ギリシャの哲人ソクラテスは、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と言ったと聞きます。なるほど相だと私は思うのですが、一体善く生きるとはどういった人生、生き方、人の有り様の事を言うのでしょうか。人は何を善と言って、それを賞賛し目標とするのでしょうか。
また、善悪を超えるということはどういったことなのでしょうか。
善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。
昔、少年のように屈託なく善を探していた頃がありましたが、最近は胸の内もすっかり錆び付いて、寂しさに埋もれている私です。今改めて、純粋な探究心を取り戻したいと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
No.19
- 回答日時:
はじめまして、ひどっちと申します。
後者の方につきまして、愚見を述べたく存じます。
> 善悪を超えるということはどういったことなのでしょうか。善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。
一例を挙げさせていただきます。
例えば、19世紀におきましては、まだキリスト教的な道徳観が健在かつ強固に存在していたかと思われます。
しかし、近代工業文明の始まりにより、新しいものがすぐれ、大量にあることが良いといった価値観が生まれました。つまり、人は豊かさを追い求め、豊かでないと不幸を感じるようになっていった訳です。そこでは、旧来のキリスト教的な道徳観は、物質主義(快楽主義)になった人々に対しては、もはや響かなくなっていきました。
そう致しますと、”貪欲を戒める”に対しまして、”貪欲を推奨する”。といった矛盾が生じてきます。かような条件下(既存の価値の上に、新たな価値観が加わりますと)におきましては、「善悪の相克」なるものが謳われる場合がございます。
> 善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。
その各々の時代に、要求されるといった方が近いのかもしれません。目標なるものが必要とされる、と考えております。
ご参考になれば、幸いでございます。
ありがとうございます。
善悪の相克ですか。カッコイイ響きですね。
この貪欲に関する相克を止揚するのは、質的向上といったものとなるでしょうか。量があればいいのではない。質のよいものが適量あるのがよいのだと。
各々の時代に要求される、目標なるものが必要とされる、、壮大な話です。
No.18
- 回答日時:
zakky74でございます。
かつて聖人たちが言っている事には、とても共通する事がございます。それは、有る・・・と思っていた事を打ち消して一旦は、無い!・・・という領域に力強く踏み込んでいるんですね。
ソクラテスの無知の知は、知に対して、無知をぶつけています。同様にして、他の聖人たちはどんな事を言っていたのでしょうか?
例えば次の様なものがございます。
無我・無為・無念・無想・無常・無刀・・・
一つひとつを深く掘り下げる事はしませんが、ソクラテスの無知の知とは、そうした無我・無為・無知・無念・無想・無常・無刀・・・に準えて理解出来るものでございます。
彼も、悟りを得ておりました。
>おもしろい回答だと思いました。ソクラテスから引用した無知の知について言及され、一層興味が持てました。
興味を持ってもらえて嬉しい限りです。
>知の不完全性、無知の完全性と言う辺り、おもしろいなと思いました。確かに無知といったときには無限の可能性が広がるように思います。知っていると頑なに思っていては本当の知には到達できないのかもしれません。
知の不完全性、無知の完全性に関心を持たれるのは、何とまぁ本質的なのでございましょう。一般的には、知は完全なものだと思っておりますので、知の完全性で留まってしまいます。
知っている事が、良い事とされているんですね。
>4番目の知の不完全性を補うのが、疎通、交流であるという点が対話の重要性を物語っているのかなと思いました。対話によって争論を生じる人もいれば、対話によって知を導く人もいます。
知の完全性をそのままにしておいたまま交流する一切の事は、必ず摩擦や衝突が起きる様になっています。残念ながら、知の完全性のままでは補う事は絶対に出来ません。
一旦は、知の完全性から離れる事です。
それが、知の不完全性、無知の完全性によって為されます。人間は、知の完全性に関心が強いですし、それが価値がある事だと思っているので、知の不完全性、無知の完全性のプロセスを飛ばして、知の不完全性を補おうとします。
ところが、矛盾ですよね?
