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生きるとは、どういう事でしょうか。血がでる、病気をする、欲、名誉など社会の中でのもろもろの現象を取り除いたなかでの生きるという根本的なものはなんなのでしょうか。目的はなく、生きるためにいきているのかもしれない。名誉や地位や社会での役割は、つけたしかもしれません。

A 回答 (10件)

考える事

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 kanto929さんの質問は、人間について「生きるとは」という疑問かと思います。


 そのことを考えるために、生物というものについて。

 生物は例外なく、子孫を残すという作業をしています。そうした行為のない生物はいるのでしょうか。
 人間も子孫を残すという役目を、生物として与えられています。

 その点では、人間は他の生物と少しも変わりはありません。同じです。
 でも、人間は自身を「意識」することができます。

 だから、生きる意味について考えたりするようになります。
 
 その答えは、宗教的精神世界に求めるしかないのではないでしょうか。
 宗教的精神世界にしか、回答は無いように思うのですが。

 この点について、kantoさんはどう思いますか。

 
 

 
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根本的には、是生滅法、法を滅するのが生であるでしょう。


この世界の在り方に逆らう。反重力を形成し続けるのが、生きる、という活動になります。
植物は上に向かって成長を続け。動物や鳥は、食と種族維持のために何百キロにもわたる移動を繰り返すという生き方になります。
何のためにか、それは太陽からのエントロピーを固定したり、転化させたりで、生命の環境を保持する。との方向になります。生命がいなかったら、地球温度は、づつと高温なはずです。
植物は重力ゆえにいずれは倒れ。動物は生きるため、食い続け、性欲にかられて、競い、
争い、をしなければならない。しかしいずれは重力に負け、死ぬ。それを認識出来る人間にとっては、生は本質的に苦である。
「人間の一切は苦であると知恵によりて見る者は自らの苦悩を癒す」(釈迦)となるのかも知れません。
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死んだ後の事を考え、そのために行動することです。


唯物論の方は、子供や子孫の為に、死後の世界が解る人は先祖や自分自身、そして死後に子孫に負担をかけないために、今出来ることをする事です。

なので、何も考えずブラブラと生きている人は、唯物論であるとか精神世界とかは関係ありません。
生きているとさえ言えないかも知れません。
まあ、それでもなにかの役に立っているのが人生の妙というものですが。

この回答への補足

私達は、子孫の事いうのは、自分が、創造した世界が、現在の状態であると過程の事だからでしょう。よく考えると、自分という存在があるから、世界があると言っても過言ではないでしょう。私の存在がない状態はわからないと思いませんか。

補足日時:2011/01/15 00:35
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生きる目的=生きること(単純で解り易いでしょう)



では、もう少し範囲を広げて「社会」では、どうでしょう?
社会の定義は「助け合うために集まったもの」とします。
この定義は、生物学も関連した総合的認識です。
例えば、あなたの身体の細胞は集まってますよね?
それも「社会」なんです。

さて、一般社会を有機的に構成していると考え「社会生命」と呼んでみます。
この「社会生命」において、生きること=働くこと、なのです。
「働く」ていうと就職やらを連想してしまいますが、
要するに、農作業の手伝い、家畜の世話、など子供でもできることです。

ただし、社会生命は現代では未だできておりません。
なぜなら、「助け合う」という意識が希薄だからです。
私の場合、働くこと=人助け=遊び、であります。
狩りや狩猟や農耕は、遊びであり、労働なのです。(元々区別ない)
獲物を捕るのは楽しいですよ。

このように、生きる=人助け=遊び=楽しい=精神的充足、となります。
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こんにちわ。


生きるとは、学んで成長することであると考えます。
今回の人生を終えても学びと成長は終わりません。
人生におけるすべての経験はそれを達成するためにあります。
自分の人生に起きてくるすべての出来事には意味があります。
自分が生まれてくるとき
今回の人生で何を学ぶかを決めてきました。
その目的を全うすることが生きることです。
その目的を全うするプロセスが生きるということです。
それは「本来の自分自身になる」ということであると考えます。
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人を形づくっている物質に「目的」はありません。


しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
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 自分を受けて、自分を届けるのではないですか。

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生物とは何でしょうか。

それは遺伝子を持ち、これによって自己の複製を自力で作り出せる能力を持つ物質です。雌雄を持つ生き物は雌雄の協力が必要なので自力の意味が少し変わりますが本質的には同じですね。

ですから生きることは自分の子供を作ることが最大目的ということになります。それに失敗した生物は自分の複製を作っていませんから、死んでしまうと自分の遺伝子が残らず、その結果は永久にこの世から消えてしまうという悲惨なことになります。生物はこれを繰り返していますから、その遺伝子は子孫を作ることに最大の興味と喜びを感じるような要素が組み込まれており、だからこそ子孫がその遺伝子を伝えることができるのです。

だから貴方は子孫を作るための努力を一生懸命続け、それが成功したときには大きな喜びを感じることができるのです。そのためには学問に励んでよい収入を得、妻子を養える能力を身につけ、できた子供を夫婦で育て上げることが必要なのです。そして挫折感を感じておられるとしたら、ほぼ確実にその目的達成に失敗したからだと言えます。
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既に結論は出ているのでは。

楽しむこと。
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