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美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。

私は続けて考えました、――仮に、恐るべき僥倖が起き、天上の神とでも言うべき存在が、美の定式を快く教えてあげたとしよう。しかし、それがいったい、この人にとって何になるだろうか?と。この美を問うものは、実例がないのでは、まず、その定式が正しいかどうか、正しく判断する材料がないことになる。そして、美の定式が分かって、ますます、美についての造形が深まるということもない。受け止める力がそもそもないのだ。しかし、一体全体、定式を知って何になるのだろう。そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。

私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。美に関心はなく、労力を払う気は一切ないが、尊敬だけは集めたいのだ。しかし、なるほど、こういう人は実は多くいるものです。ただし、多くの人の場合どうするか。自尊心を満たしたいだけなら、ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。そして、美とは何かを問い求めてボロなど出さずに、内なる殻にこもっているものです。
しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。俺は美に見開かれていない、しかし、美について教えろ、と叫んでいる。あたかも、俺が美だと思うものを、目の前に並べてくれ、とでも言うように。何たる傲慢。社会に対する反逆。というのも、結局、こうした話は、俺に美を与えなかった社会を許さぬ!美を享受している者よ、分け前をよこせ!おまえの施しが不十分なら、俺は痰を吐きかけてやるし、その権利があるぞ!という態度でしかないからです。そしてこの方には、身近に見つけた、ささやかな美に感謝し、それを深く知ろうという謙虚な態度がないのです。

私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。
が、逆転の発想があることに気付きました。彼は、醜さというものについて、豊富な例をもって語ることができるのではないか? 醜さならば明晰に定義することができるのではないか。そこで、この点に気付いた私が、問うてみることにしたのです。醜さとは何か?

美を求めていても、さっぱり得られないが、しかし、醜さを罵ることにかけては一流の腕を持っているという方々。我こそは美に見開かれていないと自負し、ミューズにいかに嫌われているかを吹聴し、己の理不尽を抗議したいという方々、歓迎いたします。
念のためにいえば、次の論述の手順を踏んでくださいますよう。
(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。
(2)醜さとは何かを定義する。
(3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。
これは大変有意義でしょう。というのも、醜さが定義できるのなら、醜さを効率的に避け、美を選びとる術が明らかとなるからです。なお無用と思いつつ、最後に一つ付け加えれば、これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。私のユーモアとお考えくください。

それにしても、ここに回答し、自らが美の乞食であると認め、醜さを知りつくした悪の王であると証明しようという勇気のある者が、――言い換えれば、匿名とはいえネットという公的な場で自尊心を危険にさらすスリルを味わおうという者が、私以外に、果たしているものでしょうか?

A 回答 (47件中41~47件)

#7です。



「醜さとは、機能に裏打ちされない造形のうち、他との相違を際立たせたもの。」

省略されている部分をかっこで補足しますと、、、

醜さとは、(一般に)機能に裏打ちされていない(無駄な)造形(すべて)であるが、(なかんずく)他(の同種の物)との相違を際立たせたもの。

まさに安藤さんの初期の駄作が好例ですね。
>これは金満家の自己顕示ではありません。
はい、これは安藤さんの自己顕示です。

長屋建てというのは隣家と壁を共有することで建設コストと建築用地を節約する建築方法です。住吉の長屋は隣家と壁を共有するという長屋の根本機能を否定してなおかつ長屋と自称するなど醜悪にして奇抜な建築家の自己顕示です。

外壁面に窓を付けないことはアフリカやモンゴルの住宅で当たりまえのことですから、これは構いませんが、材質として断熱性が低いコンクリートを使うことや、雨の多い気候風土なのに傾斜のある屋根を付けないなど近隣の住宅との相違を際立たせることが醜さの第二点です。結果として町並みを一層醜いものにしている点でもこの作品の醜さは本物ですね。

