武田信玄に関してお聞きしたい事があります。

私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。
ただ52歳で亡くなっており、短命でした。
京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが
もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら
どちらが勝ったでしょうか?

織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか?

また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか?

それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。
皆殺し、人質を売ったり等…
これは事実なのでしょうか?

皆さんの予想をお聞かせ下さい。

A 回答 (5件)

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。

と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。
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信長には勝てなかったでしょう。



信長は、桶狭間の戦いだけです。
相手よりも少ない軍勢で戦ったのは。
信長は、あれは運大きな勝因であった、ということを
充分承知していました。

あれで、大軍の強さを身を以て知ったのです。
だから、桶狭間、
それ以外は、ほとんど相手の軍勢の数倍を擁して
から戦いました。
つまり、戦う前に、殆ど勝敗は決していました。

それに較べて信玄は違います。
兵の精強さを誇るだけです。

このように根本的な考え方が異なります。
信長の方がはるかに合理的です。
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武田信玄と言えば騎馬隊が有名ですが、当時の馬は足が短く、


体も小さい馬でした。
そんな馬に重さ30kgの鎧を着た武士が乗るんですよ。
当然馬のスピードはゆっくりなものでした。
織田・徳川にとっては脅威にはならなかったと思います。
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信玄が長生きしても、織田の邪魔をする存在以上にはなれません


そのうち自滅するか織田の軍門に下るかでしょう

なぜかと言えば、兵力だけでは限界があります
良く調べることです、農閑期以外に軍事行動を起こせる実力を持っていたのは 織田だけです

謙信にしろ信玄にしろ兵を出せたのは取り入れが終わってから種まきの時期までです
川中島の合戦が決着が付かなかったのはそのためです、劣勢でも包囲されても種まきの時期まで持ちこたえれば攻撃側は兵を引かざるを得ません(なぜかは自分で考えてください)

そのパラダイム変換が出来たのは信長だけです
信玄がそのことに気づいても実現は非常に困難でした(そのこともお考えを)

信長は、自身が殺されない限り、勢力は残り反撃の機会も残ります
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>織田信長を討ち滅ぼし・・・・


まず無いでしょう。
織田信長は兵農分離など行い世の中の仕組みを
変えて成長したのに武田信玄は旧体制のままでした。
一時的に局地戦で武田軍が勝利をすることがあっても
最後には負けることになるでしょう。
それをさらに進めた豊臣秀吉は信玄坊主が生きておれば
わしの草履取りとして召抱えてやったのにと言ってましたが
その通りだと思います。
織田信長に代わって武田の世になることはあり得ない話です。

武田信玄と言っても・・皆殺し、人質を売ったり等・・
武田信玄といえどもじゃなく信玄だからこそ、略奪暴行は当たり前でした。
兵農分離が行われていない時代は武士は平時は農民であり
武器や兵糧は自前でした。
そのため他国に攻め入った時、略奪暴行は勝利者報酬のような
ものでした。
逆にそれを禁じたのが織田信長で京都へ進軍した時です。
京都に進軍した時、足軽が女性をからかったのを見た信長は
自らその足軽の首をはね、軍律の厳しさを示しました。
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Q【謙信VS信玄・山本勘助】 川中島の合戦に関する質問

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して位と兵を与え、自分の子飼いの武将を育成するための格好の利用場にしていた。
ただ上杉と戦争する気はなく、お互い、ある程度、馴れ合いの部分があった。
それだけに、川中島の霧の中で敵軍に遭遇したとき、
「やる気が無いように見せかけて、実はそれは罠で、本当は本気で、こちらを殲滅する気だったんだ!」
とお互いの将兵が思い込み、死に物狂いの乱戦になり、互いに多数の死者を出した。

疑問に思ったことを質問します。

1)川中島の合戦は5回もなかったという学者もいます。本当に5回も戦ったのでしょうか?

2)川中島の合戦のように5回も同じ場所で戦った合戦はありますか?

3)織田軍は略奪行為をしなかったのに、なぜ武田軍と上杉軍は敵地で略奪行為をしたのでしょうか?

4)上杉謙信が単騎で信玄の陣地に乗り込んで、信玄に斬りつけて軍配で受けたという話は事実でしょうか?

5)両軍が急接近して多数の死傷者が出たのは、“霧”の影響だというのは事実ですか?

6)軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」は事実ですか?

7)あの当時に軍師という役割は確立されていたのですか?

8)山本勘助は実在したのですか?

