プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。

私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。

私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。
しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。

私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。
が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か?

美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。
念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。
(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。
(2)醜さとは何かを定義する。
(3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。
これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。

それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

A 回答 (47件中11~20件)

訂正:



 でろう

⇒であろう



>究極的なことをいえば、おっしゃる通りだと思いますよ。

 となると、その人の精神が美しければなんでも美しい。完璧・完全に美しければ、すべてが美しい(と感じる)。となりますね。聖書は読んだことはないのですが、イエスが死んだ犬の死体を「醜い」と言う人とは対照的に、その犬の牙を見て「美しい」と言う場面があるようで。

 ともかく、これが醜い、これがおぞましい と言う、まさにそういった人間とは関わらないほうがよさそうです(河童先生ごめんなさい)。
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この回答へのお礼

>となると、その人の精神が美しければなんでも美しい。完璧・完全に美しければ、すべてが美しい(と感じる)。となりますね。

私にはわかりにくい文章でした。というのも、まず、「となると」という接続詞で導かれる結論とは思えないからです。そして、文意が難しいですね。その人の精神が美しければ、何が美しいのですか。一般的にあるような考えと照らして推測すると、真実を有している者は、内面が美しいのだから、外面も美しいというような話ですか? 私は特にこの点について、何も述べたつもりはないのですが、私の意見は演繹すると、そういうことになるのでしょうか。

私自身は、少なくても、内面と外面の美の一致という見方には距離を置いています。というのも、アラベスクの曲を紹介してくださいましたが、アラベスクは、内面と外面の一致という美の評価体系では、美の対象にならなりません。この美の体系は実に排他的なのであって、容易に賛成できないのです。私は、ニュークレアスさんが、そのような考え方ではないと思っていましたが。

前回、私の述べようとしたことを繰り返せば、もっと単純なことしか言っていません。基本的に、この問いは遊びの類です。ですので、特に真理を求めようという気はないし、厳密なことをいう必要はないと感じています。投稿者がそのように論じたいのであれば、それに私はあわせようと努めますが、全体として、特にそのような論じ方を他の投稿者に強いるものではありません。失望させたかもしれませんが、その程度の設問です。だから最初から、暇な時に回答してください、というレヴェルに設定してあります。

お礼日時:2011/12/15 02:24

18です。

ひさしぶりに覗いていますが、なかなか華やかになりましたね。
マシュマロさんのご投稿をざっと拝見したところですが、後日あらためてゆっくり読ませていただこうと思います。
ボードレールの文体で幕をあけたこの質問を見た時は、正直度肝をぬかれました。

わたしも特に19世紀後半と現代を視座において時代精神の照らし合わせをおこなっている人間の一人なので、見通し的にサイコロさんと共有する地平があると思いますが、美に対峙するかぎりの醜さとなると複雑なテーマだなと思いました。
ラスキンとボードレールとその後世は、既存の美のカテゴリーを打ち破って拡げていけばよかったし、過程がどんなに荒れた魔境の過程であろうとそこからエッセンスを抽出して美の真髄を追いかけていたと言えるのですが、その陰画的手法で醜さのエッセンスを抽出しようというのは驚くべき発想ですね。

細かいことは抜きにしますが、おそらくこう言ってよければ、西欧19世紀から20世紀初頭は、瞬間的なもの、うち捨てられたもの、形をとどめないものが、永遠性と結び付けられ、知覚と記憶の表象に結び付けられ、秘密のふくみを持たされて、死の不安と恐怖に対抗する感性を醸成した時代であると思います。
日本では上代平安の和歌随筆から心性に溶け込んでいたような事柄ですが、西欧社会というのはロゴス的対象を明確に捕えようと言語も美術も音楽も表現してきましたから事情が違いますね。科学の進展に乗じて関心が自我と現象そのものとの関わりへ向かっていく19世紀半ばの価値観転覆は、芸術にとって意味深いでしょう。写真は醜さを表象しうるか、という問題へも繋がるように思います。

