課題で芥川龍之介の作品を読んで感想を書けと言われました。
そして本を一冊渡されました・・・。
新潮文庫の 羅生門・鼻とかいうやつです。
中を読んでみたのですが、意味が全く分かりません。
僕はあまり頭が良くないのです・・・。どうも、こういうものは
理解に苦しむのです・・・。
だから、芥川龍之介の作品についての”あらすじ”が書いて
あるホームページなどを教えてください。時間もないのでお願いします!!

A 回答 (3件)

HPはわかりませんが「国語総覧」の中に「羅生門」のあらすじが載っていた


ので抜粋&捕足しておきます。

時代は平安期の終わり頃。ある夕暮れどき 主人から解雇され途方にくれた
下人が荒廃した羅生門の前で雨やみを待っていた。
彼は一晩身を寄せるところを探そうと門の楼上へあがる。
門の上は捨てられた死体だらけ。その中に、女の死体から髪の毛を抜いている
老婆を見つける。
捕まえて聞いてみると髪を抜いてかつらにするのだという。
生きるために自分の悪行を正当化している老婆の言葉を聞き、
下人の心にも悪を肯定する勇気がわいた。
俺もそうしなければ餓死する身なのだと言い、老婆の衣服をはぎとって
真っ暗な闇夜の中を逃げ去ったのであった・・・。


この時代は保障も何もないから、リストラされたら行くあてもなく
のたれ死にする人も多かったのです。
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羅生門は高校生の教科書に載るくらいですから


対象年齢としては高校生以上になるのかなあ???
羅生門・鼻の文庫を持っていないので
それ以外にどんな作品が載っているか分かりませんが、
「白」という短編が私は大好きです。
あらすじは男の子と女の子のきょうだいが
白(体が白い)と言う犬を飼っていたのですが、ある日白は
体が黒くなるんです。
で、急にきょうだいから見放され、悲しみに暮れます。
だけど、白が善い行いをしたとき、
体が元の白に戻り、またきょうだいと楽しく暮らしましたとさ…。
ってな感じです。
ちゃんと読んだらなぜ白の体が黒くなったか、
白がとった善い行いとは何かがわかります。
どちらかと言うと、児童文学的な短編なので、すぐに読めますよ。
でも、感想文となるとどうかなあ…。
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読んでみて、どのへんがわからなかったでしょうか?


その本に収載されている短編は一通り読んでいるので、「意味不明」だった箇所を具体的に指摘してもらえれば、
何らかの説明ができると思います。
「理解に苦しむ」ことそのものをうまくまとめられれば、いい感想文になると思うんですけど…。
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Q芥川龍之介の「羅生門」について教えて下さい。

青空文庫の芥川龍之介の「羅生門」を読んでいる外国人です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html

わからないところがあるので、質問します。

>>どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土ついじの下か、道ばたの土の上で、饑死うえじにをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊ていかいした揚句あげくに、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人ぬすびとになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

>>下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。

①「この「すれば」のかたをつけるために」
②「その後に来る可き」
③「紺の襖の肩を高くして」
というところの意味を、教えて下さい。
よろしくお願いします。

青空文庫の芥川龍之介の「羅生門」を読んでいる外国人です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html

わからないところがあるので、質問します。

>>どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土ついじの下か、道ばたの土の上で、饑死うえじにをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊ていかいした揚句あげくに、やっとこ...続きを読む

Aベストアンサー

まず、下人の思考の流れを押さえましょう。

①「どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない」
②「手段を選ばないとすれば」
③「盗人になるより仕方がない」
ということですね。

「当然、その後にくる可き(べき)…」というのは、②の後に③となるのは自然な結論だ、というような意味です。

しかし、下人は「盗人になるよりほかに仕方がない」ということを「積極的に肯定するだけの、勇気が出」ないのです。そのために、「すれば」のかたがつかないのです。

下人は、「仕方がない」と思いつつも、盗人になる決心がつかないようですね。

ここで、②から③への結論を、「積極的に肯定する」とき、下人はどう考えるでしょうか。
「手段を選ばない以上は、おれは盗人になるしかないのだ」といったところでしょう。

下人は、頭では他に手段がないと分かっています。
しかし、盗人になるより仕方がないのを「積極的に肯定するだけの勇気がない」ので、手段を選ばないと「すれば」という段階に あえて止まっているといえます。

