個性にも「外見」と「中身」があると思います。
世では、中身の個性のほうを大切にしようという感じですが、よく考えると言葉とか思考とかには個性はないんじゃないでしょうか?
そもそも言葉は伝えるために生まれたわけですから、個性はむしろ邪魔なんじゃないですか?
たいていの日本人には日本語意外通じないし。
で、言葉の組み合わせである思考や知識には、個性がありそうですが、例えば、ここで僕が自分の考えを発表したら、それは自分だけものではなくなりますよね?
伝えなければ意味は無いし。
と、いうことは、つまりは「真の個性」が「唯一」という意味ならば、やっぱ生まれもってのもんが基本ではないですか?
とここまで書いてて、なんか根本的なトコが間違ってる気がします。が、ハッキリわかりません。
どうですか?
No.1
- 回答日時:
人間においては、内面と外面を合わせたものを「個性」と呼ぶのだと私は判断しています。
言葉は道具ですが、使う人によって受け取り側の感情や評価は変化します。逆に、受け取り側の「個性」によっても変化します。
と言う事は、「ありがとう」という言葉1つをとっても、素直なありがとうなのか、よこしまなありがとうなのか、社交辞令としてのありがとうなのか、といったような感情面での変化が予測されるのです。
その点があなたのおっしゃる「邪魔じゃないんですか?」という点につながるのだと思うのですが、人間が「感性」というファジーな思考回路をもつ生き物である以上しょうがない、というか必要だと私個人は思っています。だって微妙な勘違いが楽しかったりしますからね。時に事件も起きますけど、事件を起こさないような「個性」の教育が大切なんだろうと・・・。
私個人は「個性」は変化すると信じているので、生まれついての「個性」が死ぬまでそのままと言う事はないと感じています。
では、「個性って何?」ですが、私個人は「自分以外の人間からの自分への評価」だと思っています。
つまり、「私はコレが好き」や「俺はこう生きる」が個性なのではなく、「あの人はアレが好き」や「あなたはソレが好きだよね」とか「あの人は口が悪い」とか「あの人は優しい」が個性なんだと思っているわけなんです。客観的評価が「個性」だとすると「個性」は内面と外面を合わせたものになってしまうんです。
あくまでも私個人の意見なので参考にはならないと思いますが、そんな風に思いましたので書かせていただきました。では。
あ、そうか「感情」をすっ飛ばしてましたっ(>_<)
思考ばかりが人間ではないですよね。
しかしまた、「個性的な感情」ってのもよく考えるといまいちグッときません。
感情も数えるくらいしかないんじゃないの?
とも思えますねー。
ようは言葉も思考も感情も「組み合わせ」がポイントなんでしょうか。
組み合わせの妙こそ個性?
「自分以外の人間からの自分への評価」というのはなるほど、そうだなぁと思いました。
自分だけ自分を個性的だと思っててもしょうがないですからね。
mktoolllさん、変な質問に答えていただいて、どーもありがとうございます。
No.2
- 回答日時:
>なんか根本的なトコが間違ってる気がします
そんなことはないと思われます。ただ何を質問したいのかが明確ではないだけでしょう。しかし、私には少なくとも興味ある問題ですので、ここでは「言葉における個性とは何か」という観点から、「外見」と「中身」を考慮に入れつつ概略的に考え、私なりの回答をしてみたいと思います。
まず始めに気をつけなくてはいけないのが、ここで「言葉」と言われる場合に、どのレベルの「言葉」を考えているのか、ということです。単にある意味を伝えるだけならば、単語という「言葉」で十分でしょう。「シニフィアン」と「シニフィエ」と言われるように、一つの言葉を「意味するもの」と「意味されるもの」として、「記号」と「意味」としてここで言葉を語るのであれば、確かに決まった意味しか表さないのですから、個性はないのだと言えましょう。たとえば、「パソコン」という言葉で表される意味が「パーソナルコンピュータ」であるという共通理解のもと、我々の日常のコミュニケーションは成り立っています。この言葉(記号)にはそれを使用する人間の個性はありません。交通標識も同様に、各人がそれぞれ違った理解をしていてはならず、記号が表す意味は常に一定であり、非個性的なのです。