18では、『現代生活の画家』を引き合いに出しながらネットと関わらざるを得なくなった時代の人間精神について述べようとしてみましたが、やはり上記に関連して、永遠性に触れること・知覚と記憶の表象であること・秘密があること、という点からすれば、ネットというのは、刹那的流動体であり、情報の表象形式であり、システム的な事象としていかなる秘密もないというところが要なのではないかと思うのです。
それはボードレールの時代でいえば屑拾い人の屑であり、都市改造されつづける都市であるということになるのかもしれませんが、ネットでは他律的に排出される量とスピードが桁違いではあるでしょう。ポーの『群衆の人』がすでに自律性を失っていたのを今思いだしましたが、ああした熱を帯びたフローの中で身体性が希薄になっていくことの終点にインターネット・コミュニケーションがあるのかなと思います。
何よりも、脳髄のほうは、刹那的流動体に永遠性を重ね、情報に対して知覚と記憶による書き換えを行い、システム上の明快なプロセスから隔たった場所で不明の代替に秘密を思い描く、それがファンタスマゴリー脳の劇場だからでしょう。屑と改造の凄まじい情報フローであるにもかかわらずネットは人間の脳のこういう部分を引き出しやすいと思うのです。
ファンタスムが入り乱れる場であるインターネット・コミュニケーションはある意味恐ろしいですね。ファンタスムに内在する原動力としての欲求、心の要請が、清く正しく美しく理路整然としているとはかぎらないですから。エドゥアール・ムンクが『ALPHA et OMEGA』という話を書いたとき、精神科の主治医は仰天しておぞましい話だからと捨てさせようとしたのですが、患者であるムンクの言語表象にはやはりファンタスマゴリーとしての一人格の心の要請がいろいろと出ていて、話の筋が醜いというよりは言語化において情報を咀嚼しているムンク自身が為す無意識の解釈のほうがおぞましいわけです。
なかなかまとめにくい内容になって申し訳ないですが、回答を得る質問であるよりもボードレールを土台にアンチテーゼを立てるという試みからどれだけの問題圏を切り出せるかということのように思われますので、その意欲を称えつつこのへんでお暇しようと思います。
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この回答へのお礼

褒め殺しの部類ですね。ははは。それにしても、雨合羽さんは、この文体を見破っておられましたか。おっしゃる通り、ボードレールの散文詩のパロディです。私はこうやって設問そのものを詩にすることで、設問に応答してきた回答までをも、詩の延長に捉えることができないか?と思ったのです。

マラルメは、詩の読者をゲストと呼びましたね。ネットでの応答は、実にこれによく似ています。一つのテクストを読み、それについて、匿名の応答がなされるわけですから。この一つのテクストが、スレッドの質問文であるわけです。普通、質問は事務的な用件を示すように書かれています。しかし、そうではなく、問いが、詩的次元を視野に入れる文体で提示されていたとしたら?――そのスレッドは少なくても、強烈に詩的次元の支配に置かれることになるでしょう。この侵犯は、ちょっと面白いことではないでしょうか。
無論、ここで示した「詩的」次元は、抒情的なものではなく、むしろ、現代的な滑稽を描くというボードレール流のものではあるわけです。猪突先生とも話したことですが、現代詩はジャーナリスティックな要素を含んでいます。しかしもっと言えば、ジャーナリスクティックな現代詩は新聞に載ってこそ、効果を発露したとも思うのです。つまり、事務的な情報を本来書くはずの場に、詩を書いてしまうからこそ、領域の侵犯によって、面白いことが起きてくるのです。

ネットについて雨合羽さんが展開なさる議論は、まさに同意するところです。しかし、私はそこから、もう一歩、別のところに歩みを進めてみました。つまり、この自明である表象形式を変容させることで、何かしらシステムへ介入することができないか、と。新たな関与の仕方の模索と言えば、雨合羽さんは面白がってくださるでしょうか。そして、私には、これが文体という技術によってファンタスマゴリを制御する試みに思えているのです。私ができたかどうかは、まったく別問題として。

私の場合、課題としては、詩的変容を試みようというのに、お礼欄で何を書くべきかが、あまり見定まっていないということがあります。もっとも質問文の「詩人」のディスクールを続けても面白くないことでしょうし、私は私で、雑談をしたいという欲求に敗けてしまいました。おそらく、「人の道」というアカウントのやった、ソクラテスになりきった問答が、ネットという場を別の次元(演劇的な次元とこの場合は言えるのではないでしょうか?)に変容させようとする、何かしら新しい方向性の一つではあったのでしょう。しかし、あれは最終的にあまり成功なさらなかったようでした。