この「選ばないとすれば」というのは、どういう意味でしょうか。これは、他にいい手段がある「かもしれない」という希望だといえるでしょう。

しかし手段はないのです。「とすれば」はありません。すがりつく希望はないのです。

「かたをつける」とは、「盗人になるのを積極的に肯定する勇気をもつ」ことで、その希望を切り捨てることを意味しています。

まず、下人の思考の流れを押さえましょう。

①「どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない」
②「手段を選ばないとすれば」
③「盗人になるより仕方がない」
ということですね。

「当然、その後にくる可き(べき)…」というのは、②の後に③となるのは自然な結論だ、というような意味です。

しかし、下人は「盗人になるよりほかに仕方がない」ということを「積極的に肯定するだけの、勇気が出」ないのです。そのために、「すれば」のかたがつかないのです。

下人は、「仕方がない」と...続きを読む

Q芥川龍之介の作品の素になっている作品

芥川龍之介がどのようにして古典文学からモチーフを得て芥川文学を作り上げていったのかを調べたいのですが、参考文献やモチーフになっている作品を教えて下さい。

Aベストアンサー

 
芥川龍之介は、作品モチーフとして、「今昔物語」を援用しました。しかし、意外に知られていないのは、その文体や、短編小説構成の技術が、フランス文学の影響を受けているということです。

とりわけ、アナトール・フランスというフランスの作家の影響を彼は受けており、自分でも、フランスの作品を、参考URLにあるように翻訳しています。

対照表がないので、はっきりとは言えないのですが、アナトール・フランスの作品が書かれると、それに少し遅れて、類似したスタイルの芥川の作品が書かれているという指摘があります。芥川の「侏儒の言葉」は、アナトール・フランスのエッセイ集「エピクロスの苑」と類似しており、アナトール・フランスのエッセイ集をベースにして書いたものだとされます。

芥川が、フランスの当時最新の文学に通じていて、その動向を意識していたのは、確か、「ある阿呆の一生」のなかにも、それを示唆する言葉が出てきます。

芥川の文体は独特であり、合理的で、日本語として少し奇妙なところがあるのですが、これは多分、フランス文学の影響です。「河童」なども、アナトール・フランスの作品のどれかに、または複数の作品に、そのスタイルの元があります。

参考2は、Google で、「芥川龍之介 河童 アナトール ローデンバック」で検索すると出てきます。htmlヴァージョンがありますから、この最初の部分を見ると、フランス文学が、芥川の作品にどれだけ影響を与えたかの説明が短いですがあります。(参考2は、横に長くなるのを防ぐため、途中で切っています。つなぐと完全なURLになります)。

>参考1:図書カード
>http://www.aozora.gr.jp/cards/anatolefrance/BALT.html

>参考2:[PDF]文学の水脈‐‐‐‐‐‐‐ローデンバックと ...
>http://www.google.co.jp/search?q=cache:qPBSgXFzkVUC:www.copymart.gr.jp/publish/user
/pdf/026.pdf+%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E3%80%80%E6%B2%B3%E7%
AB%A5%E3%80%80%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E3%83%95%E3
%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&hl=ja&ie=UTF-8&inlang=ja

>参考3:Google 検索エンジン
>http://www.google.com/
 

参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/anatolefrance/BALT.html,http://www.google.com/

 
芥川龍之介は、作品モチーフとして、「今昔物語」を援用しました。しかし、意外に知られていないのは、その文体や、短編小説構成の技術が、フランス文学の影響を受けているということです。

とりわけ、アナトール・フランスというフランスの作家の影響を彼は受けており、自分でも、フランスの作品を、参考URLにあるように翻訳しています。

対照表がないので、はっきりとは言えないのですが、アナトール・フランスの作品が書かれると、それに少し遅れて、類似したスタイルの芥川の作品が書かれている...続きを読む

Q芥川龍之介の羅生門についての質問です下人が検非違使ではない、と言ったり、老婆の答えに失望したのはな

芥川龍之介の羅生門についての質問です
下人が検非違使ではない、と言ったり、老婆の答えに失望したのはなぜですか?

