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ギリシャの哲人ソクラテスは、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と言ったと聞きます。なるほど相だと私は思うのですが、一体善く生きるとはどういった人生、生き方、人の有り様の事を言うのでしょうか。人は何を善と言って、それを賞賛し目標とするのでしょうか。
また、善悪を超えるということはどういったことなのでしょうか。
善悪を超えるということは目標になりえるのでしょうか。
昔、少年のように屈託なく善を探していた頃がありましたが、最近は胸の内もすっかり錆び付いて、寂しさに埋もれている私です。今改めて、純粋な探究心を取り戻したいと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
![「善」の質問画像](http://oshiete.xgoo.jp/_/bucket/oshietegoo/images/media/a/920297_5497cf472a9c6/M.jpg)
No.9
- 回答日時:
顔写真を載せるとは、自分をさらけ出しているんだね。
だから、できるだけ僕も本音で書こうと思う。善は利益のためにするものじゃないって皆はいうし、建前はそうだと思う。善は何かの利益が裏にあると言いたてるのは、美しくない。でも「俺は今日いいことした」と自己満足で終わるのではなく、相手に感謝してもらえて、喜びを共有するのは大切だと思う。こうやって人と喜びを共有し、心が温かくなって、初めて報われるものだと思う。そうでなかったら、恨みばかりが溜まって行き、いくら善は利益のためではないとはいえ、「俺って損してるよな」としか思わず、友達とも会いたくなくなって来る。だから善い生き方とは、自分にとって善い影響をもたらす人に接することだと僕は思っている。
もう仕方ないなと思ったら、僕はポンと投げてしまうことにしている。というのも、心がさびしくなる一方だから。心の錆びをはがすのだったら、人間関係を一度見直してみるのがお勧め。もう嫌だなと思っている相手に、「いい加減にしてくれない?」と一度言ってみること。ダメそうなら、絶交も厭わないこと。一つ椅子が空くと寂しいけれど、その分、他の誰かが座ってくれる可能性ができたということだと僕は思う。椅子が空いて、誰かが座ってくれて、また立ちあがってということを繰り返すうちに、自分が善だと思うように振舞って、それに感謝して報いてくれる環境ができてくる。いい人が傍にいれば、心に余裕が生まれてリラックスでき、探究心は自然にわいてくると思う。
もしかしたらポンと放ってしまうのは、冷淡なことで悪だと言われるかも知れない。なるほど何が起きても心が錆びない人というのはいる。僕の学問の師は高名な人道主義者だったけれど、無宗教ではあるが、人を常に赦し続けた。死刑廃止を唱えて最前線に出ていき、差別の問題があると学会で必ずパネリストになっている。僕もそうなろうと思って彼の門下にいたけれど、学問的な才能というより、赦すことができないということに気がついた。加えて、物質はおろか、精神的な見返りを一切求めずに、善を目指すことができなかった。
僕は絶対的な善を目指せるのは、一つの才覚だと思う。心が錆びるということは、(僕は自分のことを言っているつもりだけれど)才能に限界があるということで、相応の生き方をしたらいいと思うようになった。師にも相談したけれど、「君は優しすぎるんだよなぁ」と言われてしまった。師はおそらく、心地よく生きることなど考えていないのだと思う。筋金入りの人道主義者で、高い理想のためにはいかなる犠牲も払う覚悟をしたのだと思う。僕にはそれが無かった。むしろ周囲に感謝されるいい人になりたいのだった。相対的な善を目指すのでは、最前線に切り込んでいくと、いつか心が錆びてしまう。
以上は善とは何かを定義する回答ではなく、善く生きるためにはどうするかという助言に過ぎない。そして僕のように、相対的な善で満足するようにと勧めるつもりもない。しかし質問者様の心が錆びているというので、何かの参考になるかと思って自分の経験を書いてみたのだった。
ありがとうございます。
