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西洋近代科学の分野では、
「第1人称」と「第3人称」との間に距離を設けて「分析」を行なっている様ですが、
東洋哲学の分野では、「天人合一」の言葉が示します通りに、
『全体の「統合」の価値が強調されている』のだろう、と思われます。

従いまして、次の質問を提出させて下さい。

『全体の「統合」が掌握される際には、どうして、
視覚由来の「透視遠近図法」的な認識が重んじられなかったのでしょうか?』

もし支障が御座いませんでしたら、御教授を宜しく御願い致します。

A 回答 (21件中11~20件)

>東洋医学的な技術では、


>何を知覚させているのだと思われますでしょうか?』

医学に本当に全く明るくないばかりかど素人ですので、
これに直接答えをだすことはできないけれど、
「対象物と限りなく接近した自己否定契機の極短のループ作業」に
おける今後期待されることはにおきかえてみると。

まずミニマムの分野が思い浮かびました。電卓が10万円を超える
時代には、最低限のハードで効率よくロジックを組む技術が重要だ
ったのだけど、オープン化やハード技術とコスト低下により、軽視
され続けた歴史がありますが、今また見直されようとしています。

その他、廃プラを除く高温焼却炉やコンポストの町内運営などが、
思いつきますが、


話は変わりますが、短所と短所の組み合わせなどには注意が必要だと
思います。

西洋的な客観的な立場のカウンセリングで自律を促しスキンシップ的な
東洋医学で体を楽にするというようにうまくいけばいいのですが、

根性論のカウンセリングで患者を追い詰め、気持ちを考えずに何でも
分析してデータを見せて落胆させるなどの組み合わせは短所と短所
で最悪です。
「個人の人権を担保しない自己責任論」なんかは最たるものじゃない
でしょうか。


また論点はかわりますが、ダサい手編みのセーターには普遍的な需要は
ありますし、スカイツリーのデザインのダサさとか、
ダサさの必要枠(=自己完結的)は今後もあると思います。


また別の観点では、ファジイ科学で工業生産されたものは、職人の技術に
とってかわるほどのものはないと思います。
恋愛においても「どや、これがええのんか」というエロすぎてひくような
職人技術をおとなのおもちゃで工業生産するアホ製品の企画よりも、
恋人同士の関係の空間演出を工業生産のする方が経済効果があるわけで

マニアックになりすぎたテクノロジーから、システム化や空間構成を視野
入れた方向に一歩進めることは、
質問者さまの意図する必要枠の輪郭線をはっきりさせることになるのでは
ないかと思いました。

この回答への補足

上手いですね。有り難う御座います。

折角ですので、
私が注目して参りましたポイントの1つを申します。

それは「時制の一致」です。

『何の故に、東洋文化圏にそれが登場しなかったのか?』
という箇所にこそ、
客観的な答えへの鍵もが眠っているのでしょう。

勿論、主観でも構いませんから、
これに関しましての御意見を伺えると、嬉しいです。

補足日時:2011/03/04 02:17
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この回答へのお礼

業務等でのヒントに繋がり得る情報の交流の為に、
相互で役に立つのでしたら、非常に望ましいですね。

お礼日時:2011/03/05 12:37

 人の認識の成長過程では2元論を包含しつつ超える意識で言えば、


 この世の矛盾を理解して、その先のバランス、調和を考えるというのが大事ではないでしょうか?
 両方ありますが、在るという現実を肯定するときに、シーソーのような調和をうまく生み出す感覚が求められるのではないでしょうか?

この回答への補足

有り難う御座います。

東洋・西洋の両側の思想の調和が必要なのか否かではなく、
質問の主題の通りの回答を求めているのですが、
伺い方の更なる工夫が本当に必要なのでしょうか?

このタイトルにも、難しい用語が全く含まれていない筈です。

現時点で既に、
可也素晴らしい御意見を2名の方から伺っておりますが、
未だに『「東洋医学的な技術」が掌握している物』の正体が明らかになっておりませんので、安易な締め括りは勿体無いでしょう。

そこで伺います。
『どの様な具体的技術の「組み込み」による調和が可能だろう』
と思われますでしょうか?

