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他人は他人、自分は自分。
他人が何してようが、何を言っていようが関係ない…。
そう思えたら楽だと思いませんか?

私は十代の頃、何度も逮捕される程のくそガキでした。
その頃は虚勢を張って、目が合うだけで喧嘩に発展…。
なんて無様なんでしょうか。

現在25歳ですが、あの頃はなんて愚かだったのだろうと頻繁に思います。
過ぎ去ったことですので後悔などはしていませんが。

あの頃、周りがどうであろうと関係ない、自分は自分と思うことが出来ていたら、どんなに楽だったろうと思います。

現在の私は、喜ぶ事や悲しむことは多々ありますが、怒ることは全くありません。
だって人は人だから何をしていようが関係ありません。

ただ、無差別殺人や通り魔等は許せません、人道を外れていますから。

例えば仕事をさぼっている奴がいようが、私の悪口を言っていようが(実際に聞いた訳ではありません。)
全く気にしません。

だって人は人だから…。

そんな風に思えればどんなに楽でしょうか?

私の周りの人間は、ちょっとの事に敏感に反応し、自己主張も出来ない方々ばかりです。

人をいじめる事で自分が優位に立ってると勘違いしてる方。
自分の方が高級ブランドバッグを持っていると自慢している女性。


…。
全く意味が分かりません。


書いても書いても尽きないのでこの辺でやめておきますが、本当に人間とは愚かな生き物ですね。

同じように感じておられる方はいらっしゃいませんか?

A 回答 (6件)

私は同じように感じている一人です。



幼稚園の頃から、自分と人とは別物と言う考えが出来ていたので、楽な生き方が出来ていると思います。
人と同じものを得たいという気持ちは全く無く、自分のことが分かっているので、自分らしいものを常に求めていました。

友人も特に必要ということもない子供時代でしたが、同じ価値観の子たちとは、類は友を呼ぶ言葉通り、人との横並び意識の無い子が集まり、友人関係でもトラブルも無い付き合いが出来ました。

こんな気持ちは変わっているというのか、そんなに冷めた感情で楽しいのか?と聞く人もいましたが、自分に無理をしながら生活するより楽しいと思ってます。

人間関係のゴタゴタは嫌いなので、なるべく首を突っ込まないように振舞っていますが、たまに飛び火が振ってくるようなときも、早い段階で振り払うようにしています。

自分に自信が無い人は、人と同じでありたいと思うのでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに皆自身のなさの現れなんでしょうね。
何か1つでも目に見えて人に勝っていないと安心できない臆病な人…。

同意見の人がいて良かったです。

お礼日時:2010/12/22 08:45

うーん、そのままの感性で良しと考えてると「止まる」よ?。


人間理解が止まっちゃう。
これは良くないと私は思うけどな?。

私は「愚か者」って好きだな。
まあ、自分が虐められるのは嬉しくないけど、虐める人を「欠陥品扱い」してしまうと、その人の分だけ「知らないこと」が増える。
真実から遠くなる…そういう生き方は、私はつまらないと感じる。
バッグひとつで嬉しくなれるなんて…素晴らしいことよ。
何でもかんでも寂しくて求めたい人よりも、ずっと快活な理由だからね。

昔君が突っかかってた人は、君にとってなんだったの?。
今君が昔を思って「無様」と思うのは、どうしてなの?。
それを今こそ考えるべきだと思うよ?。
そういうポイントに来てるんじゃないかな?。
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こんにちわ。


人には『喜怒哀楽』というものが備わっていますが、それには個人差があり、強い、弱いと言うことも言えますよね。
そしてその感情を抱く“ツボ”も人それぞれ・・・。十人十色とでも言いますか・・・人によりけりですよね。
皆、自分にしか分からない(理解)ことばかりということが実状では無いでしょうか。

まだ、お若いのにそうした見地(?)に達するのは余程今までのご自分の所為を振り返った結果なのでしょうか。
>あの頃、周りがどうであろうと関係ない、自分は自分と思うことが出来ていたら、どんなに楽だったろうと思います。
拘りすぎてバカをみたことを後悔していると言うことでしようか。幅広い面で言えば私自身もそうしたことに関しては同じ思いです。
>私の周りの人間は、ちょっとの事に敏感に反応し、自己主張も出来ない方々ばかりです。

人をいじめる事で自分が優位に立ってると勘違いしてる方。
自分の方が高級ブランドバッグを持っていると自慢している女性。

>書いても書いても尽きないのでこの辺でやめておきますが、本当に人間とは愚かな生き物ですね。

同じように感じておられる方はいらっしゃいませんか?
確かに中にはそうした人たちは多いです。しかし、それは単なる一部の方達を指して言っていることですよね。?人間は思っているよりおろかな生き物ではないと思います。

世の中にはいろんな人がいるんです。しかし、いつも誰かと組んでいたり、言ったことに対し同調が無かったりすると不機嫌な人、強い者には弱気で、弱い者には強気な人は一番イヤなタイプですね。

性格もあって“人が好き”といったタイプも居られるがそうした人はすごいと思う。肖りたい・・・。
現在、まだ25歳って言っておられますが、これからいろんな体験、試練を乗り越えなければなりません。そうなると世の中を観る目も違ってくるとおもいますよ。(良し悪しにつけですが。)
しかし、人の言ったことなり、感情に流されない自分でありたいものですよね。
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30歳になったらまた考え方も変わってくると思います。



