日本語は 論理表現にふさわしくないか?
( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。
( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく
(β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは
(β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。
といった要因があるのか。
( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。
それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。
ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?
( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道も仏教も 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?
すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?
☆ どうお考えになりますか?
上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?
No.16
- 回答日時:
○ おまえは美術史の中で 画法などなどのあり方において《自己否定的契機》などはなかったはずなのに それがあったと勘違いしている。
☆ でしょうか?
ち が い ま す
そうならそう書きますよ。おまえ勘違いダヨとね。わたしには思いもよらないのだということがそのまま受け入れられないのですか、あなたは。
わたしはあなたのことを書くときはあなたを主語にします。わたしが主語のときはわたしのことを書いているんですよ。
↑↑↑
こ こ 大 事
それにね。「情報交換って? 第一に質問者が教えてもらうところでしょう」というわたしの言葉に異論がなかったなら、規約文を引き写し貼り付けている意図は何? 何を読解したことを知らせるものでしたか? 自分にとって明確ではないことをしないでくださいよ。
引き写し・貼り付けの落とし穴はここ。
↓↓↓
曖昧な読解というのは、文の論理表現からすでに論理が落ちた状態にしておきながら、その文を思考道具として使うことになってしまうのです。そして、表面上それが見えにくい。そのことが、論理表現の積みたてに余計な労を課す。
ところであなたは、わたしが書いた風が吹くなどの表現にこだわって、何をやっているんですか?
美術史の図説読本を買いなさいね。デュシャンのシュルレアリスムより前の美術で、即自の美術だのオブジェ化だの問題圏そのものが存在しないですよ。
ないとわかったら、ないならないで、あなたの考えは考えとして好きにすればよろしいではないですか。わたしはあなたを勘違い者扱いしたことはないのだから。あなたがわたしを矛盾扱いしてるんですよ。
あなたがわたしにバツ印をつけてやまないのですよ。
わたしはあなたにバツ印をつけていないでしょ。過去にも現在にもね。わかる? でもわかんないんだろうね。とにかく美術史の図説読本を買いなさい。一も二もなく買いなさい。木村についてのわたしの投稿が無くて済んだはずだから。
いい加減にせんかい。
★ 「情報交換って? 第一に質問者が教えてもらうところでしょう」というわたしの言葉に異論がなかったなら
☆ どうも意図しなかったわたしの勘違いによって引っかかってしまったようだ。《ただしいことを言った》と思いこんでしまったらしい。
★★(No.14) ~~~~~~~
さて、規約は、教えてgoo!第3条(目的)も似たようなもので
1.本サービスは、会員間の質問と回答の形式による情報交換の機会及びその環境を提供することを目的とします。
( a ) この情報交換とは、会員が、誰でも質問でき、誰でも回答でき、質問する時には情報を得る者となり、回答する時には情報を与える者となる、という意味です。
( b ) 一件の質問の中で、回答者が情報を与え質問者から情報を得るという意味ではありません。同様に一件の質問の中で質問者が情報を得て回答者に情報を与えるという意味でもありません。
~~~~~~~~~~~~~
☆ もしこのようであるのならば
○ 質問者が回答者に対してそのお礼欄等で 《無用でしょう》と書いてはいけません。
☆ 情報を与えることになるからです。バカも休み休み言いたまえ。
わたしが《わたしの解釈がまちがいであるならば》と 知らず知らずのうちに書いたら 自分の述べたことが《ただしい》と思ってしまったようだ。もし正しいのなら《無用でしょう》というような応答をしてはいけない。ただしくないなら わたしの言うように誰もが互いに情報を交換し合うことになる。
どっちにしても 自業自得。弁解の余地がなくなってしまった。ごしゅうしょうさまです。
★ ~~~~~~~~~~
ないとわかったら、ないならないで、あなたの考えは考えとして好きにすればよろしいではないですか。わたしはあなたを勘違い者扱いしたことはないのだから。あなたがわたしを矛盾扱いしてるんですよ。
あなたがわたしにバツ印をつけてやまないのですよ。
わたしはあなたにバツ印をつけていないでしょ。過去にも現在にもね。わかる?
~~~~~~~~~~~
☆ 引用がやや変則的であるかも分からないが 曲解することはない。
もしわたしとひどっちさんの定理が《勘違い者扱い》されていないのならば なぜ次のような批判が出て来るのですか?
★★(回答No.15) ~~~~~
曖昧なのはひとえにあなたの日本語の読解と作文であり、自己の主体をふらつかせている自己乖離の現象であり、α から δ にいたるまで日本語を曖昧な作用性のものと決めつけている問題の立て方が取りあげようのないものだと気付きませんか?
★★(同上) ~~~~~~~~
【つまり、あなたは、木村の言う《自己否定的契機》についてのあなたの見方や立場を明らかにしていたのではなく、それを未検討に付し、自分の思想に合うようにそれを歪めるという簡単な事をしているのです。】
★★(回答No.14) ~~~~~~
あなたは、日本語(を使うみんな、を使う主体)の問題として設問を立てているのですから、自分の主観から発する曖昧さを、客観的問題であるかのように自己乖離しているのです。このことはこの設問に実証されているのではないですか。自己乖離は「仮説」でもなんでもない、ただの現象です。
★★(同上) ~~~~~~~~
あなたの主観としてたしかにそう思ったしそう感じた、という出来事があっても、第三者らの客観的視点に拾ってもらえず、そうは見えないといわれる。あなたの主観事実を否定されたり疑問視されたりし、あなたはそんな第三者らを客観に足る者と認められない一方で、客観性というものが、世界のからくりとして、謎として、あなたの主観世界に迫るものとなります。
~~~~~~~~~~~~~
☆ ところが 繰り返し引くならば:
★ わたしはあなたを勘違い者扱いしたことはないのだから。
★ わたしはあなたにバツ印をつけていないでしょ。過去にも現在にもね。わかる?
世の中にこんなあほうがいたとは。縄文人もびーーーーっくり。
お引き取り願っても 食いついてくるダニ。
これ以上 みなさんの前で醜態を見せなくてもよいものを。
さぁ みなさん。どうしましょうか? どうするのがよいと思いますか?
No.15
- 回答日時:
2.
> ☆☆(趣旨説明) 上のような〔* α から δ までに述べた〕考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?
> ☆ と書いてある質問なのです。ふざけてはいけません。
日本語を論理的表現にするための推敲をとおして、あなたが、あなたにとって妨げになるものを、まず確かめてみれば日本語が論理表現にふさわしいかどうかわかるという回答です。曖昧なのはひとえにあなたの日本語の読解と作文であり、自己の主体をふらつかせている自己乖離の現象であり、α から δ にいたるまで日本語を曖昧な作用性のものと決めつけている問題の立て方が取りあげようのないものだと気付きませんか?
