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皆様方、タイトルどおり「禅とは何か?禅の実践とはなにか?」、お伺いしたいと思います。

こういう質問を掲げるということ自体、禅の実践ができていないことを示していますが、敢えて、お尋ねしたいのです。

澤木興道老師は、
1)禅をやっても何にもならない。
2)悟った人を見てごらん。たいてい迷っておる。
3)人間は何しに生まれてきたか。大体人生は無目的である。生まれてきて、うっかりしていたら人間だった。
4)(立派に思える人間も)今のところ辛抱して猫かぶっておるだけの話しで、ちょっと狂いが来たらどんな悪いことをするかもしれない。
5)やれやれこれで無事に一生しっぽを出さずに死ねる。
6)子供が啼いている時には、おおよしよしやらねばならぬのは当たり前のことである。これが方便というものである。

列挙しがたいほど、胸に響く言葉ばかりですが、4)のとおり日常生活のちょっとした狂いに、禅のことも仏教のこともあまり知らない人より、自身の心は動揺し、狂いそのものになります。なんとかせねばと思い、1)とは正反対の功利的坐禅をすることになります。

僧侶に対して、農民か労働者か知りませんが、こういったということです。「あんた方はええな。暇があって、みなからはえらいえらいとほめられて。わしらは生きるために死ぬほど働かにゃならん。」

無差別殺人という犯罪を犯してしまう若者たち、増加する狂気の通り魔、彼らに安定した職・食べ物があれば、あんなことにはならなかっただろう。いや、昔だってあったさ、という人々。そういうことが起きていることを知りながら、ほっとんどの人間は(私自身も)わが身をもてあまし、じっとしているだけ。

「あなた方が見ているものは本当に存在するのか?」と説く「唯識」。これだ。分かった、と思った時もあった自分。「いや、客観世界は実在する」と説く西嶋和夫老師。

この世、娑婆では、「自業自得」といって「自分のなしたことは、娑婆の規則にしたがって、自分が賞も罰も受けなければならない。しかし、死んだあとは娑婆の善人・悪人も阿弥陀様が極楽へ送ってくださる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」という僧侶。澤木興道老師は「南無阿弥陀仏と言ったあとが大切だ。」と言われた。

ホームレスの人たちに、食事をふるまうキリスト教の教会。現金300円から暖かい食事をふるまう「さなぎ食堂」というNPO法人。仏教集団は?

経済が人間を規定するというような趣旨のマルクス思想。たしかにそう思えるときもある。カール・ポランニーという経済人類学者が、本来「土地・労働・貨幣」は商品にすべきでないと唱えています。現代人が苦しんでいるのは「商品化された土地・労働・貨幣」の世界を当然のものとして他の事を考えることが出来ないからではなかろうかと思うこともある。

地球が「開放系」でないことを初めて知った地球人。この「閉鎖系」の地球の中でウイルス・細菌のように、地球の隅々まで食い尽くしていく経済体のすすめるグローバル化という欺瞞的な用語をよしとして信じ込んでいる一般人。経済の世界でもエントロピー最大になれば、血液凝固DICのように死んでしまう地球人。

様々な真実らしきことばばかりが頭の中で響きます。禅とは何か?禅の実践とは何か?現代という特殊な時代において、何か、何か?とお尋ねしたいのですが。

特にお聞きしたい見地は、もちろん念仏、看話禅の方のご意見も歓迎ですが、特に私のよりどころとしている黙照禅の立場からのご意見をお伺いしたいと思います。

A 回答 (2件)

「看話禅」ではなく「黙照禅」の立場では『禅とは何か?禅の実践とは何か?現代という特殊な時代において、何か、何か?』尋ねられて、回答するのでしょうか。



様々なことばばかりが頭の中で響き回った状態を、誰かの説得や解答で脱しようとするのは、「黙照禅」の立場ではないでしょう。

只管打座 ただひたすら坐ることに打ち込む 
何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「黙照禅」の立場を離れて考えたとして、
 
たんに他人の言葉をとりとめなく断片をごちゃごちゃと繰り返しているように見えます。
思案するのなら、ぼんやりと他人の言葉の表面をなぞっているのではなくて、しっかりと詳しく読み解こうとした方が良いと思います。 人口に膾炙する有名な語句や表現は、それだけを何十回、何百回と読み、字引を引いても、意味はわからないだろうと思います。 有名な語句を書いたり思いついた人の深く長い経験が言わせたカケラが、『有名な語句や表現』になっているだけです。 中を理解したければ、その人の生き方や思想全体をトレースするつもりで懸からないとダメだと思います。

『千々に想い乱れて』という状態で真剣に困った状態が長く続いているのであれば、やや危険です。お薦めは 次の方策です。 (3)(4)が私のお薦めです。
どれをとるのも、とらぬのも、自分で決めることです。
(1) 有名人の言葉を思い浮かべているのは雑念にすぎないと断定して、いらないことは考えない。禅そのものを目的とし、坐ること自体に集中する
(2) 黙照禅はあきらめる。地球の科学の専門書を読んで、準研究者並みの知識を獲得することに最大限の努力をする
(3) 精神科の診療を受けた上で、心理カウンセラーの紹介を受けて、心の緊張を解くことを2011年の目標に切り替える
(4) 具体的な社会活動(例:近所の道路や公共広場、河川敷などの清掃)に1日何時間かを充てる
(5) 坐禅、公案、読経、作務などの修行の厳しい指導者についていく
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この回答へのお礼

>様々なことばばかりが頭の中で響き回った状態を、誰かの説得や解答で脱しようとするのは、「黙照禅」の立場ではないでしょう。

>只管打座 ただひたすら坐る        

ただ一人で坐禅に取り組んでいたもので、体も心も「只管」を忘れていたかもしれません。

>黙照禅はあきらめる

無理です。

ただ、こういうことに関して、他人の意見を聞いたことがなかったので、厳しいおことばありがとうございました。昔は参禅していたのですが、今はひとり坐禅で甘えが出ていたかもしれません。仲間は必要ですね。

お礼日時:2011/01/25 14:03

No.1の意見に賛成です。



加えて言えば、師匠の言葉を拾い集めて理解したがる病と言えますかね。
まあ、誰でも学びの過程で多少は存在するものと思います。

>禅とは何か?禅の実践とはなにか?

人間とは何か?と聞かれた時に、自分という観察対象があるのに文献を探し回る愚さと同じです。
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この回答へのお礼

>人間とは何か?と聞かれた時に、自分という観察対象があるのに文献を探し回る愚さ

頭を打たれました。

お礼日時:2011/01/25 14:08

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