知の完全性であるならば、もはや補う事など必要としませんし、それだけで十分に幸せなんです。ところが、自分の知を補ったり、相手の知を補ったり、或いは集団知性の知を補おうとする時点で、知が不完全である事に気付けば良いのですが、そこに気づかないまま、補おうとします。
結果的に、知の完全性と知の完全性が摩擦・衝突します。
知の完全性が解除されない限り、知の不完全性を補う事は土台からして無理な事です。ソクラテスは、この事をよく分かっていました。彼が実践した事は、知の不完全性と無知の完全性について踏み入る事だったんです。
すると、後はオートで追及が始まるでしょう。
結果的に、その追求によって知の不完全性を補う領域に突入します。
>賢者は後者であると思います。対話によって知を導くのは何であるかと問われれば、それはその人々が何を求めているのか、その求めるところによっていると思います。自分の真実が常に正しいという頑なな人は争論を起こしやすいでしょうし、ただ真摯に真実を求める人は静寂の中で互いに知を導くのであると思いました。そのような姿勢はまた、善性のよすがになるのではないかと思います。
仰る通りです。
知の完全性が解消されないままですと、つまり知の不完全性を悟る事がありませんと、争論となりますでしょうし、知に発展性はございません。
知ってる事から自由・・・
たったそれだけの事で、全ての争いは実はなくなります。
それだけではありません。知の不完全性、無知の完全性、知の不完全性を補う・・・という循環が起きる事となり、終わり無き進化発展の道へと進む事となります。
誰か一部分の人だけがそうなるのではなく、誰もが皆、知の不完全性、無知の完全性、知の不完全性を補うサイクルに乗る事を通して、人類は全く新しい文化文明を創建する事となるでしょう。
知の完全性⇒知の不完全性。
知の不完全性⇒無知の完全性。
無知の完全性⇒知の不完全性を補う。
これが、人類が次のステージへバージョンアップする大きな課題です(500万年間、この課題がクリアされていません)。lightwave8さんとの疎通・交流も、そこに向かって行ければ嬉しい限りです。
ところで、実は僕はlightwave8さんの主題・ご質問に対して、直接的な回答のスタイルはとっておりませんでした。ですが、間接的にお応えする事を通してlightwave8さんにも主題・ご質問に対する理解が少しは変化したのではないかなぁと予測しております。
僕が共有した知の完全性~知の不完全性を補うという観点を踏まえますと、現段階ではlightwave8さんは、ご自身の主題・ご質問には、ご自身でお応えになるとしたらどの様に応えますか?
逆質問となり恐縮ですが、とても興味がございます。
ぜひ、お聞かせ下さいませ。
>僕が共有した知の完全性~知の不完全性を補うという観点を踏まえますと、現段階ではlightwave8さんは、ご自身の主題・ご質問には、ご自身でお応えになるとしたらどの様に応えますか?
今のところ不定形の善と言うものを思いついています。無形とまでは言いませんが、常に可能性を持っておる自由度の高い善という意味です。つまり善く生きるとは、自由且つ柔軟に生きるということではないかと思いました。既存の言葉を借りれば、善軟の心で生きるということです。
そこから続いて、善悪の超克についてですが、そのような自由度の高い善性が獲得できたならば、相反するもの同士の対立、善悪の対立をも転じたり、それらそのものからの脱却と言うことが可能であるのかなと思ったりしました。善悪の超克が目標になるのは、それらの起こす葛藤や束縛から自由になりたいという欲求が起こるからだと思うのですが、その意味でも、自由度の高い善というのは、求められたところに応じているのではないかと思います。
No.17
- 回答日時:
ソクラテスの主題はソクラテスの主題であって、魂を善くするということだけれども、
古代ギリシャの死生観、神、霊魂をめぐる思想の図式、思考の形式と切り離したら、その内容はスカスカになってしまいますね。輝きのない、形骸化した言葉になってしまうと思う。
中世のキリスト教社会なら、鑑みという行為が自己の琢磨であるよりはイエスに委ねる心性を示していたし、また、生産共同体が生の存続の証立てであったから、鑑みるということの内実は、共同体をとおしての万物の調和を尊ぶことであったと言えます。
わたしたちは近代以後の社会に生きているわけで、それは、さまざまなモザイク状の合意形成の集団を抱えている社会です。個人はその何らかに所属している存在です。わたしたちの多くは当然のように家庭に生まれ、集団教育を受け、集団労働に直接ないし間接的に関わって、国家を成立させています。
わたしたちが善く生きるということは魂の鍛練や神の意に沿うことや共同体の調和を尊ぶことでは済まされず、社会的な人間であることの成熟についても考えなければならないでしょう。