その醜さが故に、「住吉の長屋」のような住宅が日本の狭小住宅のスタンダードになれませんでしたね。

若き安藤さんは、美を捨てる代わりに売名を選び、愚かなる日本建築学会が安藤さんの作戦に引っかかったということです。


金持ちが美に貢献する方法もありますよ。
それは、私財を投じて伝統建築を今に再現することです。
日本の金持ちなら日本建築、ドイツの金持ちならドイツ建築でよろしい。
日本の伝統建築では現代生活に不便な面がありますが、カネがあれば、日常生活の利便性を一部に完備しながら全体として伝統建築の様式を後世に伝えることができますね。大きな無駄遣いをしないと「使えない部屋」「使わない部屋」に何千万円もかけて伝統建築を今によみがえらすことはできません。金満家ならではの社会貢献であり、美学でありえますよね。

最後に。
ダンディってのは、ある意味自分の個性を潰しても、伝統的に生き残ってきたものに価値を見出す美学じゃああんめいか?  自己顕示のためのダンディもあるかもしれねぇが、それは上等なダンディじゃあねえ気がするぜい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうですね、あれは安藤さんの自己顕示でしょう。私は彼が「住吉の長屋」という棺桶を建てた時、どういう境遇にあったか、詳しく知りません。想像するに、もし普通の建築物を建てていたら、彼は高卒の建築士として、等閑視されていたのだろうな、と思います。しかし、棺桶が受賞したことで、見事にのし上がって行ってしまった。生存競争で勝つための自己顕示、といってよいのかどうか。安藤的な理屈によれば、これに違いないだろうとは思うのですけれど。

もっとも、この自己顕示、実に非情なものです。親方は壁面に壁が無くてもよいとおっしゃるが、私はやはり、恐ろしいな、と思ったものです。万が一にも私が建築士だったら、そこに住む施主のことを考えて、どうしても窓をとりつけずにはいられない。街の雰囲気を取り込むことなど無く、中庭に、ただ空気穴が開いているだけ。雲の流れなど見えるでしょうが、天空の様相は、自然と関係こそあれど、街と関係ないのです。
実際、安藤氏は「昔を閉じ込めた」などと言っていますが、閉じ込めるという行為は、外部をシャットアウトして成立するのであって、棺桶を作ったといことと同義です。棺桶が比喩として粗暴なら、金庫でもいいですが、ともかく中に入っているものは、人間ではありません。収納するモノです。

これをどう評するか。私はダンディといいました。それは、
・予算の無い中で目立つ、
・自ら絢爛さや機能性を削り落とす、
ということに当てはまるからです。ダンディは最初何をやったのか。たとえば、お金をかけずに目立つ黒服です。貴族らが絢爛豪華な衣服を着てきた時に、自分から真っ黒な格好をしてしまった。不吉な喪服を自ら着たのです。職人や文化が作り上げてきた文様には頓着しなかったし、それを殺してしまった。着てきた当人が不吉なのは自己責任としても、周囲も不吉な気分になったことでしょう。「ダンディ」という点だと、おそらく、安藤氏の棺桶は、ダンディなのだろうとは思います。わびさび的にも、綺麗に咲いた庭の花を一輪を残して摘み取ったのと同じ冷徹な発想を感じます。

しかし、また別の美学があります。親方の言うのは「粋」ということでしょう。自らが少々損をしても、他を生かすということはありません。ここでいう「他」とは、隣の家、街並み、文化などです。ダンディと粋の違いは、両方とも目立つには違いないが、前者が周囲を無視することによって目立ち、後者が周囲を引き立てることによって目立つという差異があると私は考えています。

さて、考えてみたら、お金を張り込む時、機能面に投資していることは稀です。
・ブランド
に投資していることが大半です。しかし他に、
・文化保存
に投資している側面があります。
しかし家だと言わなくても、こういうことは身近なことからできるものだと感じます。ブランド品を買う金があったら、(割高感はあるとしても)職人の作ったものを買えばいいのですから。身近なところでいえば、私は、食事で、味噌、醤油、昆布などにお金を張り込むことにしています。外食はやめて自炊にする代わりに、材料費にお金をかけるという方針です。肉とか魚は、普通のものです。人に御馳走すると、分からない人には全くわからないようで途方にくれますが。

