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 我々が何か他者に訴えかけようとするとき、「理屈で語る」のと「物語で語る」のとどちらが効果的なんでしょうか??
 例えば嘘をつかせないようにするとき、「嘘をついてはいけません」と言うのと、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」と言うのとどちらが効果的でしょうか??
 ちょっと漠然とした質問で申し訳ないのですが、文意を読み取っていただけると助かります。よろしくお願いします。

A 回答 (25件中1~10件)

すみません、 話が中途半端なままでしたので、なんとかはやく続きを書こうと思ってはいたのですが、



ある論争で、こちらに来る余裕はありませんでした。

一見、その論争は醜い争いにも見えてしまうかもしれません。 あるいはそのように成り終わってしまった 失敗にすぎない賭けでしかなかったかもしれません。

しかし、なんとかですが、 結果 大人どうしの哲学の火花、真剣な火花の一つであることは若い人たちにも示せるとことまでは こぎつけたかと思います。

子ども達には、まず寓話とかを通しての またストレートの道徳規範の徹底が必要な時も多々あるかと思います  しかし 基礎教育を終えた「人生認識」の段にての教え教わる世界は 一方的なものではなく すでに火花のような哲学の課題となり論争ともなるべきことを 私は ドキュメントとして    出きる限りの出きることを試してみるという形で   ある賭けに出たということです。

そこまでの理解は 求めていません。 そういう悪人?の行動です。

あるいは演技です。

しかし、肝心な点で 結果失敗しています。 演技ではなく悪を犯してしまった結果です。

したがって 反省と自粛の意味からも すくなくともしばらくは(何年かは) OKウェブから 去るべきと考えています。

又、

今の時点では、 ここに書こうとしていた虚構(価値あるはずのイメージの力によるその善用の世界)の世界の中の ミイラ取りがミイラになったような嘘の世界、についてと、   ドキュメントにおいても嘘はある(とある戦争での 同じ火災のテレビでの映像の敵の仕業という主題での報道の実例をもとにしたものです。)という話を基にした、  主題の真実、 言葉(詩と記号)の真実、 ドキュメントにおけるその真実とは何かのお話を する資格がわたしにあるのか 私は今 私自身をうたがっています。

主題が大切だということです。 そこに真実が深ければ そこに真心が深ければ 虚構もドキュメントも その程度において真実となります。 そう言いたいのですけども…。



そのへん、まだ 醜い争いの渦中に見えるような地点なのですが、

その論議の わたしが謝っている部分にて No29の回答に、 もしや そちらが見てくだされば     と思って書いた文があります。

そちらには、この内容を なぜか技術のあたりについてまで すこしつっこんで書こうとしていたものです。 

ドキュメントについて、 演劇や映画が始まった頃の新鮮なエネルギーや真剣な魂たちの世界の時代のひとり、オブラスツォーフの考えの重要な部分を書いています。

是非 読まれてみてください。



専門家と自称しながら、くわしく書けないですみませんでした。

でも せいいっぱい、こんな形ですが、筆を伸ばさせていただきました。
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この回答へのお礼

 しばらく体調を崩しておりました。返事が送れて申し訳ありませんでした。この場を借りて皆さんにお礼を申し上げたく思います。
 参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/23 17:28

 ANo.13へのコメントを受けてです。

新年を ともに 寿ぎたいと存じます。今年も よろしくお願いいたします。

 全体として baka-hageさんは 《他力の中の自力》(諸行往生)のことをおっしゃっています。《絶対他力》のことを 主要な信心とすべきだと考えます。これを理解するには そしてその理解の伝達には 理屈で語るのも 物語で語るのもあるけれども 理屈での理解が 基礎になければ 無理だと思うという見方であり 回答です。

 ★ 「来迎」は諸行往生の者のためのものであり、真実の信を得たもののためには「来迎」はないともしています。
 ☆ 後者が 主体でなくては おかしいでしょう。《〈来迎〉から自由となった者には 来迎があっても なくてもよい》という理屈です。