> ☆(割り註=ぶらじゅろんぬ)
の内容を見ますと、いまでも、即自美術として便器や覗き穴や無響室や水桶を思い浮かべていなそうだとわかります。古典様式に自然主義の風が吹き、写真術の助けで印象再現と視覚再現の風が吹き、民族博覧会の助けでアフリカ・アジアの風が吹き、価値多様化の風が吹き、総合的知覚の風が吹き、近代科学と合理化の風が吹いてキュビスムまでは、美術の自己否定契機なんか思いもよらないですね。
> その見方を持つかどうかは 焦点となっている主題の問い求めにとって必要かつ有益かどうかによります。
とは要するに、見方や立場と口上を言っておきながら、木村への見方は最初から存在しないし、位置関係もない。ゆえにわたしの回答は初めから要らない。【つまり、あなたは、木村の言う《自己否定的契機》についてのあなたの見方や立場を明らかにしていたのではなく、それを未検討に付し、自分の思想に合うようにそれを歪めるという簡単な事をしているのです。】 そんなあなたが日本語の論理表現は何処に問題があって曖昧なのかと。#6の回答も#10の回答も徒労でないとよいのですが。
つづいてです。
自己乖離の問題が 質問者であるわたしの日本語における論理表現にかんして妨げになっているとのご主張のようです。
焦点はつぎの一点のみです。
★ ~~~~~~~~~~~~
わたしの回答に至るまで、《自己否定的契機》が美術史上の脱オブジェの契機を捉えるものである、という見方をあなたは持たず、
> ☆(割り註=ぶらじゅろんぬ)~~~~
その見方を持つかどうかは 焦点となっている主題の問い求めにとって
必要かつ有益かどうかによります。
ただし シュジェ(主題)を脱してフォルムへ移行するという場合など
のそれについては 質疑応答の流れに沿ってたしかに触れています。
あるいは それまでの絵画ないし美術という概念またはそこに想定され
ていた《〔神と向き合う〕人間》の概念についても それに対する《自己
否定的契機》が 現代美術において さまざまな実験と呼び得るかたちで
おこなわれて来たという話に 全体として成っています。質問者も その
ように受け止めています。
ですから きわめて図々しいモノの言い方になっていると指摘しておき
ます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
の内容を見ますと、いまでも、即自美術として便器や覗き穴や無響室や水桶を思い浮かべていなそうだとわかります。古典様式に自然主義の風が吹き、写真術の助けで印象再現と視覚再現の風が吹き、民族博覧会の助けでアフリカ・アジアの風が吹き、価値多様化の風が吹き、総合的知覚の風が吹き、近代科学と合理化の風が吹いてキュビスムまでは、美術の自己否定契機なんか思いもよらないですね。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 焦点のそのまた焦点は
★ 美術の自己否定契機なんか思いもよらないですね。
☆ ここにあるでしょう。こうでしょうか?
○ おまえは美術史の中で 画法などなどのあり方において《自己否定的契機》などはなかったはずなのに それがあったと勘違いしている。
☆ でしょうか?
これも直前(No.14)の《規約の条文についての解釈の違い》と似たかたちで 解釈の違いになるようです。つまりは 表現の問題であるに過ぎないことを取り立てて大きなこととしている。
★ 古典様式に自然主義の風が吹き、写真術の助けで印象再現と視覚再現の風が吹き、民族博覧会の助けでアフリカ・アジアの風が吹き・・・
☆ というふうにあたらしい《風が吹く》こととして捉えれば それ以前の画法などに対する反措定がなかったかのように見なせる。と言っているに過ぎないではないですか。
つまりは それまでのやり方に従っていたところ あたらしい風が吹きそうだと思った→だからその風の吹くままに従うことにした。ということは その従来のやり方を《否定した》わけではないのだ。――こう表現しているに過ぎないではありませんか。
★ 【つまり、あなたは、木村の言う《自己否定的契機》についてのあなたの見方や立場を明らかにしていたのではなく、それを未検討に付し、自分の思想に合うようにそれを歪めるという簡単な事をしているのです。】
☆ いったいこのことをやらかしているのは だれですか?
No.14
- 回答日時:
長くなりますので分けます。
1.
> ★ 精神障害だと言わねばならない場合でも、わたしは....
> ☆ この部分は この質問および質問者に何のかかわりもありません。二度と持ち出さないように願います。
聞いてきたのはそちらです。あなたが精神障害であるとわたしが言うという話は、あなたが考え出したものですよ。そんなわたしはどんな人間かとあなたが尋ねたのです。精神障害であると言うならわたしはこうだと答えただけなのです。
( > ひとと情報交換するときに (2)おまえには精神障害があるぞとあたまからかぶせる言葉を吐くとは いったいどういう料簡ですか? どういう人間なのですか あなたは?)
さて、規約は、教えてgoo!第3条(目的)も似たようなもので
1.本サービスは、会員間の質問と回答の形式による情報交換の機会及びその環境を提供することを目的とします。
この情報交換とは、会員が、誰でも質問でき、誰でも回答でき、質問する時には情報を得る者となり、回答する時には情報を与える者となる、という意味です。
一件の質問の中で、回答者が情報を与え質問者から情報を得るという意味ではありません。同様に一件の質問の中で質問者が情報を得て回答者に情報を与えるという意味でもありません。
猪突さんの言葉どおり、あなたには、長時間相関がないのかもしれません。
規約のこんな文章は、そちらの語を立てればこちらの語が立たずということのないように読むものです。質問の意味と回答の意味を犠牲にして情報交換の意味を曲解する余地はなく、曖昧な表現ではありませんよ。
曖昧な読解というのは、文の論理表現からすでに論理が落ちた状態にしておきながら、その文を思考道具として使うことになってしまうのです。
そして、表面上それが見えにくい。そのことが、論理表現の積みたてを余計な労を課すでしょう。
あなたは、日本語(を使うみんな、を使う主体)の問題として設問を立てているのですから、自分の主観から発する曖昧さを、客観的問題であるかのように自己乖離しているのです。このことはこの設問に実証されているのではないですか。自己乖離は「仮説」でもなんでもない、ただの現象です。
( >☆ この自己乖離とやら それを論証してから問題にしてください。)
自己乖離というのは、キリスト教徒の場合は本当の告解ができるかどうかに深くかかわらざるをえませんね。
あなたの主観としてたしかにそう思ったしそう感じた、という出来事があっても、第三者らの客観的視点に拾ってもらえず、そうは見えないといわれる。あなたの主観事実を否定されたり疑問視されたりし、あなたはそんな第三者らを客観に足る者と認められない一方で、客観性というものが、世界のからくりとして、謎として、あなたの主観世界に迫るものとなります。
> わたし(ぶらじゅろんぬ)は 《自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる》ところの他者と いまわたしは相い対していると思うことがある。このことは 発言ややり取りにおいて事実であるようだ。
> ☆ そしてもしこのわたしの発言(診断)が 何の根拠もないと言うのであれば その発言の中に嵌め込まれた命題(つまり 自己乖離という仮説)も 何の根拠もない。こうなるでしょう。
根拠がないと言ってもらえるのをアテにして、アテどおりならば云々などと言うことが論理としてまかり通ると思っているのですか。根拠は自分で示すものでしょう。日本語の論理表現でも英仏独語いずれかの論理表現でもかまいません。
> ★ 結論・理由の順に文意を運ぶと脈絡を読みとれない人がいるものです。あなたもそうでしょうか。
> ☆ 例証・論証が俟たれます。
だから、「読解と作文がすさまじく論理曖昧におこなわれる傾向にあることを指摘します」という結論が先に、脳神経と心理障害そして自己乖離表現がその理由として次に、あなたの文章例の問題点がその実証として最後に、書かれているでしょう? なんで例証を俟つんです? #6はのっけからなじるのではなくこのとおりということ。
( > ですが ひとと情報交換するときに(1)相手の文章が論理性にとぼしいとのっけからなじり...)
ご投稿をありがとうございます。
さて 焦点となるのは 次の一点のみです。
★ ~~~~~~~~~~~
さて、規約は、教えてgoo!第3条(目的)も似たようなもので
1.本サービスは、会員間の質問と回答の形式による情報交換の機会及びその環境を提供することを目的とします。
( a ) この情報交換とは、会員が、誰でも質問でき、誰でも回答でき、質問する時には情報を得る者となり、回答する時には情報を与える者となる、という意味です。
( b ) 一件の質問の中で、回答者が情報を与え質問者から情報を得るという意味ではありません。同様に一件の質問の中で質問者が情報を得て回答者に情報を与えるという意味でもありません。
~~~~~~~~~~~~~
☆ なるほど この規約の解釈で違いが生じていましたか。
わたしは ( b )は実質的にないだろうと考えます。言いかえると 質問者であろうが回答者であろうが その立ち場に関係なく 参加者はみな互いに《情報を交換する》と捉えます。
( a )は その立ち場を かたちとしてのみ捉えたものです。参加者が取るどちらかの立ち場のことであり それが質問者であるか回答者であるか ふたつにひとつということです。
このわたしの解釈がもし 間違っていたとした場合 それをもって 自己乖離とやらの例証・論証とするということのようですが ほんとうにそうでしょうか?