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して...続きを読む

Aベストアンサー

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。つまり構成の作り話ではなかったか、ということです。啄木鳥の戦法を始め現実的ではない話が多く、また最も疑問視されるのがあれだけ両軍に大損害が出たといわれていながら、その半年後には上杉、武田両軍とも何事もなかったかのように出兵をしているからです。

2)記録に残っているものはないでしょう。しかし、そもそも川中島の合戦そのものが合戦と呼ぶにふさわしいものかどうかが疑問なので、ふたつの軍勢が同じところで何度もにらみ合った(あるいは小競り合いをした)というのはあったかもしれません(それが資料に残っていないというだけで)。

3)織田軍は永禄11年に足利義昭を奉じて上洛したときに、確かに略奪はしませんでした。ただ、それは略奪の禁止を信長が厳命したからです。それ以外の時には織田軍といえどもいつも品行方正というわけではありませんでした。比叡山は焼き討ちにしていますし(当時の常識からすると略奪より罪深い)、一向一揆に対しても全く容赦していません。虐殺や強姦など茶飯事だったでしょう。また、戦国時代には相手の領土に攻め入って田畑を刈り取ったり、農村を焼き討ちにしたりするのは「戦法のひとつ」でした。信長は兵農分離を進めたことをご存知ですよね?これのメリットは農業が忙しい時期に攻め込んで田畑を刈り取ってしまうという嫌がらせが出来ることです。信長は美濃攻略でこの戦法をひんぱんに使い美濃衆を追い込んでいきました。

4)ウソです。SF映画インディペンデンス・デイではアメリカの大統領が自ら戦闘機に乗って戦いましたが、そのくらい荒唐無稽な話です。でも、そういう話があると面白いからそうなりました。

5)わかりません。あなたが示した説もあくまで「新説」にすぎないからです。あくまで個人的印象ですが、多くの人の賛同は得られないだろうな、という印象です。

6)これもウソといっていいでしょう。啄木鳥の戦法の最大の問題は、「甲陽軍鑑にあるだけの軍勢が妻女山に回ったとしたら、計算上先頭が妻女山に到着したときには最後尾はまだ海津城を出発していないことになる」からです。
余談ですが、謙信が陣取ったという妻女山ですが、川中島の北に「西条山」というのがあるそうです。この西条山と妻女山を間違えていたのではないかという説があります。この説に従うと、謙信の配置を見て信玄がまず海津城に入った動きは極めて合理的になりますが、その後の合戦の展開がどうなったかが全く不明という欠点があります。

7)軍師という役割はありましたが、#1さんも書かれているように占い師的な役割が大きかったようです。

8)いたことはいたみたいですよ。ただその実態については不明です。

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

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Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

Q信玄・謙信の一騎打ち

川中島の戦いで信玄と謙信の一騎打ちは本当に
有ったのですか?
実際戦いを見ていた京都の公家が
戦いの様子を日記に残しているそうなのですが。

Aベストアンサー

大将同士の戦いと言うのは、現実にめったにあるものではなかったようです。
昔の大名というのは、今で言えば同族会社みたいなものです。会社の繁栄も大事ですが、一番大事な事は経営権を自分達がもっていることです。
北条氏が甲斐を統治し発展したとしても、それは武田家の者にとっては意味がないことだからです。 
また現代と違い、誰がトップになっても変化が無いというシステムではなかったという理由。武田家を例に取ると、武田信玄が、「御旗盾無し、ご照覧あれ」と言うと、誰もその決定を覆すことはできません。こういう時代に大将同士が対決することはほとんどありません。

従軍した公家の日記、とありますが。信頼性の上で問題が二点あります。

従軍と言うとフリーな立場ではないですよね。ましてお公家さんなら、自分の面倒すら他人に頼ってますよ。食糧から安全まで。それなら雇い主のためにいい事をでっち上げる可能性も無きにしも非ずです。また検閲もあったでしょう。名も無き兵たちの活躍よりも大将同士の一騎打ちのほうが、ウケますよね。

さらに、当時の公家の日記というのは、誰にも見せず秘密にするものというより、誰かが見ることを前提に書いていたらしいです。これまた大将の一騎打ちのほうが、読んでいて楽しいですよね。

余談ですが川中島の戦いも、言われてるほど名勝負というのではないらしいです。
一回で決着が着かなかったのは、よく言えば実力伯仲、悪く言えば傑出した才能ではなかったからと言う理由。
武田、上杉両軍も織田軍と違い、半農半兵(農耕のために力を温存しなければならない)なのと、雪国なので限られた時期しか戦えないために、両軍とも総力を結した戦いではなかったらしいです。

大将同士の戦いと言うのは、現実にめったにあるものではなかったようです。
昔の大名というのは、今で言えば同族会社みたいなものです。会社の繁栄も大事ですが、一番大事な事は経営権を自分達がもっていることです。
北条氏が甲斐を統治し発展したとしても、それは武田家の者にとっては意味がないことだからです。 
また現代と違い、誰がトップになっても変化が無いというシステムではなかったという理由。武田家を例に取ると、武田信玄が、「御旗盾無し、ご照覧あれ」と言うと、誰もその決定を覆すことはで...続きを読む