もはや、ただ善といってそこにあるイデアかなにかのように、抽象されたかのように、それについて語りあえるものではなくなり、わたしたちの思想の図式や思考の形式が錨をおろしている要所要所を見ながら、善と判断する仕組みは何か、また、人が胸のうちで鑑(かがみ)とするものは何か、大きなロゴスも小さなロゴスも掬い取っていかなければならないでしょう。
古代ギリシャから遠く離れて、善は、人を個人たらしめている構造の内部に生成したり消滅したりする概念になってしまったと思います。外部で神に属する問題ではなくなりました。善は、代替物もあり交換可能でもあり値踏みされ相対的な変化にさらされ局所的な出来事であって、善に生まれるのではなく善になるのだ的な、一様相なのだといえるでしょう。
ありがとうございます。
なるほど確かに時代がずいぶん変わったのは事実に違いないでしょう。ギリシャ時代を知っているわけではありませんが、当時の善が持っていたポジションと、現代の善が持っているポジションはずいぶん異なっているのも確かだと思います。しかしどうでしょうか。こだわる訳ではないですが、善の究極と言うものがあるのではないかと考えもします。おっしゃるように、モザイク状の合意形成の集団の中で、善も多様性の一つとなっており、極論すれば、善は、必ずなければならない要素、ではなくなったのかもしれません。それにもとより、究極の善が、善へのアプローチによって到達できるものではないかもしれません。山に登っても星には届かないように。
そのような中で、一様相としての善へのアプローチは、ダイナミズムこそ欠けるが、新しい期待、希望につながっています。
ソクラテスの善を知るためには、当時の思想の基盤を知らねばならない、もっともなことでしょう。
しかし普遍性を問う以上は、ギリシャ時代と現代とでは善は異なるのだよ、背景が違うから、というだけでも善としては物足りない。我々人間の本質はそれほど変わったのだろうか、2500年の間に、、とも見えます。
実は自分としては、雨合羽さんのおっしゃるような、今の一様相になっている善の方が、かつてのイデア的善よりも好ましいと思っています。おっしゃられた、大きなロゴスにも小さなロゴスにも、光を当てる機会に恵まれているからです。色々な善があってよい。それぞれに究極があってよい。道は一つではない。完成に至る道は一つかもしれないが、それは各々の人間に存在するのであって、外部的に与えられる一つの道ではないでしょう。満天の星の如く、善が輝けばよいと思うのは賎しいでしょうか。
>古代ギリシャから遠く離れて、善は、人を個人たらしめている構造の内部に生成したり消滅したりする概念になってしまったと思います。外部で神に属する問題ではなくなりました。
それは、神が衰退してしまったからでしょうか。瞬く星のように、胸の虚空に埋もれてしまっているのが、現代人の善性であるのは本当かもしれないと思いました。しかし同時に、善が神へ通ずる回路によって示されうるのではなく、個的に涌出するオリジナルのものになったとも見れます。その方が、素晴らしくないですか。
No.16
- 回答日時:
ソクラテスと言えば、もう一つ有名な無知の知がありますね。
無知の知と絡めながら、少し独特な観点かもしれませんがお応えしたいと思います。
人間は、動物と違って考える存在です。
自分と自分以外の関係性を知りたいと思います。
生きる意味や価値を知りたいと思います。
そんな中、多くの人間は、知が完全だと思っています。
1.知の完全性
知っている事はいい事だ。
知らない事はダメな事だ。
知っている・知っている・知っている・・・知っているという事が何だか知的な雰囲気があります。ですが、知っているというのは本当に知っているという事であったり、真に人間として生きる姿なのだろうか?という問いかけが始まります。
2.知の不完全性
知が完全なのでしたら、一体今はどうしてこんなレベルなのでしょうか?人間が生きる事とはどういう事なのでしょうか?生きる意味や価値に対する追求が人間にはあります。そんな中で、知っている事によって争ったり、知っている事によって悲劇が起きる事も多いですし、知っている事によって苦しみが生まれます。
また、知っている事によって知らない事も増えます。
知っているといっても、本当に知っているのかというと違います。
覚えているだけです。理解しているというのとは違って、覚えている。
暗記とも言いますね。
ですから、追求されるとよくは分かりません。
水1滴さえも説明できていないのが今の科学です。
なのに、水を知っていると想っています。
知っている事と、理解している事は違います。
また、暗記しているだけでしたら、動物の条件反射と何が違うのでしょうか?
