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自然環境は人類活動によって破壊されています。その原因は、無軌道な大量消費による物質循環の乱れです。

現在の世界の経済活動を動かしているのは一神教の国々です。日本は明治時代からこのかた、それに流されているにすぎません。

宗教観というものには、自分達の生活している自然環境の中で、いかに生き残っていくかということが含まれますから、宗教はその地域の自然環境と切っても切り離せないものであり、本来は地域ごとに柔軟に変化していくものです。

キリスト教やユダヤ教、イスラム教はいずれも砂漠の地で生まれた一神教の宗教です。

自然の恵みが豊かな日本は多神教と言われますが、人々の自然に対するイメージというものは母性的であり、敬っていさえすれば、「最終的には助けてくれる」というイメージです。

一方砂漠の国々は自然が貧しく、天候を操る神はその子である人類に対して、様々な難題を突きつけてきます。過剰に与えることはなく、人々はいつも不足に悩まされ、不満は解消されることはありません。そこには禁止が付きまといます。そして禁止というものは欲望を肥大させるものです。

今日のグローバル社会は、無尽蔵に自然を消費していく社会です。それは少なからず一神教の負の性質を反映したものだと感じるのですが、いかがでしょうか?

砂漠で生まれ、その厳しい環境で生きる術を示した宗教というものが、それが生まれ育った地域を飛び越えて、(これもまた一神教の性質によるものですが)、世界全体を支配しているとことに対してどう思われますか?私のように、それを現在の地球環境の破壊と結びつけて考えることは全くの見当違いでしょうか?

もちろん、それだけで環境破壊が説明できるとも思いません。

また、キリスト教は歴史を重ねるにしたがって変化してきたのでしょうが、一神教というものはその性質として、始めの教えから大きく変化するものではないと思います。

どうか回答の方、よろしくお願いしますm(_ _)m

A 回答 (7件)

僕の観方は少し違います。



>自然環境は人類活動によって破壊されています。その原因は、無軌道な大量消費による物質循環の乱れです。

については同意しますが、その解析がwjgbtさんとは若干異なります。違う解析をしているので、もしかしたら読みにくいところもあるかもしれませんが、暫くお付き合い下さいませ。

僕も、自然環境破壊は人類活動によって起きていると思っていますし、大量消費や物質循環の乱れからくるものだと思っています。ですが、その原因を、僕は学術にあると観ているんです。

少し、時間軸を広げてみて、遡るところから入ろうかと思います。

人間は、動物とは違います。
人間は、動物とは違って考える存在です。
そして、生きる意味と価値を追求する様になっています。

そんな中、人間には判断基準の問題性が5つあります。

1.誰もがみんな判断基準を持っている
2.その判断基準は一人ひとり全部バラバラで違う
3.違うからといって、一つにさせたらもっと問題
4.人間の判断基準は不完全
5.不完全なのに無意識では自分の判断基準は完全だと思っている

この事の意味は、どういう意味でしょうか?

カオス(無秩序)という意味です。判断基準が一人ひとり皆違うので、人と人は分かり合えません。だから摩擦・衝突は起こる様になっています。ですが、だから問題だといって一つにさせたら、ロボットや機械の様になり、生きる意味や価値が失われ、もっと問題です。

更に、人間の判断基準は不完全ですので、何と出会っても問題が起きる様になっています。そして、そんな不完全であるにも関わらず、無意識では完全だと思っています。

人と人が分かり合えませんしバラバラで、まさにカオス(無秩序)です。

そんな中、一体どうやって秩序を創ってきたのでしょうか?それが力です。始めに大ヒットした力は、王様による暴力でした。王様は、神・聖書・教会・牧師と繋がって暴力によって土地を管理し、農場を広げていきます。

判断基準の中心は王様で、社会プレートの中心は農業社会で、秩序立てる力は暴力で、富の象徴は農場でした。当初は、これがあったから、国は豊かになり、生活は豊かになり、動物や自然との闘いにも勝利していったんです。逆に、王様の暴力や神・聖書・教会・牧師と繋がれない人間は生き残れませんでした。

ですが、ここにもある程度まで行くと限界が生じます。

天動説から地動説が正しいとなると、神・聖書・教会・牧師による宇宙自然の解析に信用がおけなくなりました。疑います。それで、真の宇宙自然の仕組み・メカニズムは何だろうかと追求しだして、新しい時代へと移り変わっていくのを牽引したのが学術です。