これでこのNo.14については 話しはついたと考えます。つぎのNo.15には たしかにこの規約の解釈をめぐっての議論とは別の話題が取り上げられています。
No.13
- 回答日時:
論理を記述するために日本語が充分な機能を持つことを示すには、論理学・記号論理学が日本語で示すことが可能であることで充分であると回答いたします。
洗練されて美しい論理展開を示す例が身の回りに少ないかもしれませんね。日本語文の記述が論理的に物足りなさを与える理由は二つあるようです。第一は名詞と動詞の数が乏しいので一文章の持つ情報量が乏しいことです。例えばヨーロッパ系の言語では「帽子」に対応する言葉ははるかに多い。「泣く」「鳴く」「啼く」に対しては10倍以上の量を持っています。日本語文を翻訳するときにはすぐにぶつかる問題です。第二には明確な表現を避けたがる日本の歴史的背景があります。曖昧な表現法がよく発達しています。いっぽう論理構成が明瞭で美しい文章は禅などの宗論には見られます。
ご回答をありがとうございます。
★ ・・・論理学・記号論理学が日本語で示すことが可能であることで充分であると回答いたします。
☆ そういうものなのですね。
たぶん どの言語でも可能であるのではないかとは思ったりしますが それで充分であると。
★ 第一は名詞と動詞の数が乏しいので一文章の持つ情報量が乏しいことです。・・・
☆ ううーん。細かい表示がしづらくなるとき 論理的に物足りなさを感じさせる でしょうか。
★ 第二には明確な表現を避けたがる日本の歴史的背景があります。曖昧な表現法がよく発達しています。
☆ これもそういった論理的な記述の存在を希薄なものに感じさせるでしょうか。
★ いっぽう論理構成が明瞭で美しい文章は禅などの宗論には見られます。
☆ あっ これはあまりピンと来ません。知りませんでした。禅問答と言えば 雲をつかむような受け答えをし合っているというように見えていたものですから。
★ 洗練されて美しい論理展開を示す例が身の回りに少ないかもしれませんね。
☆ なるほど。論議をするのもよいとしても どしどし論理展開の出来ているだけではなく 洗練されて美しい文章を見せつけるかのようにしてでも書いていくのがよい。こうなりますね。たしかに。
実践の大切さのようです。
ありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
No.11のましゅまろです。
補足とお礼を先程拝見しました。まずあらためて本主題をかえりみますと、古来よりわが国においてあの本居宣長以外に漢心云々と本格的な考察を試みた学者がいたであろうかと思いおこせば、「日本語が論理表現にふさわしいか?」という発想は「内なる発露」に起因するものではなさそうですよね。
>アッキの道をひた走りにすすんで 引き返して来たのではなかったのですか?
>つまり いづれにせよ ふるき自分はほろびるのだと。
??
出戻るつもりは無かったものの、旅行の参考程度に(在バルセロナ領事館によると、邦人被害の首締め強盗件数が年間322件!)大のお気に入りの質問にしゃしゃり出るため再入会したのがアッキ?の発端です。
ガイドブックにも殆ど掲載のない小さな美しい村巡りで、思わず自転車走破してみたくなる鄙びた田舎のようですよ。
アルビと言えば中世のカタリ派弾圧や異端審問絡みで例の《歴史と精神》をつい想起させられましたが(ここでほじくり返すつもりは毛頭ない)。
>あなたにうかがってみます。
はい、私は一素人ですし、趣味での創作や個人経営の画廊や美術館での末端業務に就いた経験しか持ち合わせておりません。
ですので各々の個人的な鑑賞法や趣味嗜好を最大限に尊重しますし、批評家、評論家、研究一筋の専門家、更には作家や彼等の作品に対しても常に一定の敬意を抱き接する姿勢でおります。
>《評論が見たまま感じたままの鑑賞(その態度)をおとしめさげすみ しかも現代美術としては 評論をとおしての美の理解があるのみであって 人間にとって素朴な第一次の鑑賞はありえなくなったのだ》という見方に真っ向から対立するのだというところです。
>☆ では済まされない部分もあるわけです。
やはりここが対立しますね。
現代美術ならずとも美術音楽全般において学び理解する認識は私自身は否めませんし、理知的なイメージも相応にあります。
一方見たまま感じたままの鑑賞をおとしめさげすむ必要はないとは言えども、現代アートの世界ではあなたの仮説のような普遍的な美の探求という趣味とはそぐわない現状ゆえに、ご自身で相応しい作品を見い出しそれを根拠に説くのが最善でしょう。
>☆ だったら互いに互いの見解をまづ認め合いましょう。しかも――しかもです―― その上で互いに完膚なきまでにとことん批判し合いましょう。質問者は或る意味で司会者でもありますから その司会進行にしたがうのは おかしくありません。進行がおかしいのであれば そのように指摘すべきです。
素人同士の趣味論とは異なり、仮にも学説に対する精査や反証を企てるという次元であれば、論理の破綻や妥協など到底見過ごせるはずもなく、当初の躓きに立ち戻ったり厳しい指摘し合うのも当然と思われます。
司会者の役回りや質問者の意に適う回答を~という以前に、まずは教示される側とお立場を弁え、いかなる回答であれそれ相応の敬意や謝意を伝え要してもよろしいと思いますが。
また更に、生涯を通じ一貫して研究や仕事に打ち込んで来られた方々を私はとても尊敬しますし、その意味においてはあなたもそのお一人なのですから、「審美眼」No.119にて「新しい感性学を~」と提案したのですよ。
だって、古い学説や著作に発想を得た仮説の提案だけではもったいないでしょう?
これもアクマの囁きと思われそうですね。
>あなたには警戒心を持ったことがない。
例の「印象批評」も含めてつまりは「哲学の原石かそれ以下」とのご指摘と承ります。
実際私も哲学の萌芽も未だ孕んでいないと謙遜ではなく認識していますし、イヤミも可愛いものですから、あなたが私に対して警戒心を抱きようがありません。
>☆ これは 美の鑑賞およびそれをめぐる教養 という分野(?)だろうと考えます。つまりはわたしの目線としては 《一目かふた目あるいは三たび見て その絵のあらわす物語についても知りたいと思わせるような絵を描いて欲しい》です。そう言えば 表題を 一般に つけますね。
はい、あなたは確かに物語性豊かな世界観をお持ちのようなので、そのようにお考えになるのも私には理解できますし、ですから先に「絵画作品でも手掛けてみては云々」とご提案したのです。
>5『中心の喪失』
>☆ もし《無根拠の――見えざる――復活》を言っているなら 世間は放っておかないと思うのです。
?? 何を意味するものなのでしょうか?