Aベストアンサー

検非違使ではないと言ったのは、
老婆が怖がって、逃げようとしたからです。
逃げられてしまっては、死体の髪を抜く理由を訊き出せなくなるからでしょう。
死体だらけ、荒れ放題の羅生門は、地獄絵図のようで、
魑魅魍魎、何が出てもおかしくない。
モラルも常識も通用しない場所でした。
仕事を失った下人は、明日からどうするといったことも考えられないくらい、
心が麻痺したような状態で、
老婆の言葉に、具体的に何を期待したわけでもないけれど、
何か、超現実的なもの、刺激を求めたのでしょう。
無意識のうちに、それによって、生きている実感をしたかったのかもしれませんね。
ところが、返ってきた答は、
「今のこの状況なら、そうだろうね」
「そうする人が出てもおかしくないよね」
という、羅生門では普通のことだったので、失望したのだと思います。

Q芥川龍之介の「羅生門」の最後の一文についてです。

芥川龍之介の「羅生門」の最後の一文についてです。
先日大学の講義でこの作品について論ずる機会があって、
そこで、最後の一文について取り上げて論じたのですが、
その時、「最後の一文は2回書き換えられている」というように発表したら、
担当教諭に「最後の一文は3回書き換えられているからもう一回調べてこい」
といわれました。
が、どれほど調べても、帝国文学の初出と、短編集のものと、現在のものの、
3つしか出てきません。(=書き換えは2回)
4つ目の一文は、どこに発表されたものか、ご存知の方がいらっしゃいましたら、
ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 おはようございます。以下は外野からの気楽な意見ですので、その辺はご了承ください。他人事だと思って勝手なことを言うな、というお気持ちも起きるかもしれませんがご容赦を。

 その指摘は、言葉をどう捉えるか、という点に関わっているような気がします。「どれほど調べても」と言うからには、その後大正年間に出た新潮社版、及び昭和に入ってからのその文庫版については「実物を」調査済みであろうと推測します。
 また或いはこちらなどの書籍の記述も参照済みでしょう。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0234350/top.html
 それでも「無い」のであるなら、見方を変える必要があります。
 先生は、「活字版において」三回の書き換えとは言っていませんよね?とすると原稿の段階の話ではないのでしょうか。そちらは確認しましたか。

 原稿の所在を確認するのに少し手間取りました。国文研は古いものが専門なので無いだろうと思いつつ検索→×。近代文学館→遺族による資料の寄贈が多数あるが、これは所蔵せず。ここで面倒なので発想を変えて、ずばりと“羅生門草稿の所在”をgoogleで検索。いや、実はこれが一番速かったでした。
http://kikoubon.com/kako21.html
> 羅生門(ノート、草稿):山梨県立文学館
 山梨県立文学館は芥川関連の資料集を2冊刊行しています。内1冊は
芥川龍之介資料集 : 羅生門 : 普及版
芥川龍之介〔筆〕
となっています。
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003008821/jpn
わざわざ〔筆〕とあるところを見ると、影印版(写真版)である可能性が高いでしょう。とにかくこれを確認するのが第一ではないかと想います。
 そこまで調べて駄目なら、先生に教えを請うても良いのではないでしょうか。

 先の回答の方が挙げているブログの文章は何度読んでも改変は2回としか読めません。「以前と同一のものに戻した」のも含めて3度の改変があったことをどこに記してあるのでしょうか(もちろんそのように単純に元通りにした可能性があることは否定しません)。
 それから私が大正7年の春陽堂版をこのブログで初めて知ったように、これ以外の版本も存在するかもしれません。

 おはようございます。以下は外野からの気楽な意見ですので、その辺はご了承ください。他人事だと思って勝手なことを言うな、というお気持ちも起きるかもしれませんがご容赦を。

 その指摘は、言葉をどう捉えるか、という点に関わっているような気がします。「どれほど調べても」と言うからには、その後大正年間に出た新潮社版、及び昭和に入ってからのその文庫版については「実物を」調査済みであろうと推測します。
 また或いはこちらなどの書籍の記述も参照済みでしょう。
http://www.iwanami.co.jp/mo...続きを読む

Q芥川龍之介『羅生門』 「ともす」「とぼす」の面白い解釈は?