写真については、みなさんとできるだけ近い距離で話したいと思うので掲載しています。
善い人との出会いと言うのは、本当に切望されることであると思います。自分の周辺に善い人がいないというのではないですが、まさにそのような人が、善とは何かを教えてくれるような気がするし、自分もそのような善き人でありたいと思えるからです。
自分の心が錆びてしまったのは、ある一つの出来事があったからでした。それ以前の私は、活き活きとしていたとおもいますし、善についても喜んで見ようとしていたものです。どこか高慢な節もあったかもしれませんが、。あるとき、自分の知性を遥かに上回る人の見識を聞いて、そしてその衝撃的な内容から、すっかり自信をなくしてしまい、ふにゃふにゃになってしまったのです。
今改めて、健康的な探究心を自身に宿したいと思い、質問した次第です。自分の探求であるのだから、それが自分のものにならないなど悲しすぎると思います。喩え他の人が自分よりもずっと賢かったとしても、自分だけの答えを見つけたいと思いますし、それが普遍性を持っていることを信じたい。最近はそのように思って歩いています。
No.8
- 回答日時:
とても難しい問題だと思います。
「善」といっても例えばソクラテスの説くそれと儒教で説かれるそれでは恐らく意味が異なったモノでしょう。また「少年時代の善」と「今の君にとっての善」でも内容が違ってくることも当然です。子供の頃には親や学校で「困っている人がいたら助けてあげましょう」と教えられてそうすることも「善」とされましたが、大人になってからも同じ行為をしては相手を助ける事に必ずしもつながらないケースもあります。相手が怪我を克服するためにリハビリ訓練をかねての外出中だった場合などには下手に手を出すことが相手にとって「リハビリを妨げる」ことを意味するなどの場合は多々あります。
昨年のあの本以来「善とは何か」「正義とは何か」と一つの物事に対して何か「普遍的な定義付け」が可能であるかのように考える風潮もあります。勿論、著者としてはそうした風潮に対して不本意と同時に危惧を感じてはいるものの、世間では何か絶対的な価値の基準があるかのように錯覚しているのでは?と僕は思います。
ですから僕個人の感想としては問題に出くわした時に「差し当たって僕に出来ることは何か?」と自問自答した上で対応せざるを得ない、としか答えようがありません、まことに悩ましい問題ではありますが。
ありがとうございます。
>世間では何か絶対的な価値の基準があるかのように錯覚しているのでは?と僕は思います。
そうですね。絶対的な価値基準があると頑なになっては、かえって探求は損なわれるかもしれません。
> ですから僕個人の感想としては問題に出くわした時に「差し当たって僕に出来ることは何か?」と自問自答した上で対応せざるを得ない、としか答えようがありません、
自分にできることを為す人が賢者であると聞いたことがあります。自分にできることは何かを自問自答すること、それもまた、自分自身の歩みを豊かにすることなのかなと思いました。
No.7
- 回答日時:
>ひとにやさしくあれとか、まっすぐに生きるとか、そういうことは善く生きることになるのではないかと思うのですが如何でしょう。
あ、いいですね。
ただし、やさしさの押し売りはいけないですよね。
優しさを出せと要求するより、もと説得力のあるものは無いでしょうか?
倫理として旧約聖書が参考になると思う。古代の倫理ですが、「赦しなさい」って教えがあります。
なんでもかんでも盲目的に赦せとは、旧約聖書は言っていない。
真理に沿って赦しなさいと言っている。
で、真理はどういうことかと明確には書かれていないが、例えで紹介されている。
自分の家畜がご近所さんの家畜と喧嘩して谷底に落としてしまったら、お祈りの時間であっても、まず先方に侘びを入れに行くこと。
そしてここが肝心なのですが、お詫びをされた側は、赦さなければならない。
どうしてかというと、逆の立場になったとき、赦されるから。
快楽殺人した人まで赦しなさいとは聖書は言っていない。
この理を短い言葉で表すと「情けは人のためならず。」
ありがとうございます。
>優しさを出せと要求するより、もと説得力のあるものは無いでしょうか?
