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神は全ての生物を支配しろと人間に言いつけました。
創世記:1:28
『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』

それなのになぜ神は人間に知恵の実を食べるなと言ったのでしょうか。神の様になれば他の生物を確実に素晴らしい状態で支配できると思うのですが……。逆に神の様にならなければ恐竜や象などの巨大生物には負けてしまうでしょうし、ウイルスなどの感染症によって他の生物を支配するほどの力を人間は手に入れることが出来ないでしょう。

神の様になった方が神の意向に確実に従えるはずなのに、神の様になってはいけない理由がいまひとつ飲み込めません。

どなたか、ご教授のほどをお願いします。

A 回答 (41件中21~30件)

私も、これについては疑問があります。


食べたのが「善悪を知る木の実」(知恵の実ではない)
である以上、それを食べる前は、
それを食べることも、神様の言いつけに従わない
ことも悪いことだとは、分からなかったと思います。
なぜ、これが罪になるのか私にも分かりません。

>神の様になった方が神の意向に確実に従えるはずなのに、神の様になってはいけない理由がいまひとつ飲み込めません。

これについては、新約聖書のほうに、神の奴隷になりなさいと書かれていますので、
神様が全ての創造主である以上、何も疑問に思わず(奴隷的に?)
従うのが、天国であり、神の意向ということだと思います。
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この回答へのお礼

<私も、これについては疑問があります。
<食べたのが「善悪を知る木の実」(知恵の実ではない)
<である以上、それを食べる前は、
<それを食べることも、神様の言いつけに従わない
<ことも悪いことだとは、分からなかったと思います。
<なぜ、これが罪になるのか私にも分かりません。
ここ、非常に鋭いです。善悪を知る木の実を食べることを悪と判断できなかったのですから、人間側に罪は無い、とも言えそうですね。悪いと知っていて食べたなら悪です。しかし悪いと知らないで食べたなら悪ではないと言えそうです。一方で人間は神様からは善悪を知る木の実からは食べるな、とも言われていたはずです。禁止されていたのに食べてしまった。それが悪いことではないでしょうか。

お礼日時:2011/07/15 06:01

「知恵の実」を食べてしまえば神をも疑います。


神の定義が疑われてしまえば、教団は困ります。

そういうことです。
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この回答へのお礼

確かにそういう考えるもあるかもしれません。
有難うございます。

お礼日時:2011/07/13 16:57

 No.10&15です。



 次の主題について説明を添えます。
 ★★(No.10お礼欄)~~~~~
   <神からすればアダムとエワとが善と悪とを知る木から採って食べることは分かっていたからです。

 初めて知りました。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ すべてのモノについては それらのあいだの相互関係を 因果関係としてたどればその事実の歴史が初めから終わりまで分かると見ることは出来ると思います。想定し得ると思います。つまりまづそういう意味で全知という属性が 神にはあると想定されます。

 問題は 本能で生きる生物やほかの動物をも別としても 人間についてはどうかです。自由意志があるからです。
 自由意志によって生き動き存在する人類の初めから終わりまでの歴史が 分かるか? 分かるとすれば どのようにか?

 おそらくまづ自由意志というからには 神による計画があって人間の一つひとつの意志行為をすでに定めているかと言えば それは 考えたくありませんし 考えないでよいでしょう。もし考える必要があるとすれば――運命予定説として捉えられ―― 人は案外 自由にそして気ままに生きて行くかも知れないと言っておけば済むように思います。責任がないようになるからです。(いまも ないと思っている人を見れば そのようになると考えられます)。

 神による人間の行為の計画や予定を掲げる説は別とするならば ここで考えておくこととして ふたつあると思います。
 ひとつに 予定説に対して しかしながら 神は――モノ関係の全歴史が分かるということとあたかも同じように―― あらかじめ定めてはいないが あらかじめどうなるかを知っているという予知説が取り上げられます。
 もうひとつに 根っからの悪を生きる人間がいるとしたら その事例についてどう捉えるか? その行為・その人生にかんして 本人はどう思っているのか? そして本人がどう思っているとほかの人びとは思っているのか?