お礼日時:2011/12/14 07:07

訂正



「牧畜民族の羊がいれば 飢える心配がない・生活が安定する・安心するから 心が満たされ、充足する」ということです。

⇒「牧畜民族の、羊がいれば 飢える心配がない・生活が安定する・安心する、という、つまり心が満たされ、充足する気持ちをあえて表現するなら美しいとなるのでろう」ということです。



それにしても、質問者さんは頭と理屈で物事を認識しようとしているんですね。
良くも悪くも、でしょうか。
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この回答へのお礼

>それにしても、質問者さんは頭と理屈で物事を認識しようとしているんですね。

というより、心で認識したことを書かない癖がある、ということだと思います。まぁ、感受性が豊かな人にしてみると奇妙なことでしょうが、私も歪な美の乞食の一人ですから。

お礼日時:2011/12/14 05:43

>争いもなく分けられる大きな羊こそ、美だというのでしょう。



 いえ、私はそのような意味で書いたのではなく、「牧畜民族の羊がいれば 飢える心配がない・生活が安定する・安心するから 心が満たされ、充足する」ということです。漢字の成り立った頃の時代状況においては、たまたま羊だったのではないでしょうか。

>酒と鬼はどうお考えですか?

 前文で書いたとおりです。

>そう思います。

 いや、限定して「これが美しい、これが醜い」と、言うことはできないのではないか、と思いました。人によって・状況によって異なり、変わってくるだろうから。ともかく、美であれ醜であれ、そのように感じるその人の精神がまさに美であったり醜であったりする、と考えます(思います)。

http://www.worldfolksong.com/songbook/classical/ …

先にあげた曲よりも、こちらの方が綺麗で、透き通っていて良いのではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8B% …
「情緒に溺れない解釈」だそうです。
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この回答へのお礼

なるほど、私が誤読したというか、イマジネーションを働かせすぎてしまったようですね。ご訂正、ありがとうございます。

>いや、限定して「これが美しい、これが醜い」と、言うことはできないのではないか、と思いました。人によって・状況によって異なり、変わってくる

究極的なことをいえば、おっしゃる通りだと思いますよ。しかし、まぁ、このスレッドではやや雑談的ではあるが、自分はどう思うか?というお話しをするのも一興ではないかと思ったのでした。

私はドビュッシーは何でも好きですよ。この音色は、ホロヴィッツみたいに落ち着いていますね。サンソン・フランソワのようなピアニストを思い浮かべれば、「情緒に溺れない」というのは、その通りなのでしょう。

お礼日時:2011/12/14 05:40

では、お言葉に甘えさせていただきますね。



あの彫像の女性は豊満で、さも誇らしげに映ります。
ボードレールならずとも、誰もが官能的と褒め称える古典的な美しさに満ちあふれています。
それがシャネルの登場によって、マヌカンのほっそり美志向が顕著になって今に至るのですから、美とは何とも不思議なものですね。

そしてまた、バルザックの墓標を意識していたとは・・・知りませんでした。
「人間喜劇」と入力検索して、どうりで、肝心の美しい彫像以上に彼の美しくない?肖像画が目立った理由がわかりました。
それとも彼ならよろこんで美の引き立て役を買ってでてくれるでしょうか。

美術書のご教示も嬉しかったです。機会があれば手にしてみたいものです。
チュイルリーのモノクロ画像も悪くないと思います。
野外鑑賞は絵画と比べて騙し難い?彫像ならではの醍醐味が感じられるかのようなので。
"Paris, Tuileries (Ier arrt), La Comédie humaine ou le Masque par Christophe"(INHA)


>ボードレールは基本的には、とても我儘で女性にあまえたがりの詩人です。

何だか・・・伺うほどに彼の強烈な個性が一段と色濃く増してくる気がします。
"Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal(私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです)"なんて、この箇所だけ切り取って解釈したら、まるで男と女は理解し合う仲になったら最期、とでも言いたげな。
でもまさか、そんな俗悪な意味ではないのでしょう?
あとでその詩を読んでみますね。