真実の探求と言うのは如何でしょうか。あからさまにやさしくはないですが、やはりそれを探求している人には何らかの気高さが伴うと思います。
>倫理として旧約聖書が参考になると思う。古代の倫理ですが、「赦しなさい」って教えがあります。
真理に沿って赦すですか。なかなか奥がありそうです。心理と言うことばには深遠な印象がともなっていて、容易に解釈はできないのですが、話に奥行きや広がりが出て、いいなぁと思います。
No.5
- 回答日時:
悪をなすことができない人の行う行為はすべて善になります。
では悪とは何かといえば自我を中心とした行為ですね。
ゆえにやるべきことは自我の解体です。
善とは何か、は分からなくても、悪とは何かははっきりしています。
理屈でいえば簡単ですね。
ありがとうございます。
自分勝手なことをしても、結果的に善く転んだりすることは考えられないでしょうか。
知らずに善を成したり、知らずに悪を為したりすることはないでしょうか。
そう考えると難しいですね。。
No.4
- 回答日時:
では、善く生きるとはどういうことか とその後展開していったわけですが、実は現代を持っても善く生きるということが、どういうことかはっきりとはわかっていないんです。
善いということは普遍性があるべき。
時代や条件によって善くなったり悪くなったりするのは、普遍性が無いわけで、まったくの善とは言えない。
どんなことをもっても、殺人は善いことではないはず。
誰もが不快に思う行為であるはず。
ですが、ご承知の通り、ビンラティンが暗殺され、アメリカ国民の多くはその殺人を善いことだと喜んだと報道されている。
死刑というものもある。
もし人殺しが悪いことなら死刑制度はありえないはず、暗殺もありえないはず、暗殺して正義を果たしたと喜ばないはず。
ということは、殺人は善いことでもあるってことです。
では、悪いこととは何でしょう?
善いことがわからないのと同じように、悪いこともわからない。
で、フィロソフィアとは哲学と訳されますが、愛智という意味で、善を模索して考える行為が、ただ生きるのではなく、何が善か考えながら生きるべきだ というのが、ソクラテス および プラトンの言うことのようです。
そこで、政治哲学のマイケル・サンデル氏がいろいろ問題定義をしたわけです。
多数の人の命を救うためには、一人の無実の人が死んでもいいのか とか。
多数の命を救うためには、一人の罪も無い人を殺してもいいのか とか。
多数の命とはアメリカ国民のことか、それとも多数をコントロールする支配階級の人のことか。
ビンラディンの暗殺は、多数の考えをコントロールし支配する少人数のために行われたことであって、国民を救うためではない。
ですから、本当は大勢の国民の平和のためではなく、ごくごく少数の将来安泰のための殺人、それが正義だとなっているわけです。
では、ごくごく一部の支配者層が何不自由ない暮らしができることで、国民を自分たちの思うようにコントロールでき、自分たちが見せる幻の平和を、国民が自分たちは平和を与えられたと感謝し、その世界が人々が目指す善の世界となりうるのか。
多数者が幸福であれば、作られた偽の平和な世界を<与えられ>、与えられたものは<満足>するのが当然なのか。
結局は、一人ひとりが満足であれば、誰も不幸な人はいなくなり、善の世界になりうると思う。
例えば、ソクラテスは多数決で死刑が確定しましたよね。
「本当に正しいのか もう一度よく考えてみよう」と若者に喚起したことで、政治家の言うことが本当に正しいのか議論されることとなり、政治家は今までのように自分たちが決めたことを国民が安易に受け入れてくれなくなることを恐れ、若者をたぶらかしたという罪と神を不敬した罪で、ソクラテスを黙らせようとしたわけですよね。
茶番裁判で、それくらいのことで、死刑だってしたわけですが、ソクラテスのやった行為が死刑に値するとはとても思えないもので、政治家たちもそこまで善悪がわからなかったわけではなく、感情的になり脅す程度だったのではないかと思えます。
現にその頃は賄賂を渡せば脱獄できるくらいゆるいものだったそうで、弟子のプラトンは賄賂渡して無罪放免にしてもらおうとしたと思えます。(賄賂を渡して脱獄させようとしたとは書いてあるが、結局無罪放免に賄賂を渡せばできたのではないかと)