さて、ここまでをまとめると、醜さとは、
――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。

お礼日時:2011/12/04 10:40

(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。



街一番のお大尽が有名建築家先生に依頼して作らせた街で一番の目立つ家。


(2)醜さとは何かを定義する。

醜さとは、機能に裏打ちされない造形のうち、他との相違を際立たせたもの。


(3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。

本質的に美と相容れない芸術作品。その芸術作品の存在意義とは、生命の機能と物理の法則に裏打ちされた大自然の草木、樹林の美しさを再発見させることにある。

有名建築家の奇抜な目立つ造形。その奇抜建築の存在意義は、地場の建材を利用し地域の気候から人を守る機能に徹した伝統建築の美を再発見させること。

今、人は、新建材を思うままに使い、精密な構造計算によって、丈夫で快適な家を手に入れたと思っている。
その高機能な新建材の利用と合理的な構造強度計算がなぜ建築美に収れんしないのか?
人間の審美眼は、表層的な材料科学や構造計算の裏に隠された反人間的、反自然的な本質を”嗅ぎつけてしまう”からではないでしょうか。

自然界の高機能、なかでも人間の”高機能性”はダントツですから、反自然、反人間は、すなわち「高機能ではない」という仮説もなりたちますね。

性能が良い飛行機、機能が豊富な建設機械などに美を感じてしまうのはアッシだけでは無いですよね。
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この回答へのお礼

親方、どうも、お久しぶりです。ありがとうございます。私も、多機能のものが好きですよ。私がもっている機械など高が知れていますが、わかりやすいところでは、ペンなど、ジェットストリームの多色ボールペンを愛用しています。一番、性能がいいですから。どれだけ乱暴に書きなぐっても、万年筆のようにスラスラ書けます。性能がいいと便利ですし、安心します。さて、少し補足回答のお願いをしてみたいと思います。

>醜さとは、機能に裏打ちされない造形のうち、他との相違を際立たせたもの。

「他」が何かが問題ですね。たとえば、ボディビルダーの筋肉など、あまり役に立たないようですから、これなど、醜いものに部類されるでしょうね。それよりは、労働によって磨かれた筋肉の方が美しい。この場合、「他」とは自然な状態のものということでわかります。
しかし、建築の場合はどうでしょう。建築がそもそも人工物ですので、「他」がそのまま自然とはならないでしょう。鳥やビーヴァ―の巣のような建築物こそ、自然であって、美しいということにはならないでしょう(いや、そういう現代建築はいくらでもありますが、奇抜な現代建築が醜いと仰るので、こういう意味ではないでしょう)。やはり、世間一般と比べて「他」ということかな、と思うのです。

そこで安藤忠雄の「住吉の長屋」を考えてみましょう。まず建築物の特徴ですが、天井が問題でしょうね。雨が降ったら、傘を差さないとトイレにいけません。もっとも安藤は、天井がないから自然と共に暮らしていける家だと言っていますが。加えて、壁面に窓一枚無く、棺桶の類です。機能性はコンクリートなので丈夫。間違いなく、街で一番どころか、その当時の日本で一番奇抜な建築物の一つでした。
しかし、これは金満家の自己顕示ではありません。もともと建築費用が一千万円で、特にお金があるわけでもないという代物です。安藤も、大学さえ出ていない建築家。結局、何もない中で「ゲリラ的」と称する精神で、奇抜なことをやったわけです。大金持ちが、これ見よがしに、豪邸を建てたのとは異なります。限られた中で、目立つ限り目立ってやろうとしたわけです。普通にしていれば、生き残れませんから。