それ故に、追求が深く行くと、知の不完全性を悟ります。
更に追求が深まると、無知の完全性に到達します。
3.無知の完全性
知が不完全である事を理解すると、全ての知っている世界の土台が既に揺らいでいる事になります。つまり、知っているという事が如何に不安定であるのかが分かるので、知っている世界の危うさから離れます。それは知っている世界から自由になる事の意味でもあります。
知っている世界から自由。
知っている世界から自由、それは判断しない世界、○×しない世界であり、無知の領域です。この無知の領域があってこそ、全ての知の世界が共存していても何の問題もありません。とても深遠な無知の世界、それは全ての知の不完全性を許容できる領域でもありますね。
ここまで来ると、全ての知の不完全をどの様に結ぶのかの知恵に突入出来ます。
4.知の不完全性を補う
これは、知の不完全性を全て理解し、お互いに補い合い、また新しい知の開拓も始まり、知の不完全性を∞に補う事が可能となります。無知の完全性を通過しているからこそ、これが可能となります。
如何でございましょうか?
知の完全性・知の不完全性・無知の完全性・知の不完全性を補う・・・
つまり、部分的な知識、よくは理解していない単なる暗記、そんな知の不完全を疎通・交流させながら、統合・合一を可能とさせながら、上昇にまで導けます。
如何でございましょうか?
ありがとうございます。
おもしろい回答だと思いました。ソクラテスから引用した無知の知について言及され、一層興味が持てました。
知の不完全性、無知の完全性と言う辺り、おもしろいなと思いました。確かに無知といったときには無限の可能性が広がるように思います。知っていると頑なに思っていては本当の知には到達できないのかもしれません。4番目の知の不完全性を補うのが、疎通、交流であるという点が対話の重要性を物語っているのかなと思いました。対話によって争論を生じる人もいれば、対話によって知を導く人もいます。
賢者は後者であると思います。対話によって知を導くのは何であるかと問われれば、それはその人々が何を求めているのか、その求めるところによっていると思います。自分の真実が常に正しいという頑なな人は争論を起こしやすいでしょうし、ただ真摯に真実を求める人は静寂の中で互いに知を導くのであると思いました。そのような姿勢はまた、善性のよすがになるのではないかと思います。
No.15
- 回答日時:
善悪を越える・・・という事を「彼岸」と言われた方がおられましたので
私なりの自然な所感を少し・・・
五月は若葉の季節です。
小鳥たちがさえずり、巣づくりを始めたようです。
つがいの鳥が一緒になり、小枝を運び巣を作っています。
餌を見つけるのも一緒のようです。
この姿には、何の迷いも感じられません。
何の迷いもない、生き生きとした姿です。
七月の頃になると、雛が巣立ちます。
よく雀の親子を見かけるのですが
親雀が子雀に口移しで餌を与えるのを見ていると、心に感じるものがあります。
こうした生き物の姿は、人間も同じではないでしょうか。
「善」という言葉さえ不要というか・・・
これでいい、と心の底から思えるような気がします。
小鳥の幸せ・・・といったら笑われるでしょうが
そこに見たものが、私なりの「善悪の彼岸」のようなものです。
有難うございます。
情愛は確かに人をどこかに落ち着けるものであると思います。しかし超然と現実を見定めてこれでよいという場合と、回答者さんのおっしゃるように、ほのぼのとした光景を目にしてこれでよいとする場合は、違うのだと思いました。
後者の場合には、善悪の範疇ではなく、なんというか、ある種の憧憬に対する人間の反応のような気がいたしました。善悪を追いかけない彼岸?という感じで受け止めました。
No.14
- 回答日時:
>善く生きる
滅私利他を基準にして生きることだと、私は思っています。
「あなたの使命は与えることであり、愛されることではない」
>善悪を超える
未熟な自分の未熟な判断基準で物事を判断しないことだと思います。
>目標になりえるのでしょうか