しかし、ご質問では「思考」の「伝達」が問題となっているようですので、ここでの「言葉」とは文章により思考を伝達する言葉なのでしょう。するとここでは「中身」とは「内容」であり、それを包含するケースが「文体」となります。もし仮に個性がないとすれば、多くの作家は必要ないでしょう。皆同じ表現しかできずに、かつまた同じ内容しか言えないのであれば、いろいろな小説を読む楽しみもなくなってしまいます。それぞれの小説家がそれぞれ異なった表現様式を持つのは、それぞれの体験と思索の結果、あるいはその生活環境によるものであり、各作家が抱えている問題やテーマも人生の境遇に左右されるので、必然的に表現される内容も違ってくるものです。
また、言葉における個性が生まれまってのものかそうでないかという議論も、それにより解決されるでしょう。ある人間が使用する言語は生来のものではありません。アメリカ人でも日本語しか話されない環境(日本)に生まれ育てば、英語を話せない日本人となります。言語習得は後天的なものであり、我々が使用する言葉は、我々がどのような環境で育ったかに左右され、そこには人生経験と同じように個性が表れることになります。
ということで、言葉すなわち「文体」と「内容」には、個性があると思われます。
以上です
な・なるほど!
単語のように、文章になったりするときの「内容を形造る要素」みたいなもんは個性があったらうっとうしいから、どんどん意味の無い抽象的なものになっていったんですね。
「木」なら楠でも松でもなんでもいいし、「楠の木」ならどんな楠の木でもいいということですね。
個性を無視することで伝達がうまくいきます。
ということなら、言葉ばかりを追いかけるということは、個性を無視し続けるということに近いと言えるのでしょうか?
すこし怖いですね。
arspoeticaさん。どうもありがとうございます。
とてもよくわかりました。
No.3
- 回答日時:
いや、僕も「外見」と「内面」には興味があって、最近よく考えているんですが、僕は「内面なんてない」ってのが今のところ結論になっています。
自分を振り返ってみてこれまで自分オリジナルな発言ってあったでしょうか?全て何かに影響されて誰かに影響されています。
それから「個性」というのはたとえば「やさしい人」でもなんでもいいのですが、僕は好きな人にはやさしいですが、嫌いな人にはつめたいです。このように相手にとって個性とは変貌する。
又、気分のいい時は人当たりがいいが、自身を喪失した時は引っ込み思案になる。或いは凄く好きな人の前では全然話せなかったり。
結局、場面場面で全く異なった行動をとりうるのが人というものなのではないでしょうか?
又僕は草野球Aチームではうまい方だが、Bチームではへたくその部類。つまり、グループのレベルや性質によって自己は相対的に評価される。個性とは相対評価である。グループによって異なる物差しがある。それを個性と呼んでいるのなら生まれつきの絶対的個性など意味があろうか?
但し優劣は歴然としてある。個性ではなくて優劣がある。明らかに多くの知識をもつものと持たぬ者は違う。センシティブな人と鈍感な人は個性ではなくあるラインの優劣である。面白い話ができる人と出来ない人には優劣がある。
そして速度の違いはあれ人は学ぶ。そしてその「学ぶ能力」にも優劣がある。生まれもってそういうIQ的な優劣はある。が、学習量や思考や或いは逆に無思考が能力を飛躍させることはある。
全くおっしゃる通りで世に言う個性はじゃま以外の何者でもない。優こそ求められる。
ああ、スゴクよく解ります。
僕もかなり相手によって人格というか性格を使い分けてます。それはもう二個や三個じゃなくて、出会う人出会う人で全部違うと言っちゃたほうがいいくらいです。意図的なのもからどうしようもないもまで色々ですよねー。
いったいオリジナルはどれだろう?としばし悩みますが・・最近では、実はこの状態が当たり前じゃあないの?と開き直ってます。
しんどくない?と聞かれたことがありますが、楽です、むしろ。
で、本題ですが、
結論は世に言う「ナンバーワンにならなくていい、もともと特別なオンリーワン」の反対ですね。
知恵も作品も、一番最初に考えだした人こそ評価され名が残り「個性」といわれるのなら、まさにそうですね!