>一度激しい感情を味わって、心が焼き切れ、追憶に耽る以外にもう心が働かなくなったということなのでしょうけれど、なぜ彼にそんなことが起きたのか。
>ともあれ、女に余所行きの顔をしてもらうというパターンは「秋の歌」の後半でも見られます。「賛歌」でサバティエ夫人に告白した際も、idoleという語を連発。ともかく、崇拝できる対象であってほしく、俗なところなど見せないでほしい、と思ったようです。こういうところが、子供っぽいと言われたりもします。

それというのは、お相手の女性にもよるのでしょうが、女のあしらい方がいまいち巧くなかったということでしょうか、子どもっぽいって。
ダンディというと、もっと女慣れしたスマートなイメージが浮かびますが。
彼は違ったのでしょうか

>でも、「仮面」「告白」を読むと、この偶像の内面に、実は見かけでは推し量れないものがあることを知っていたと言えます。そして散文詩「窓」では、「俺の思いこみであるという人もいるかもしれないが、何が悪い?」と開き直って見せさえするのです
>ボードレールの場合、自分にとっては救いの偶像と女性を見ておきたいのだが、本当は違うのだろうな、と達観していたところが、幾分、特徴的です。

上述の子供っぽさとは裏腹に、これはこれで何だか冷ややかな笑みを浮かべているかのようですね。
・・・・などと一寸頭に留めて読みすすめていけばおもしろいのでしょうね、そして一段と色鮮やかに読めそうな気が致します。
語学力も素養も乏しい私にとって、ボードレールの詩は難解なものには変わりないのですけれども。

クリストフについてもご教示とても参考になりました。 ありがとうございます。
ご指摘の「騙し絵」彫像もなかなかなものですね。
「両性具有の美」の幾つかはヘレニズム期の彫像や中世の図像に散見できるようですし、
先には女らしい輪郭線の「擬人化した葡萄の木とディオニュソス(バッカス)像」やらヘルマフロディトス小像が来日していました(顕著な両性具有ではないのですが)。
"Marble figure of a the young Bacchus with a personification of the vine (Ampelus)"(the British Museum)

あるいは、両性ならぬ双面ならシェーンブルンのヤヌスとベッローナの彫像、あるいは興福寺の阿修羅像などが浮かびますが、でもどうでしょう、「騙し」の趣向とはやはり異なりますものね。
※"Skulpturen und Plastiken um Schloss Schönbrunn"(29 Janus und Bellona) 

あらためてボードレールxクリストフの「騙し絵」の試みが絶妙なものに感じられてきます。
何か彼を執拗に駆り立てるような激しい経済的な逼迫性とかがあったなら・・・あるいはボードレールのさらなる賛辞があったなら・・・とも思います。

そうですね、エドモン・ダンテスの彫像なんて見てみたかったです。
(Gérard Depardieu似以外の美青年でぜひ!)
手にするのはやはり仮面かあるいは背後の金塊か・・・
・・・でもきっと、彼等の趣向としては相応しくなかったのでしょう、そんな気がします。

 
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この回答へのお礼

>それがシャネルの登場によって、マヌカンのほっそり美志向が顕著になって今に至るのですから、美とは何とも不思議なものですね。

そうですね。美は時代とともに変わります。ボードレールは、こういうことが分かっていたのか、様々な種類の美を楽しもうとしたようです。内縁の妻のジャンヌは、ボードレールのイラストによると、豊満な胸をしていたそうです。でも、彼は「痩せているほど淫らである」などと言っています。「死の舞踏」では、骸骨の女を称賛しています。

様々な美を。となると、バルザックの彫像だと、ロダンが有名ですね。麻袋に入ったアザラシと揶揄されもしましたが。あれだけ華やかな世界なのに、作者はアザラシみたいなのですから、それもまた、リアリティがあっていいような気がします。こうした美は、現代からすると、ちょっと認めにくいものかもしれません。

>"Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal(私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです)"なんて、この箇所だけ切り取って解釈したら、まるで男と女は理解し合う仲になったら最期、とでも言いたげな。

ははは。そうかもしれませんね。初恋を終えてしまったら、もう心は終わってしまい、目の前にいる女など目に入らなくなる、と言っているのと同じですから。おそらくスタンダールの『恋愛論』を思い浮かべるといいのでしょう。彼によると、音楽は、一度目は味わうことができるが、十度も聞くと、最初の楽しかった印象を追憶しているに過ぎなくなるのだそうです。