 おそらく予知説については 人類の歴史やひとりの人の人生にとって節目に成るような行為(または社会的な行為関係)については おそらく神は予知していたし 予知していると見るのだ妥当なのではないか。そのような全歴史についての認識の可能性が 人間にとってさえ考え得るものであれば そのように捉えられると思います。
 つまり たとえば もともと個人に自由意志がそなわっているのなら 赤ちゃんから幼児を経て物ごころがつくようになれば これが一人の例外もなくウソをつくようになると――そのような節目になるという事例にかんして―― 予知されていたと推し測られます。

 根っからの悪人として悪のみをおこないつづける人間 こういう人生類型について 神は予知していたか? 言いかえると 人に自由意志を与えたのだから その自由意志で――その心の自由にさからうかたちでの自由を含めて――自由に生きるそのままにしていると言うべきか?
 つまり 神は 或る種の人たちについて人生のいつ頃からかは別として 残りの人生のすべてを悪をおこなうことに費やす人間 そのような〔反自由としての〕自由意志の行使のことを予知したか?

 たぶんそのときには神は じんるいの全体に或る種の連帯責任を負わせているのだろうか?
 それが 知恵の木から採って食べてはいけないというまぼろしのお告げ〔が 神の声だったとしたならむしろその神の霊のちから〕の意味なのだろうか?
 けれども その意味をしりぞける〔反自由としての〕自由意志の行為も 自由に認められている。こういった情況にわれわれ人間はあるのでしょうか。

 エデンの園の物語は こういったことを確かにものがたっていると考えました。
 また《神のようになる》というのは いろんな扱い方や解釈の仕方があるという見方を共有し得たと思いますが いまぎゃくにこの言い回しを用いるならば あたかもわれわれ人間は 特に現代に到って《神のようになった》とすれば いったいそこから何をしようとしているのだろうという問いを持っているとは思われます。

 神は 聖書をつうじて・あるいは聖書に匹敵する文章表現もしくは不文の自己表現(社会慣習)をつうじて 人間はどこへ向かうのかを見守っているのでしょうか? それとも やはりすでに知っていると言うべきでしょうか。
 わたし自身は両方だという答えになるように書いて来ましたが 果たしていかがお考えになりましょうか。
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この回答へのお礼

人間には自由意志があると思います。全てが神によって定められるならばジャンヌ・ダルクの様に天使が人間の前に現れる必要はありません。天使によって導かなくても神が人間の運命を定めれば良いからです。自由意志が無ければ神や天使が人間の前に現れる必要性もありません。逆に言えば天使が人間の前に現れる必要があるというのは、人間の運命を神が定めていない証拠と私は思っております。

<あたかもわれわれ人間は 特に現代に到って《神のようになった》とすれば 
<いったいそこから何をしようとしているのだろうという問いを持っているとは思われます。
私自身は人間はこの先、(確信は持っていませんが)、遺伝子改変や不老不死となって神へ挑戦する可能性も高いと思います。現代科学はここまで来ました。100年前には考えられないほどに現代人は能力的には高いです。核戦争が起ころうとも、一部の人達は遺伝子を改変して超天才となって研究し続けて、いつかは禁断の技術を発見するのではないでしょうか。神を否定して人間を肯定する文学も多数出版されています。利己的な遺伝子を書いたリチャード・ドーキンスの様に科学を信仰する反神論が現代の普遍的な価値観ではないでしょうか。