MONKEYMONKEYさんありがとうございます。
キッパリした回答でよかったです。
No.4
- 回答日時:
言語学者のチョムスキーさんは、言語能力は生得的であり、あらゆる言語に共通する「普遍文法」が存在するとおっしゃとります。
このおっさんの考えは、あらゆる国の言葉の個性の中から、"普遍的なものがあるから、通じるのかも知れない"、と思いたったかは定かでないが、生成文法理論(あるいは変形生成文法と呼ぶ)っていうのを考えました。
そもそもの言語の起源ってものをチョムスキーさんは次のように考えてみました。
言語は、生物学的な基盤を持つ「言語器官」(脳と肉体の会話機構が連動したもの)の産物である。
つまりですな、言語は、人間の持つ脳の認知構造が深く関わっており、それはどの人間にも存在する普遍的なものだぜ、っていっとるんや。
しかも、その普遍文法を変形させることで、人間は、様々な"個性"をもった言葉をしゃべることができるんだってさ。(チョムスキーさんの考えは、言語を生物学的視点から取り扱っているために、彼の考えの証明はまだできていない)
あなたの考えてることも、もしかしたら、このおっさんの本を読むと少しは納得するのかも知れんのう。
(ただ、このおっさんは反戦の本も大量に書いていて、日本ではむしろ、そちろの方面で有名)
参考URL:http://rootless.org/chomsky/
普遍文法かー。
なんかありそうですね。
だって、通訳さんは全然ちがう言語の橋渡ししてますからね。
そういうことが可能なんだから、人間の中にそういうもんが、もともと備わってると考えたほうがよい気もしますね。
どっちにしろ、この問題は自分の手には負えませんな(-_-;)
変形させかたが個性ですかー
正直よくわからん・・・
このおっさんの本読んだほうがはやいですね。
BadCompanyさん、どうもありがとうです。
No.5
- 回答日時:
伝言ウンヌンという切り込み角度ですが。
それなら、まぁ、日本語が日本人の個性を作っているとも言えるわけだ。言語が、人間という存在の個性を作っている。という事は、自分語があれば、それが自分の個性を作ってるといえる。
つまり、バイリンギャル(ギャル?)じゃなくても、自分と話せれば、(こうやって「台詞」にすると頭の痛い人かもしれないが、)充充に、宇宙人やっていけるってことらぁ。って言うのはウソで、まぁ、宇宙人であろうがなんであろうがってのがホントです。
まぁ、そういうことで、
堂々でヨシ。
この思索の次段階は、自分語って何よ?
ってとこになるのかなぁ。いちおー。
以下は参考になるかどうかはわかりません。
だから、意味もあまり感じないと思います。戯言みたいなもので。
>やっぱ生まれもってのもんが基本ではないですか?
これは何の基本にもならんですね。(それに、生まれてからのものが、今も変わらず在るって言う場合なら、それは情報になる。言語的だということです。)
根拠が開示できないから。開示できていないことを基本にして思考すると、なんというか、ウォータースライダーを途中から滑るみたいに、塩梅がよろしくない。(おそらく意味があまり通じていないだろうが。たぶん、あなたの言う基本とやらが、開示できない存在であるということが理解されていないから)
自分語もそうなんだけど、開示できない根拠に辿り着くこと、それが、テツガクです。なんて、たんか切ることもできる(^^。
これは、考えれば考えるほど、浮上できないほどにもぐっていくタイプの疑問です。
ハマるという疑問です。
でも、ハマってからでないと、テツガクしたとは言えない。科学情報を表面からナデナデしてることは、テツガクではない。
問いに落っこちてしまうこと。
それがテツガクではないでしょーか。
さいごちょっと離れましたが、
軽い結論を言うと、生まれ持ったものを基本にするなら、それは別に人間でもあなたでも、石ころでも太陽でもなんでもないわけです。
石ころと、あなたと、人間と、太陽と、諸々の存在を、分けるもの(ものでも関係性でもなんにしても)が見あたら無いから。
突き詰めれば、生まれてるのか生まれてないのか、それを分けるものすらも見当たら無い。
「問いに落っこちてしまうことがテツガク」ですかー
ウーム・・僕はめんどうなことや、グチャグチャした考えから早く解放されてスッキリしたいと強く願う者です。
でもなかなか、スッキリはやってきませんね(-_-;)
ま、いつか、スッキリするまでは止めませんが・・
ゲームみたいなもんです。
Dragon_Brainさん、ありがとうございます。
No.6
- 回答日時:
>よく考えると言葉とか思考とかには個性はないんじゃないでしょうか?