こういうのを語源的な意味で「ダンディ」といってよろしいと思うのです。つまり貴族ほどのお金はないが、社交界に出入りするブルジョワが、凡庸なお金持ち(=他)と異なることをやったというわけです。これもこれで、社会的な機能や、意味はあるわけです。いや、醜いと仰ってよいですよ。そういうスレッドですから。しかし案外親方は、ダンディを認めるのではないかとも思えるのです。というのも、親方が醜いと思うのは、金満家は放っておいても抜きん出ているが、さらにそれを皆に見せつけようとしているという過剰な虚栄心が嫌だ、とおっしゃっているように思えるからです。

今のところ私の理解した範囲でいえば、醜さとは、
――他を見下すための自己顕示。

お礼日時:2011/12/04 01:20

 こんにちは。

話が少しずれるかもしれませんので、お気に召さなければ読み飛ばし、若しくは削除を求めて下されば幸甚です。
 日本でも松本幸四郎氏が演ずる作品として知られる「ラ・マンチャの男」というミュージカル作品があります。
作品自体は投獄されたセルバンテスが地下牢で自らの著した物語を演ずるという多重構造の作品です。セルバンテスはドラマの主人公である想像上の人物ドン・キホーテと彼を妄想の中で生み出したアロンソ・キハーナという老人、そして自らが彼らを冷静に観察する人物として登場します。ここに登場するのは「理想家のドン・キホーテ」と「現実観察者としてのセルバンテス」二人は一見、対極に位置するようにも見えますが、その実は互いに惹かれあう存在ではなかろうか、と僕は個人的に理解しています。
 この作品で象徴的な台詞がありこれは様々な文章に引用されています。「狂気とは何か。理想ばかりを見て現実を顧みないことも狂気かもしれない。一方現実のみを見て理想を見ないことも狂気かもしれない。だがしかし最も憎むべき狂気とはあるがままの人生に折り合いをつけてあるべき姿を見ようとしないことだ」との一言です。
 作品中には作品を著したセルバンテスに対し、現実主義者のカラスコが登場し鮮やかな対比を見せています。卑俗な喩えで恐縮ですが、生きていくためには何らかの形で収入を得なければならず、そのためには韓信の股くぐり的な事に出会わないとも限らない。それを「自らのポリシーにはそぐわない」と拒絶ばかりしていては生活することも儘ならなくなってしまう。けれど「ささやかながらも自らの目指す理想」は心の片隅か何処かに持っていたいと葛藤するのが殆どだと思うのです。
 この言葉を御題の「美と醜」に置き換えてみたらどうだろう、と考え駄文を綴らせていただきました。同じく松本幸四郎氏の作品に「ZEAMI」があり、ここでは世阿弥は「猿楽能を能楽へと深化発展させた人物」であり彼がそのために何もかも捨て「一つの価値観に縛られる狂気」若しくは「能楽そのものと同化してしまう」、さながら「能の虜」の如き存在になってしまう悲劇性と同時に、彼が拘る「幽玄美」(=評論の対象としての存在・価値基準としての存在)と息子の元雅が求める「舞踊」(=自らが踊って楽しむ盆踊り)と対立し、最後は世阿弥自らが「能楽の大成者」として祭り上げられ孤高の存在となってしまう模様を描き出しています。
 僕はセザンヌの「林檎とビスケット」を観ていて、あの林檎は果たして本当に「静物」として動かないのだろうか、との疑問を感じ、高校時代に美術の先生に「この林檎の絵を見ていて、果たして林檎が転がらないのか?」と質問した憶えがあります。絵画や美術には余り詳しくはないので質問者様かららは鼻の先で笑われるかもしれません。でも僕にはあそこに描かれた幾つかの林檎の中の一つはコロコロと転がり出しそうな雰囲気を感じてしまうのです。僕がこの御題で感じたことは「対極にあるモノが無ければ検討は可能だろうか?」との素朴な疑問でした。「美」を問うために「醜」に光をあてる、けれどその「美」なり「醜」といってもそれぞれに何らかの形で客観的な指標が必要ではないでしょうか?。僕は空海の「聾瞽指帰」も好きですが藤原佐理の「離洛状」も好きです。筆致の違いに甲乙など付けようがない、との持論が僕の感想です。取り留めのない話になってしまいましたが如何でしょうか?。
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この回答へのお礼