ゼードルマイヤが想いを馳せる源流や横たわっている時間や空間など私の保有するものとは異質に感じられました。
大野流に例えれば日本は風呂敷/箱文化なのでしょうか、包み隠す意義を尊ぶ割には包んだ中身への関心は二の次かもしれず、神の喪失どころか今も昔もわが国の場合「中心は空洞」のままなのかもしれませんね。
えっとですね。――まづはご回答をありがとうございますですが―― わたしは気が短いのではなく 気が早いです。人一倍も二倍も。
★ ゼードルマイヤが想いを馳せる源流や横たわっている時間や空間など私の保有するものとは異質に感じられました。
☆ ならば それに依拠してかあるいはそれを援用して 現代美術についての《中心の喪失》論をいまただちに述べればいいわけです。持って回った言い回しでは いらいらして来ます。結論をいちばんに言ってください。
《中心の喪失》の意味は――簡単な解説を読んだ限りでですが―― よくもわるくも・またいづれの神学によるかはっきりしませんが 神の喪失を言うそうです。その風潮の中で 絵描きが絵を画くようになってしまったのだと。
ただしどうも解説を読む限りでは この神は 大きく乱暴に言ってしまうと 《観念の神》のことであるように映ります。神は死んだと言われたその神です。非思考の場というコトを想定していない。または結果的に想定しているという場合もあり得ますが そのことを自覚しえていない。だから 人びとに伝わっていない。
・・・・・・・たしかにこんなことを言っていないで 読めばよいのですが。
★ 神の喪失どころか今も昔もわが国の場合「中心は空洞」のままなのかもしれませんね。
☆ これは 河合隼雄の《中空構造》をほのめかして言っていますか? いづれにしてもこの場合も 《空洞》というのが 《観念の場》であるかそれとも《非思考の場(つまりは 神が想定されるというその神と人との関係)》であるかによって いちじるしく違って来ます。前者では 経験思考の神でしょう。つまりは 思惟の問題におさまります。
★ イヤミも可愛いものです
☆ ごりんじゅうという反応を引き出したイヤミです。
★ ~~~~~~~~
・・・まずは教示される側とお立場を弁え、いかなる回答であれそれ相応の敬意や謝意を伝えようとしてもよろしいと思いますが。
また更に、生涯を通じ一貫して研究や仕事に打ち込んで来られた方々を私はとても尊敬しますし・・・
~~~~~~~~~
☆ その段階はとっくに過ぎているのです。いわゆる食言と言うのでしょうか。ウソをつくということですが 前に言ったことと違うことを言い出す。そしてそれを咎めても直さない。居直る。――これが二回つづいたなら もう研究者でもなければ敬意をはらうべき存在でもないことが確定します。
その段階に入っているということです。それが ずっと続いているのです。だから アッキと言いますし ひょっとしてアクマか?ということになります。
事態はうごいています。しっかりと捉えてください。わたしの認識がまちがっていたら 指摘してください。
★ 一方見たまま感じたままの鑑賞をおとしめさげすむ必要はないとは言えども、現代アートの世界ではあなたの仮説のような普遍的な美の探求という趣味とはそぐわない現状ゆえに、ご自身で相応しい作品を見い出しそれを根拠に説くのが最善でしょう。
☆ これも 仲良し子良しの段階をとうに過ぎています。仮説ですが この《普遍的な美の探求という趣味とはそぐわない現状》について それは《審美眼の劣化だ》と分析しその当否を問うているという段階です。《そぐわない》というよりは 第一次の鑑賞と第二次の評論とがあるというのではなく そうではなく 第二次の評論が第一次の鑑賞よりも優位に立つという見方が出されていることに異を唱えています。
現代の美術にとっては 第一次の鑑賞は 用を成さないという見方だからです。(さいころ氏)。
これに対して《中心の喪失》という言い方で分析するだけでは これまた用を成さない。あるいは《観念の神》を持ち出しては 何にもならない。《無根拠》ということについてしっかりときちんと 人びとは捉えて受け止めなくてはならない。こう言っています。
★ 「新しい感性学を~」
☆ 感性ですから 何もしなくても 持ち前のものでしょう。感性学だとか美学だとかそういった思考や論理を いちど全部この身と心から篩い落としましょうという提案になるかと考えます。
《美は見たまま感じたまま》なのです。
No.11
- 回答日時:
No.9です。
お礼を拝見しました。>大野晋
あまりに自明な事柄ですが、《ヤマトコトバで「みとめる」一つしか言葉ないところを、認知、認可、認定、認識、あるいは承認、黙認と言い得る》というあたりに私はあらためて感心しました。
つまりこれは多義的な解釈の余地の広さを意味し、相手の意を汲み気の効かせるという素晴らしい特性を私たち日本人が備えていることのあらわれであり、No.8のMokuzo様がご指摘のように世界でも高度に秀でたコミュニケーション能力なのですよね。
こちらのサイトの質疑で得られるきめ細やかな回答も良い例です。
むろん氏の言説で日常弁えるべき点は多々あれど、母国語である日本語をこよなく愛しその魅力にもっとふれないというのであれば、何とももったいないかぎりです。
>まだわたしの答責性はのこっていますか?
はい、2回しかも続けて「印象批評は批評の可能性を残しますが 呪文はただのわめきや呻きになります云々」と私宛てにご指摘なさったくらいですから、やはり何か特別な意味があると思わざるを得ませんでしたから。
拙文がただのわめきだったのか、単にいつもの弁明に終始するハメになった中身のない推論を意味するのか、もしくは「審美眼」主題に因み印象批評に連なるボードレールや相対主義あたりの暗喩であったり、純粋に日本語の論理性や表現方法の提言としての印象批評に対する言及だったのでしょうか。
つまり、ご指摘なさった文章の意味が依然わからないままだと私は申し上げたいのです。
>☆ たぶんそれらの論理や知識が欠かすべからざるものかどうか 欠かしたとき理解に限界があってどうしてわるいのか そのあたりで見方は分かれるのではないでしょうか?
>美の鑑賞としては その情報は要らない。それくらいの美が表わされていなくては だめだ。そして評論としては必要として読む場合がある。――これらの分かれ目がどこにあるか? だと思います。
先の「審美眼」のテーマには「批評」や「趣味論」といった問題も孕んでいると捉えています。
殊に現代の作品においては作品そのものが自らの批評行為でもあります。
すなわち、批評家(他人)に鋭く批評されることにより、当初の作家の思惑から遠く思わぬ代物に還元され得る可能性も充分あるわけで、このような点も含めて現代アートの全てに興味がなかったり否定的見解を抱く方々もむろんいらっしゃるわけで、それはもう好き好きであり趣味の範疇でしょう。
また、いかなる専門家の評論とて、むやみに過信せずとも、鑑賞者自身の必要に応じて臨機応変に取捨選択をし、作品によっては参考にして独学に励むという素人の姿勢としても特段問題ないはずです。
>聖書の物語から題材を採った場合でも その物語を知らなければその絵のよさが分からないということであればそれは美術としての絵がつたない。という見方も成り立つのではないか。こう考えております。
そうなのですね。了解です。
私の場合は渡仏時の授業の影響もあり、人を理解するのとどこか等しく思われますし、作品上に何が描かれているかを観て認めるだけでなく、どのような想いや思想、宗教性などがこめられているのだろうなどと積極的に理解にのぞむ主義です。
物語性や一目でわかる具象など何も描かれてなかったり、自分にはおよそ考えも及ばない何かを見出せるような作品や批評の類にも心惹かれます。
でも、あなたはカラヴァッジョやゴッホに直感的に美を見い出しそれを鑑賞なさるのがお好きでしたし、批評の類も必ずしも要しないご主義でしたよね。
私たちは素人同士ですし、一筋に研究を積み重ねていらっしゃる専門家あるいは批評家の方々に対しては敬意を表しつつも、お互いの好みを尊重すればよろしいだけですよね。
>お聞きしますがけっきょく何が問題なのですか?