ところが、ソクラテスは、多数決が独裁政治よりマシという考えから、多数決で決まった死刑を受けないと、正義に反することになるとして、自分から毒を仰ぎ自らに死をもたらしたわけです。
誰かソクラテスを救えなかったのか と考えます。
ソクラテスの理論を覆してやり込められる知恵があれば善いのですが、2000年以上前から現代もちっとも変わっておらず、今もって無いが善なのかわからないので、ソクラテスをいまだに救えていないわけです。
ですが、これからも救えないからといって、今後もソクラテスを救えた方法を考え付けないかというと、もしかして1億年後 画期的な考えが出てきて、ソクラテスの考えを覆せるときがくるかもしれないと希望を抱き、今後も人間は考える葦であるとして、人間賞賛をしていこうってことのようです。
まあ その前に我々は死んでますが、、、、未来人が解決するという希望を胸に、ともし火を消さず未来に伝えていこうってことだと思います。
善悪を超えるというのは、要するに神のことだと思えます。
例えば洪水は神が起こしたとしますよね。
理由は氷河期が終わり、地球が温暖期に入ったため、氷が溶けて世界各地に洪水が起こったのだと思いますが、、、
神が洪水を起こした理由は、人間があまりにも神からみて悪くなりすぎて、こんなひどい世界は無くした方が不愉快にならなくてすむと思い、神が洪水を起こし、罪があるのかどうか定かではない動物たちも水死させた。
で、天災は神が起こしたとしても、自然(神)は人間ではコントロールすることができず、「神は悪いやつ」だと捕まえて二度とさせないようにはできず、人間ができることといったら、自然(神)を憎むより、自然の恐ろしさに畏怖し、もう起こさないでくださいと嘆願することだけ。
善悪を超越した存在に畏怖することしかできない。
地震は善悪を超越したものですよね、太陽は核融合を起こし放射能を大量に地球に向かって放射していますが、太陽の恩恵があり生命が誕生したので、太陽を悪だということすらできず、善悪を超越した存在。
で、地球の各地では神を崇拝していますが、自然 特に太陽信仰が盛ん。
太陽を憎むのではなく太陽の良い面に感謝することで、収穫を喜び、生命を持続できるのは太陽のおかげと喜ぶ生き方をしており、その生き方は善悪を超越したものだと私は思います。
超越ってのは、それを上回るというより、ある意味コントロール下に置くってことですよね。
コントロール下に置くことで、太陽のよい面に感謝をするという心が持て、自分の感情を支配(コントロール)できている。
ただ、自分の感情を自分の支配下におくってのが、結構難しいわけです。
暴れ狂う感情を落ち着かせ、感謝する心がもてたら平和になるわけです。
それはヨブ記(聖書の中の物語)でもいえることです。
ヨブは善人だとされたが、散々な目に遭い、友達と思った人たちからも、何かわからないがお前に非が絶対にあったんだと、人生を否定されてしまい、まったくの一人ぼっちになり、納得がいかないとして、神の前にとうとうたった。
そのとき、自分では支配できないものがあり、全部をわかっているわけでもないのに、わかったかのように神を批判するかのような行為をした自分が、本当の不幸を起こしたと知り、やっと自分をコントロールすることができ安息になった。
神を畏怖することができたために、安息になった。
だから、徹底的に不幸続きで、誰も助けてくれず絶望の際においても、安息に至ることは可能という希望の作品(思想)。
まあ そんなわけで、ヨブ作家の愛智もすごいものだなぁって思います。
ご回答有難うございます。善のうちで、普遍性のあるものには、どのようなものがあるでしょうか。
>実は現代を持っても善く生きるということが、どういうことかはっきりとはわかっていないんです。
そうなのですか?ひとにやさしくあれとか、まっすぐに生きるとか、そういうことは善く生きることになるのではないかと思うのですが如何でしょう。
No.3
- 回答日時:
一体善く生きるとはどういった人生、生き方、人の有り様の事を言うのでしょうか。
○ ソクラテスのような哲人が言うところの「善」は日常性に存在する善悪を指しているのではありません。 そのような善であればソクラテスが出てくる必要もないのですね。学校の先生で十分でしょうね。例えば、校則を守ることが「善」であれば、小学生からそこらじゅうにソクラテスがいることになりますからね。