やんちゃだった頃はとにかく周囲にケンカを売って回っていたということですが、今はやっていないわけですね。その頃の自分と今の自分と何が違うのかというと、ご自分では他人は他人、自分は自分と思えるようになったからとおっしゃっています。

要するに、当時に比べて自分自身をコントロールできるようになったということです。自分の感情が高まると抑えられなかった自分が、抑えられるようになったということです。つまり成長したってことですね。赤ん坊は腹が減ったといっては泣き、おむつを取り替えろといっては泣き、なんか退屈だと思うと泣きますが、成長してくると「我慢しなさい」といわれると我慢できるようになります。
そしてやがて親になってくると、泣きわめく赤ん坊に対しておおミルクか、おむつか、それとも機嫌が悪いのかと思えるようになってくるわけです。

若いうちはどんなところも自分の力でたどり着いたと思うものですし、それは間違いではありません。しかし、やがてどんなにいきがったところで自分ひとりだけでたどり着ける場所なんてたかが知れていることがわかります。例えば、大概の場合どこかに行くには車に乗るなり電車に乗るなり飛行機に乗るなりするわけです。その過程で、誰かの力は借りているわけです。車にしたって、ガソリンスタンドを用意してくれる人とか、駐車場を管理してくれる人がいるから成り立つわけです。自分の足だけではあまり遠くへはいけません。仮に自分の足で行くにしても、宿も必要なら腹も減ります。

まあ、まだ今のうちはわからないと思います。30過ぎたときか家庭を持ったときに私の言葉を思い出してくれると嬉しいですね。
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人間だって一個の動物です。

例えばサル山を思い描いてください。
若いオスは成長していくと喧嘩によって地位が決まっていきます。若い頃は誰彼なく喧嘩を売っても、その勝敗で地位が決定し、次第に勝てそうな相手にしか向わなくなります。最終的にボスに向うのは最も体力のあるオスとなります。年老いたボスに打ち勝って歓喜する若ザルは、老齢のチャンピオンに買って「俺が一番」と喜ぶボクサーとかぶりますね。
人間であれば、そこで終わる事無く、元チャンピオンに敬意を表する事ができるのでしょう。

つまり、人間も若い頃はまだまだ動物のヒトでしかないのです。但し、人間は知能のある動物で、その中でも多様な価値観を持てる唯一の動物です。つまり多様な価値観を持って始めてヒトから人間にレベルアップする訳です。
体力ではなくブランドや金、地位に執着するのはヒトから一歩進んで人間になった証拠。でもそれ一つだけの価値観でヒトを判断したり、人に強要するのはまだ人間ではなく“ヒトから人”になっただけです。

社会を構成する動物は他者との位置関係を重要視します。従って他人の事が気になるのは当然です。人間とはそのような動物なんですから。
でも近年の日本人は違います。そこには自己がないのです。社会の位置関係は自己と社会との関係でなければなりませんが、今の日本人は周囲があっての自分でしかありません。
 喩えるなら夜の月を描くのに、月の輪郭を書いて周囲の黒く塗るか、周囲を黒く塗っていて月の部分だけを残すかの違いです。前者は黒塗り部分を消しても輪郭が残りますが、後者が周囲の塗った部分を消すと月も消えてしまうように、現代日本人は社会を眺めてそれに見合っている自分を作り出しているに他なりません。
ブランドや地位、金がなくなったら、自分自身も消えてしまう存在なのです。そういう日本人が多いから、自己主張を乗り越えた貴方は人間が愚かだと感じるのです。
力の世界から多様な価値観がある事を見出した貴方は立派な“人間”です。さらに多様な価値観を「一つの基準のあり方」として認識してください。

人間が動物である限り、他者との位置関係を気にするのは仕方ありませんが、そんな動物的な価値観をも捨てようと考えた人たちが居ます。それが禅宗や密教です。
つまり無心になるために、一方は内観によって自己を見出そうとし、一方はトランス状態によって崇高な存在に直結しようと考えました。祈りをし続けるカトリックの修道士なども同じでしょう。
無心=人間の動物性の否定をするためには並大抵の努力では成れないみたいです。
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壮年・男子です。

女性の方の投稿とみなして書かせていただきます。(バッグのことなどから)

自分の場合、「人間は愚かないきもの」という考えは同感ですが、それは自分自身のことであって、周りが愚かものばかりという意識はありません。逆に高校生の頃から周囲の優越を感じてばかりいました。それは単なる劣等感ということではなく、同じ年令なのに尊敬を感じたり、感心したりすることの方が多かった気がします。(中の一人は東大へ行った)

大学、企業に就職と進んでも、自分の周囲に対する感じ方は大きく変わらず、中には「こいつバカ」と思うこともありましたが、多分それは己の愚かな感情的な部分だったとも考えれます。

・・・と書いてきましたが、実は質問者さまへの明確な回答は思いついていないのです。男と女という条件を差し引いても、日本という社会に住んでいて日本人がそんなに違うはずはありませんから、単なる個人的な感じかたが、余りに「違う」というのは一つの驚きなのです。

個人の感じ方の違いか、それとも女社会と男社会の違いか、それとも矢張り個人は生きる環境は違うのか、不惑を過ぎてなお迷うばかりです・・・。
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