はい、当初は主題に引用なさった木村の言説の精査や疑義を正すことだったかと認識しております。
その際ご自身のお考えに変更の余地が無く、素人仮説の提案を第一とすることを質疑応答の参加者皆が弁えていたならば、あれほど長丁場にもならず、或いは質疑が紛糾しなかったことでしょうし、時に丁重に「参考にさせていただきます」の一言で済ませられたかもです。
またゼードルマイヤの『中心の喪失』を一読しましたが、あなたの意に適う言説をしばしば認めたものの、ピンポイントでそこの箇所だけ都合よく理解するだけでなく、ウェイドレはもちろんのこと古今の美術史精神史などの気の遠くなるような流れの中でそれを理解せねばならないはずです。
また、昨今の現代アートの最新の主題とゼードルマイヤが著したものとではおよそ遠くかけ離れているので、だからこそ、ご自身の健脚と眼で実際に作品と対峙なさり根拠を見い出す必要があるはずなのです。
このように考えました。
なかなか 立ち直りがお早いですね。と言うのは 俯瞰法ではなく 上から目線であり それは たとえばイヤミがかまぼこになったことがありましたから それへの仕返しです。
まづはご回答をありがとうございます。
イヤミが板についてきましたね おめでとうと たしか書いたはずです。もうなくなっていますから すべては記憶によることになりますが いちいち思い出さなくてもよいようにご返事をするとしたら それは 前回(No.9)の補足欄での書き込みになります。
よく見ると このご回答(No.11)とその補足欄への書き込みとでは 16分の差があるのみなので 補足欄は読んでいらっしゃらないでしょうね。その補足欄には かんたんにですが 二点述べていますので できればそれらに答えていただけるとありがたいです。
ひょっとすると わたしはどこかで《ゾンビ同盟》のことを書きましたが そこにあなたの名前がないのをあなたはとがめておられますか? アッキの道をひた走りにすすんだのだから――そしてそのごりんじゅうから引き返して来たのではないかと思われるのですが―― その同盟の中に名を入れるか もしくは その同盟を出すならその関係で触れるかしないのは おかしいと。
ううーん。わたしは 警戒心というのを持ち続けないタチなのですが ふとこの相手には警戒しなければならないところがあると思い浮かべることはあります。そういう場合の相手には たとえば今のようにゾンビ連合と名づけたりするわけです。
ところが あなたには警戒心を持ったことがない。例に出すと分かりやすいと思うのですが あのりとうきすさんに対してもわたしは警戒心をふとおぼえたことがあります。またそのことをはっきりと言っています。
あなたの場合は ごりんじゅうにまで到って――かんたんに引き返すとは思っていませんでしたが―― 旧き人を脱ぎあたらしき人を着る(つまり ごりんじゅうから火の中をくぐり抜けて来た人のようにすくわれる)か もしくはそのままごりんじゅうであるか はっきりしていると思っていました。つまり いづれにせよ ふるき自分はほろびるのだと。(わたし目線ですが)
さて
1. 大野晋に全面的に依拠していますが その見解をすべて踏襲するというわけではありません。たとえば日本語の基礎語彙が(つまりは その日本語の成分のひとつとして)タミル語であるという仮説を重んじていますが そのほかに 単純にあのソシュールの《言語記号の恣意性》なる仮説に異を唱えて《音素がそのままで意義素である》という仮説を――タミル語による語源説明とは別様に――掲げています。
でもまだ数十年は 大野日本語学が席巻すると見ます。
2.★ つまりこれは多義的な解釈の余地の広さを意味し、相手の意を汲み気の効かせるという素晴らしい特性を私たち日本人が備えていることのあらわれであり、
☆ だったら互いに互いの見解をまづ認め合いましょう。しかも――しかもです―― その上で互いに完膚なきまでにとことん批判し合いましょう。質問者は或る意味で司会者でもありますから その司会進行にしたがうのは おかしくありません。進行がおかしいのであれば そのように指摘すべきです。
そうでなかったから 紛糾したのです。
3.★ 先の「審美眼」のテーマには「批評」や「趣味論」といった問題も孕んでいると捉えています。
☆ そうなのですが――そして主題を広く伸ばして行ってもかまいませんが―― 焦点は こうです。ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理に掲げましたが 《評論が見たまま感じたままの鑑賞(その態度)をおとしめさげすみ しかも現代美術としては 評論をとおしての美の理解があるのみであって 人間にとって素朴な第一次の鑑賞はありえなくなったのだ》という見方に真っ向から対立するのだというところです。
その点では
★ 専門家あるいは批評家の方々に対しては敬意を表しつつも、お互いの好みを尊重すればよろしいだけですよね。
☆ では済まされない部分もあるわけです。
あとは塩梅よくやればよろしい。
4.★ 物語性や一目でわかる具象など何も描かれてなかったり、自分にはおよそ考えも及ばない何かを見出せるような作品や批評の類にも心惹かれます。
☆ これは 美の鑑賞およびそれをめぐる教養 という分野(?)だろうと考えます。つまりはわたしの目線としては 《一目かふた目あるいは三たび見て その絵のあらわす物語についても知りたいと思わせるような絵を描いて欲しい》です。そう言えば 表題を 一般に つけますね。
5.★ またゼードルマイヤの『中心の喪失』を一読しましたが、・・・
☆ もし《無根拠の――見えざる――復活》を言っているなら 世間は放っておかないと思うのです。
No.10
- 回答日時:
情報交換って? 第一に質問者が教えてもらうところですよね。
精神障害って? あるともないとも言いませんが、脳神経と心理障害の問題としてこの質問を解決したほうが、あなたにとって有益だという回答が気に入らないからって、言葉を書き換えてなんの意味がありましょうか。
精神障害だと言わねばならない場合でも、わたしは他者に向かっては言わないのですね。当人に向かって言うのですね。でもそれは、いくつかの心理障害の組み合わせがあるのを確かめ、医師が投薬した反応から受容体の活性不活性を推定した上でのことですね。
のっけからって? あなたが自己乖離(自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる)を起こしていると書いたとおりです。結論・理由の順に文意を運ぶと脈絡を読みとれない人がいるものです。あなたもそうでしょうか。
> どうすればよいか?
と書いてある質問ですから、回答を役立ててください。
> その【Q:審美眼】でのやり取りにおいて このNo.68までに到らなくてもその最初の投稿のときからすでに いまこの上に説明したわたしの見方や立ち場についてはいくたびも重ねて明らかにしているということを いま読み返して確認しています
いいえ、その確認は間違いです。なぜなら、わたしの回答に至るまで、《自己否定的契機》が美術史上の脱オブジェの契機を捉えるものである、という見方をあなたは持たず、これを棄却する論理など展開していないからです。つまり、あなたは、木村の言う《自己否定的契機》についてのあなたの見方や立場を明らかにしていたのではなく、それを未検討に付し、自分の思想に合うようにそれを歪めるという簡単な事をしているのです。
> 議論の紛糾
議論の遮断ならあります。罵りと馬耳東風と相手の言葉の引き写しで用が済んだというあなたの態度と無視に表れています。
> 美術界の専門家の見解を紹介することとご自分の考えを述べることとをきちんと分けて むろん後者をおもな内容として
見解など揺れのあるものではなく大学の教科書的な記述内容です。美術史も認知科学もです。勝手を言うならばと、一箇所がわたしの考えであることを明記してあります。
> この《自己否定的契機》は あくまで弁証法過程におけるそのひとつの契機を言っています。
>《〔作家のうちにおけるその美についての自己表現にあたってその表現(描写)に到るまでの過程において〕 (あ)現状としての措定に対して (い)その反措定を提起する》というときの反措定を言うのみです。
なにを呟いているのです?
美術よ、即自をやめて対自せよ、という契機が、どう転んで作家の自己表現に成り果てるのか、あなたの思想を論理的に説明してくれないとわたしにはさっぱりわかりませんから、そんな段階よりもずっとずっと手前であなたが論理表現においてすべきことを、わたしは告げているのです。
そもそもわたしは、美術が即自をやめて対自する弁証法的発展と作家の作品の客観性の弁証法的獲得が別問題だということを書いていますし、即答もしました。あなたはこの主旨を踏まえて対する論理構成を敷きましたか?