補足日時:2011/03/01 10:49
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分かんないけど面白そうなので失礼します。




例えば雨と私であれば、雨も私も主格にしちゃった状態だと。

雨が主体性をもってふる、そして私は雨が降ることを被る。
この状態では、もちろん視点はその外にあるわけだけど、
雨と私の関係を描写してみようというところに力点がおかれ
そうです。つまり、雨はどうして私に振り落ちるのか、
など常に問いかけながらのサイクルですが、



対して、超越的な存在が雨という物質を地上にもたらした現象
だとすると、

超越的な立場がもたらした、雨という現象の中にいる世界観
を内と外から観察してみようと、データをひとまず集めて、
構成してつじつま合わせをして、より確かな像におとしてい
こうとなるのではないでしょうか。


両者にはそれぞれ、長所と短所がありそうです。
前者は職人作業のように、材料に問いかけながら作り上げていく
ことに似ている気がします。

後者は、まずは机上で十分練り上げて本質をつかみたいという姿勢
な気がします。

前者は、現実により近いので、中長期的なビジョン、大きな空間の
把握がしがたく、対処療法に近くなり、原因の追求が苦手、
しかし、現実から理想や理論がかけ離れていくことは防げそうな
気がします。病気はの原因は突き詰めたけど、その間に苦しんで
悪化してしまったなどということが防げそう。

後者は、その逆のことが考えられます。

両極が相手を気にしながら、いいとこどりしていきたいという
方向がいいんじゃないかと思います。

この回答への補足

有り難う御座います。
御親切な諒察に感謝します。

距離を設けておくと、仰る通りの展開を辿りやすいですね。

そして、「天人合一」を志向する発想を象徴した事例を
上手く纏めて下さっていて、非常に嬉しく思います。

但し誠に畏れ入りますが、此の良い回答を賜りましても、
重大な問題が残る気が致します。

それは「東洋医学的な処置の判断基準」でして、
『それを西洋近代医学が拒み続けてきたせいで、
「副作用」の問題が克服され難いのではないか』と思われます。

そこで追加の質問をさせて下さい。

『東洋医学的な技術では、
何を知覚させているのだと思われますでしょうか?』

因みに、私がQNo.6533937番でも触れておりますが、
最先端鍼灸技術(筋診断法)の研究成果によりますと、
何と『皮膚が色を識別して、経絡の反射を提示させています』から、
此の検証は非常に重要だと思われます。

補足日時:2011/03/01 01:45
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この回答へのお礼

非常に的確な御意見を連続で賜れまして、感謝を覚えます。

こういう越境的な内容に言及した文献との邂逅は中々有り得ない、と思われますので、継続への御協力を御願い出来れば助かります。

お礼日時:2011/03/05 13:25

>「陰陽五行相生相剋」関係に先立つ「太極」への理解は、此処へのご意見を下さる際に御願いしたい『大前提条件』だ、と考えております。


>更なる調査の上での投稿に、御協力を頂けませんでしょうか?

とのことですが、、、

>東洋哲学の分野では、「天人合一」の言葉が示します通りに、『全体の「統合」の価値が強調されている』
>『全体の「統合」が掌握される際には、どうして、視覚由来の「透視遠近図法」的な認識が重んじられなかったのでしょうか?』

あの。。。ここを、当然、ご理解なされているうえでの ご質問文ですよね?
そもそも、当ご質問の内容自体に疑念を述べられている回答もあるようですが、
些か不審を覚えましたのは、私なんぞよりも、質問者さんのほうが数倍数十倍もの お勉強を重ねて来られたわけではないのでしょうか?

「即一」

いくつかの意味で、こちらの ご質問に、ゴチャゴチャとコトバを費やす野暮は したくないと思います。No.7の御回答から、一言を お借りします。

「世界を丸ごと一時(いちどき)に把握する」

この回答への補足

御丁寧に返事を下さり、有り難う御座います。

因みに、別段に自分が詳しいという自覚を持ったことは、
私には御座いません。

逆に寧ろ、
『全回答者の方々が質問内容に精通して下さっている』ということを、
私は期待しておりますので、酷い落胆を覚えただけです。

補足日時:2011/03/01 00:55
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この回答へのお礼

返事が酷く遅延しまして畏れ入りますが、
確認させて頂きたい事が御座いますので、
回答の御協力を御願いしたいものですから、伺わせて下さい。

『何故に、"respect"と「尊敬」とが別の対象を志向している、という事情さえをも、多くの皆様は御存知でいらっしゃらないのでしょうか?』

勿論乍ら此の内容は辞書の記述を否定しておりますが、
冷静に分析しさえすれば、容易に分かり得る事の内に其の事情さえもが含まれて降ります。

お礼日時:2011/03/05 12:13

「身内」を「曖昧」と言ったのは、ご説明の通り、


この語彙が既に「私」と「他者」という
二つの要素を一円におさめ入れてしまう性質を持つからです。
その「曖昧」をむしろ明瞭に人称区別という文法の裁断機にかけることで
つまり、何人称を持ち出すこと自体がすでに西洋近代の義眼を通して
言語や文学を分析することになるというジレンマなのかもしれません。