学術は、数学・物理学・経済学などを通じて個人一人ひとりによる宇宙自然の仕組み・メカニズムを解析する事を赦してくれました。これが大ヒットしたんです。結果的に、フランス市民革命、イギリス産業革命まで起きます。

判断基準の中心は市民(当時の商人)で、社会プレートの中心は産業社会で、秩序立てる力は財力で、富の象徴は工場でした。これも当初は大ヒットです。今まで、個人は王様によって、神・聖書・教会・牧師によって、大変な抑圧を受けていました。だから、個人にとっては最高!

市民は、当時の商人たちですから彼らに都合の良いルールが出来上がります。個人には、王様の真似をさせて、王様が全てを所有した様に個人にも全てを所有させる様に煽動します。

商人にとっては、個人戦・個人主義に走ってもらった方が、とても利益が自分たちのところに落ちるからです。そして、学術は個人戦・個人主義ととても相性が良かったです。

かくして、今の時代にまで続きます。

個人戦・個人主義が盛んになりすぎる事を通して、大量生産・大量消費は基より、インターネットや金融経済まで生まれますと、益々相対比較する相手も多くなり競争は激化して、勝利者と敗北者との二極化が進みます。そんな激化する競争社会の中で、自然環境破壊にまでも繋がるのでしょう。

ところが、今やこのプレートにも限界が来ています。
もはや財力だけでも支えきれなくなりました。

今や、個人戦・個人主義が酷くなりすぎた社会全体が、判断基準の問題性に立ち戻り、カオス(無秩序)状態へと戻りつつあります。

さて、ここまで来て主題へと立ち返りたいと思います。

僕は、既に農業社会から産業社会へ、王様から市民へ、神・聖書・教会・牧師から学術へ、暴力から財力へ・・・と移動した時に、既に一神教の源は途絶えていると見ています。

明確に、中心は移動しました。

もはや、神・聖書・教会・牧師には何の権限も権威もなく、モチベーションすらここには見出せません。実際、そうであったから、中心が移動したんです。明確に。

それ故に、一神教による源ではありません。

ですが、確かに一神教の国々が経済を動かしている様に見えますね。それがなぜかと言いますと、それが天動説から地動説へと移動したのが一神教の国々であり、その中心移動と共に経済へと発展し、産業社会へと移動したのは、一神教の国々であったからです。

東洋は、その頃は未だ王様による支配から目覚めていません。

西洋は、個人が目覚めました。神・聖書・教会・牧師から、王様から、自由になったんです。その時の自由の原動力が、とても強かった。それを牽引したのが、学術です。

ですので、今の経済プレートを支えているのは、実は学術の方です。数学・物理学・経済学の方です。この学術は、東洋では生まれていません。日本でも生まれていません。

>日本は明治時代からこのかた、それに流されているにすぎません。

というのは、西洋列強諸国による植民地政策ですが、これは学術の土台によって加速しました。いわゆる文明先進国へと急速に進化発展していきます。

つまり、原動力は一神教ではなく神・聖書・教会・牧師でもなく、寧ろそれが窮屈で仕方がなかったところから生まれた学術の方です。

それでは、学術の一体なにが問題であるのかについて触れます。

神・聖書・教会・牧師や王様の時代には、個人という概念も、人間という概念も、とても弱いです。考えてはいけません。そこに個人・人間の抑圧がありました。

学術は、実はここを解放したんです。

逆に言いますと、学術が最も強いのは、個人・人間です。学術によって、個人中心、人間中心が盛んになります。客観的な事実、宇宙自然を仕組み・メカニズムとして理解したいという意欲があります。

それによって開発開拓した領域は膨大でした。
しかし同時に、そこに致命的な弱点もがありました。

つまり客観的な事実を理解したいという意欲が強すぎて、認識主体と認識対象を完全に分離してしまいました。

そして、認識主体を認識対象に介在させない様にしてしまいます。どういう事かと言いますと、認識する主体が認識される対象に及ぼす影響が一切無いとする前提でモノを理解し認識しようとします。