すなわち、
(1)特定の語を使った筆者の言葉を読む
(2)自分自身が展開した論理の粗雑なところを推敲する
こうして、他者と論理的な日本語の応答があなたにもできますよ、と例をとって助言しているのです。
基本である(1)で躓いていては、(2)が不可能なのは当然でしょう。自分の脈絡にとっては筆者の脈絡なんかどうでもいいなどと思っているからあなたは、《自己否定的契機》が「要らない」「人に依らない」「時代の制約を受けない」などと一緒くたにしてわたしに投げるのです。
繰り返しますが、
a.《自己否定的契機》が「要る」「人に依る」「時代の制約を受ける」と他者が述べた事実があるかを確認する
b. 対自せよという契機が「要る」か否かではなく、対自せよという契機を求めようとするならばどうしたらよいのか、という脈絡があるのを読みとる
c. あなたもまた、求めようとするならばどうしたらよいか、という代案を述べる
d. さもなければ、「要らない」から求めなくてよい、ということを明示し、有るという前提での「人に依らない」「制約を受けない」と混同しない
a~dの順で論理を運ばなくてはならないのです。
どうですか。あなたの日本語は論理表現になることができそうですか? わたしはあなたには無理だと思うのですよ。
あなたの場合、理屈をつけた散文を書くより詩の創作のほうがずっとよいと思いますよ。
とはいえ日本語が外国語に比べて曖昧に表現する言語だと思っているようでは詩も怪しくなりますね。法律も金融も日本語で機能するから、鎖国でも栄え開国しても列強とわたりあえたというのに。
この回答への補足
しらみつぶし作戦が いちばんであろうと。
★ 情報交換って? 第一に質問者が教えてもらうところですよね。
▲(OKWave利用規約) ~~~~
第3条(本サービスの概要と範囲)
1. 本サービスは、会員間における質問と回答の形式による≫ 情報交換 ≪、利用者における情報収集および閲覧の機会、ならびにそれらの環境を提供することを目的とします。
~~~~~~~~~~~~~~~
★ 精神障害って? あるともないとも言いませんが、脳神経と心理障害の問題としてこの質問を解決したほうが、あなたにとって有益だという回答が気に入らないからって、言葉を書き換えてなんの意味がありましょうか。
☆ 言い換えてはいけない言い換えをおこなったということのようですが でしたら
★ 脳神経と心理障害の問題としてこの質問を解決したほうが、あなたにとって有益だという回答
☆ は要りませんと今回あらためて言います。まにあっています。
★ 精神障害だと言わねばならない場合でも、わたしは他者に向かっては言わないのですね。当人に向かって言うのですね。でもそれは、いくつかの心理障害の組み合わせがあるのを確かめ、医師が投薬した反応から受容体の活性不活性を推定した上でのことですね。
☆ この部分は この質問および質問者に何のかかわりもありません。二度と持ち出さないように願います。
★ のっけからって? あなたが自己乖離(自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる)を起こしていると書いたとおりです。
☆ この自己乖離とやら それを論証してから問題にしてください。こういう問題については 仮説を作業仮説というかたちにおいても そうたやすくは持ち出さないものです。
もっともわたしは 《俯瞰法》と名づけて じっさいの文章につき証明しています。けれども この俯瞰法という診断と自己乖離という世話焼きとは 中身やその性格がまったく違うと言ってよいでしょう。
そのひとつの証明をしておきます。言い直すだけで済みます。
★ 自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる
○(その言い換えとして:) わたし(ぶらじゅろんぬ)は 《自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる》ところの他者と いまわたしは相い対していると思うことがある。このことは 発言ややり取りにおいて事実であるようだ。
☆ そしてもしこのわたしの発言(診断)が 何の根拠もないと言うのであれば その発言の中に嵌め込まれた命題(つまり 自己乖離という仮説)も 何の根拠もない。こうなるでしょう。
★ 結論・理由の順に文意を運ぶと脈絡を読みとれない人がいるものです。あなたもそうでしょうか。
☆ 例証・論証が俟たれます。
★ ~~~~~~~
> どうすればよいか?
と書いてある質問ですから、回答を役立ててください。
~~~~~~~~~
☆ これは
☆☆(趣旨説明) 上のような〔* α から δ までに述べた〕考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?
☆ と書いてある質問なのです。ふざけてはいけません。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
> その【Q:審美眼】でのやり取りにおいて このNo.68までに到らなくてもその最初の投稿のときからすでに いまこの上に説明したわたしの見方や立ち場についてはいくたびも重ねて明らかにしているということを いま読み返して確認しています
いいえ、その確認は間違いです。なぜなら、わたしの回答に至るまで、《自己否定的契機》が美術史上の脱オブジェの契機を捉えるものである、という見方をあなたは持たず、
☆(割り註=ぶらじゅろんぬ) ~~~~
その見方を持つかどうかは 焦点となっている主題の問い求めにとって
必要かつ有益かどうかによります。
ただし シュジェ(主題)を脱してフォルムへ移行するという場合など
のそれについては 質疑応答の流れに沿ってたしかに触れています。
あるいは それまでの絵画ないし美術という概念またはそこに想定され
ていた《〔神と向き合う〕人間》の概念についても それに対する《自己
否定的契機》が 現代美術において さまざまな実験と呼び得るかたちで
おこなわれて来たという話に 全体として成っています。質問者も その
ように受け止めています。
ですから きわめて図々しいモノの言い方になっていると指摘しておき
ます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.8
- 回答日時:
日本語が論理表現にふさわしくないわけがないと思います。
言語の観点で、日本語を特徴づけるのは以下の3点ではないでしょうか。
1.印欧語がSVO形式を取るのに対して、日本語はSOV形式。
2.印欧語が孤立語で前置詞や後置詞を使用するのに対して、日本語は膠着語。
3.印欧語がひとつの文字セットを使用するのたいして、日本語は、漢字、カタカナ、ひらがな、ローマ字、ギリシャ文字などを併用。
まず、1.ですが、論理表現をするのにさいして、SVO形式とSOV形式の優劣は無いと考えます。
次に、2.ですが、膠着語に分類される言語は、
トルコ語、ウイグル語、ウズベク語、カザフ語等のテュルク諸語、日本語、朝鮮語、満州語、モンゴル語、フィンランド語、ハンガリー語、タミル語、エラム語、シュメール語などがあるそうです。(Wikipedia)
なるほど、近代文明の発展に中心的な役割を果たした、ギリシャ語やラテン語、ゲルマン語など、論理的な言語と思しきものは膠着語ではありません。
たしかに、孤立語しか知らなかった欧米人が初めて日本語を学習したとき、膠着語であるがゆえの学習の困難さ、あるいは運用の多様性に直面して、「日本語は論理表現にふさわしくない」との印象を持った可能性はありますね。
一方、フィンランド人やタミル語を使うインド人は日本語を学習する際に「日本語は論理表現にふさわしくない」という印象は持たないと思います。
3.は、日本語が他言語の語彙を導入するのに大変自由度が高いことを意味しますが、この柔軟性ゆえに、一部の話者が外国語の意味を曲解したままに日本語の文脈で使用することで、(外国人に)分かりにくい言語になってしまうリスクがあります。
例:「彼と初めてのデートで行った丘の上のレストランはとってもムーディーだったのよ」
以上、素人なりに客観するかぎり、日本語が言語として論理表現にふさわしくない言語だとは考えにくいですね。
それでは日本語から離れて日本人に注目してみるとどうでしょうか。
日本は、世界に冠たる島国です。
各種ある島国の中でも、長い鎖国の歴史があったり、他民族の支配の経験が少ない(無いとは言わないが)ので、島国の中の島国という特性をもっていると考えます。
大陸では、とくに騎馬民族が居った大陸では、遠く数1000キロも離れた人達の文物が交易され、また人も言語も異種同士の交流が頻繁でありました。その状況では、コミュニケーションは即物的、論理的でないと成り立ちませんね。
一方の島国代表は、みなが同様・類似の文化的背景をもっている人たちのコミュニケーションですから、即物的、論理的な表現をしなくても、隠喩、暗喩、省略を多様して意思疎通をすることができる。
伝統的日本建築を設計するときに、板に見取り図を書けば、細部の造作などは常識で埋めてくれますから、細かな記述をしなくても意思疎通ができるのと似ています。
詩人じゃなくても、一介の商人、大工の棟梁でさえが、俳句や川柳を作って遊ぶような欄熟した文化になったのです。
結論です。
日本語自体が論理的表現にふさわしくない言語ということではない。
日本人同士は、高度の文化的共通基盤を背景にした含蓄のある表現でコミュニケーションすることができる。
日本人が論理的な表現をする場合には、言語だけにたよることなく、図表や数式を使用して、これまた一層濃密な論理表現をすることができる。
ご回答をありがとうございます。
§1. 語順
V-S-O という語順が 印欧語族の中にあります。ケルト語派でたとえばアイルランドのゲール語です。
1. Bha Mairi trang.
( Was Mary busy. ⇒ Mary was busy. )
2. An robh Mairi trang ?
( Was Mary busy ? )
3. Cha robh mi anns taigh.
(Not was I at home. ⇒ I was not at home. )
( Rodrick Mackinnon : Gaelic (Teach yourself books) 1971 )
☆ 英語の be 動詞が 《 Bha 》(独立形)と《 an robh / cha robh 》(従属形)とのふたつがあるようですが どういう事情だかは もう忘れました。
V-S-O の語順は アラブやヘブルのセム語でもそうですから それほどおどろくことではないようです。
世界の中で数としては S-O-V. の語順のほうが 多いようです。
で この語順というのはあまり言語の特徴を表わすとも じつは思わないのですが どうでしょう?