 ★☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >>どちらでもよいことだと理解しますが いかがでしょうか。
 どちらでも良くはありません。阿弥陀仏がどのような存在か?真宗学の曽我量深氏は「私達を救う働きを阿弥陀仏と呼ぶ。」と説かれました。けれども果たしてそうなのか?「阿弥陀仏が私達を救うために働いてくれている」のではないのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 来迎から自由の者には 《阿弥陀仏が 〈法則〉であるか 〈人〉であるか》は 問題にならないのと違いますか。人であろうと 法則であろうと 不完全な凡夫を 信心のさだまるとき 完全に 摂取不捨するというだけであり それだけで 決まりであるはづです。ほかに 何かをつけ加えるのは おかしいと考えますが?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・しかし、打たれれば共に痛いと感じ悲しければ共に泣いてくれる「人」ではない「法則」では私は救われないと感じてしまうのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ つまりは この文章が いわば《物語で語る》の例です。しかも それは 《諸行往生》という一段劣る往生の類型のことです。
  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・つまり、浄土教に当てはめれば理屈を理解したとしても人は「念仏」をすることはない。それに対して「物語」感動を持って情動自体に働きかけることが出来るのではないかと考えたりしています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも――省いたところで 脳科学の見識で述べておられますが―― 問題が 別です。
 来迎を必要としない者にしても 必要とする者にしても すでに 信心は 始まっており 念仏も出来ている場合に 物語で語るにしろ 理屈で語るにしろ どちらにも 理屈による理解が 不可欠であるというのが わたしの回答内容です。その信者が 理屈によっても 物語によっても 語るのです。その語りを聞いた人が 信心を持ち始め 念仏をおこなうかどうかは 
 ★ 理屈を理解したとしても 〔また 物語の内容に感動したとしても〕
 ☆ そのこと自体によってではありません。きっかけにはなるでしょうが それなら 物語のほうも 理屈のほうも 等しく そうです。決定的な瞬間は 弥陀仏からの摂取不者のはからいによるのであり はたらきかけを通じてです物語感動にもよらず 理屈理解にもよらず です。
 という理解を 物語で語ったり 物語の中に得たりするのは 至難のわざであるでしょう。こればっかりは 理屈による理解が――弥陀のはからいのもとに―― 不可欠だと受け取っています。

 まとめます。
 ○ 信心の成り立つ仕組みの理解は 理屈による。それを 理屈ででも 物語ででも 語る。
 ○ その理解は 信心の成ったあとの自己省察のような作業の結果である。
 ○ 理解にとっても その前に起こる信心の成立にとっても きっかけは 理屈および物語 いづれの方法の中にも ありうる。
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ON9です。



>なぜお釈迦様はそのような形態を取られたのでしょうか??なかでも、物語がもつ力は何でしょうか??もし、ご存知でしたら教えてください。

  まぁ~さほど難しく考えなくても良いのではないでしょうか、理屈で語っても解らなかった人には必然的に違う方法でと言う事で「物語で語る」ではないでしょうか、それで解る人の出てきた。。

>この「男性には理屈で。。  女性には物語で。。。」というのは、お釈迦様のお説教がそうであるからでしょうか?

よく判りません
ですが禅は男性的で真宗は女性的と言いませんか。
禅は自力宗ですから、理屈から入っていくでしょうから。

真宗は僧侶の話を聞くんですよね、余り理屈をようしなし。。そう言う意味合いで書き込みました。
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No6です。

 表現における嘘(虚構とも言われている)の世界の問題と 映像におけるノンフィクションとフィクションの問題について 質問のコメントをいただきながら、  回答 おそくなりました。

映像におけるドキュメント表現の世界は ナレイション(言葉での映像説明)との関りのあたりが 昔から深く追求されていたりするようです。

そのへんも 映像表現の中のおもしろい課題でありつづけていたりしますが、 そのことについては また書く機会があったらいう形にさせていただき、  映像の方も ドラマ(虚構)の方のモンタージュ(ドキュメントでも取材してきた映像を組み合わせて効果的に表現していきます。)について 私の知っているところをお話してみたいと思います。

映像も含め 閻魔様に舌を抜かれるような嘘つきとなってしまうような虚構(物語)とは?  あるいはその逆の物語とは?ということで、 その《物語るという技術》と《心》の世界を追いかけていってみたいと思います。

他の表現の勉強もかなりしてきたし考えてきた者といっても その中で専門は踊り心の世界です。  それも一人で追求してきたので 正しい意味で専門と呼べるのかどうか?

