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数年前に週間少年ジャンプで連載されていた「Death Note」という漫画をご存知でしょうか

顔を知っている人間の名前を書くとそのヒトを殺すことが出来るというノートを持った高校生である主人公が、
世界中の犯罪者を片っ端から裁いていく、という物語です



当時からずっと頭を憑いて離れない主人公の台詞があります

「何故、害虫は殺せるのに、害のある人間は殺せないのか」

どうしてでしょうか
いまでも、それが正しいと思えてなりません

勿論、その「害のある」人間を定義するのは至難を極めるのでしょうが、
もしそれが可能であると仮定するならば、害のある人間を排除していくのは正しいと思うのは、間違いでしょうか

倫理的に問題があるというのならば、
逆に「害のある人間を生かしておくこと」は倫理的に問題ではないのでしょうか

A 回答 (14件中1~10件)

補足の質問に対し あらてめて 説明いたします。



>俺様」個人の定義ではなく、それが仮に「全善人」の意志として定義することが
>出来たならば、問題ないのではと私は考えたのですが・・・

「回答者様によると、それはすでに『善』ではない」 

とは 述べていません。 善とは、全体の生死を
解釈によって左右する もの の 私的(史的)主観で 決定されてしまうということ
を言いたかったのです。

詳細は以下のようになります。

「全善人」というのは、複合語です。 (詳細はアリストテレス政治論・ニコマコス倫理学に記述があります。)

全には、全と個という思想が背景としてあります。

全とは個ではない。個とは全ではない。

個人の意思は、その具体的一つとして私の意思です。


では、全の意思は、誰の意思でしょうか。


ここで二つの意見に分かれます。

簡単に描くと、「私たちの意思である。」というのと、「精神である。」という意見です。

第一の問題は、そのどちらもが、ひとつの「具体的な意思」では ないということです。


救いとして
私たちの意思であるという人たちには、
法・契約という形式的意思の表明があります。

しかし、精神であるという人たちにとって、すべての意思とは、すべてを体現している私の精神であるという信仰があります。

で すべての精神と私の精神のつながりは、どうなっているのですか?とたずねると

「わからない」と答えてきます!

つながりは、話にならないというわけです。

ここで
第二の問題は、Hyle(Materie)というものを 空間という背景を使って 物象化し

精神論・唯心論(絶対唯一神)を 「経済論」およびその必然論旨として 
浸透・流布させようという態度が 

その理論の背景に 隠されている事実です。

つまり、私の意思は、精神であり、

私の意図して思うことは 全善人の精神の表れといえ、

私の行動は、全善人の行動に合致した正業である。と規定するのです。

(逆に合致していないのは病人であり、害である とされ 仕分される)

で 不可王=主(汝に対するわれらの神)を 可能にする「非論理的」神が出てくることになります。

お気づきの通り

神は「い」ません。 ここで もうすでに意志とか善とかとは、関係のない話になっています。

俺はわからないが、神はわかっているというわけです。

もしいない奴がいたとしたら、世界は変わっていたというわけです。

もしスーパーマンが存在したとしたら、世界は救われているのです。

海外の常識ではあたりまえのことです。

外交的に考慮すれば、人間は人間をやめてはならず、漁師は漁師をやめてはならず、

首相は首相を辞めるべきではない。飛行機は予約していますから・・・宇宙のほうが放射線が高いので、問題になりません。

ようするに、論理を無視して いいたいほうだい、やりたい放題のことができる世の中になります。

かん無視の狂気的行動とそれを容認する態度が結論です。そして現実です。

もんだいは

死刑はだめだと言いながら、実行しているということです。

マニフェストハマモル といいながら 一つたりも実行していなうということです。

一つも実行していないから謝った。文句を言うな

という態度です。
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初めに、


害になるという 害かどうかの判断は視点によって変化する相対的なものである

人類の自然界への過度の介入によって増えていると観測される絶滅危惧種にとって人類は害と認識されるだろう
人間が人間にとって害になる種を殺しているように
絶滅危惧種にとっては人間を害と見做して淘汰し始めるような現象は起こりうるか

科学的な観測からいうと
人類の自然との係わり方が不適切で
生き残りをかけた種の生命戦略としての積極性は確認できなくても、人類の自然への過度の介入によって環境の急激な変化に適応できない絶滅危惧種が増えているということは、自然の生態系が崩壊し食物連鎖が崩壊していくことによって不可逆な生態系の淘汰が起きている可能性はある。異常気象といった現象も含め、やがて食糧難といった現象を引き起こすことによって大量淘汰が起る可能性が予測される。
他の生物種が人類という種を害とみなし積極的に殺すという事は確認できなくても、人類という種は自分で自分の首を絞めるという事になるのではないか
それを適切に修整するのは、神などではなく人間に委ねられていると言える