例えば「身内」とはまた別の話ですが、
日本語に限らず世界中の言語にある主格表現で、
「私」を「我々」という語彙で表すことがあるようです。
旧約聖書にも神が自身のことを「我々」と呼ぶ記述があったはずです。
強烈な一神教の経典の神が「我々」では洒落になりませんので、
言語学者のみならず神学者もいろんな意味づけをするようですが。
言語学はそれを一人称の尊大表現とか、一人称行為を一般化した表現
とか定義づけするようですが、この辺の辻褄合わせが既に、
対象をパーツに分解して分析する手法では裁ききれない、
西洋ナイフの切り余しが透けて見える印象を受けます。

そこで、源氏物語という虚構で、話し手の位置がそのように
裁きがたいもので奇異に感じたとしても、それは我が国では
そういう表現の文学なのだとしか。あとは西洋の言語学者は、
彼らの定義づけというか辻褄合わせをするはずです。

質問者さんの言う仮説なんて大げさなものではありません。
紫式部ではありませんが、こじ付けに源氏物語絵巻を持ってきます。
宮廷を天空からたなびく雲をも見下ろして、
俯瞰する位置から描く帖がいくつかあります。
だから観察者は、西洋近代的な世界に対峙する位置では勿論ない。
遠近法では決して描ききれない衝立の陰の秘め事まで描き出す。
しかし同時にまるで手を伸ばせば雲がつかみ取れるかのように、
物語の人物達はすぐそこに描かれている。
描き手は俯瞰しながらもなお同時に物語世界にも参加したいのだろうか。

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei= …

  ――実は字数制限食らって、ここにRPGへの援用も書いたのですが、
    ごっそり削除しました。以降話の繋がりがおかしかったらごめんなさい(^^;――

この種の俯瞰は地と人は勿論、天空の雲をも把握して描き出せる
綜合的な位相なのかもしれません。
つまりこの俯瞰は遠近法とは違って、世界を丸ごと一時(いちどき)に
把握するのに有効な位相なのかもしれない
かといって、決して西洋的な神の視点ではない。
俯瞰しながらも世界からは切り離されずむしろ積極的に世界に参加している。
少なくとも身を置こうという執着を捨てない。
それだけでも、すでに単に西洋近代の「観察者」では割り切れない
世界との関わり方ではないでしょうか。

勿論、式部は式部、物語は物語で別の見方が必要でしょうが。
だから古代日本社会で三人称とは違った位相であることは
それはありうる見方で、自分の作品をも「第3人称」とは見做せず、
「自然の成り行き」に任せていたのだろうかと言うとき、
質問者さんの使った「自然の成り行き」の意味を
必ずしも満足させないかもしれませんが、
定義しがたい人称というか、人称なき人称というか、
を持ち出すことはできるのではないかと思います
・・・て、ほらね、結局、近代西洋の粗探しになっちゃっいましたね。

それはそうとご親切なのか、忠告(?)メールみたいなものが入ってまして、
何か厄介があったのかは分かりませんが、
私はTomokaさんに他意はないのですが
ゆるい付き合いもございまして、これにて失礼したいと思います。
話は全く私のほうが勉強になった次第です。悪く思われませんよう。
ではでは^^ よい週末を~。
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いろいろ難しいところですが、


あくまで間接的なヒントとしては、
かの「太極図」あたりが思い起こされます。

この回答への補足

御投稿を下さり、嬉しく思います。

但し、有り難う御座いのですが、
「陰陽五行相生相剋」関係に先立つ「太極」への理解は、
此処へのご意見を下さる際に御願いしたい『大前提条件』だ、
と考えております。

つまり、東洋文化の中でも特に日本的思想(「連歌」・「絵巻物語」等の発想の根幹)の起源を探り、西洋近代の限界を乗り越えていく、という課題の為に、我々が見直さねばならない、価値観の模索を志向しております。

従いまして、更なる調査の上での投稿に、
御協力を頂けませんでしょうか?