認識する主体の影響が、全く認識対象には及ぼさない・・・そうであるならば、人間の尊厳性はどうなってしまうのでしょうか?創造主感覚は一切なく、自分は常に創られた存在として被造物感覚に留まってしまいます。

ですから、人間一人ひとりの尊厳性は行けば行くほど破壊されていきます。自分の認識によって、対象には何も影響が無いのでしたら、自分が認識する事の一切は全部環境から創られた事になります。

学術による人間の尊厳性の破壊です。

ですから、まず人間そのものが素晴らしく、人間そのものが美しく、人間そのものが輝かしい・・・だなんて思えません。

内面は実はそうである為に、王様の真似をさせて所有する事を繰り返す事で、まるで自分は王様の様に権威を持ち、権利を持ち、生きているという実感を得ようとするのですが、内面である人間の尊厳性が破壊されていますから、何かを所有してみても、自分自身は偉大でも荘厳でも崇高でもない事に気付きます。

そんな中、環境で起きている事は個人戦・個人主義としてお互いに相対比較させて競争させるのですから、如何に個人一人ひとりは孤独で寂しいのでしょうか?

そんな人間、そんな個人が、認識主体(自分)とは切り離された認識対象(自然環境)とどの様に接するでしょうか?認識対象(自然環境)を大切に思えるでしょうか?人間を、個人を、自然を、環境を、大切に思えるでしょうか?自分と、完璧に切り離された分離されている対象を愛せる訳がありません。

そして、何かがおかしい・・・と分かってはいても、もはや自分の認識は認識対象に対して何の影響力も持っていない事を完璧に悟っていますから、自分には何も出来ない、自分は小さな人間だ、となり易いです。

問題に気付いても、危機を感じてはいても、学術による人間の尊厳性の破壊ゆえに、変化する事も、キッカケを創る事も、もはや自らは出来なくなってしまっています。

僕は、今の経済活動も環境破壊も、一神教ではなく、学術によって起きていると観ています。ですので、本当に超えなくてはならないのは、神・聖書・教会・牧師も、学術も、更に超えた新しいパラダイム、暴力・財力を超えた新しい力、王様・市民を超えた新しい認識主体、農場・工場を越えた新しい富の場・・・が必要なのではないでしょうか?

その新しさによって、一神教の問題も、経済の問題も、環境の問題も、全て解消解決されます。wjgbtさんとは若干異なる解析だったために、読みづらかったかもしれませんが、お付き合い頂きまして本当にありがとうございました。
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この回答へのお礼

たいへん興味深く拝見させていただきました。

>学術による人間の尊厳性の破壊です。
学術によって認識主体と認識対象が完全に分離されてしまった、それによって人間の尊厳が失われてしまったということは賛同できますが、問題はその時期です。
自然の豊かな地域ではどんなにつらい災害があっても、その後には自然の恩恵が待っています。そしてその過程において自然との一体感や、尊厳を感じることができます。しかし自然の厳しい地域の人々は、自然との一体感を感じることが困難です。その時点ですでに認識主体と認識対象とが分離される傾向にあったのではないか、尊厳が失われやすい傾向にあったのではないかと思います。そしてその代償としてその自然にとって替わるものを作り出したのではないか。そのようなもろい存在であるからこそ、それを否定するような他宗教が悪魔に感じられるのではないでしょうか?
そして自然とは別に神を作り出すことによって、自然を認識対象とすることが容易になった、自らの尊厳性が失われずに済むようになった、ここに科学なり学術が発展していく土壌だったのではないかと思います。そして宗教によって支えられてきた学術というものが、そこから自立し、その宗教をも脅かしてしまう。それが地動説への移行であり、現代の社会です。
天動説は結局地動説に取って代わられました。学術というものはそれくらい魅力的なものだからです。それは一神教の生み出したものだとしても、一神教とは分離されたものです。そういう意味では学術というものを考慮して考える必要があるのかもしれません。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/30 19:58