ボードレールは、女性の扱いは下手です。阿部良雄が『群衆の中の芸術家』という著作でドラクロワと比較していますが、貴族の御落胤と噂のあるドラクロワが情事を遊びと考え「甘美であった」と次々と重ねて行ったのに対し、ボードレールは叫んだり、暴力を振るったりします。感情移入してしまうのですね。彼はダンディになれないから、ダンディに関心があったのかもしれません。

>(Gérard Depardieu似以外の美青年でぜひ!)

この役者は若い時は本当に、息を飲むくらいの美少年だったのですけれど、なぜあんな巨漢になってしまったのでしょうか。美を自ら捨てる選択をして、それでも演技力で生きているというのは、なかなか強いことですが……。
しかし、拒食症の気があるモンテ=クリスト伯爵が、彼であった時にはがっかりしました。パスカル・キニャールの「めぐり合う朝」で食の細い音楽家サント=コロンブの主演も彼。堂々としているのもいいですが、せめてデュマとか、バルザックという大食漢の役を引き受けるのみにしてもらいたいものです。

ところで、Semper Eademの私の訳です。

ツモ同ジク(※ラテン語なのでカタカナ)

あなたは私にお尋ねだった、「あなたに訪れる、この奇妙な悲しさは、どこに源があるのかしら?
あなたの悲しさは、黒くて剥き出しの岩に打ちつけては引き、また打ちつける海のよう」。
――私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませると、
その先も、生き存えていることは、一つの悪となるのです。こんなことは誰だって知っている秘密であり、

苦しみは、非常に単純で、神秘などないのです。
これは、すべてに注がれる、あなたの喜びが輝いているのと同じことです。
だから、私の悲しさを探ろうとすることなど、おやめ下さい、おお、知りたがり屋の美しい人よ!
あなたのお声は甘美だけれど、お黙り下さい!

お黙り下さい、ものを知らぬ人よ! 喜び浮かれた魂の持主よ!
子供っぽく笑う口をした人よ! 〈生〉が我々を捉えるよりも、
しばしば、〈死〉が、ささやかな繋がりで私たちを捉えるのです。

どうか、どうか、私の心が「嘘」に酔いしれるままにしておいてください。
美しい夢に浸るように、あなたの美しいまなざしに浸るままにしておいてください。
あなたの睫毛の影で、長い間、微睡むままにさせておいてください。

お礼日時:2011/12/12 18:46

が、醜いのではないだろうか。

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この回答へのお礼

そう思います。

お礼日時:2011/12/11 07:42

ただいま皆既月食中。



首を左右に振るのみで、人間社会に対しての井戸端会議に終始するその精神。
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この回答へのお礼

はい

お礼日時:2011/12/11 07:40

こんばんは、iacta-alea-est2さん。




お賽ちゃんが絆創膏をとらないでと

まだ、痛いのかな?

うん、わかった。

おまじないひとつ 

ちちんぷぃぷぃ イタイタイの飛んでけ~♪(*^^*)/~~~

(*^^*)vお賽ちゃん、だいじょうぶ?

今度は何の本の紹介って?(BGMつき)

『チタンのおはなし (おはなし科学・技術シリーズ) 』[単行本]
鈴木 敏之・森口 康夫 著 / 日本規格協会 出版
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%82%BF%E3%83 …

ポルノグラフィティ 『アポロ』


リサイクル云々の話をぶったから ああ、「ぶった」と言ったからて「ビンタ」したわけじゃないし「ブッダ」でもないからね。心配しないで。そうそう、「双六」サイコロ コロコロ「振った」出た目の数だけ進むみたいな感じ?で、前の話「絵の話」から続いてるからね。感想寄せてくれてたわよね?「まぁマネだもんね。」と。うんうん。日本で初めの頃の電球といえば、フィラメントが熱に耐えられずに落ちちゃてたんだってね。松下のおっちゃん毎晩寝ずにどないしたら電球がちゃんとついてくれるんやろかと考えてはったみたいやね。ものの本によれば、フィラメントの素材探しにあっち行ったりこっち行ったりと日々飛び回ってはったとか。松下のおっちゃんも炭素フィラメントをつくり白熱電球を発明したエジソンのおっちゃんからヒントを得ててんてね。先駆者がいるわけだ。お手本。
「科学と工業の先覚者」の銅像が完成 1968年(昭和43年)
http://panasonic.co.jp/history/person/132.html