<神は 聖書をつうじて・あるいは聖書に匹敵する文章表現もしくは
<不文の自己表現(社会慣習)をつうじて 
<人間はどこへ向かうのかを見守っているのでしょうか? 
<それとも やはりすでに知っていると言うべきでしょうか。
<わたし自身は両方だという答えになるように書いて来ましたが 
<果たしていかがお考えになりましょうか。
私は知っているけれども見守っている、あたりが妥当だと考えています。ジャンヌ・ダルクの前に天使が現れた様に、歴史の転換点などに於いては神や天使が関与するのだと思います。馬を操る乗り手のごとく、人間が危険な方向に向かったら手綱を引いたり、鞭を打ったりするのではないでしょうか。

色々と教えてくださって有難うございます。勉強になります。

お礼日時:2011/07/13 17:11

No.11です



「人智」、というより「智・知」は「1つの視点」にしか過ぎません。

その「1つの視点」によってすら、「知・情・意」という心の働きの3つの方向性(視点)を「知っています」。このことは、脳というものを「知る」以前から理解されていますし、脳の機能として重なり合いながら中心がずれているものとして、「知られて」います。

「知恵の実」は「1つの視点」を与えたのかもしれませんが、それのみで「神の様」になったつもりでいたとすれば、それは大きな誤解だといって良いでしょう。

このあたりは「ヨブ記」に通じるものがあると思いますし、さらにいえば「ヨブへの答え」を読む必要があるでしょう。

「ヨブへの答え」は、訳が2種類あり、「みすず書房・林道義 訳」がお勧めです。
http://www.msz.co.jp/book/detail/01218.html

関連して、よろしければ、下記の私の回答(No.6,20,21)も参照願います。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5399131.html
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この回答へのお礼

<「知恵の実」は「1つの視点」を与えたのかもしれませんが、
<それのみで「神の様」になったつもりでいたとすれば、それは大きな誤解だといって良いでしょう。
確かに知恵の実を絶対視していた私の態度は改めるべきでした。有難うございます。神は知恵の実を食べた程度では図れないほどの存在なのでしょうね。

あなたの3つの回答、とても勉強になりました。排泄物が如何にありがたいか分かりました。そう言えば排泄物は肥料になりましたね……。すっかり忘れていました。排泄物などの悪と思われるものをも否定しないことが本当の善と私も思っています。どのような悪も何かしら善が含まれていると思います。闇を知らぬものには光が見えません。そういう意味では矛盾や悪に溢れたこの世界も非常に大切な世界と私は思っています。

何度も色々と教えてくださって有難うございます。ヨブ記にそれ程深い意味があるとは知りませんでした。

お礼日時:2011/07/13 06:31

知恵の実を食べると得られるのは、「善悪の判断の基準」です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%82%AA% …

従いまして、其処でも、『大道が廃れていく過程』の回避の為に、
本来的には其の摂食を控えるべきだったからなのではないでしょうか?
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1& …
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この回答へのお礼

そういえば知恵の実は知恵がつくのではなく、善悪を知る、という実だった気もします。何が善で何が悪か知る。それは即ち他人を裁くことにつながります。つまり善悪の判断が始まれば戦争や犯罪が起こるようになるのでしょう。だからこそ知恵の実は食べてはいけなかったのではないでしょうか。

<従いまして、其処でも、『大道が廃れていく過程』の回避の為に、
<本来的には其の摂食を控えるべきだったからなのではないでしょうか?
すみませんが、このあたりは良く分かりませんでした。この世界なら大道は廃れきっている気もしますが、エデンで大道が廃れたのは私は知らないからです。