ともかく 映画のモンタージュの世界の勉強をしたのも、 踊りのそれを生み出す心の世界は 言葉以上に深い地点の映像をともなうイメージの世界の積み重なりや 組み合わせで 豊かになったりふくらんだりしっかりと大地をつかんだりして おそらく映画のモンタージュと同じようにして高まり深まってゆくのではないか? と 若い頃(その頃 すでに踊りの追及の道に入っていたわけです。) いくつかの映画をみたりしてるうちに思いつき、     

それをモダンバレーの先生に、 踊りの世界ではそのへんどうなっているのでしょう?と  質問したのですが、(最終的には直接にはふたりのモダンバレーの先生にたずねています。)  「 そういうことは 演劇の先生方がくわしい世界ですので、そちらで聞いてください」との返事しかもらえず、    実は そういったことから もちろん演劇の勉強もすることになり、  こうして 映画の世界にも 勉強の部分は首を突っ込むこととなった  ということにすぎません。

踊りの世界も、正直に言えば  いまでもたった一人です。  これは踊りの構成の世界には学ぶべき人とかを見出しても  なんといったらいいのか  踊りそれ自体の世界は、  その世界の主流といわれてる世界にしても、私には    なんと こんなにいっしょうけんめい追求してきたにに    まったく意味が不能のまま 理解できないでいる世界となってるんです。    自分が ひとりで進みすぎてしまった部分と 遅れている部分とのギャップとかがありそうなのですが、  このまったく違った世界に見える 現象のまえに、 踊りの表現の世界に関しては今のところまったく立ち往生しています。   専門家もなにもあったもんじゃないですね。

ただ、これだけは言えるかと思います。  舞踊史の 娯楽舞踊 宗教舞踊(儀式舞踊)表現舞踊という 3段階発展説は 完全に荒削りな史実認識の世界です。 なんでこんなに いい加減な論法なのか わたしにはこれは完全に疑問です。  間違っていると思っています。    昔の人を差別しています。 昔には表現舞踊も表現表出舞踊もなかったかのような  野蛮な精神しかなかったかのような?      詳しくはここではいえませんが ともかく それは間違っています。

話がそれたかのようですが、  ともかく 私の考えてきた舞踊の世界でなら 踊りの心の世界というものは その表出表現の世界に嘘というものは混じりえないのです。     絵でのタッチそのものの世界、 歌でいうならば 音声そのものの音楽にのった現れの世界には、同じように嘘は混じりえない ということになります。

演劇には しかし嘘は必須となります。 演劇で嘘がつけない部分があるとしたら、眼差しの部分です。 でも この文明社会にてはこの目もだましのテクニックの内となってしまいえます。    が、 本物の俳優の眼差しの その部分は親が伝える涙のように 真剣であり真実そのものであり、 それを通して 嘘を越えて 無意識的にも 何かのメッセージを伝える大事な部分となりえるところ、  眼差しの部分というのは、この場合音声(歌の真髄)や手先のタッチ(絵の線)や 純粋な表出表現舞踊のように、 嘘の無い世界と考えることは出きるところです。

しかして、 実は言葉は すべて嘘をつける記号の世界で出来ています。

そして ドラマ(演劇脚本)は 嘘(虚構)です。

本質的には 演劇は 歌や踊りとともにあってその真実をより高めるものとも私は思っています。(絵はこの場合すこし別な地点にあります、詳しくはここでは略しますが。)  でも その本質のためのミュージカルにはなっていないのが今のミュージカルの世界です。  今一です。

このへんは 映画でのミュージカルも おなじです。

演劇の世界で深いのは、 想像力をたくましくしないと役の世界を深く演じられない点です。

形だけをそれらしく真似る世界を 近代演劇では紋切り型といって嫌います。 それを克服する方法として考え出されたのが 有名な「仮定(もし)」の法則です。  “「もし」《わたし自身が》”その場その状況をそういう過程をへて生きていたなら   という「仮定(もし)」の想像力を働かせる。 ということです。   《わたし自身》が舞台にて、役を 実際に 生きる あるいは 生き示す、  という表現でも語られているところです。