タヌハチさん、こんにちは。御病気はどうなりましたか。お元気らしい、と受け取ってもよろしいでしょうか。私のことはサイコロとでもお呼びください。賽は投げられたのだ、という意味のハンドルネームですから。

>「美」を問うために「醜」に光をあてる、けれどその「美」なり「醜」といってもそれぞれに何らかの形で客観的な指標が必要ではないでしょうか?

タヌハチさんは、感受性に恵まれてらっしゃる方ですね。何をご覧になっても楽しめるようですから。だからいっそ、基準がないと混乱してしまう、とおっしゃるように思います。
ところが、私など、どちらかと言えば、何を見ても楽しめない。質問文を自分で書いておきながら、あとあと自分で考え直してみると、「評論家の書いた美の定式を後生大事に抱え込む」というのは、ああ、私のことかもしれないな、と思ったものです。ボードレールの美の定式、「美とは常に奇矯なるものである」だとか、スタンダールの美の定式「美とは幸福の約束である」など、私こそ、文人らの美と思う定式を検討している段階です。
白州正子はどこかで、比較的安い骨董品を購入するのは勇気がいる、自分の美の価値観が晒されてしまうのだから、と言っていました。なるほど、と思ったものです。評論家の美の定式に沿ったものは、もう名品とされて高値で取引されている。が、その価値からこぼれるものでも美があるはずだと思って、いわゆる二級品にも目を向けてみるわけです。そこまでの経済的なゆとりもないが、心のゆとりもないのが私だな、と思ってみたりします。

こう考えるので、客観的な指標に、私はあまり意味を見出しません。権威ある文人の価値観は、世間で認められているという意味で客観性を獲得するに到ったかもしれません。が、それは借りモノなのです。価値がないとは言いませんし、それを言ったら、私など困り果てますが、これを知りたければ、対話するのではなく、本を開けばいいのです。立派に説明してくれている名著がいくつもありますから。
それよりほかに面白いことがあります。たとえば逆説的にも、このスレッドで醜いと定義されたものが、美術史では実は美の定式であるということが既に発生しています。なかなか興味深いことではありませんか。さらに実は、もう一つ、「美の乞食」が乞食でなくなるという点をめぐって、実は、私なりの持論に基づく仕掛けを施しているのですが、これは締める時になって書こうかなと思います。

タヌハチさんのご意見でもあるかな、と次の一節に注目してみます。「だがしかし最も憎むべき狂気とはあるがままの人生に折り合いをつけてあるべき姿を見ようとしないことだ」。ここでいう醜さとは、
――実存は本質に先立つ、と開き直ること。

お礼日時:2011/12/03 20:33

こんにちは。


質問の趣旨にそぐわず牽強付会になることをどうかご容赦下さい。

(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。

日本の絵巻物や屏風絵をネット上にて静止状態、平面状態のものとして観た際に感じる違和感、あるいは何も感じない感想の欠如。
または、美術館において無機質に飾られているのをガラス越しに観たときに受ける違和感。

(2)醜さとは何かを定義する。

多少の配置の趣の違いは否めないとしても、西洋絵画や彫刻、調度品の場合、ある意味自己完結型というか、どこの部屋に持っていってもその作品自身の本質や評価はだいたい不変である。
ところが絵巻物や屏風絵といった日本の古典作品の場合、設置や鑑賞法いかんによっては、作品の良さが生かされるどころか、かえって野暮で見劣りし存在そのものが不要に思われかねない余地が否めない。
西洋由来の一律的な美術館博物館内における展示鑑賞法が必ずしも最適とは言い切れない面がある。