Q残虐,悪徳行為ー謙信、信玄、早雲、家康、北条氏康

謙信、信玄、早雲、家康、北条氏康

以上の大名が行った、
残虐行為、悪徳行為があれば教えてください。

この五人がとても好きなので、
逆に善悪両面を知りたいと思っています。

Aベストアンサー

悪徳行為といえば、「国取り物語」の国取りはそれですね。   しかし城取り、国取りをしなかった大名は、殆ど生き残れなかったようです。
詐欺もどきや、卑怯な行為でそれをしても、当時は非難しなかったでしょう。
戦の為領民から高い年貢を取り苦しめた、武田信虎を悪徳といえるかも知れませんが、どこまでをいうか線引きは難しい。
戦国時代は悪徳は普通の行為でしょう。
戦で無用の殺戮を今なら残虐行為と、いうでしょうが、当時の人はあまり非難しなかったでしょう。
当時の人でも、あまりにもひどいというのもありました。
織田信長の比叡山焼き討ち皆殺し命令(実際は皆殺しではなかった)や捕虜の集団焼き殺し、秀吉、利家の釜茹での刑などです。
火あぶりの刑は江戸時代の正式な刑で、当時はあまり非難されないでしょう。   火あぶりは家康なども行った事はあるようです。
当時の人があまりにもひどいという、残虐行為は五人とも行っていないと思います。    私は知りません。

Qどうして信玄と信長を比較したがる人が多いのか?

「中世の常識を打破した信長」に対して「中世の枠で終わった信玄」というのを聞いたことがありますが、信長を過大に評価したがる人の悪質な態度そのものだと思います、武田信玄の評価を落としつつ織田信長を持ち上げるという姑息な考えでもあるのでしょうか?
そもそも時代は中世なのだから、信玄に限らずどこの大名でも基本は一緒、なのに信長を評価するときに信玄だけを引き出すという態度はいけませんねえ。
それともそこら辺の評論家の言ってることを真に受けているとすればよほどの思慮の無い人が勝手に妄想してるだけなのでしょうか?
一方様々なネットの掲示板で武田信玄を語り合ってる時にも、いつの真にか信長の存在をアピールしたがる人が良く見かけます。
織田信長ってこういう比較でもしないと評価できない人物では無いと思うのですが、信長ファンというのはあさはかな人が多いように思われます。

Aベストアンサー

私も信長が過大評価されているようでイマイチ納得できません。
しかし、信長は戦国武将で一番人気がある人物なので信長びいきの人が多いのでしょう。天下統一目前で倒れた人気者の信長と戦国最強と言われた信玄が比較されるのは当然でしょう。無敵と言われた信玄と比較し「信玄より強い」と表現すればそれを聞いた人は「信長が凄い」と思うわけです。
しかしこの信長の評価は結果論です。
信長の配下が天下人となった事実が、信長の偉大さを増長させているのです。
信長を否定はしないが天才というのは言いすぎな気がする。革命児と言われる彼が初めてしたことなど実際は驚くほど少ないからだ。
検地は北条早雲が最初。
楽市は六角義賢が最初。
鉄砲の大量使用は根来、雑賀などの紀州勢が最初(三千丁の鉄砲使用)。
書状に花押(直筆サイン)ではなく印版(ハンコ)を使用した印版状を導入したのは今川氏親が最初。
鉄甲船を考案して命がけで造ったのは九鬼嘉隆。信長は九鬼嘉隆に「燃えない船を造れ!」と命じ資金を出しただけ。
海外に視野を向けた思考すら、大昔の天下人からやってること。
信長が最初なのはしいて言えば農民兵ではなく傭兵を編成したくらいか。
信長は特別革命的なことはしてないので、彼の凄いところは別にある。一つはミーハーなところ。現代の若者のような感覚で新しいものが大好きで、他の人がやってる事も良いと思えば流行る前にすぐにマネをする柔軟さ。
もう一つは運。信長は順当にいけば最低6回は死んでいるらしい。度重なるどうにもならないピンチを天運で回避している。
結果、本能寺の奇襲で死ぬわけだが、気を抜いていた信長はマヌケとされていいないし、同じ奇襲でも桶狭間では、討ち取られた今川義元はマヌケな愚将扱いだ。
信長と比較するなら秀吉か家康とするべき。
戦国最強の信玄と比較して勝る可能性があるのは天下無敵の上杉謙信くらいでしょう。

私も信長が過大評価されているようでイマイチ納得できません。
しかし、信長は戦国武将で一番人気がある人物なので信長びいきの人が多いのでしょう。天下統一目前で倒れた人気者の信長と戦国最強と言われた信玄が比較されるのは当然でしょう。無敵と言われた信玄と比較し「信玄より強い」と表現すればそれを聞いた人は「信長が凄い」と思うわけです。
しかしこの信長の評価は結果論です。
信長の配下が天下人となった事実が、信長の偉大さを増長させているのです。
信長を否定はしないが天才というのは言いす...続きを読む


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