今ベストセラーになっている 養老 孟司さんの
「バカの壁」という本の中でも養老さんが同じ
ことを言われています。
個性の教育などというが、本当にみんな
個性的だったら、むちゃくちゃになる
っていうんですね。
養老さんはもう一歩進んで、マニュアル人間
の何が悪いのか?と書いています。
マニュアル人間はマニュアルがないと何も
できない、個性のない人間だから人間と
してよくないという事が言われますが、
裏を返すと、マニュアルさえあれば、
どんなことでもできる、つまり他人の
指示がよく理解できる人間で、人間
社会の中ではマニュアル人間の存在
のほうが必要だというのですね。
ただこれは私の意見ですが、
養老さんは、マニュアル人間
の頂点にたつお役人体質の
人材が育ちやすい東大で学ばれた
方ですから、個性の真意と重要性
が理解できないのではと思います。
昔、音楽家の坂本龍一さんが
確か、誰かの音楽の盗作問題
について語ったときに、自分は意図して
盗作などしないが、それでも厳密には
自分の音楽も90%は過去の音楽家
からの盗作だと言われていました。
全ては過去からの積み重ねで、
本当の個性の部分はほんの一部
ということです。
でもそのほんの一部の重要性を
忘れてはならないというのが
要点です。
>例えば、ここで僕が自分の考えを発表したら、それは自分だけものではなくなりますよね?
情報は共有化されますが、本当に個性ある
考えなら、「だれだれの理論」みたいな
形で残るでしょう。
アインシュタインの相対性理論は、今では
多くの人に知られていますが、誰も自分の
考えだとは思っていない。やはりアインシュタイン
の考えです。アインシュタイン以前は誰もそんな
考えにたどり着かなかった。
思想に個性がありえないなら、新しい思想が
生まれることもないはずですから、人間の
思想そのものに進歩はないはずですが、
実際には違います。人間の思想の進歩の
歴史は、次々と生まれてくる(以前にはなかった)
個性的思想の積み重ねの結果です。
参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106100 …
この回答への補足
個性について、思うことを適当に書いてきてしまったけれど、一つの結論として「個性とは組み合わせである」というのは、どうでしょうか?
言葉の個性とは「言葉の組み合わせ」
思考の個性とは「思考の組み合わせ」
感情の個性とは「感情の組み合わせ」
身体の個性とは「遺伝子の組み合わせ」
そんで
個人の個性とは「人生という組み合わせ」
どんな斬新なものも何かと何かの組み合わせでしかない。
アインシュタインの考えも、たまたま一番のりだったというだけで「アインシュタインの」でなくてもよかった。「名前」が付いてるから完全オリジナルっぽいけどそんなことはない。
もし「名前」がついてなければいような考えならばパクっても全然わからないし。
表現の微妙な違いも「言葉」という形にしたときには、例えば「にゃ」は「にゃ」でしかない。
そこに作者のどんな人生がにじみ出てても「にゃ」は「にゃ」。
と、ここまで無理矢理もってくと、ほんとに「中身」に個性は本当にあんのか?という気になりませんか?
なりませんね(-_-;)スイマセン・・。
しかし「外見」はこんなにもハッキリ個性があるというのに。たしか声さえもひとりひとり違うんでしょう?まさに世に言う「世界にひとつだけの花」
まだまだ意見が欲しいです。
どしどし回答ください!
養老 猛さんの本は、前に友人に薦められたことがあって「厚くもないし、そんな難しくない」らしいですね。読んでみたいです。
ベストセラーなら小さな本屋にもあるでしょうか?
たしかに・・みんな個性的になっちゃたらイヤかも・・。
個性的とは、そもそも「共通」が大前提ですよね?