これをユダヤ教系旧約聖書の世界観的に言えば
もし。。生命の樹と共にある神に絶滅危惧種が増えているという原因が人類にあるということが言語化され、意識の俎上に上ったものが、祈りという行為を通して、無意識に沈められることによって、神に通じその効果を発揮しはじめるというマーフィの法則が有効なのであるならば。。
神に祈るという行為自体が人類を殺し始めるということに繋がることになる。。
現象的にみれば、因果関係的には神に祈るという行為が人間を淘汰するという意味において人間を戦争に駆り立てるという言い方も成り立つ

生命の樹と共にある神は旧約聖書の中で
神は人類に地上世界を支配するようにいうが、その支配の仕方が不適切な原因を
神が、知を持った欲の暴走によって生命の樹を損傷する害のある種と認識することによって
生命の樹にとってその存続そのものを脅かす非自己と認識しはじめ地球上のエデンの園から駆逐する
人間が人間にとって害がある害虫を殺してきたように
これを
唯一神系の神に似せて造ったという旧約聖書の一節によってある特定の人間もしくは集団を神に挿げ替え、人口増加そのものが住環境を害しているという認識に立ち、害になるとして戦争による人間の間引きっていう思想になってしまうとユダヤ選民思想につながる。
これを、現象的に言うと
害になるという解釈から戦争へと向かう為には大義名分が必要になると考えられるのだけれども
その前に
旧約聖書のバベルの塔の項でそれぞれの言葉で話すようにさせるというようなことが起こるとは考えられる。。
これを現代風にいうと、アメリカ発の世界を巻き込んだ金融危機によって、世界は一国が主導するような世界経済では危険が大きすぎるという認識が形成され、アメリカの国家運営の不味さと新興国の台頭によって、アメリカ国債のデフォルトの危機に陥り、軍事力に物を言わせての恫喝による赤字国債を買わせるということにも限界があって、戦争による淘汰に持ち込もうとするか
ソフトランディングさせながら経済のグローバル化からそれぞれの言葉で話すようになる分散化がはじまるとか。。

旧約聖書で神は人類に地上世界を支配するように言うけれども、知恵の木の実を食べ、神から乖離した人類の欲で支配の仕方が不適切であることに起因して生命の樹を損傷させているのであるから
選民的に神が人間に置き換えられるわけもなく
旧約聖書の神を梵という器の上で自然と共生するという思想に立つような解釈の上に立たなければ
旧約聖書の解釈の、人間のという範疇の唯一神系では、もはや解決しえない終末期もしくは末法期に世界はあるといえる

一端、世界規模の戦争が起これば、人類は地球に住めなくなる可能性は十分にあるのであるから
人類の未来は。。。???
さて、いかなることにあいなりますやら
って講談師

みたいな


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#7です。



>実は自分なりには定義できています

しかしがら、その定義に従って人々を分別するのは、不可能に近い、という意味であります
心の内が正確に覗けるような技術でも開発されれば話は別ですが

「害がある→生かしておけない」という論理が確立されるためには、
「生かしておけないほどの害」とは何か、という問題が立ちはだかるように思います。
その定義が難しいために 質問者さんにしても「>不可能に近い」とおっしゃるのでしょう。
害のある人間の殺害を肯定する場合、この定義が未定のまま行動に移すことになります。
そうすると、このような無責任さに基づいて殺害を行なう人物自体が、害のある人物と認定される可能性が残されたままになります。
殺害はすべての可能性の剥奪ですから、正当防衛だけが許される根拠となるのでしょうね、当面は。
正当防衛の範囲も解釈が多様なので一筋縄ではいかないでしょうが。
  
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中国、アメリカ合衆国、そして日本など58カ国では、死刑という制度を運用して、害虫の様に、害のある人間を殺していますよ。



「害のある」人間を定義するのは、法に基づく裁判制度ということで、だれか特定の人間の判断によらないように工夫されています。

一方、カナダ、デンマーク、スウェーデンなど95の国では、貴殿の考えに反して、すべての犯罪にたいして死刑をなくしています。

もし、貴殿が日本やアメリカや中国にお住まいであれば、貴殿が正しいと考える社会ですので、ご安心ください。


http://homepage2.nifty.com/shihai/shiryou/abolit …

参考URL:http://homepage2.nifty.com/shihai/shiryou/abolit …
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1,害のある人間を定義するのが難しいから


  というのが答えの一つです。

2,倫理てのはそう造られているからだ、という
  のがもう一つの答えです。
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Deathnoteを見ていないので、害のある人間がどのような人にあたるのかわかりませんが、必ずしも万人に害のある人間はいないのでは?


死刑と言う事で考えると、突発的に猟奇殺人を犯すなど、そういう場合に限られるのではないでしょうか?

まだまだ回答の仕方が大雑把で申し訳ないですが。
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死刑廃止の是非を問うておられるのでしょうか?




貴方は
死刑は正しい、と仰るのですね。でも

害のある人間を殺すことが(簡単に)出来ないのはなぜか?