『プレステージ』
http://www.youtube.com/watch?v=99x64HQH6LM
ポルノグラフィティ『 元素L 』
http://www.youtube.com/watch?v=Gdjj3UQ7EQY&featu …

【チタン合金製造用母合金(マスターアロイ)の製造フロー・製法】
http://kunisan.jp/gomi/master_alloys_for_titaniu …
チタンは純チタンとしてだけでなく、チタン合金としても多く利用されている。特に航空機向け用途としては、バナジウム(V)、アルミニウム(Al)、モリブデン(Mo)、クロム(Cr)などを添加した合金が使用されており、純チタンよりも強度的なメリットが得られる。

こうした添加物は単体金属ではなく、例えばバナジウム+アルミニウムといった形の「母合金(マスターアロイ)」を粉砕したチタンスポンジと混ぜて合金化する手法が取られることが多い。

ここでは、その母合金の製法について紹介する。

バナジウムアルミニウム(VAl): 酸化バナジウムにアルミ粒を混ぜてテルミット反応を起こさせる。スラグ(酸化アルミニウム)を取り除き、ブラストの後、磁石で鉄分を取り除き、それから粉砕で粒を小さくする。これにアルミ粒とVAlを再び混ぜた上で、真空炉で溶解させて酸化アルミ分をさらに取り除く場合もある。その後、再び洗浄、粉砕、磁石で鉄分を取り除くなどした上で、航空機用の場合にはブラックライト検査で酸化アルミ成分を検出・除去したり、X線検査でタングステン成分を検出したりすることもある。出荷前に化学分析を行う。

クロム(Cr): 酸化クロムにアルミ粒を混ぜてテルミット反応を起こさせる。スラグ(酸化アルミニウム)を取り除き、ブラストの後、磁石で鉄分を取り除き、それから粉砕で粒を小さくする。航空機用の場合にはブラックライト検査で酸化アルミ成分を検出・除去したり、X線検査でタングステン成分を検出したりすることもある。出荷前に化学分析を行う。

※テルミット反応: 金属酸化物に純アルミニウム粉を投入することで、金属酸化物が還元されて純金属となり、アルミニウムは酸化されて酸化アルミニウムとなる。この際に高熱を発するため、還元された金属は融解温度まで達して融塊となる。

※航空機用母合金でX線検査が必要な理由:X線検査はタングステン(W)などの重金属を発見するために行う。母合金にタングステンが入っていると、チタンを溶融する1800~2000℃で融点の高いタングステンが溶融せず、タングステンが存在しているところが圧延時にひび割れの原因になったり、ひどいケースではタービンブレードなどの使用中にヒビが入ってしまったりする可能性も考えられるため。



【タングステンの回収処理方法】
http://www.ekouhou.net/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82% …
【背景技術】
近年、電子材料や電極材料としてタングステン含有薄膜が用いられており、成膜用ターゲット原料として高純度タングステンの需要が高まっている。しかし、タングステン原料の資源は限られており、その安定な供給が問題になっている。一方、超硬合金は炭化タングステンなどを含有しており、超硬合金スクラップにはタングステンが含まれているので、このスクラップからタングステンを回収し、有効に利用することが求められている。

【半導体デバイスの故障メカニズム】
http://japan.renesas.com/media/products/common_i …

【走査型電子顕微鏡(SEM)で分かること】
http://gtech.yz.yamagata-u.ac.jp/technicalreport …

平成22年度「レアアース等利用産業等設備導入補助金(一次公募)」
採択事業一覧
http://www.meti.go.jp/press/20110225001/20110225 …
【公募概要】
本事業は、我が国主要産業の高い国際競争力を維持・強化するために必要不可欠な原料であるレアアース等の使用を極力減らす技術、使用しない技術を活用した製造プロセスの事業化や、レアアース等の国内循環に資する設備の導入等を促進することで、我が国において、レアアース等の供給不安に左右されない強靱な産業構造をいち早く実現することを目的とするものです。