なると思います。
善も悪も、所詮は至らない人間が至らない判断で貼ったラベルです。
善悪を判断せず、判断しないゆえに双方に価値を見いだして等しく扱うことは
現代に生きる者としてなかなか難行、それゆえ目標になりうるかと。
すみません、断定的な言葉で書きましたが、
すべて「私は~と思います」の範疇でご理解ください。
失礼しました。
有難うございます。物事を突き詰める姿勢のようなものでしょうか。
滅私利他、判断しない、など、なかなか難しそうな、、、特に滅私利他は究極的です。
勉強になりました。有難うございます。
No.13
- 回答日時:
こんにちは。
へたのすけさんのご回答を 勝手にええかっこうをして 伸ばします。
1. もし善と言うとすれば 生きること これのみが客観的な善です。
2. そうして 善にしろ悪にしろ 主観としての判断があるのみ。
3. しかも 生きること――もしくは 生まれて来たという人間存在にそなわった自然本性(特には 意志です)――がもし誰もに共通であるなら そこから何がしかの共通善が見出されるかも分かりません。
4. ヨーロッパでは 人間の知覚に共通性があると言い出しました。センスス・コムニス⇒共通感覚。あるいはそして コモンセンス⇒共同主観。
5. つまり 感覚および主観が共同性を持つとしたら だったら 善悪の感覚やその仮説も共有されるということになるかもしれない。
6. 考えてみれば われわれ人間は ウソをつく。このウソとは何だろう。ところが ウソをつくときわが心はやすらかならず揺れ動く。顔がおのづから赤らむ。そこからイツワリに進もうものなら 冷や汗が出る。――つまり主観にも たしかに共通性がある部分がある。
7. わたしがわが心にさからうなら からだがその逆らいであることを知らせてくれる。これが おおむね人間のおこなう自由意志による判断につきものであるとしたら わが心にしたがうことを善として それに対するへそ曲がりを 善への反逆とすればよい。
8. 善への反逆は おそらく 心のありかとしての善に動揺を来たし それを強行突破するとしたらなおそれに見合うウソとへそ曲がりが芋づる式に必要となる。おそらく善なる心もしくは心なる善は そのとき そこなわれ傷つけられる。
9. このようにへそ曲がりによって善が損傷を受けることを 負の善という言い方だけではなく簡単に一語で悪と呼べばよい。よい と わるい とである。
10. ひとはその持てる自由意志によって 善をなすこともそして悪をえらぶこともおこないます。自由に行ない得ます。ただし おそらくひと(他人および自己も)に迷惑をかけることは 自由ではないでしょう。
11. 精神を錯乱させ発狂することも自由ですが ひとに迷惑をかけることは 自由ではない。
12. そこにも 善(つまりふつうの心 ないしともかく生きること)とそれを損なう負の善とがあって 或る程度は人びと共通の善悪観としてそれらを区別することが出来るものと思われます。
13. この善悪の彼岸・・・ですか? どうでしょう どこに見出されましょうか?
14. 世の中を見渡せば――やはり主観としてですが―― おのれの善を全部そこなってしまっても 厚顔無恥の鉄面皮にて生きている・生き続けている・しかも世間に名も通り順風満帆にして裕福であるという場合が無きにしもあらずです。そのとき 善悪の彼岸は どこに求められましょうか? 求めるべきでしょうか? どうでしょう?
15. ・・・。
16. 陰の声:風は気ままに吹く。――うん?
17. だって 主観だって言ってるぢゃないですか。
●(へたのすけさん) 善悪の判断は、突き詰めれば個人の主観によるものだと思われます。
18. けれども 《風》って何だよ? 主観を超えているんぢゃないのか。
● ~~~
また、これが〔* これこれが〕「善」であると言った場合には、偽善性が生じてしまうような感じがします。
客観的に確定できない、或いは普遍性を定義できないところに「善」というものがあるのでしょう。
~~~~~~
19. えっ? やはり主観に行き着くのですか?