これは、実は 演劇がうまくなる方法とかではないです。 あるいは最高の演劇論ともいえません。 しかし、この、近代演劇の始まった時に生まれた法則は、 俳優が役を演じる誠実さや想像への真剣さを生み出したという点では 最高の概念と私は思っています。

なぜ、映像モンタージュの世界の話に、 演劇の話が出てきたのかは、 よく考えてみればわかると思いますが 映画の画面をすくなくともそれが物語り(虚構である場合)において、最大に構成するのはその「近代演劇俳優」だからです。   

では、ここで始めて モンタージュの例を掲げて見ます。 モンタージュの説明でよく使われる映画の例です。

映画が始まる。 空からのとある街の美しいパノラマ。 パノラマは一瞬急降下、 街の一点が大きくなってゆく。  と

突然 一転してそこは街の片隅の

街角のとあるレストランの ありふれた窓から中が見通せる ただのロングショット 。

カメラはその店の窓に近づいてゆく。(ズームアップしてゆく)

中には 幾人かのお客さん。 その中に 楽しそうにおしゃべししている一組の男女の姿が、 カメラのピントも手伝って ひときわさりげなくだが目立つ。   

楽しそうだが 時どき 意味ありげな間(ま)も入ったりする。



と 男がたちあがった。 そっと 女性にあいさつする。 

そしてひとり、先に立って店を出て行く。  ふりかえり、そして店のそとに。

何気ない ただ それだけの光景。



そのまったく同じ 光景が 最後にもう一度映し出される という映画なのですが、

そこから始まったその映画は、 その男女の過去の出会いから 語り合い触れ合い 心をときめかしての デートの世界、 深まりへ   と時が過ぎていき  そこにさまざまなドラマがあり、

こうして 再び その最初の画面となり 終わるという映画だというわけです。

最初には 何も感じなかった同じ場面が  最後には ほんのふたりの間(ま)の演技にすら  深く 観客は心ゆすぶられ、 そして胸がじーんと熱くなるという  そういう 映像の組み合わせのマジック  これが、 有名なかの 映像モンタージュの説明に使われてきた   場面転換の理合いの世界です。

同じ場面が まったく同じ場面が 組み合わせと組み重なりによってまったく違った深さで表現を高めてゆく効果、 これを映像モンタージュといいます。

そのテクニックは今では 昔よりはるかに高度化しました。  

さて、 ここで一つの答えを書きます。

その映像技術の世界にては 今ではロボットに心があるかのようなファンタジーをその域を超えた表現にて 演出できます。  実際の感動を機械の映像が作ってしまえているのです。  でも  同じ表現者として わたし自身が《もし》閻魔様だったとしたら、そして その舞台にて即興の演技をするべく演出も自演するべき状況を 生きていたとしたら、 私ならば、 その映画の舌を抜いてしまう行為をそこに生き示すでしょう。

文字通り ファンタジー愛好者達へも 鬼となり、泣いてでも 表現者の魂がゆえに その映画の舌を抜こうとする演技を そこに 生き示すでしょう。

その代わりに それよりももっと 泣かせるロボットの映画を作り 人間はこんな映画も作れるよということも同時に示すでしょう。  それも虚構です。

しかし 私なら 私の舌は 抜かないでしょうし、  ただしい俳優がそれを演じ生き示す場合も 私を抱きしめてくれるだけでしょう。

虚構の世界自体が 進化しています。 真実の踊りも歌も絵もやがて明らかになって  ミュージカルも本物となり、 嘘は嘘でもそれはそのぶん「みつめられた嘘」 閻魔様に舌を抜かれない嘘へと進化してゆきます。

わたしは、真実を物語るものと言っても そこにごまかしがあることは嫌いです。   たぶん閻魔様も同じでしょう。    

閻魔様と 私の違いは、 実際には 私はそんなに怖くなんかない(キパッ)ということです。 (うtt 痛て!???)