§2. 孤立語と膠着語
申し訳ないが これもあまり指標にはならないでしょうね。
昔の印欧語は 体言(名詞 また形容詞)も 格活用しましたから 必ずしも前置詞に頼ることも少なかったわけです。ラテン文例:
4. Littera-rum studium homin-ibus utilissimum est.
(文学‐の 研究‐は 人びと‐にとって きわめて有益 なり。)
むしろ格活用が 後置詞のごとく・そしてけっきょく膠着語のごとく はたらいているとも考えられます。語順がそのままで通用している例ですが。そして この格活用は 日本語のノ格やハ格やニ格やヲ格やガ格のように 一定のかたちではなく 語によってかなり変種があるということのようですが。
つまりはこれらが前置詞に替わったとしても それほどの差異が言語の特徴として生じているとも思えないのです。
4-1. The study of literature is useful for men.
§3. 表記の体系または文字の組織
★ ~~~~~~~~~~~~~
3.【印欧語がひとつの文字セットを使用するのたいして、日本語は、漢字、カタカナ、ひらがな、ローマ字、ギリシャ文字などを併用。】
は、日本語が他言語の語彙を導入するのに大変自由度が高いことを意味しますが・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と見ておきます。
§4. コミュニケーションのあり方――歴史社会的に――
★ 島国・・・は、みなが同様・類似の文化的背景をもっている人たちのコミュニケーションですから、即物的、論理的な表現をしなくても、隠喩、暗喩、省略を多様して意思疎通をすることができる。
☆ 言いかえると これと対照するに:
★ 大陸では、・・・人も言語も異種同士の交流が頻繁でありました。その状況では、コミュニケーションは即物的、論理的でないと成り立ちませんね。
☆ どうでしょう? 次の特徴は わたしは大陸の諸民族のあいだでの 文芸が交流し興隆したところにも 当てはまるというように思うのですが?
★ 日本人同士は、高度の文化的共通基盤を背景にした含蓄のある表現でコミュニケーションすることができる。
☆ すなわちけっきょくどの地域にあっても どの言語においても 論理表現が出来なかったりむつかしかったりということはないと考えられ わづかにその歴史的な伝統と言うのでしょうか おっしゃるようにそれぞれの傾向は見られる。というところではないでしょうか?
§5. 日本文の特徴とは?
▲(No.4お礼欄) ~~~~~~~
英文は その文型が一つひとつとして固まっている。という意味は 文型が 論理連絡という一本の線形から〔のみ〕成り立っている。変な言い方をすれば 単線構造である。
《鼻が長い》か《鼻を持つ》かのようにそれぞれにひとつの論理連絡をそのまま表わす文型しかない。
日本文は そのような単線構造をいくつか同じひとつの文が含むことができる。奥行きが深くその構造とするところの内面世界がゆたかである。
《象は鼻が長い。》つまりは一般に日本語の《A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》の文型は ひとつの文だけにおいて 英文に対照させるならば その英文のいくつかの《S-V-O.》文型を潜在能力として宿す。
文型が広い宇宙を宿す。
~~~~~~~
No.7
- 回答日時:
> ですが ひとと情報交換するときに (1)相手の文章が論理性にとぼしいとのっけからなじり (2)おまえには精神障害があるぞとあたまからかぶせる言葉を吐くとは いったいどういう料簡ですか? どういう人間なのですか あなたは?
だから、あんたは日本語が持っている論理的表現力が欠如した方だと言われてしまうのです。「のっけ」でも何でも在りません。あんたの今までの日本の表現能力の全てを振り返った発言だと言うことが、あんたには理解できない。だから、あんたは論理性が欠如し、精神障害者であるかもしれないと看做されてしまうのです。
あんたにないもの、それは長時間相関です。多分今だけに生きているんでしょうね。時間を背負った深刻さがない。だから崇高さがない。その歳になっても幸せって何だか解らないって血迷っているんでしょうね。若い人ならいざ知らず、人間死ぬ前に幸せとは何か解らないで死ぬなんて運が悪いですね。
☆☆ 最後っ屁
☆ ではなかった。ってわけだ。
ご回答をありがとうございます。
ただし 保護者同伴ってところか。(被保護者だとは思われていないとも言っておいてやろう)。
★ あんたの今までの日本〔語〕の表現能力の全てを振り返った発言だと言うことが、あんたには理解できない。
☆ ぢゃあそのふり返りを ひとつだけだが してみておこう:
【Q:日本は弱腰外交よりほかに何が出来るのでしょう?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6320941.html
★★(その回答No.8=猛進くん) ~~~~~~~~~~
人それぞれ、必ずどっか取り柄があるもんだ。一見どんなに役に立たないと見えていても、反面教師っていう役に立つこともある。ブラブラを見ていると、そんなこともあるから、こんなんでも馬鹿にしちゃいけないって言うことも、時々思い出させてもらっているよ。
>科学の発見も理論も まづは《ただ意味不明の虚ろな遠吠えをあげ》ることから始まるのぢゃないの?
あんたは何時も糞と味噌が一緒なんだね。同じ色に見えるからって、同じゃないもんはこの世に幾らでもあるんだ。何でもありの平等な民主主義じゃないんだよ。わっかるかなー。わっかんねーだろーなー。でも、そのあんたを他山の石と見ている方はいっぱい居られるようだから、あんたの存在意義もあるようだね。
あんた、科学の歴史のなかで偉大な進歩がどうやって出て来たか自分でも調べてみな。その進歩を遂げてみせたお方達は、始めからいきなり本質を掴んじゃってるんだ。そして、後はそれに肉をくっつけて形にして行く。始めにどこに本質があるか分からずに、いろいろな言葉を弄びながら段々と物が出来上がって来たようなことで、重要な進歩が在ったためしがない。もしそんな例があるなら、一つでも良いから教えてもらいたいね。
だから、科学も芸術の一種なんで、偉大な進歩には偉大な個性がいるんだ。あんたのような反面教師にそんなことができる訳が無い。あんたはあんたで反面教師の役割を演じているんだから、それでも存在意義があるんだと認識しておかないと、ただの喜劇になってしまうよ。まっ、本人には悲劇になってしまうかもしれんけど。
投稿日時 - 2010-11-16 22:07:16
☆☆(そのお礼欄=ぶらくん) ~~~~~~~~~~~~~~
えらいひと言に食いついて来るんだね。ま まづはご回答をありがとうございます。
☆☆ 科学の発見も理論も まづは《ただ意味不明の虚ろな遠吠えをあげ》ることから始まるのぢゃないの?
★ あんた、科学の歴史のなかで偉大な進歩がどうやって出て来たか自分でも調べてみな。その進歩を遂げてみせたお方達は、始めからいきなり本質を掴んじゃってるんだ。そして、後はそれに肉をくっつけて形にして行く。・・・
☆ ふたつの命題は 両立し得ます。
★★ ただ意味不明の虚ろな遠吠えをあげ
☆ ることというのは 他人の評言であり それであるに過ぎないからです。ねっ? お分かりかな?