● ~~~~
概念以前の心の自然な判断が「善」なのかもしれません。
心の本来の働きのような感じがします。
そうしたナチュラルな心の判断を見失う事なく生きてゆく事が、善く生きる、という事なのだと思います。
~~~~~~
20. では のぞみ薄なのですか? でも《風》は吹きますよね。厳に吹くぢゃないですか。ナチュラルな心に風は吹いて来ないのですか? どうなんですか?
>3. しかも 生きること――もしくは 生まれて来たという人間存在にそなわった自然本性(特には 意志です)――がもし誰もに共通であるなら そこから何がしかの共通善が見出されるかも分かりません。
ここらあたりが気になりました。その共通善と言うのは例えばどのようなものが挙げられるでしょうか?
No.12
- 回答日時:
善悪の判断は、突き詰めれば個人の主観によるものだと思われます。
客観的な絶対はないのでしょう。
主観的に、こうすべきだ、これでいい、と心の底から思えるのが「善」ではないでしょうか。
迷いを伴った「善」は、確かな「善」ではないと思います。
また、これが「善」であると言った場合には、偽善性が生じてしまうような感じがします。
客観的に確定できない、或いは普遍性を定義できないところに「善」というものがあるのでしょう。
「善」という概念を固定化しないところに、「善」そのものがあるように思います。
概念以前の心の自然な判断が「善」なのかもしれません。
心の本来の働きのような感じがします。
そうしたナチュラルな心の判断を見失う事なく生きてゆく事が、善く生きる、という事なのだと思います。
なるほど、緩やかな善と言うのはあると思いました。ニュートラルに発生する柔らかな善があっても良いと思いました。ありがとうございました。
No.11
- 回答日時:
善く生きるという意味は、自分自身を『生かしきる』と言う意味と思います。
では何を生かしきるのかと言うと、すこし難しい所が在りますが、『自分の命』と云う事かと思います。人間には『生まれる前から備わっている働き』が在ります、その働きを先に書いてみます。
人間の『意識』は人間の心の片方でしか在りません。人間には、各種の動物や植物が『学校に行かなくとも。或は習う事がないにも拘らず、『その個体』としての、記憶を持っています。
ソメイヨシノは、習わなくともソメイヨシノです。八重桜の花は咲かせません、花の色にしてもそうです。その種固有の色と形を保っています。昆虫にしても皆そうです。
蜘蛛が同じ種なら、同じ巣を作るように『蜘蛛の脳にはその記憶が刷り込まれていると考えられます』
脳の大きさがかなり大きくなった、人間の脳にも同じように『人間を人間たらしめている、記憶(働き)』が存在しています。この事が判り難い事から、人間は『悩みや障害』が始まっています。
この働きを少し書いてみたいと思います。
この働きは、基本的に三つの面から説明した方が良いと思います。ですが現実問題として、それらがそれぞれ組み合わさって、働いていますので、簡単には説明が出来かねる部分が多々在ります。
『1』 身体機能として生命維持をしている働き。
この働きは環境における、その場その時に応じて、生命が維持できるようにする働きです。酸素が必要なら心臓の速さと呼吸数を増やす働きです。そうして必要に応じて脳内ホルモンでさえ分泌する働きです。暑い時には汗が出る働きです。遡った時には、『生命として働き始めた瞬間から働く』働きとも言えます。生命として芽生えた瞬間から『細胞分裂』することも、知っている働きです。
『2』 身体を働かせて、生命維持を図っている働き。
この働きは、人間が緊急な出来事に遭遇した場合、『我が知らない内に』身体が反応する場合です。この場合『思わずに体が動いていた』と言う場合です。まばたきなどもこの中に入ります。給ブレーキを踏む場合などもこの中に入ります。火事場のクソ力という場合にも言えます。
『3』 心を働かせて生命維持をする働き。
是は人間の『自我意識』のその場その時の必要な事を、脳梁を通じて『言葉に拠らない情報』として、意識に、生きてゆくための必要な事として『情報を提供しています』その一旦を書いてみます。
納期が来た場合、時間が迫った場合。高い所にいる場合。狭い所の場合。好きな人といる場合では、その情報はもっと細かくなります。相手の人を本心からか?遊びとしてか?或は欲得がらみで好きなのかという細かい所まで教えています。