 しーー 痛かった  まったく嘘ではなかったので 少し痛かっただけでしたが   もうこんな痛いのはいやなんで ( あ   あれ  この嘘は 大丈夫だったようです。) 

次には やっぱり ドキュメントの方も書かせてください。  嘘だと思われても すこし痛いので^^。(コメントおまちしてますね。)
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http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4347482.htmlで回答した者です。

前回のお礼欄でも似たようなことを書いていらっしゃって、少し気にかかっていたのですが、あの回答でわたしが書いた「物語」の説明は少し曖昧だったかもしれません。

もちろん使う人によって「物語」の定義も多少のずれはあるのですが、物語論でいう「物語」というのは、「むかしむかしおじいさんとおばあさんが…」という形式のものだけを指すのではありません。

> 我々が何か他者に訴えかけようとするとき、「理屈で語る」のと「物語で語る」のとどちらが効果的なんでしょうか??

ここでおっしゃられておられる「理屈で語る」というのも「物語」です。
「理屈で語る」のも「物語で語る」も、同じことであることを理解してください。

何かを説明しようと思えば、わたしたちはそれが現代の科学理論であろうが、古代の神話であろうが、そしてもちろんうそをついてはいけない、ということを論理的に説明するときであろうが、「物語」の助けを借りないわけにはいかないのです。

というのも、わたしたちは「物語」として現実のものごとを認識しているからです。

現実の出来事というのは、出来事というかたち起こるのではありません。わたしたちがそれに言葉を当てはめ、「初め」という切れ目と「終わり」という切れ目を入れて取り出して、初めて「出来事」として認識されます。
「初め」と「終わり」を統一的な意味のもとに位置づける。
これは物語の基本構造にほかなりません。
つまりわたしたちは人やものごとや出来事を「物語として」認識しているのです。

ですから、厳密さの度合いに差はありますが、古代の神話も、現代の科学理論も、基本的に同じ物語構造を持っています。

たとえばこんな例はどうでしょう。
駅で待っていても電車が来ない。そこでアナウンスがあります。
「××駅で発生した人身事故のため電車が遅れております」

この説明にはふたつの時間があります。
・人身事故があったt-1時
・電車が遅れているt-2時

t-1時とt-2時という異なるふたつの時間をつないで「電車の遅れ」という統一的意味を与えているのが「××駅で発生した人身事故のため電車が遅れております」という説明です。このときt-1時の出来事が原因、t-2時の出来事が結果となっています。
つまり、このアナウンスも「電車の遅れ」という出来事を「物語」の形式を借りて説明しているのです。

ですから、物語の助けを借りまいとするのなら

>「嘘をついてはいけません」

とだけ言って、その理由を説明をしないことです。
「嘘をつくと~となるから」という説明は、すでに、
・嘘をついたt-1時
・その結果が現れたt-2時
というふたつの時間を「嘘をつく」という統一的意味の下に結ぶことになるからです。

もちろん、物語の助けを借りない命令がある場面で効果を持つケースはあります。何らかの絶対的権威を背景に発せられた命令である場合です。

けれども通常の、人間が他者とともにあるような場合、自分でない他者に何ごとかを説明し、自分の考えに同意を取り付けようとする場面は不可避的に「物語」の説明を借りずにはいられなくなってきます。そう考えると、わたしたちと物語のあいだは、切っても切れない関係があるということになると思います。
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物語による理解というのは、理解するという意識とは別に心に残るとか、そういう面が大きいと思います。


なぜかというと、理解するということは、自分という体系のなかに、理解すべき新しい事実を組み込む必要があるからだと思います。自分という体系では、すべてのことが(論理的、科学的でなくても)説明されることで、成立しているのではないでしょうか?なんというか、五感を働かせてすべてが問題ないことを確認して眠る草食動物のように、説明され、自分という体系の中に位置づけることで、私たちは(動物としての)安心や警戒心をもって、事にのぞんでいるように思います。(だから、人は第一印象で人を判断したり、白黒やランキングをつけたがったり、コマーシャルをみて商品に良い印象や悪い印象をもったりするんだと思います。)

さらに、物語というとき、引用
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa39578.html
にもあるように、
・理解の仕組みとしての物語
・自己の存在を支える仕組みとしての物語
・そして、互い存在(物語)の間をつなげる仕組みとしての物語
があると思います。というわけで、物語が人とどうかかわっているのか、いろいろな場面で気になる問題だと思います。
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思考実験のモデルとして、操作しやすい方を見極めて、適宜使い分けるだけだと思います。