この回答への補足

ところで、リトルキスちゃんって、へうげもの、観てる(読んでる)? あれ、結構面白いよね? 物欲の権化と化した数寄者の姿って、ブルータス片手にマストアイテムを集める今日のチョイ悪オヤジらみたいで、笑える。

補足日時:2011/12/11 08:00
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この回答へのお礼

リトルキスちゃん、優しいね。甘えておこうかな。でも、私はどちらかと言うと、写楽ホウスケかなぁ。アブドルダムラルオムニスノムニスベルエスホリマク……って、知ってるでしょう?

ポルノグラフティは、いいね。リトルキスちゃん、テーマソングつながりで、鋼の錬金術師とかも好きでしょう?

マネはねぇ、真似じゃなくて、彼のジャポニスムは有名で、私もよく知っている画家なんだ~ボードレールの年下の友達だもの。

次のサイコロはどこに転がるかな?

お礼日時:2011/12/11 07:37

何度も本当にごめんなさい。

。。

 ○「素晴らしい見せかけで光かがやいているこの顔の方は。」の陰に隠れてしまっていますね、本当の顔は。

(×「素晴らしい見せかけで光かがやいているこの顔の方は。」が陰に隠れてしまっていますね。)
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この回答へのお礼

いえ、何度でもお気軽にいらしてください。文法ミスはお気づかいなく。私もミスだらけです。

お礼日時:2011/12/11 07:26

>女性のことを軽蔑する一方で、女性の参政権を唱えた女性闘士を詩に登場させもするのです。

彼の場合、ああいえば、こういう、という曖昧さを常に持っているので、一概に、言い切れないのです(これが扱いにくさだと言われます)。

「仮面」についてです。
オルセーのサイトでは角度的に「惑わしの装飾」しか見えないのですね。
「素晴らしい見せかけで光かがやいているこの顔の方は。」が陰に隠れてしまっていますね。
角度によっては、一見あの官能的な「聖テレジアの法悦」を彷彿とさせるようでいて、でも、このLa Comédie humaineというタイトルからして、やはりどこか自信ありげに挑発しているのでしょう。

そしてボードレールはあらたに見出し、巧みに表現しているのでしょうか。
"Mais pourquoi pleure-t-elle ? "
などとこの彫像の内に上述のご指摘に通ずるような、更なる二律背反の曖昧さのようなものを?
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この回答へのお礼

たくさんありがとうございます。先に「仮面」のことについてお答えしてみます。そうですか、「仮面」がお好きとは。興味深く伺いました。これは実体験がおありになる方ではないと、ちょっと分からないものかもしれませんね。なるほどな、と思ったものです。

ボードレールは基本的には、とても我儘で女性にあまえたがりの詩人です。しかも、自分が相手に理解されるなどとは夢にも思ない人です。いや、相互理解に意味があると考えていないのか、何なのか。「イツモオナジク」Semper Eademでは、「いつも悲しいみたいね。ねぇどうしたの?」と聞いてきた女に「黙っていたまえ」などと言って、崇拝される偶像であってほしいなどというのです。彼の悲しみの理由が面白く、Semper Eademでは、Quand notre coeur a fait une fois sa vendange, / Vivre est un mal「私たちの心は、一度、ブドウの刈入れを済ませてしまったら、生きていることが悪となるのです」などと応じます。ボードレールの詩のハイライトとなる一節ですが、謎めいていますよね。しかも、これが誰でも知っていることだ、というのですから。一度激しい感情を味わって、心が焼き切れ、追憶に耽る以外にもう心が働かなくなったということなのでしょうけれど、なぜ彼にそんなことが起きたのか。
ともあれ、女に余所行きの顔をしてもらうというパターンは「秋の歌」の後半でも見られます。「賛歌」でサバティエ夫人に告白した際も、idoleという語を連発。ともかく、崇拝できる対象であってほしく、俗なところなど見せないでほしい、と思ったようです。こういうところが、子供っぽいと言われたりもします。