よって、醜さとは不利である。 間の悪さ。

(3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のように、あるいは少なくとも京都の智積院の収蔵庫のように、ガラス越しではなく鑑賞者が靴を脱いで入り、板の間に上がって鑑賞する手法のほうがまだ好ましいように思われる。
絵巻物の場合、オリジナルの展示の際には鑑賞者が自由自在に見開きできる復元品の設置が望ましい、等々。

日本の古典美術一つ一つの装飾性の特質に鑑み、作品が美にも醜にもうつろいかねないもっと粋で優雅な鑑賞手法の柔軟さが模索されるとするなら、《醜さ》とは既存の与えられた設置鑑賞手法を何ら疑うことなく受け身に徹する姿勢に他ならず、そしてそれに結果的に非力を痛感し現状に甘んじている私自身、文字通り美の乞食でしかないのです。
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この回答へのお礼

いえ、質問の趣旨に反するということなどありませんよ、質問は、いわゆるサーヴィスです。どうもおどろおどろしいが、やってきてみたら、案外、居心地がよいではないか?というのが、この問いのコンセプトであり、今回のおもてなしの仕方です。
本来はもっと美しく鑑賞できるはずの素材が貶められていることが許せない、という風に読みました。マシュマロさんは、確か、学芸員さんか、元学芸員さんでしたよね。私はそうした側に身を置くことがないので、ちょっとない発想でした。そして、これは世界中の美術館を回ったらしいマシュマロさんならではですね。

>多少の配置の趣の違いは否めないとしても、西洋絵画や彫刻、調度品の場合、ある意味自己完結型というか、どこの部屋に持っていってもその作品自身の本質や評価はだいたい不変である。

ヘーゲルもそう書いていますよね。いかなる環境でも魅力を発揮できるように創作しなければ、芸術は装飾物の一つに過ぎない、というようなことを。そう、芸術は、装飾物などになってはならず、そのためには、装飾という実用性とさえ、かけ離れたものにならなければならなかった。
日本の美術品はそんなことを考えはしなかったのでした。日本において、最大の価格がかつてつけられたものとは、茶器でしょうが、これなど、使ってこそ、美が現れます。茶を入れてみるとか、薄暗い茶室で使ってみるとか。ガラスケースに入れて展示されても、抒情性が剥奪されてしまいます。そして、照明器具のあり方が変わった今となっては、真価を発揮することはないのかもしれません。絵巻物の絵も、やはり、環境に依存します。
ヘーゲルの信奉者なら、日本はなんて立ち遅れているんだろう?バロック以前のレヴェルにあったのだな、などと思うかもしれませんが、私は、特にロマン主義がいいと思わない(!)ので、日本風が好きですね。

実際、ロマン主義より時代がずっと下った二十世紀の初頭から、西欧でも「装飾芸術」というものが生まれますよね。たとえばオランジュリー美術館のモネなど、他の美術館にもっていくことも不可能なら、他の美術館にもっていっても、魅力を発揮できないでしょう。ご承知のように、巨大な睡蓮の絵が部屋の四方をぐるりと囲んでいます。しかも、外光を当てることで、時間によって、四季によって、絵の表情が変わります。日本の美術品にも、これくらいの配慮が欲しいな、とは思います。
美術品を人間のように愛するのなら、美しい一面も、醜い一面も、両面が分かってこそです。図らずも、このスレッドで明確に私にもそれと認識できましたが、人が醜さと感じるものが、また別の人にとっては美と思えることもあるわけですから、作品の表情が変わることは幻滅を引き起こすとは限らないでしょう。あたかもスタンダールの語る恋のように「結晶化作用」が起き、醜さの中にさえ、美を見出すかもしれません。さて、こういうわけで私なりに醜さをまとめると、
――作品に注ぐ愛情の欠如。

お礼日時:2011/12/03 19:46

あくまで私の美意識に基づく見解ですので、反論はいかようにもお受けいたします。



1)カラヴァジォの一連の作品は、私にとっては醜いものの代表としか感じられないのです。彼の作品は日本での評価は高いようですし、NHKで製作された彼の生涯についてのテレビ番組も、英語版を見て、イタリアで再評価されているのも知っているのですが。