この場合『我=自我意識』が『真実のみを見る目を持っていない場合』どんな情報も読み誤ってしまうかもしれません。その時は『結婚に失敗した』と言う言い方になるかも知れません。
反対に『我=自我意識』がその情報を正しく読み解く場合『幸せな結婚』が約束された事を意味します。
人間は一生の内には、深刻に悩む時や深く苦悩する事があります。そういう場合、今言ったその働きと折り合えなくなった事を意味します。
健常者と言う場合、『その働きと順調に協調』出来ている事を意味します。
自分の命の働きと『1』の意味で強調できなくなった場合『自律神経失調症』と言っています。
自分の命の働きと『2』の意味で強調できなくなった場合、『神経症』或は恐怖症、或は、脅迫行為と言っていると感じます。
自分の命の働きと『3』の意味で強調できなくなった場合、『心を病む』と言っていると感じます。
『1』にしても『2』にしても『3』にしても、意識の根底には同じような『違和感や疑惑や不安』を抱えています。
それは『心の矛盾』を何処に感じているのかの相違と感じます。この三つの場合、医学的に検査をした場合『何処にも異常が見つからない』事が共通点となっています。
自分が自分を恐れている事を意味します。自分の心同士が争っていると言う意味です。そうして持てる自分の力を『内部抗争に使い果たしているために』絶えず、心がへとへとになっています。何時も何も『現実的には』たいした事をしていないにも拘らず、疲れを感じています。
人間の心の内側が分かったソクラテスとしては、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と云う言葉に繋がっています。その理由は『汝自身を知れ』と云う言葉が結びの言葉担っています。
この意味は『意識の根底で、二つの意識は、内部抗争をしていて』現実には『妄想のみが一人歩きをしている事から、生き難い想いを断ち切るために』
『汝自身を知れ』と云う言葉になっていると想像できます。『汝自身を知れ』と言う意味は『人間の障害を完治させよ』と言う意味です。人間の障害が完治した姿が、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と云う言葉になっています。
その訳は、『自身の働き=全てを真実として見ている働き』と仲良く生きなさい、という意味になります。この事が『人生を有意義なものに替える』からです。意識の根底からの『二つの意識の和解』が成立する事によって、それ以後『心はもう二度と争う事がなくなるからです』
意識の根底からの不安が解消すると言う意味です。全ての違和感の原因が『自分の心の中に』あった事が分かるからです。この場合『今までは絶えず緊張のために』身体中に無駄な力が入っていました。
その原因を『意識の根底から』了解する時、身体中の緊張が一気に抜け落ちます。それ以後『心には争いがなくなります、当然強迫観念もなくなります。』
もう一つの心のままに、生きてゆく時、その障害を抱えたままで、天国にいる事が分かります。自身の心の内部には『良心、神、仏』が、自分が生まれる前から同居していた事が分かるからです。
有難うございます。なかなか興味深い解答でした。
確かにストレートな感情の流れが阻害されていて、どこか引っかかり、恐怖感のようなものも感じられます。『3』に問題があるのかもしれません。
しかし、逆に言えば、今よりも若い頃は、『夢だけ見ていた』のであり、今は、『厳然とした事実』を意識し始めている故に怖気づいているのかもしれないと思いました。
No.10
- 回答日時:
何をもって善とするかは諸説あります。
同情説、克己説、功利説、秩序説・・・。
こういうのは、まず普遍的な善の定義を定めようと
する立場です。
これと対照的に、日常の経験の堆積として
歴史的なもの習慣的なものの中から善を抽出しようと
する立場があります。
身近な人の役に立つ、優しくする、などです。
善とは何かと捜すのではなく、身近な人を
大切にすることから始めたらどうでしょう。
尚、日本では古来から、善悪というよりも、身の処し方
が美しいか、潔いか、という観点から判断して来ました。
これなどは善悪を超えている、という見方も
できるかと思います。
私にはこっちの方がしっくり来ます。
ありがとうございます。
身の処し方と言う観点を提示していただきました。
美しいか、潔いか、なるほど確かに品位があって、しかも妙に納得させられる節があります。
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