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近頃教会に行っていて、教会って貧しい人がこれるのだろうか。と疑問に思います。
プロテスタントの教会は教会員の献金が経済的基盤です。上中産階級の方によって
支えられてると言えます。カトリックはいかがでしょうか。

A 回答 (3件)

マックス・ウェーバーの著書である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」


にそのあたりのことが詳しく書かれています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD% …

例えば、教会の壁が崩れました。
Aさんは10時間労働することによって3mを補修しました。
Bさんは10蔓延を支払って業者に頼んで5mを補修しました。

カトリックは禁欲的であり、紙に対する個人の労働が重要なのでAの方が
尊い行いとされます。しかし、プロテスタントは合理的であり、
結果としてはBの方がよく補修ができているのでBの方が尊い行いと
されます。

カトリック教会は上中産階級に支えられている訳ではありませんが、信仰を
厳密にすると結果的に多くの資産を持ち得なくなるのです。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。上中産階級と申しましても、そのほとんどは
やっと持家に住み、子供を育て上げた庶民それも主婦です。
それでも教会に来れる恵みを感謝しておりますが、
神は一匹の羊も見捨ててはおられないのに、もっと貧しい人は教会に来れない状況が、
かなしく思えるのです。

お礼日時:2011/09/30 13:10

カトリック教会も基本的には献金ですが、多くの場合、


教会が維持している事業があり、そちらで生計を立てています。
たとえば病院や学校、老人ホーム、幼稚園などがあります。
一般的に貧富の差や、上流、中流などの、プロテスタントにありがちな
お金を出してくれた人の意見を牧師が支持する等のことはないようです。
信者の献金で生計を立てている教会の場合は、
どうしても金銭的に厳しい面があるので、多額の献金をする信者の
発言権が強くなります。
カトリックの場合は、プロテスタントのような金銭的厳しさが無い分、
自分たちが教会を支えているという意識に乏しく、どうしても
司祭や修道会におんぶに抱っこの信者になりがちです。
宗教というものは基本的に、自分を信じることではなく、
自分以外の他人や何かに依存する心を養います。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。プロテスタントも幼稚園を経営するところが多かった
のですが近年少子化で廃園となったところも多いです。
カトリックの様に大規模ではなく20人前後の教会員と言う教会も沢山あります。
上中産階級と言いましても、やっと持家に住み子供を育て上げた庶民それも女性が大多数です。
なんとかやりくりして献金して、ケーキを焼いたり、何か食料品を売ったり、ちまちまと
お金を稼ぎだしています。それもこれも自分の教会が好きだからにほかなりません。
苦労すればするほどその対象に執着するのも人間の本性かもしれません。
この度の東日本震災も席上献金はずっと捧げています。
キリスト教の場合自分を信じると云う事ではなく、
キリストによって購われた者として、神と自分の関係を信じると云った方がぴったりきます。
他人は依存するものではなく助け、愛すると云うのがその教えです。
それだから神がお見捨てになっていない貧しい[この場合献金も出来ない]人が教会に来れない状況が
きになります。、

お礼日時:2011/09/30 12:58

カトリック信者で、大学時代の専攻はNo.1さんの挙げられたマックス・ウェーバーでした。



1.最初に「教会って貧しい人がこれるのだろうか。」という疑問に答えたいと思います。

聖書には、金持ちが天国に入るのはらくだが針の穴を通るのよりも難しい(マタイ19章16-26節ほか)とする話をはじめ、金持ちよりも貧乏でも心のきれいな人の方が尊いという話が多く掲載されています。
金持ちの信者は、通常高献金者なので、教会にとっては有難いのは事実ですが、教会の月定献金は、各信者が自分の負担額を出来る範囲で申告して収めていますから、金額の多寡で差別などをされることはありません。それに、「戒名代」などのように高額の支出を要求されることもありませんし、結婚式や葬式も一定の常識範囲内での献金をすれば済みますので、安心して教会に参加できると思います。

一つの例として、東京江東区の「蟻の街」と呼ばれたコミュニティ(現潮見教会)の例を見て下さい。
「蟻の街」は元々終戦後、廃品回収業者の居住地でしたが、北原怜子(「蟻の街のマリア」と呼ばれ崇敬されました)いう若い一女性の献身的な慰問活動を発端に、貧困地域に育った一大コミュニティです。wikipedia「北原怜子」ご参照。

又、南米の例えばボリビアや、アジアのフィリピンなどは、カトリックの司牧活動が行きわたっており、神父やシスターたちは、報酬ぬきに地域の司牧活動だけに限らず日頃の生活面でのサポートに献身し、信者たちは貧しくても目の耀きが素晴らしいという話をよく聞きます。

2.次にマックス・ウェーバーの研究を引き合いにし、金持ちと教会の関係について・・・

確かに、カトリック教会の財政も、信者の献金(月定献金、ミサ献金など)で支えられており、近頃は「幽霊信者」(教会には在籍していても普段は来ない人々)も多いので、どこの教会でも苦しい財政状況であるのは間違いなく、お金持ちからの多額の寄付などがあれば大変有難いのは事実です。
そういう意志が働いたのかどうかはわかりませんが、一応金持ちが多い地域(成城、田園調布、その他東京城南地域など)には、抜け目なく教会を配置し、地域の高富裕層を取り込んでいるのは、「作戦」上当然とは思います。

一方、金持ちは金持ちでそこの所を自覚し、又金持ちでない人も余力のある範囲で、献金額を多くするとか、教会主催のバザーに出品するとか、福祉施設や移住者施設や、山谷などのドヤ街の炊き出し、或いは今度の大震災などの災害支援などのボランティア活動を通じて、世の中の貧困、暴力、ひずみなどに立ち向かい、サポートする姿勢を持ち続けていると思います。

特にボランティア先進国であるアメリカでは、教会コミュニティから、上記のようなボランティア活動が発生しました。唯、アメリカではカトリックは少数派であり、元々は最初にイギリスから渡航した清教徒(ピューリタン)の流れをくむプロテスタントが多数派であり、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘したように、自分たちの生活を「禁欲主義」により最高度に律したために、却って職業倫理を高め、ビジネスに邁進し、結果的に資本主義の最高度の勃興を実現した・・・という訳です。彼らは商売の「品質」を上げ、その結果である「儲け」を追求はしましたが、それらを進んで教会への献金引いてはボランティアに回しました。アメリカのプロテスタントそしてカトリックの人々も、このようなボランティア活動を通して、自分たちの富を世の中に還元し、一定の社会貢献を果たしてきたのだと思います。

長くなり失礼しました。
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この回答へのお礼

丁寧な回答を頂き有難うございました。
以前読んだ児童文学で、牧師さんが地域の貧しい家を訪問して、世話をしている
と言うところがありキリスト教国では、教会は福祉の一端を担っていたのだと思ったことがありました。
私の教会でも、このたびの震災には何度かチャリティーコンサートをしたり、
礼拝献金を支援金に回したり、いたしました。
教区の事業として年末には炊き出しもやっています。
回答を読ませていただき、カトリックの方が組織として支援やボランティアに練達していると思いました。
私が願う事は貧しい人が肩身の狭い思いをすることなく教会の門をくぐりみ言葉を聞く
機会を持っていただけたらと言う事ですが、少しでも理想が現実に近づくようにと祈ります。

お礼日時:2011/10/01 14:01

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