ってきたのが現在の祖先です

敵には 似た姿をした
子供がいるはずです
殺したのか 親が死んでそのまま死んでいったのか
分かりませんが とにかく社会的であったなら
助けたはずだ

というよりも 殺し合いなんかはしなかったんじゃないかしら

黒人を奴隷にしていたことにも 言えます

きりがありませんので やめておきます

非常に良識的な意見を ありがとうございました
参考になりました

お礼日時:2010/12/19 19:56

実際に死を間じかに体験したことありますか?。



一度介護施設に訪問したり、お年寄りと会話したりすると、

解るのでは。

うちの施設では、年間10人から、20人が、どんどん

死にます。尊厳とは、微妙なものですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

死に直面したことはあります
自分自身がそうでしたし
祖父の死も 学校のひとの死も。

虫が死ぬのと同じだと思うのです
一人死んでも世の中変わらない
というのは小学生のような意見ですが
それで落胆することもない。

数を気にするのは おそらく
人間だけだと思います
鳥は 子育て中の卵が
ひとつなくなっても気付かない
すべてなくなれば気付くでしょうが。

それは あるかないか
死ぬか死なないか
存在、しているかしていないか

祖父の死にも学校の生徒の死にも
なにも感じませんでした
自分が死にそうになったことは なんどもありますし
いまにも 死んでもおかしくはないです
2秒先の死をいつも考えていますが
怖くも なんともないのです。

尊厳が理解できません
敬意が払われるのは
彼らが人間を愛しているからなのでしょうか
そうに違いない としか思えないのですが
わたしのなかには 愛したりっていう感情論は
ないのでしょうね
そうだと やはり 理解できないのでしょうか

誰もが いつ死んでもおかしくないです
近くに葬式場がありますが
みんな泣いています
そういうのをよく見ます

ですが尊厳は生まれませんし
同情もしません

生きていることは偶然だし
死は避けられない。

なにかが死んで
悲しい とかっていう感情が生まれるのは
死によってではありません
死 そのものは現象です
痛みが感覚であるように 死も感情はもたらさないはずです

死が悲しいことかというのは
記憶で決まるとおもいます
事実、報道されている殺害事件を見ても
怖いとは思っても悲しいとは思わないでしょう

自分には関係ないといいますが
それに近い。

死 そのものは悲しくない。

思いでがあるから なにかしらの感情がでてくる。
わたしは、自分が死ぬときには
いままで関わった人すべての記憶からもなくなりたいとおもいます

理解できない尊厳など 関わらずに済むからです



そう思うのです

なんだか すみません

お礼日時:2010/12/19 16:47

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