 浅学の私は質問文に付加するものはありません。

満腔の賛意を表明するだけでお許し下さい

 自然環境は人類活動によって破壊されています。その原因は無軌道な大量消費による物質循環の乱れです。【私も常々そのように考えていました】
 現在の世界の経済活動を動かしているのは一神教の国々です。日本は明治時代からこのかた、それに流されているにすぎません。【同上】
 宗教観というものには、自分達の生活している自然環境の中でいかに生き残っていくかということが含まれますから、宗教はその地域の自然環境と切っても切り離せないものであり、本来は地域ごとに柔軟に変化していくものです。【特に同意も否定もしかねます】
 キリスト教やユダヤ教、イスラム教はいずれも砂漠の地で生まれた一神教の宗教です。
 自然の恵みが豊かな日本は多神教と言われますが、人々の自然に対するイメージというものは母性的であり、敬っていさえすれば「最終的には助けてくれる」というイメージです。【私も常々そのように考えていました】
 一方砂漠の国々は自然が貧しく、天候を操る神はその子である人類に対して様々な難題を突きつけてきます。過剰に与えることはなく、人々はいつも不足に悩まされ、不満は解消されることはありません。そこには禁止が付きまといます。そして禁止というものは欲望を肥大させるものです。【なるほどと存じました】
 今日のグローバル社会は無尽蔵に自然を消費していく社会です。それは少なからず一神教の負の性質を反映したものだと感じるのですが、いかがでしょうか?【その通りと存じます】
 砂漠で生まれ、その厳しい環境で生きる術を示した宗教というものが、それが生まれ育った地域を飛び越えて、(これもまた一神教の性質によるものですが【私はむしろ心性や宿命だとぞんじます】)、世界全体を支配しているとことに対してどう思われますか?私のようにそれを現在の地球環境の破壊と結びつけて考えることは全くの見当違いでしょうか?【インド、南アジア、そして東南アジア的心性を基点としての文化と経済、そして政治のあり方を模索し、一神教的伝統に影響できる説得性を私の中で努力しております。】
 また、キリスト教は歴史を重ねるにしたがって変化してきたのでしょうが、一神教というものはその性質として、始めの教えから大きく変化するものではないと思います。
 【インドからアメリカに渡って、インドの哲理と心性をキリスト教的信仰にゆうごうさせようとしている、パラマハンサ・ヨガナンダの運動を私は評価しております】
  参照:Self-Realization Fellowship ( http://www.yogananda-srf.org/
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この回答へのお礼

>インドの哲理と心性をキリスト教的信仰にゆうごうさせようとしている
哲理や心性という言葉は今ひとつピンとこない言葉ですが、原語に近い言葉をあてはめたということでしょうか?もともとの日本語の意味とは違っているかもしれないので、その方が何を伝えようとしているのかは正確にはつかめませんが、キリスト教的信仰の一面的な側面を補うという働きでしょうか?アメリカ人の中にはキリスト教から仏教やヒンドゥー教に改宗した人もたくさんいて、それだけ東洋的な思想を必要としている人も多いと思います。ですからその方の運動はたいへん有益なものだと思います。しかし、一神教というのは力強い反面、柔軟性にかける部分があります。ですから、「融合」というイメージはつきませんが、それが果たして可能なのかという事も含め興味のあるところですね。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/01 21:54

一神教と多神教は、固定的なものではなく、相対的なものでしかありません。


また、複数神教(二神教や三神教など)も存在しており、単純に一神教と多神教とに分けて考えることもできません。
ゾロアスター教は、一神教として生まれましたが、その後多神教化し、現在では一神教にもどっています。
バラモン教は、多神教、一神教、多神教となり、ヒンズー教へと変化しています。
仏教では、複数神になります。
キリスト教においても、クノーシス派は多神教です。
日本の神道においても、明治期から第二次大戦までの間は、国家神道という実質一神教でした。
また、バハイ教では、多神教を包括する一神教になります。
このように、多神教と一神教は、相対的なものであり、本質的には同じものです。
ですから、多神教だから・・・とか、一神教だから。。。。などとはいえません。

現在環境問題に非常に熱心活動しているのは、ドイツやニュージーランドなどのキリスト教国であり、日本や中国、インド、アメリカなどは、むしろ環境への配慮が、ヨーロッパ諸国にかなり遅れをとっています。
そのことからも、質問者のれ論は、当てはまらないことになります。
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この回答へのお礼