 高校一年生です。
現在、国語の時間で芥川龍之介『羅生門』を勉強しています。
授業では、「龍之介は、なぜ「ある日の暮れ方」に設定したのか?」「下人に「面皰」をつけた理由は?」……などと、
言葉をひとつひとつ解釈しながら、『羅生門』を読み解いています。

そのなかで、特に疑問に思ったことがあります。
芥川龍之介は「火をとぼす」「火をともす」を意図的に使い分けているのだろうか、ということです。
また、ここから面白い解釈を導き出せないものでしょうか。


 第二段落、下人が楼の上へと昇るはしごの中段にいる場面。

●「それが、梯子を二三段上つて見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火を其處此處と動かしてゐるらしい。」

ここでは、「火をとぼして」と書かれています。
しかし、そのあとでは、

●「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。」
●「その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持つて、その屍骸の一つの顏を覗きこむやうに眺めてゐた。」

「火をともして」「火をともした」と書かれています。


 先生にこのことを質問したところ、「自分も気になっているのだが、面白い解釈を導き出した論文はまだ読んだことがない」とのことでした。
単に、芥川龍之介が感覚的に言葉を使い分けたのだとも思うのですが、私には何らかの意図が隠されているような気がしてなりません。
「ともす」「とぼす」が全体のなかでどのように機能しているか、面白い解釈をお持ちの方がいましたら、ぜひ教えていただきたいです。
よろしくお願いします。

 高校一年生です。
現在、国語の時間で芥川龍之介『羅生門』を勉強しています。
授業では、「龍之介は、なぜ「ある日の暮れ方」に設定したのか?」「下人に「面皰」をつけた理由は?」……などと、
言葉をひとつひとつ解釈しながら、『羅生門』を読み解いています。

そのなかで、特に疑問に思ったことがあります。
芥川龍之介は「火をとぼす」「火をともす」を意図的に使い分けているのだろうか、ということです。
また、ここから面白い解釈を導き出せないものでしょうか。


 第二段落、下人が楼の上...続きを読む

Aベストアンサー

「私の話は思い切って問題が小さい」で始まる柳田國男の『鴨と哉』は貴方の疑問を考察する際の参考になると思います。この本の圧巻は、「も」から「な」に変わると言う一見大変小さい問題から出発し、m,n,b 等の変遷を通して、日本語の遠大な変遷を説得力ある形で論じているところにあります。

日本語では「も」が「ぼ」に置きかられるのは日常茶飯事に起こっております。芥川が単に筆の勢いで「も」と「ぼ」の違いなど気にせずに書いてしまった以上の言葉の芸術と言うものがこの裏に存在していると直感し、さらに、そのことが芥川のどこかの文章の構成から信号として送られていると、もし貴方がすでに直感的に気付いていると言うなら、そのまだ言葉になっていない直感を、幾つかの証拠を裏付けにしながら実証的に論じて、言葉に表していけば良いのではないでしょうか。

その際の要点は、あれっと思った一見小さいようなことから、柳田の例のように遠大なテーマが浮かび上がってくることです。ただ単にあれっと思ったことから「そんなの当然じゃないか」というような驚きのない小さい結論を導を出しただけだったら、「あっそう、ご苦労様、それで?」と言う反応が帰ってきてしまうかもしれません。また、実証の裏付けのない理屈で、単に引っかかっただけなのだが、こうも考えられる、ああも考えられると述べた所で、人を説得することは出来ません。

実証という点に焦点を絞ってみて、貴方が何故この問題に引っかかり、そして、そこから自明でない、例えば芥川の文章観などの、遠大なテーマを論じられる可能性が潜んでいるのかどうかを、改めて反省してみては如何でしょうか。もしそれが出来たら、立派な芥川龍之介論が出来上がるかもしれません。

蛇足ですが、これは皮肉に言っているのではありません。私はある分野の専門家ですが、学問のテーマとは、自分があれっと思った直感を、それが小さいからと言って捨て去るのではなく、今すぐにできるなら今実行し、時期が早すぎるようだったら、それを心に暖めて置い、それが膨らんでくるのを俟って置くべきです。その直感が核心をついている場合には、時と共にその直感が膨らんで行くものです。そして、好機が来たら一気に攻め込んでそれを完成させるというのが、学問の常套です。

「私の話は思い切って問題が小さい」で始まる柳田國男の『鴨と哉』は貴方の疑問を考察する際の参考になると思います。この本の圧巻は、「も」から「な」に変わると言う一見大変小さい問題から出発し、m,n,b 等の変遷を通して、日本語の遠大な変遷を説得力ある形で論じているところにあります。

日本語では「も」が「ぼ」に置きかられるのは日常茶飯事に起こっております。芥川が単に筆の勢いで「も」と「ぼ」の違いなど気にせずに書いてしまった以上の言葉の芸術と言うものがこの裏に存在していると直感し、さ...続きを読む


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