因みに、似た目的に主眼を置きまして、
既に別の問題定義を提供しておりますから、
そちらにも御目を向けて頂けると、有り難いです。

その項目は、”QNo.6533937番です。

補足日時:2011/02/27 00:37
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この回答へのお礼

西洋近代的な責任感の欠如の根拠にも目を向けてみましょう。

お礼日時:2011/03/06 09:00

「身内」というのがほんとまた曖昧な位置ですねぇ。

世界の一部に
――質問者さんにはこの「一部」という語彙さえ不都合かもしれませんが――
人もが属しているという世界観を無理くり援用して断言する自信はありませんが、
でもこの曖昧というとこらへんこそが、
東洋的表現が最も得意とするフィールドなのではないかとも思います。

ご存知のとおりわが国は明治来、それこそ西洋近代科学の輸入に勤しみ、
文学もまた例外ではなく、曲がりなりにも客観小説だの、
私小説だの実験的に創ってましたが、
奈良・平安の語り手と近代の語り手とは違った位相になるのかもしれない。
奈良・平安文学にとうてい精通していませんが。えへへ。

ご紹介いただいたQNo.6533937の質問「中庸」と「止揚」の違いとその回答群、
「西洋近代医学」と「東洋の鍼灸治療」との融合の可否の検証
実に大まかにですが目を通しましたが、
捻くれ者の自分は西洋近代科学の粗探しに終始しそうです。
つまり、そもそも透視遠近法にせよ近代文学の「私」にせよ、
用いられたのは観察者が世界を把握する手段としての仮そめの視点であり、
可視光線もまた視覚といういち器官によって受取られた像ですから、
たとえばピカソの絵画のような遠近法に対する挑発的な表現の前では
その粗が暴かれてしまうかもしれません。
もうその辺に言及する材料を今から整えるのは私にはちょっと肩が凝りそうです。
ポキ、ポキ。

この回答への補足

有り難う御座います。

別件にも御目を通して下さり、嬉しく思います。

西洋近代科学の粗探しになり易いのは、私もが同じでして、
途中の私の返事からも類推して頂ける、と思いますが、
更に纏めて申しますと、下記の通りに表現出来るでしょう。

つまり、
『視覚中心の西洋近代科学に頼り過ぎているせいで、
現代医学が患者達を「第3人称」へと貶めざるを得ない故に、
予防医学の発展の為には、
東洋哲学的な視座もが盛り込まれねばならないだろう』
という課題を解決させ得る手段の模索を意図しております。

因みに、御指摘の通りに、
『「身内(We)」なる表現の意味は曖昧』なのですが、
例えば、「取引先企業へ自社の別人が訪問する」際にも、
『(自分ではなく)●●が御伺いする』と申します様に、
たとえ直接の動作主が話し手と違っていましょうとも、
日本では、話し手もが聞き手への表敬を伝えているのだろう、と考えておりますから、敢えて曖昧な表現を選びました。

そして更に『奈良・平安時代の文学』にも視野(?)を広げまして、
もっと奇妙な現象に言及しました。

「源氏物語」等が最もはっきりと示してくれております通りに、
自分の「虚構」作品である筈なのに、
何と『帝、なさり給ひけり』という様な表敬が繰り返されております。

従いまして、折角の機会を無断にしたくは御座いませんから、
更に追加の質問をさせて下さい。

そこで唐突ながら伺います。

『古代日本社会では、自分の作品をも「第3人称」と見做せず、
「自然の成り行き」に任せていたのだろう』
という私見は妥当だ、と思われますでしょうか?

勿論ながら仮説で構いませんから、宜しく御願い申し上げます。

補足日時:2011/02/27 02:06
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個人主義の西欧では、個人の自覚による自律行動を


優先とするので、“ありのまま”の環境認識(=ポリシー)
が必要なのに対し、日本を中心とした農耕文化の集団
主義的な東南アジアにおいては、組織原理(協調性、
周りに合わせる)を優先するので、日和見な“方便”が
発達する。

この回答への補足

端的に纏めて下さり、誠に有り難う御座います。

因みに畏れ入りますが、
私の勉強不足もが含まれているかも知れませんから、
追加の質問をさせて下さい。

そこで伺います。
『「日和見な”方便”」には、
日本古来の「縁起説」もが含まれていますでしょうか?』

私見かも知れませんが、
『西洋近代社会で「秩序」が重んじられ、
東洋文化圏内で「混沌」が尊ばれている』
という自然観の根拠もが其処へ繋がっていく、と考えておりますので、
私の疑問の非常に重要な部分に関わっておりますから、
御教授を宜しく御願い申し上げます。