>現在環境問題に非常に熱心活動しているのは、ドイツやニュージーランドなどのキリスト教国であり、日本や中国、インド、アメリカなどは、むしろ環境への配慮が、ヨーロッパ諸国にかなり遅れをとっています。
確かに現在環境先進国といわれているのはドイツを始めとするキリスト教国ですが、それは宗教に由来するものではありません。社会の発展の段階が異なるからです。中国やインドなどの発展途上にある国とドイツなどの成熟期にある国の環境政策を宗教で説明することは間違っています。
現在、日本やインド、中国などが、元々自国に育まれた宗教観にそって行動しているとは思いません。そうすることは自国の衰退を意味します。帝国主義の流れの中で、自国の体質を変えることができなかった文明がどのような目にあってきたかを考えると、その理由がお分かりいただけると思います。西洋と同じ経済の枠組みにある以上、その経済活動も同じものとなります。そして環境政策とは経済政策ですから、環境への取り組みも同じものとなってしまいます。
むしろ、全世界が同じ枠組みにあるというところに問題があるのだと思います。

質問者の考えはあくまで一つの指摘なのであって、理論ではありません。

>一神教と多神教は、固定的なものではなく、相対的なものでしかありません。
日本が国家神道という一神教であったのは欧米からの圧力という環境に対応するためです。このように環境の変化に柔軟に対応するのは多神教である証拠です。(ですが、戦争をしかけられた国がそれに対応するために一神教に変化するというのは興味深いことですね。)
また、キリスト教が一神教は一神教であるという事実はかわりません。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/30 20:47

宗教に関わらず、G8、G20でも善いのですが、新しいルールを構築すれば済む事で宗教に拘る必要がないことを自覚しましょう。



本件は、旧約聖書に関して情報を聞き出したかったのでしょうか。
こんな危ない情報は、後日、勉強会にでも。

明治維新は、旧約聖書によるもの。
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この回答へのお礼

本件は、アニミズムというものに対して、一神教というものが有史以来どのような関係にあったのかということを言いたかったのです。その国の宗教に関わらず、全世界が同じレールの上で動くようになるまでの過程について、皆さんの考えをお聞きしたかったのです。

お礼日時:2011/06/01 22:17

こんばんは。


無軌道な大量消費は、むしろ無神論者のような気がしますが。
少なくとも日本ではそう思います。

確かに日本と、西洋諸国では自然に対する考え方が根本的に
違うようです。

日本では、自然はできるだけそのままの姿の方が美しい、と
考える人が多いと思いますが、あちらでは逆のようです。

科学の力で、自然を自由自在にコントロールできる時代がくる
などと公言するくらいですから。

日本の自然は恵まれているといいますが、良いところばかりで
なく、台風・洪水・大雪等、恐ろしい面もありました。
これらは人間の力ではどうしようもありません。

だから、神格化されたんです。
恵まれているだけでは、あって当たり前のものでしかないと
思います。ありがたみがないのでガンガン消費するように思い
ます。『たくさんあるじゃないか』と。

自分は、金儲けばかり考えている無神論者が宗教を利用して
利益を上げているように思います。


キリスト教は信者ではないので分かりませんが、以前に本か
何かで『武力で他宗教を弾圧するのは、「敵を愛せよ」という
イエスの教えに反しているのではないか』『イエスは自分を
神だとは一言も言っていない』等の事が書いてありました。

大分変わってしまったのかも知れません。

日本でも、最初、つまり教祖といわれる人物は奉仕活動をして
いたのに二代目から金儲けをするように変わってしまった。と
いう宗教は多いようです。
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この回答へのお礼

確かに、一神教信者と多神教信者のほかに無神論者という存在を考えてみる必要があるかもしれませんね。

新興宗教について、二代目は一代目から何を受け継ぐのかというのはとても大事なことです。人々の不足に応えるために起こった宗教であっても、2代目がその核となる重要な部分ではなく、肥大化した組織をまとめるノウハウだけを受け継いだとしても、その宗教は続いていくでしょうから。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/30 18:47

キリスト教もイスラム教もユダヤの親類みたいなものですから、この世の殆どはユダヤ教系の宗教に支配されているといえるかもしれませんね。


これらの特徴は世界(この世)の全ては神が創り出したものであり、人間はこの世においてこれを支配するものだという認識がありますね。
特にキリスト教は、他の宗教を排する為に悪魔という存在を作り出し、対抗するイスラムやユダヤも悪魔という存在を作り出して自己の繁栄を目指したと欧米の一部宗教学者や考古学者は考えているようです。私もそうではないかと考えています。
原始的なユダヤの教えでは、悪魔という存在はありませんし、ジハードも元は自分の心の中の「邪」との戦いを意味する言葉だそうです。