お礼日時:2011/07/13 06:22

神の様になった方が神の意向に確実に従えるはずなのに、神の様になってはいけない理由がいまひとつ飲み込めません。



○至極真っ当な考えですね。神は埋めよ増やせよ我のようになれといったわけですから、当然智恵をつけて神の様になることは良いことですね。
「それなのになぜ神は人間に知恵の実を食べるなと言ったのでしょうか。」
この文章が誤解を生んでいますね。間違いといえば間違いですね。ただしいと言えば、状況の把握が必要ですね。こういうことなのです。わるいやつがいていろんな悪いことを吹き込むのですね。そのような状態ですと悪いものの話は聞かないようにといいますね。ここでの悪者とはサーペントと揶揄される堕天使のルシファーのことですね。つまり悪魔になった者の知恵に振り回されないようにという意味にとればただしいことですね。確かに悪魔にそそのかされて性欲や権力欲にまみれてエデンを追放された者もいたわけですね。そのような意味でしかないのですね。
旧約聖書も書いた者のレベルによって間違いやすい記述もありますから、おかしな部分もあるのですね。
正しい考えかたで読めばおかしなとことは引っかかりますから除外すればいいだけですね。
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この回答へのお礼

<「それなのになぜ神は人間に知恵の実を食べるなと言ったのでしょうか。」
<この文章が誤解を生んでいますね。間違いといえば間違いですね。
知恵のみを食べるな、ではなくて悪魔に惑わされるな。その点が大事だったのですね。勉強になります。

<ここでの悪者とはサーペントと揶揄される堕天使のルシファーのことですね。
あの蛇は堕天使ルシファーだったのですか。知りませんでした。

<つまり悪魔になった者の知恵に振り回されないようにという意味にとればただしいことですね。
悪魔に惑わされるな。その点が肝要だったのですね。

色々と教えてくださって有難うございました。

お礼日時:2011/07/13 06:03

 No.10です。



 ★( a ) 逆に言えば神のことを人間のことばで表しているので、不完全、ということでしょうか。もしくは誤謬が生じてしまう、と。
 ★( b ) 知恵の実によって嘘を覚えた。
 ☆ このあたりの・あくまで《表現の問題》にかぎって 説明を添えたいと思います。

 ○ 知恵の木から採って食べてはいけない
 ☆ この主題を尋究します。なぜなら 善と悪を知る木などという木は ニュートンやギリシャ神話のそれと同じように りんごだとも言われていますが 実際にそんな木はないからです。それはあくまで比喩による表現だからです。
 比喩であるならば いかようにもというほど多様に解釈ができます。その妥当性を競えばよいと考えられます。
 さて:

    *

 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。そこで わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

 ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。仲間といっしょに生活するなら その必要が起きたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。

 こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
 《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。これにもとづき あやまちについてわびる。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。

 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。
 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それはヒラメキであり思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

   神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら
  ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと
  して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも
  なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。

 といった命題を得る。

 こんどはこの命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という道徳としてまた戒律として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。

   *

 (あ) 表現の問題で細かく言うのですが ( b )の《知恵の実によって嘘を覚えた》は そうではなく《光の曲がるのを見て知って わが心のへそをそっと曲げてみた。つまりウソを言った》 そのことが《知恵の木から採って食べた》ことだと言いかえたい気持ちがあります。

 (い) 神の言葉を知る人間はいませんし それを書きしるしたという聖書も その言葉や文字が 神のことばそのものではありません。無理です。
 人間のしるした文章は すべて 仮りの表現であり 代理表現であると考えます。何がしか神の言葉にも触れて言っているかも知れない。そういったヒラメキがあり ヒラメキをつうじて人間も神の言葉に そうっと触れることが出来たかも知れないと思わせるような文章表現であり代理表現です。
 つまり
 ★ 不完全
 ☆ です。このことは ひとりの人間としてその非思考なる信仰のことを思えば 簡単明瞭です。完全に知り得れば 非思考つまりわざわざ信じるという行為の必要もなく ただ思索し認識してしまえば おしまいです。
 しかもそれなのに いわゆる集団として・組織において聖書を神の言葉そのものと見なす宗教にあっては 
 ○ 完全無欠
 ☆ だということになっているようです いまだに。よって 倫理規範化に走ります。
 つまり 宗教人というのは あほです。どうしようもないばかです。ここまで言ってやらないと 目覚めないでしょう。
 《善(トーブ)と悪(ラア)とを知る木》が いったい世界のどこに成っていましょうや。その木を実際に見つけて世界に示してから 聖書無謬説を提出して欲しい。