>倫理的に問題があるというのならば、

主な論点は冤罪の可能性が全否定できないためです。

無罪のひとが極刑に罰されると言う不条理の存在を許すかどうかはまさに倫理的な問題です。

正義がなされねばならない。でも
そのために一人でも犠牲があってはならない。

そういう思いなのでしょう。
ご参考になれば。
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>勿論、その「害のある」人間を定義するのは至難を極めるのでしょうが、



に対する結論をお持ちではないまま、

>もしそれが可能であると仮定するならば、害のある人間を排除していくのは正しいと思うのは、間違いでしょうか

という問いが発せられてしまうのはあまり意味がないでしょう。
可能である、と仮定するのであれば、その仮定に至った経緯を明記した上でないと道筋を逸れてしまうような気がします。
「害のあること=間違い」は正されるべきである、という至極当然の結果より導かれないでしょうから。
つまり、まさにおっしゃっていることなのですが、「害とは何か」について先に論じるべきでしょう。
  

この回答への補足

誤解を与えてしまって申し訳ないです

私は、随分極端な考え方を持っているので、それ故にジレンマを抱えていることも理解しているつもりであります


先には、「定義するのは至難を極める」とありますが、
実は自分なりには定義できています

しかしがら、その定義に従って人々を分別するのは、不可能に近い、という意味であります
心の内が正確に覗けるような技術でも開発されれば話は別ですが

補足日時:2011/08/09 09:42
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>「何故、害虫は殺せるのに、害のある人間は殺せないのか」


>いまでも、それが正しいと思えてなりません

このセリフはいくつかの視点が混在している為
わけて考える必要があるかと思います。

A.害虫。害虫というのは、害をなす虫。
意味は人間や家畜・ペット・農産物・財産などにとって有害な作用をもたらす虫。とあります。

B.害のある人間:殺されるべき犯罪者という事にしましょうか。

Aは至極簡単で、人間の益になるか、
害になるかで分かれます。人間の害になる虫を害虫
人間の益になる物を益虫。と簡単に分けられます。

Bは人間の倫理、社会上のルール、心理的な嫌悪感
等などから判断すると同時に、判断する人間の環境
考え方、性格が複雑に入り混じります。

同属殺しが可能かどうか?という判断に
尽きるのではないでしょうか。
嫌いな人もいれば好きな人もいますし、嫌いな人でも
他の人から見れば好きという人もいますよね。
また、殺されるべき犯罪者が殺されることが正しいとして
も、誰かが、殺人しなければいけない訳ですよね。
殺人をした場合の責任をその人がとれるかどうか。
法律なしに、殺されるべき犯罪者を殺したとして
、殺した人の殺人は罪にならないのかどうか。
という部分がありますから、倫理や感情では人それぞれの
立場がありますから収拾が付かない。
ですので、社会的ルール(法律)があると思います。

もし主人公が人間の視点から、考えていたら
同属殺しとして判断するので、自分が殺人を
犯す事にジレンマが生まれるでしょう。

ただ、物語の流れから、主人公は圧倒的な
力を手に入れたため、自分は神であると
認識している場面がいくつかあるかと思います。
つまり、主人公にとっては自分は人間を超えた存在であり
そこからでたセリフが今回の言葉であると思います。

つまり、人間=虫。殺すべき人間=社会に害のある人間
殺さざるべき人間=害のない人間
と二極化で判断していると思います。
ここで、主人公は人間以上の存在として判断していると
考えたのは、殺した人間の責任を放棄しているからです。
実社会において人間ですから、家族がいますし、
友達がいますし、仲間がいます。殺した人間を好いている
人も少なからずいるわけで、それを無視した中での
判断で、特に遺族に責任を負う描写がないことを
考えるとまさに殺人鬼と思考が変わらない。
ということを、言いたかったのかもしれません。

tider124さん含め、正しいと思っている人もいると思います。
それはそれで、否定はできないです。

私の答えは、端的に言えばそれは正しいか
どうかわからない。という答えになります。
友達や、家族や、恋人が、殺されるべき犯罪者
になったとして、私はその対象を殺せるか?
と自分に問いかけたとき、自分の手で絶対殺せないと
思うからです。
他人にもし実行されてしまったら、私にとってその他人は
殺人犯として、一生恨む事になること思います。
正しいかどうかは解らないですが、害のある人間を
殺すことで行動を起こすかどうかは別として
殺意を持つ人間が1人以上増えるという事になります。

なので、死刑も慎重に行わなければならないと考えます。
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善について



 生き残るという結果が全(善)を規定するという点に着目して イタだけ たら と存じます。

つまり、衣食住という物理的経済的支配が善を左右するということです。

より多くの経済的資源を自由にすることが出来るものは、人間を生かす能力がよりたかいという事がいえます。

さらに デスノートの機能は、一種のテクノロジーです。
テクノロジーの所有が世界の支配を決することと成ります。

結果は、テクノロジーの争奪戦です。

善のみが生き残るべきであるというのは、
善の内容としての規定が間違っており
「生き残る(いまある)全ては、善」という定義が間違っているということです。
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