キリスト教やユダヤ教では世界は神と人間との関係でしか説明しません。
だから悪い事も神と人間との関係でしかない、だから“与えられた”試練なんです。

世界は人間が繁栄する為にあるもの、だから全ては人為的に統治しなければならない。
それが世界の根底に流れているのかもしれません。
だから世界の統治者である人間の生活を崩す事はありません。

人間は統治するもので動物とは違う。だから性行為などはもってのほかだというのがあります。
最初この事を言い始めたのは一部の宗派だけでしたが、今ではキリスト教全体どころか世界が迎合しています。
でも彼らも結局子供は作り続け、中には子供は5人も6人もいる人がいます。不思議ですね。

人間本位で考えるから災害も試練であり、神は助けてくれるものだと考えるのです。
地震も災害も自然めせんで見れば地球の営みで、タマタマそれが人に害になるだけです。
川の氾濫は人の命を奪いますが、かつてエジプト文明が栄えたように、氾濫は肥沃の土地を作り出します。
丘の上に住んでいれば安全なのに、通うのが億劫だからとわざわざ崖下に住むから氾濫被害に遭うのです。

神は進むべき道を示してくれますが、別に助けてはくれません。
自分達が努力し、行動するから、そこにわずかばかりの神の手が加わるだけです。
人は困難を乗り越えてこそ進化します。
神の助力は大難を小難に小難を無難にというものです。

と、カトリックである私は考えています。そして、私はある神父に異端だといわれました。
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この回答へのお礼

>神は進むべき道を示してくれますが、別に助けてはくれません。
自分達が努力し、行動するから、そこにわずかばかりの神の手が加わるだけです。
人は困難を乗り越えてこそ進化します。
神の助力は大難を小難に小難を無難にというものです。

この一節がそれまでの文脈から少し違和感を感じたのですが、やはりカトリックの方でしたか。
個人的に現在のキリスト教と原始キリスト教、そして本来のイエスの教えというのはそれぞれ異なったものだと思います。そしてその中には素晴らしいものと、そうでないものが含まれていると思います。その中から自分の考えに従って信条を構成していくというのは大変なことかもしれません。特に日本に住んでいる方はそういった問題に突き当たることが多いのではないでしょうか?ですがそういった柔軟な姿勢が加われば、と日本人である私は思います。
御回答ありがとうございましたm(_ _)m

お礼日時:2011/05/30 18:34

同感ですね。


キリスト教文明圏は、厳しい自然環境の中から産まれた
為でしょうか、自然を人間が克服すべき敵のように見ていますね。
少なくとも、人間は神に似せられて創られた特別な存在であり
自然は人間のために存在する、としているようです。

これに対して、優しい環境に産まれた日本人の宗教観は
自然を、我々人間の仲間、人間も自然の一部とみて
自然と調和していこうとしています。

「宗教はその地域の自然環境と切っても切り離せないものであり、
本来は地域ごとに柔軟に変化していくものです」
  ↑
全くもってその通りなのですが、困ったことに彼らは普遍主義を
採っています。それはユダヤ教がユダヤ人の為の宗教でしかなかった
のに、ユダヤ教から派生したキリスト教は、対象を全人類まで
拡大したことに起因します。
そして、世界は欧米キリスト教文明圏が支配しています。

実際は、こんな単純な図式ではないでしょうが、根底にある
考え方としては御指摘の通りではないでしょうか。
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この回答へのお礼

多神教の国では自然と人間が一体のものという捉えかたです。そしてその自然の中に神聖なものとの一体感を感じているのだと思います。
ところが一神教の国では自然と人間とが明確に分かたれています。自然のなかに神聖なものを感じていたとしても、それは自分とは分かたれた存在です。それは耐え難いような不安定な状態だと思います。それを補うものとして、神聖なものをこしらえる必要があったのではないか、と思いました。だとしてもそれを否定する必要は全くありませんが。しかし、一つの宗教がその対象を全人類まで拡大することに対しては賛成しかねますね。
御回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/30 18:12

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