 いらんことを言いましたが ( a )については 解釈によっては 誤謬が生じてしまいますが 比喩によって表現しているということは 不完全であるゆえにむしろ解釈の多様性を生み 人間の自由に対応しているように思います。
 神は 無根拠ですから。
 
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この回答へのお礼

<それはあくまで比喩による表現だからです。
知恵の実は比喩だったのですか。知りませんでした。キリスト教では聖書は全て神の言葉であり、書いてある内容は全て真実と教えている所があります。よって私は聖書は全てが事実と思っていました。。

<つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。
宗教はそういうものだったのですか。勉強になります。
 
<神の言葉を知る人間はいませんしそれを書きしるしたという聖書も
<その言葉や文字が神のことばそのものではありません。無理です。
そうだったのですか。聖書には神の言葉という文字があって、教会では聖書は全てが真実で誤りが無いと教えられていました。今考えてみると教会の教えは少し変だったのかもしれませんね。

<人間のしるした文章はすべて仮りの表現であり 代理表現であると考えます。
知りませんでした。言われてみれば人間の言語で全てが分かる、伝わるという考え自体が傲慢だった気がします。

<ひとりの人間としてその非思考なる信仰のことを思えば 簡単明瞭です。
<完全に知り得れば非思考つまりわざわざ信じるという行為の必要もなくただ思索し認識してしまえば おしまいです。
確かに、信仰は信じることです。真実ならば、確信しているならば、信じる必要も無いはずですね。

<○ 完全無欠
<☆ だということになっているようです
なっています。そうやって教えています。権威を持たせているのかもしれません。

<つまり宗教人というのはあほです。どうしようもないばかです。
<ここまで言ってやらないと目覚めないでしょう。
そうですね。目が覚めました。

<比喩によって表現しているということは 不完全であるゆえにむしろ解釈の多様性を生み 人間の自由に対応しているように思います。
確かに言われてみればその通りですね。解釈が多様だからこそ色々と勉強になるのかもしれません。

色々と勉強になりました。有難うございました。

お礼日時:2011/07/13 06:00

 概念やことばで把握し、後は何にもしない。

知ったつもり、自分のものにしたつもりになってしまっては困りますね。
 概念やことばでの把握や認識は、各個人の自己内における構成と紡ぎ、像(造)出ですのでそれがあるのか、一致するのか確証はない。
 各個人それぞれですので、自分の画いた造出内容がみんな同じだという錯覚になります。

 神という人間存在根拠が造出している人間の構成力たる概念把握でその中に根拠自体を閉じ込めることは不可能であり、そのつもりになってはいけない。
 そうではない存在というものに無関心無知になってはいけない。自己の勝手に繋がる。
 それは取り留めない彷徨、放浪となる。エデンという場からの夢世界への失楽。
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この回答へのお礼

<概念やことばで把握し、後は何にもしない。
<知ったつもり、自分のものにしたつもりになってしまっては困りますね。
鋭いお言葉です。

<概念やことばでの把握や認識は、各個人の自己内における構成と紡ぎ、
<像(造)出ですのでそれがあるのか、一致するのか確証はない。
人間の概念やことばがあやふやである、というのはそうかもしれません。

<神という人間存在根拠が造出している人間の構成力たる概念把握で
<その中に根拠自体を閉じ込めることは不可能であり、そのつもりになってはいけない。
確かに、神の中に人間があるのであって、人間は神からすれば矮小な存在です。その人間が神を導くのは不可能ですね。

<そうではない存在というものに無関心無知になってはいけない。自己の勝手に繋がる。
<それは取り留めない彷徨、放浪となる。エデンという場からの夢世界への失楽。
そうですね。現代の様に科学のみを信仰するのも良くありませんね。