因みに、私は此の質問と下記のページと連動させております。
http://okwave.jp/qa/q6550099.html

補足日時:2011/02/27 14:15
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「御教授」じゃなくて困っちゃうんだけど・・・



ローマ世界とその母体であった教会権威の崩壊とともに、
それまで「創造」されたものであったはずの世界は、
その把握の仕方に疑問符を生じ、再構築を余儀なくされた。
結果、近代は、それまで教会に抑圧されていた
個人による観察という一人称的な視点を意識し始めた。

http://home.a00.itscom.net/asunaro/funclub/funcl …

天文学の発達も呼応したか、
世界は仮定された一人称が視覚を通し得た可視光線の反射の結果であり、
私が向き合うひとまず別の空間であり、
私とは対峙し、目の前に広がる、色とりどりの
光あふれる地平(フロンティア)として把握された。
しかも「私」は常に世界に対して優位に立つ観察者であり、
私(ここ)から世界(向こう)へと向かう一通の世界観の起点に立つものであった。
ヨーロッパの自然破壊とアジア侵略はここに端を発するのか。

http://www.geocities.jp/sakushiart/enkinr.htm

一方、幸か不幸か東洋には、個人を強烈に抑圧する教会権威は浸透せず、
その崩壊と世界観の大転換の必要にも迫られることも経験しなかった。
理由はいくつかあるが、一つにはイスラム世界という障壁が立ちはだかった。
世界とは、時間的にも空間的にも、ある一点に始まり一点で終わるものではなく、
可視光線のもたらす結果でもなく、その重みというか、触感というか、
存在そのものというか、漠然とした陰影というか、あることによってあるのであり、
それは仮定された一人称が対峙する世界ではなく、
人もまたその世界の一部として属することによって把握されるものであった。
丁度、茶室という芸術空間の中で主人と客人が籠もって行われる儀式のように。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%A2%A8% …

そこには仮定される「透視遠近図法」的な視点ではなく、
私もまた世界の一部として戯れる世界観が構築された。
そういえば、日本語文法においても、西洋の多くの言語ほど
人称のとっかえが叙述に大きな変化は与えないのでしょうか。

ザーっとテキトーに書きましたので、論証もはなく、言葉も荒いです。
何より、そろそろおねむ^^; 随想として読んで、
当てが外れたらスルーしてください。

この回答への補足

良いですね。こういう論旨が結構好きです。有り難う御座います。

御忙しい中で上手く纏めて下さりまして嬉しく思います。

未だ十分に返事の文言が纏まっておりませんので、
敢えて「お礼入力」欄を空けさせて頂いておりますから、
御待ちになって下さいませ。

因みに、仰っている内容の拝読の直後に、下記の通りの疑問点が浮かび上がって参りましたから、追加の質問をさせて下さい。

『現代日本社会でも、自分達の身内の行為を代理で伝える際に、
「謙譲語」が使われている、という事実は、
 「人もが世界の一部として属することによって、
世界が認識されている」、という点に起因しているのでしょうか?』

私見によりますと、
『奈良・平安時代の文学の中で、作者が自分の作品の登場人物達に表敬している』という奇妙な事実にも、その自然観が当て嵌まり得るのではあるまいか、と思いました。

従いまして、仮説でも構いませんので、御教授を御願いしたいですから、宜しく御願い申し上げます。

尚、私は此の質問を”QNo.6533937”との連動で提出させて頂いておりますので、其処にも参加して頂けると幸いです。

補足日時:2011/02/26 02:50
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 ここ哲学カテは思索の広場、あるいは学びの広場、だと思うので捕捉質問、いや単純に知らないことを教えてほしいので逆質問を受けてくれませんか。



 西洋近代科学の分野では、「第1人称」と「第3人称」との間に距離を設けて“分析”を行っている、
 という事ですが、これが何のことかわからないのですが。

 よろしくお願いいたします。

この回答への補足

「主客二元論」を御存知でいらっしゃらないでしょうか?
wikipadiaにもヒントが掲載されています。

そして、それを知る目的は一体何なのでしょうか?
此処の内容の批判ですか?

補足日時:2011/02/26 01:43
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この回答へのお礼

折角の貴重な送信ですので、
続けられると望ましいでしょうから、伺いますが、
『「動物裁判」という文献(講談社現代新書)を御覧になったことが
過去に御座いますか?』

先ず此の内容への御返事を下さい。宜しく御願いします。

お礼日時:2011/02/26 02:59

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