たとえば、サルに似てる人の顔はしばしば個性的と言われますが、人間のなかに本物のサルが一匹まざっていても、サルに「おまえ個性的なヤツだな」なんて言わないです。
容姿も人間ならだいたい同じだからこそ、「個性的な顔だね」とか言うわけで、この場合はふつう褒め言葉ではないですね・・・。
個性ばかり叫ぶのはどっか変だけど、個性も重要なのは間違いないと、、いうことですね。
なるほどー。
apple-manさんご回答ありがとうです。
ためになりました。
No.7
- 回答日時:
♯3です。
「中身はない」派です。我々は何か「中身」みたいなものがあってその思いのたけを言葉にして発していると認識しているが、それはもしかしたら間違いで、「発言・行動」は、「ひざの皿の下をたたくと足があがる」のごとく、「反応しているだけ」なのかもしれない。「意志」なんて実はあると錯覚しているだけで、反応の連続が映画のフィルムのようにあたかも連続しているように錯覚しているだけではないのか?毎度のその反応に統一性なんて確固たるものはあるのか?なんとなく他者の目にうつる発言・行動の傾向を勝手に「アイデンティティ」と呼んでいるだけで、中身なんて実はないのではないかと。「発言・行動」は個性によって決まっているわけではなく、毎度「選択肢」があるわけだから傾向(=個性)は「結果論」でしかなく、個性が行動を決めるのではなく、行動の結果を個性と呼んで分類しているに過ぎない。そしてその分類は主観的かつ相対的なものでなんの拠り所(ものさし)もない。であるならば、「中身」と言われるものも「容姿」と全く同じで他人に「観察されるもの」であり、結局中身なんてなくて全てをひっくるめて「外見」というべきではなかろうかと。そしてその性質はちょうど服を着るのと同じで「プリテンド」できるたぐいのもので着替えることができる。なので中身の個性と言われているものは実は外見であり(発言・行動されて始めて存在する)、正体としてはちょうど「服」的なものではないでしょうか。「服」の個性は...おっしゃる通り組み合わせだ。そして材料はかぎられている。革か綿か麻か。色は赤か黒か黄色か。又、TPOに合わせる。個性は服だ。
またしても過激な「反応」ありがとうございます。
個性どころか「意思」「選択」も怪しいもんだと!
映画のフィルムみたいなもんと!
実は、みんな「後付けされた価値観」ではなかろうかと!
いやーとても面白いです。びっくりです。
連続こそいわゆる「自分」ですよね。
で、連続してるように感じてるのが錯覚だとして、それに気づいても、それを「意思」の力で止めることは不可能ですよね?たぶん。
マトリックスじゃあるまいし。
手術でもしないかぎりは。(手術でも無理ですか?)
で、手術で出来ちゃったとして、、、
された人はおそらく、もう「自分」という意識を失くしているわけだから、自分が自分を失くしたということもわかんないんじゃないでしょうか?
となると、そういうものはもう錯覚とは言えないような気もします。錯覚じゃすまないというか。
「そういうもん」としか言えないもの。かな?
いやーすごく考えさせられました。
ありがとうございます。MONKEYMONKEYさん。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
死ぬ気で、そのゲームみたいなもんをやれるなら。
まぁ、すっきりするかもしれない。
「ま、いつか、スッキリするまでは止めませんが・・ 」
ってゆうか、止めれんのでは(^^。
思うに、君はもう落っこちてる。
個性をなくすことと、最初から無いことと、個性があったのに無くなったことと、これらは皆、違う事態の説明です。
特に三者目の場合、裏をひっくり返せば、表ではないってことなんですね。元に戻ったのではないということです。
本を紹介しようかーとも思いましたが、一応しとこうかな。
僕、ぱらぱらと、今日読んできたばかりなんですよ。
「論理哲学論考」
すこしタイト(密着)すぎるかなという感もありますが、そんなことを気にしなければ、理解できるでしょう。本文の解説も、訳者解説と、ラッセル解説と二つもあります。
だから、本文が意味不明なら、解説を読んで、それから本文を読むと、わかりやすい。
薄い文庫本で(会社は忘れた)、箇条書きのように進んでいく論文です。
いわゆる、「自分」というものの位置づけも、明確に論理空間においてなされています。
で、ことばにも色々ありますが、例えば数字。
2をあげましょう。2に、個性はありますか?