凡人はソクラテスのような天才、偉人を自分と同じように考えてしまうところに大きな間違いが生じるのです。また、そのようにして生まれる日常的な常識が純粋なものをだめにしてしまうのですね。どんどん高みから転落し、地べたを這う蟻が如くの群れになってしまうのです。
さて、質問の本題に戻りますと、地上にある全ての事象にソクラテスの真の「善」はあるかといえば「ない」のですね。ソクラテスの「善」とは精神的な「向上」を目指すことなのです。精神的な向上に対しては地上の全ての事象は向上のための経験知(磨くための砥石)でしかないのです。経験知のみのために悪いことも良いことも悲しいことも楽しいことも天災も人災もあらゆることがあるのですね。
生まれてくる前の自分より更に向上したい、そのためにあらゆる経験知を通じて自分を鍛えたい。それが哲人の言う「善く生きる」という意味なのです。中国の哲人、孔子はこれを「天命に従い則を越えず。」と言い換えていますが同じ意味です。
さて、日常の善悪、日常の知識ではなく、日常の糧のためではなく、崇高な哲人の目から見た、または、仏の目から見たあなたの生き様はと問うているのですね。その目を通して、多くの知識が砂上の楼閣であり、全ての事象が砥石でしかないことが見えてくれば、ソクラテスの高みが見えてくるでしょう。まあ、わかりやすく言えば、日常の善悪を、哲人としての釈尊は「諸行無常」と捉えていますね。善悪とはその程度のものです。
純粋さが哲人の門の鍵でもありますね。
ありがとうございます。日常性と言うのは、それを日常的に示現しているかどうかと捉えられても結構です。善をあらわせているかどうかという事です。つまり実際に善く生きることができているのかという事です。諸行無常であるからこそよく生きるべきだと思うのですが如何でしょう。
純粋さと言うことについても何か言っていただけるとありがたいです。
No.2
- 回答日時:
深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。
その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。
そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。
その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より深まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(自我仮説と時空仮説の相補分化)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。
それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(低認識(自己チュー)なままの他律的社会性)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=充足減)に属する。
独特の言葉を使われるのですね。ちょっと理解できなかったのですが、ひとまずご回答有難うございました。独自の言語体系を持っている人もいておもしろいのですが、理解できないということが少し残念でもあります。何回も読んでみます。
No.1
- 回答日時:
善悪とは何か。
それは価値体系における座標軸の一つです。したがって、カント以降の西洋哲学や、「善の研究」の著者である西田幾多郎を
学んでみてはどうだろうか。また、誰もが知っている宗教団体の一つに「創価学会」
があります。あの「創価」は価値創造を意味します。
まあ、内面に問題がありそうなので、研究する分野の探求よりも、信頼できる人間に
アドバイスをもらう方が実践的だと思います。日常とかけ離れた探求なんて、一銭の
価値もない。哲学カテに常駐している変人や病人のようにはならないでくださいね。
早速の回答有難うございます。日常性の善を求めることには同意できます。実現できる善と言ってもよいでしょうか。善の探求という事で、久々に気力が湧いてくるような気がしています。
価値体系における座標軸の一つですか。なるほど。わかる気がします。自分はその座標軸を重んじているということですね。
ご回答ありがとうございます。
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