あえて手厳しいことを書いて戒めてくださり有難うございます。耳に痛い言葉が多いですが、逆にとても勉強になりました。精進します。

お礼日時:2011/07/13 05:49

子供は子供のままでいたほうがしあわせだと思えることがあります。


それはおそらく正しいと思います。
神も神が創った人間と言う神の子供が子供のままでいることを神の親心からマジで望んだのだろうと思います。
でも子供は子供でいることをやめて世界のいろんなよからぬことも含めて不純なことどもにめざめてしまいました。人間と言う不自然ないきものの堕落と不幸の始まりです。
当然ながら人間が知恵をもったところで神のようにはとてもなれません。それは人間の得た不純で情けない不自然な思いの最大のもの、増冗漫そのものでしょう。
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この回答へのお礼

<子供は子供のままでいたほうがしあわせだと思えることがあります。
私もそう思います。聖書には「神は子供の様な者がいる所」のような記述がありました。

<神も神が創った人間と言う神の子供が子供のままでいることを神の親心から
<マジで望んだのだろうと思います。
私はそう思わない面もあります。一度大人になって初めて子供の素晴らしさを分かる、というのも一理ある気もします。

<でも子供は子供でいることをやめて世界のいろんなよからぬことも含めて不純なことどもに
<めざめてしまいました。人間と言う不自然ないきものの堕落と不幸の始まりです。
そうですね。大人は醜いものです。本当に堕落をしていますし、不幸だと思います。子供の方がよほど立派です。一方で他の生物を犠牲にせざるを得ないが故に大人の堕落も仕方が無い一面もあるはずです。子供は夢いっぱいですが、大人は大体は夢敗れています。大人は子供よりも心の傷が多いかな、とも思っています。

<当然ながら人間が知恵をもったところで神のようにはとてもなれません。
恐らくはその通りかと。

<それは人間の得た不純で情けない不自然な思いの最大のもの、増冗漫そのものでしょう。
一方で傲慢さや醜さすらもこの苦しい世界で自分を守る為にあると私は考えています。

色々と反論してすみませんが、とても勉強になりました。有難うございました。

お礼日時:2011/07/13 05:43

人間の脳は、理性の部分と、本能の部分に


別れます。
本能の部分はいわば神からさずかったモノです。
理性の部分は、人間が勝手に発達させたモノです。

知恵の実を食べる、ということは本能よりも
理性を優先しろ、ということです。
神の様になれ、てことではありません。

で、知恵の実を食べた人間はどうなったでしょうか。
科学技術を発達させ、物質的に豊かになることが出来ました。
そういうメリットがありました。

しかし、理性で物事を考えるようになったので
それを社会にも及ぼそうとしました。
一見すると不合理と思われる慣習や伝統を無視するように
なりました。
慣習や伝統てのは、試行錯誤の産物ですが、理性で
考えるとおかしなものが多い。
なんで資本家が贅沢三昧しているのに、労働者は・・。

それで、人間は理性を働かせ、資本家が搾取している
財産を労働者に回せば、全員が豊かになるはずだ、と
考え、一部の国で実行しました。
その結果は、全員が貧困にあえぐだけになってしまいました。

つまり、知恵の実を食べるな、ということは
理性を過度に信用するな、という戒めだと思います。
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この回答へのお礼

<本能の部分はいわば神からさずかったモノです。
<理性の部分は、人間が勝手に発達させたモノです。
改めてこう書かれてみるとなるほどと思います。

<知恵の実を食べる、ということは本能よりも
<理性を優先しろ、ということです。
<神の様になれ、てことではありません。
そうだったのですか。知りませんでした。

<つまり、知恵の実を食べるな、ということは
<理性を過度に信用するな、という戒めだと思います。
実際に理性がどの様に信頼がおけないかを丁寧に教えてくださって有難うございます。

色々と勉強になりました。有難うございました。

お礼日時:2011/07/13 05:39

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