ってなことも、考えれるわけです。
1から2のあいだは、2から3のあいだにはない。
とか、でも、1と2の間は、2と3の間と等しいとか。
だけれども、2は1とは違うし、3とも違う。
2には、2にしかない確たる個性が在るともいえるわけです。
しかし、2は、れっきとしたことばです。
この場合、ことばにも個性が在るといえます。
私が、2もって来てよ。といって、あなたが1をもってきた。
だけれど、あなたにとっての2は、私にとっての1であることも在るわけです。
たまたま、あなたの2と、わたしの2が、意味が壊れない範囲で機能しているというだけとも言える。
だから、論理哲学論考の著者は、「論理に偶然は無い。だから、俺は論理で挑戦する。」
こういうわけです。
論理において、「かもしれない」
という可能性は、「ありえること」
つまり、事態として、その存在を認められるからです。
私が、ワニに、猫パンチをさせたという事態も、論理的にはまったくもって、正当なわけです。
しかし、ドロップキックはマイナス五匹の砕けた牛乳だぜ!っていうのは、かなり意味不明なわけです。
こういうことが何故意味不明なのか、そのようなことも、その本には明確に論じられています。
なんだっけな、論理形式があるということだったかな。
ドロップキックと砕けた牛乳と、マイナス五匹は、その文全体の見渡して、論理形式を共有できないからつながらないわけです。
ありえることは、論理においては事態として存在を認められます。
しかし、意味不明なことは、意味不明のままに転がっているわけです。
案外、私達の生とは、-五匹の砕けた牛乳がドロップキックかもしれません。
なんつて(--)。
あははははははは
だぜ!ってのがいいですねー(^^)
なるほどー!
すごく面白そうな本ですね。探してみます。
ありがとうございます。
たしかに2は2以外に言いようがないですよね。ほぼ世界共通ですし。その点では個性ありますね。
言葉のなかでも数字はちょっと特別みたい。面白いですね。
いやーDragon_Brainのおっしゃる通りかもしれません。
このまま止めれんのかも、、、(-_-;)
今回「個性」なんてのを疑ったりなどしてるけど、よく考えたら、じつは個性ほど「好き」なものはないわけでして、、、
個性を求めるあまり、その抑制がきかないために、おかしなことになりはしないか?
と考えています。
例えば「論理で挑戦する」のは完全な人為だから、それを自覚してあえてそうするのか、その自覚がないのかで答えも、そして脳みそ自体も、違うものになっちゃいそう。
この本の著者は、あえてそうしてる方っポイですね。
No.10
- 回答日時:
言葉自体に個性は無くとも使い方には出てきますよね。
例えば自分の事を「おいどん」と呼ぶとする。九州男児なら納得できますが東京生まれの人間が使ったら個性的な気がしませんか?しかもそれが女性だったらさらに個性じゃないですか?
考え方にもあるはずです。
「おいどんは東京の生まれの末娘でございます。今年17才になり、来年には選挙権を父上から頂いての選挙参加をしたいと考えております。みなさんも御一緒にどうですか?」
とHRで自己紹介したとして、誰も納得できなければ意見を発表したところで思考の共有はできませんから個性が存在するものだと思いませんか?(変人に収まり個性とすら言ってもらえないかも知れませんが)
思考のみには言葉がありませんけれど言葉を用いての思考結果→考え方や、言葉の使い方などには個性は有り、それは生きながらにして備わるものも有るんではないかと思うのでした。
共有できないような言葉の羅列は個性的なのに、まったく評価されませんよね(^_^)。
共有できないんだから、あたりまえでがすが、、。
共有するかしないか、共有が起こるか起こらんのかは、かなり曖昧な表現ですが、「社会が決めている」んじゃないでしょうか?
共有がなければ、それは社会にとって、個性以前に「存在しない」のに近いような気もします。
難しいですね。
mukudoriさん、ありがとうございます。
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