でも、「仮面」「告白」を読むと、この偶像の内面に、実は見かけでは推し量れないものがあることを知っていたと言えます。そして散文詩「窓」では、「俺の思いこみであるという人もいるかもしれないが、何が悪い?」と開き直って見せさえするのです。わかっているくせに、相手に理想を押し付けざるを得ないというところが、ボードレールの悲しいところです。生に希望を見出すためには、憧れるアイドルが必要な精神構造だと言ったら、ちょっと通俗的過ぎる表現でしょうか。でも、ロマン主義の詩人らは、このテーマを連発します。詩人が暗闇にいるとき、女性が救いに来てくれる!というテーマはネルヴァルに顕著です。ボードレールの場合、自分にとっては救いの偶像と女性を見ておきたいのだが、本当は違うのだろうな、と達観していたところが、幾分、特徴的です。

彫刻「仮面」については、人文書院の解説をお持ちのようですし、マシュマロさんは仏語がお読みになれるらしいので、下手な解説は不用と思いますが、一応、話のタネということで。
ご存じのように、韻文詩「仮面」はエルネスト・クリストフの「仮面、あるいは人間喜劇」という彫像がモチーフです。クリストフは、もともとレアリスムの巨匠と言われるフランソワ・リュードの弟子でしたが、リュードの死後の辺りから、作風が一変。ロマン主義へと偏ります。もっともロマン主義と一口に言っても、ロマン主義の中には、バロックへの回帰という要素があり、最初にクリストフが手掛かりにしたのは、どうもこれであるようです。
「仮面」では、ご承知のように顔が二つあり、一つの身体に一つのイデーが宿る、という古典主義的なテーゼが裏切られています。顔が二つあって、一方の顔が死角に入ることで、表情が変化するようになっています。あれは彫刻における騙し絵です。いかにもバロック的なテーマですが、たとえばルーヴルにある「両性具有者」の像において顕著です。前から見ると性器が見えるので男性ですが、後ろから見ると、女性に見えます。でも、もしマシュマロさんが他にご存知なら、教えてください。結構、面白いなと思うので。
http://cartelfr.louvre.fr/cartelfr/visite?srv=ca …
写真が、少しましなのは次のサイトでしょうか。
http://www.insecula.com/oeuvre/O0005343.html
こうした事情をもしかしたらご存じなのかなぁと思いつつも、ベルリーニの傑作に似ているとは、本当に、マシュマロさんの御見識には感服しました。私もそううっすらと感じていましたが、あらためてバロック的であるということを考えても見れば、ベルリーニと結びつけるのが当然かもしれません。

この彫像は表題に「人間喜劇」とあるように、バルザックの墓標をイメージして造ったようです。おそらく、創作立案の段階から、クリストフはボードレールと話をしたのだろうなと思います。ボードレールは『1846年のサロン』で彫刻はなぜ退屈か?と弁じ、批判点は複数ありますが、その最大のものとして、空間芸術であることがそもそも悪いんだ、と言っているのです。ディドロの辺りから、こうした論評の仕方はよくある話しなんですよね。しかし、彫刻もやってやれないことはない、とクリストフにいさめられたというところなのだろうな、という印象です(印象でしかありません。クリストフの研究はすごく少ないので、カチッとしたことは言えないのです)。
まぁ変に一方が一方に影響を与えたというよりは、いわゆるボードレールお得意のバロック復興ということで、二人とも、この時期、趣向が似ていたと言った方が正確かもしれません。それでも観る位置を変えることで表情が変わるとは、面白い発想だと私は思うのですが、クリストフはこの作風を極めるようなことはしませんでした。彼は実家がお金持ちで、作品を売る必要が無く、悠々自適だったのですが、やはりお金持だったのが問題?と惜しく思ったものです。ちなみにクリストフでは、これを三回作りなおします。一回目はボードレールに見せたが、サロンに出展せず(消失)。二回目はサロンに(三等)。三回目はボードレールの思い出に。二回目のものだと女性が少し太めで、これがオルセーにあります。三回目の復元が、ロッシュにあります。画像はAtelier de Baudelaireが掲載するものが角度を変えて写真を四枚も並べ、いかに騙し絵であるのかを鮮明に伝えてくれています。が、これは専門書で、ちょっと普通の図書館にはありません。googleの検索で、christophe, masque, baudelaireと入れると、少しオルセー以外の写真が出るようです。

お礼日時:2011/12/09 17:02

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