2)昇華されることのないもの。自意識の周りをブンブンと飛び回っている、アブのような低い精神性。

3)彼の作品は、何を描いても主人公の顔は全て自画像になっています。マタイ、ダビデ、マリア、さらにゴルゴンを描いても、顔は自らを映した、鏡の中の自分そのままです。

ルネッサンス後期に生まれ、周りの画家達がマンネリズムの泥沼で苦しんでいる時に、いち早く光と影の魔術を画布に再現させ、次の時代の幕開けをになった人であるのに、惜しいことだと思います。もう少し長く生きて、世界を客観視できるようになったなら、素晴らしい画家に成長したかもしれないのです。

醜さの序列、というのは、私には理解できませんでした。
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この回答へのお礼

Cipaopoloさん、こんにちは。よいご投稿、ありがとうございます。カラヴァッジョですか。これは手厳しい。しかし、彼のことをよく御存じなのですね。その上で、醜いと判断なさった、と。反論は致しませんよ。というのも、これが議論の入り口であって、それを疑うと結局、「話が合いません」という詰まらない結論にしかなりませんから。いや、一般論として、そもそも顔も知らぬ人間同士、話が合わなくて当然なのです。が、それでも何か有益なことを探るのがネットの議論というものです。すでに指摘が来ていますが、不毛さは醜いのであって、これを避けねばなりません。

醜さの序列と面妖なことを書きましたが、結局、私の問いは、
(1)定義のモデルとなる事例の提示
(2)エッセンスの抽出
(3)その応用例
の手順でどうぞ、ということに過ぎません。これ、サロン評の手順です。(1)もっとも優れた作品を示し、(2)褒める中で評論家の審査基準を明らかにし、(3)あまり優れていないが無視できない作品を評価する。こうすると最後には、一等、二等、と序列がついているのです。
数多ある出展の中で、みるべき作品を来館者に教えるのがサロン評の役割です。だから、上記は序列をつけるための議論の手順だとも言えますが、こうなると、定義がさらに細かくわかるというメリットがあります。

というわけで、ガラヴァッジョについてお考えになったことを他にあてはめるとどうなるでしょうか。文学者でいうとジョイス、ジュネ、画家でいうとダリなどどうでしょう。彫刻家なら、村上隆かな、と思ってみたりもします。音楽家にこの基準を当てはめるのは難しそうですね。というのも、あからさまに「自意識」を示す手掛かりがないからです。強いていうと、演奏中に陶酔して、唸り、両手で弾くべき箇所を片手演奏に切り替えて、身をくねらせているグレン・グールドなど、どうでしょうか。

末尾で私は、確認の意味を込めて、私の言葉で改めて醜さの定義をまとめてみることにしていますが、ここでいう醜さとは、次のようなものと同義と考えられます。
――ナルシシズムに耽溺すること。

お礼日時:2011/12/03 08:08

実態は美の乞食でもなんでもないただの議論に飢えた乞食でしょう。



ですから審美性とか美の探求などとは一切無縁のただの俗物だということです。

終始不毛な議論を繰り返すだけでなんの生産性もありません。

真面目な人は神経症に陥るだけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。鋭い。必要性がないのにスレッドを立てるのだが、実は虚栄心というのではなく、単に話をしたいだけかもしれません。私も時折そうです。

ここでいう醜さとは、
――他人を不毛さに巻きこむこと。

お礼日時:2011/12/03 01:30

(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。


「求めること」

(2)醜さとは何かを定義する。
「求めること」

(3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。
「「求めること」が、(個別具体的な?)必要性から離れていれば、離れているほど、醜い」
「腹八分」というのが良いのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ここでいう醜さとは、
――飢えた虚栄心。

お礼日時:2011/12/03 01:28
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