ただし、可能性と現実性を比べると、可能性の方が基礎的ですから(現実性の方が少ない・狭いですから)、実例を出す方が限定的になってしまいます。妄想の方が作り易いでしょうね。
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どちらでもいいと思います。

自分が言いやすい方が伝わると思います。
その時々で、理屈でいったり例えでいったりでいいと思います。
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回答番号:No.15です。

未だ締め切られておられないことを奇貨に:
 受けて側のことも、訴える側は考えるのでしょうね。
 理解し判るということは、話が分かったという限りでは、淋しいですものね。

 手品を面白いと思うにも、いろいろありますよね。
 騙し、騙されるだけの相。
 種と仕掛けがわかり、その巧みさを知っている、面白がり。演技と演出ですものね。

 ものごとの理解が見えたものの範囲内では、理解とはいえないとはいえないのではないかと存じます。
 やはりそのスクリーンや背景、ないしは経緯と向こう側が見えてこそ、理解といえよう。
 同感なき受け取りは、まったく理解としてはできていない。話し手は不満のまま、唇寒しである。
 見えない、ある流動の中で、それとともに理解してもらい、理解してあげるのでなければ、それは理解ではない。と存じました。
 根拠と差し向かうことが分かってもらわないと、そういう訴えでないといけませんよね。
 立脚の基盤や根拠と、価値理念もわかってもらう訴えであるべきだと存じますが。
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この回答へのお礼

 しばらく体調を崩しておりました。返事が送れて申し訳ありませんでした。
 参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/23 17:27

 No.1&8&13です。



 No.8&13を経て やはり No.1の《接触を絶やさず そのまま見守る》に還ります。

 《理屈で語るでもなく 物語ででもなく ふつうに交通する》 これが いちばん 有効であると考えます。

 余論です。
 たしかに 《すべてのことには 時がある》と言います。
 ところが――と言っても その原則をやぶるためではありませんが それでも 別の見方があるものです つまり―― 《時を得ても得なくても〔語る〕》とも聞きます。《相手の状態》がどうであっても これを問題にせず 語る。一方的にでも 語る。という情況も あるものです。

 そもそも 《訴えかける》のと《おしえる》のとでは 別です。
 baka-hageさんは 《他者に何か訴えかけようとするとき》として 《節談説教》のような《物語で語る》ことを 念頭にして おっしゃっているのでしょう? 新入社員の研修や あるいは 子どもにしつけを施すような問題ではないのでしょう?
 そのように《文意》を読み取るのですが どうなんですか?

 《おしえる》場合は ただ 知識と経験のみです。自分のちいさな範囲のものごとです。《訴える》のは 全人格の問題であるはづです。
 きびしいものがあって しかるべきだと思います。
 問題は 境涯です。
 その意味は 未完成であっても 向こう側からの完全なはからいにおいて 歩んでいるという境地です。これが すべてです。その上で 理屈も 物語も 時には いろんなスポーツや遊びも けっきょく 日常坐臥すべてにおいて 二十四時間体制の中で 訴えかけます。時を待ちつつ しかも 時を得ても得なくても。
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この回答へのお礼

 たびたび、ありがとうございます。
>>そもそも 《訴えかける》のと《おしえる》のとでは 別です。
 baka-hageさんは 《他者に何か訴えかけようとするとき》として 《節談説教》のような《物語で語る》ことを 念頭にして おっしゃっているのでしょう? 新入社員の研修や あるいは 子どもにしつけを施すような問題ではないのでしょう?そのように《文意》を読み取るのですが どうなんですか?
 確かに「節談」ということがないわけではありませんが、どちらかといえば「大乗仏教」ということも念頭にあります。また、仏教説話や、昔話、御伽噺に至るまでです。
 または人間の脳の構造にも興味があって色々調べていますが、人の脳の構造上「理屈」と「物語」、どちらが長期記憶に残るか?というのが念頭にあります。
 また後に御回答をあげていただいているので、またのちほど。ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2009/01/14 13:08

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