自己中心的というのは けっしてわるい意味内容を持つとは思えないけれど ほかの人に目が行かないとすれば 困ったもんですな。これを称して タコつぼと言う。
投稿日時 - 2010-11-16 22:43:16
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ほかに何かあったっけ。
No.6
- 回答日時:
あなたの日本語の読解と作文がすさまじく論理曖昧におこなわれる傾向にあることを指摘します。
これは、脳神経や心理障害にかかわる重大な問題であって、共同主観による主体の問題でもなく、ミリューの問題でもなく、表現形式の問題でもないレベルで考えるのが、現実的な解決につながるというものです。
自身の曖昧さに気付いているからこそ、あなたはこのような設問をたてて他人事のように我が身を見つめてみたい。
また、そのことに起因して、あなたは、あなたが言うところの「あやまち」を犯してしまうと気付いている。
さらに、おのれの性分から、おのれの過誤を正す余地がなくなり、自己を膠着させてしまう。
このことにも気付いているからこそ、あなたはそれを第二の死と呼び設問をたてて、やはり他人事のように見つめてみたいのです。
他人事の様相をした自己乖離は、さまざまな神経症にあらわれるもので、精神状態の悪化傾向を示します。
添付サイトは見知らぬ人のサイトですが内容は示唆に富みます。悪魔の契約の話もありますので参考になるかと思います。
下に引用した箇所は、あなたの文章を拾ってきたものです。
これに例証を付け、論拠を明示し、論理的表現にして下さい。
つまり推敲をするという作業です。
日本語を論理的表現にするための推敲をとおして、あなたが、あなたにとって妨げになるものを、まず確かめて下さい。
自分の書いたものを見直すようにと助言するのは数度目です。いつも無視されますけれども。
この引用文の場合、
(1) 《自己否定的契機》の語が使われていた文献である木村の文脈を確かめるのです。
(2) 「後者の意味で使ったとした場合」というのは、主題に従わず視覚を偏重せず即物的で知覚的な美術よ即自をやめて対自せよ、と木村が主張しているとするものですが、《自己否定的契機》が一体「要らない」「人に依らない」「時代の制約を受けない」と言うためには、《自己否定的契機》が「要る」「人に依る」「時代の制約を受ける」と他者が述べた事実があるかを確認することです。そしてつまり、対自せよという契機が「要る」か否かではなく、求めようとするならばどうしたらよいのか、という脈絡を読みとることです。さらにすなわち、あなたもまた、求めようとするならばどうしたらよいか、という代案を述べることです。さもなければ、「要らない」から求めなくてよい、ということを明示して、これを「人に依らない」「制約を受けない」と混同しないことです。
(3) 相手が分かろうとしなかったというためには、相手の発言を辿って論拠を示すことです。
(4) 経緯ですという言葉が嘘にならないためには、対話の脈絡をふまえた経緯を客観的に示すことです。
(5) 事情の説明を受けていないというためには、相手の発言を辿って論拠を示すことです。
*******bragelonneさんの文例*********
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6478571.html
《自己否定的契機》を 従来の(古代から近代にまでもまだ受け継がれて来た)美術ないし芸術に対するものと それからそのようにして現われた現代美術ないし芸術に対してなおさらに当てはめるものと ふたつが混同されていたようです。
質問者としては――そして質問趣旨の基本として一般にも受けとめられるはずのこととして―― 前者の意味で使っています。
そしてしかも もし仮りに後者の意味で使ったとした場合 そうだとしても 質問者の問い求めの姿勢としては そういった弁証法過程におけるような《自己否定的契機》は 美の感覚および鑑賞にとって要らないという命題を立てています。これは 人に依らないし 時代の制約を受けない。そのように重ねて言って来ています。
この二重の勘違いが起こっていたようです。
なぜなら その間の経過と本人の事情をかんがみれば 基本的に《うちのかあちゃん へそごまがきれいだよ》というマアイの姿勢があるから それによって相手の発言内容を分かろうとしない。こういう情況であろうかと推し測ります。
《ふところの深さ》についてのわたしの理解(定義)に触れて やっとその《うちのかあちゃんのへそごま》のことだけではなく 人びとのことに気づかわなければいけないとさとったようです。そのあと 実際にその説明を No.81&82でしたか おこなったという経緯です。
こころある人間なら すべて明るみに出し 事情を説明し みづからが我れに還った姿を見せることでしょう。いわゆる総括をするはずです。だけれども これまでその人〔たち〕が 自分のしりぬぐいを 基本的なことがらについて 行なったことをほとんど知りません。
********************************
引用終
参考URL:http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-022.html
ご回答をありがとうございます。
ですが ひとと情報交換するときに (1)相手の文章が論理性にとぼしいとのっけからなじり (2)おまえには精神障害があるぞとあたまからかぶせる言葉を吐くとは いったいどういう料簡ですか? どういう人間なのですか あなたは?
その人間性がうたがわしいとまづ明確に述べて 相談内容――どうぞわたくしを鏡と見なして使ってくださいな 使い出がありますよ―― あっ違ったか ご回答内容にお応えしてまいります。
★ (1) 《自己否定的契機》の語が使われていた文献である木村の文脈を確かめるのです。
☆ 木村重信は 主要な課題ではありません。その質疑応答の途中からだったようですが 木村の文章は美についてのわれわれの問い求めにとって出汁に使ったのみだと分かりました。その点も 次のお応えのために重要でしょう。
この《自己否定的契機》は あくまで弁証法過程におけるそのひとつの契機を言っています。
《〔作家のうちにおけるその美についての自己表現にあたってその表現(描写)に到るまでの過程において〕 (あ)現状としての措定に対して (い)その反措定を提起する》というときの反措定を言うのみです。
言いかえると文脈の中において捉えるならば 作家は美の表現にあたってみづからの内面において その自己同一性のあり方をめぐってそのような弁証法過程を必要とするか? こういう主題のもとにあります。すなわちそこで:
☆☆ そういった弁証法過程におけるような《自己否定的契機》は 美の感覚および鑑賞にとって要らないという命題を立てています。これは 人に依らないし 時代の制約を受けない。そのように重ねて言って来ています。
☆ すなわちこの文章じたいは鑑賞者の観点に立って述べていますが けっきょく作家にとっても同じことを言ったものです。
かんたんに言うならば 一般に感性としての《美の感覚(あるいは ヒラメキ)》は 思考において敢行される《論理的な弁証法過程》を超えている。このゆえに 措定→反措定→総合といった問答過程は 要らないということが つねに当てはまる。こういう意味になります。
(ヒラメキとして その中身がまだ混沌としている場合の直感からものごとの本質を見抜く判断力につながる直観に到れば それはすでにそのヒラメキのうちに《論理》をも内包している。潜在力としてでしょうか。こう添えておくと 分かりやすいでしょう)。
むろんこのように述べた事柄は つねにたたき台ですので 自由な批判にさらされていますし それをのぞんで質問を立ちあげています。
その議論においては 焦点をしぼって一つひとつの論点を互いにこなしていくことが大事でしょう。
そして木村の文章は この場合には脇役です。と確認します。
あるいはまた 美術界の専門家の見解を紹介することとご自分の考えを述べることとをきちんと分けて むろん後者をおもな内容として 回答を寄せることもやはり大事でしょう。
もしふつうに議論が紛糾したと見るのならば 次の文章の解釈をめぐって起きたのだと確認できます。
★★(【Q:審美眼】の回答No.68)~~~~~~~
最後に付け加える形になりましたが、作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なお その【Q:審美眼】でのやり取りにおいて このNo.68までに到らなくてもその最初の投稿のときからすでに いまこの上に説明したわたしの見方や立ち場についてはいくたびも重ねて明らかにしているということを いま読み返して確認しています。
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