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 (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。
 
 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~
 § 広義の無意識と潜在意識

 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、
 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。

 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。

 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。

 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。

 すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて起こした動きも 故意でなくても 《わたし》の行為として引き受け これにそれとして責任を持ちます。

 すなわちパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― 思いや行ないについてそのパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。

 (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 

 二重人格などありえません。ですが 自我なら自我が全体としての《わたし》から単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 超自我さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。
 無意識を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。

 (4)  《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としての《わたし》の思惟や行動にとっての材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。

 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは 《わたし》です。

 (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。
 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。

 (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか?
 《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。
 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは?

A 回答 (29件中21~29件)

ボクはいま唯物論に真理をみいだせるかを探っています.



༻༺༻༺༻༺༻༺ 引用 ༻༺༻༺༻༺༻༺

唯物論は、文脈に応じて様々な形をとるが、よく知られたもの
に以下のようなものがある。

世界の理解については、原子論と呼ばれる立場がよく知られて
いる。これは原子などの物質的な構成要素とその要素間の相互
作用によって森羅万象が説明できるとする考え方で、場合によ
っては、森羅万象がそのような構成要素のみから成っていると
する考え方である。非物質的な存在を想定し、時にそのような
存在が物質や物理現象に影響を与えるとする二元論や、物質の
実在について否定したり、物質的な現象を観念の領域に付随す
るものとする観念論の立場と対立する。 ウィキ 唯物論より
༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺༻༺

唯物論は,その言葉の響きから,悪い印象として捉えられてい
ますが.生命,愛,生殖性,可能性,どれをとっても物質から
発せられることであり,様態であります.その様態の変化が,
脱自的時間性であり,現存在の踏み越えにより,可能性として
自己を将来するのであります.踏み越えのない自己は常に閉じ
た世界に居るのであり,人とのかかわりあいによる自己の可能
性を,みずから否定しているがゆえに,自己を将来できないで
いるのです.

また悟りについてなんですが,自我の放棄仮説として超自我を
認識する.そこから本当に自分にとって必要なものは何か.を
みきわめる行為ではないかと考えます.

もちろんそのまま何も必要ないとなれば,自我だけではなく,
自己の放棄へと進み戻って来れなくなるのでしょう.
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 唯物論の場合というのは そのいわゆる第一原因としての《物質》は これもいわゆる形相のない質料のことで 純粋質料と言いますか あるいは要するに 唯心論が想定する質料のない形相としての《精神》すなわち純粋形相と言いますかと同じであって――両極は 相い通じるのであって―― イデアのごとき究極のものを言うと思います。
 要するに 神のごとき存在です。唯物論の物質がです。
 形相と一体となった質料は――つまりふつうのモノですが―― これも物質と言うことがありますが その《唯〈モノ〉論》ではないわけです。あるいは 拝金主義でもありません。

 唯心論の場合は 歴史の狡知と言われるような世界精神が 究極の推進力としてはたらくと見るのに対して 唯物論の場合には 究極のモノたる(むしろイデアのごとき)物質が あたかもその自己運動を起こして世界が推し進められるというふうに見るのだと思います。後者は 物質に差別はないということで 言わば平等を重んじるのではないでしょうか? それに対しては 精神の自由が 前者では重んじられましょうか。

 あとは 社会論としてそれほど違いはないのではないでしょうか? ただし 実際の社会のあり方ないし経済活動のあり方からして 自由市場経済とそれに対する見方においては かなり人びとの関係や生活の状態についての理論がちがってくることもあるかと思います。いまでは 自由主義と社民主義とに分かれるといった感じでしょうか。


 そのような情況において
 ★ 脱自的時間性 / 現存在の踏み越え / 可能性として自己を将来する
 ☆ といった展開については いまひとつつかみ切れませんでした。唯物論ないし質料主義も そして唯心論ないし精神主義も 現存在のあり方つまりその展開については いろんなかたちで理論を提出しているということかも知れません。
 市民社会という次元における生活日常の現存在の具体展開とそして 上層の国家運営圏に対する市民の態度としてのやはり現存在展開とがあり それぞれについて思想が考えだされて来ていると思います。
 ★ 踏み越え
 ☆ というのは この社会の主権者としての市民一人ひとりが その生活およびそれを超えた国家関係の側面においてもしかるべき共同自治に向けての活動をおこなうといったことを言うのでしょうか?
 




 ★ ~~~~
 また悟りについてなんですが,自我の放棄仮説として超自我を
 認識する.そこから本当に自分にとって必要なものは何か.を
 みきわめる行為ではないかと考えます.
 ~~~~~~
 ☆ これは いくらか違った見解を持ちます。
 そもそも《自我》といった特殊な領域ないしはたらきを想定しません。あるのは わたしだと見ます。そのわたしの中に自己中心主義的ないし利己主義的な考えや欲望が現われるとは 見ますし これらの極端な主義をも人間としてみちびく意志行為は やはり――わざわざ《自我》を持ち出すことなく――《わたし》だと見るというわけです。

 仮りに《超自我》を認識するといった作業を想定しておこなうとなれば それは 趣旨説明欄に書いたように《内に省みる心》をはたらかせるとのみ捉えるということです。
 すべて《現存在としての〈わたし〉》あるいは現存在の具体的な展開としての《いま・ここなるわたし》といった人格の全体が その意志行為として 思惟し内省し人びとに向かって自己表現をおこなう。意志表示を互いにおこないつつ 意志疎通を互いに図る。
 と言えばよいし 見ればよい。つまり 自我や超自我などの概念も用語も使わずに済む。と考えます。
 エスないし無意識についても 同じです。
 精神分析理論は いっさい意味がないという見方です。

 そのようにしてじゅうぶんに
 ★ 本当に自分にとって必要なものは何か.をみきわめる行為
 ☆ は果たすことが出来ます。
 そのとき 仮りにそのいま 何もする必要がないとなれば そう考えそう行動すればよいだけであって
 ★ 自己の放棄へと進み
 ☆ 入ることはありません。そのまま《わたし》は《わたし》のままです。



 こういったところでしょうか?




 ★ さとり
 ☆ としては 日常生活および国家関係という二つの次元において 社会のしかるべき共同自治のあり方を模索しつつ互いに意志表示し自己表現をおこなっていくこと――そこで 互いに意志疎通を自由に対等に どこまでも民主的に図るということ―― このすがたが 人間のさとり(つまり 動態)であると考えます。

お礼日時:2012/01/08 22:43

よかったよ!(笑)


てか、お前の勉強の邪魔してごめんな。
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この回答へのお礼

 邪魔するって感覚はあるんだ。

 これも よかった。神経がのこっていて。

お礼日時:2012/01/08 17:59

シンプルがバカかあ~(笑)


学歴、仕事も、収入も確実にあなたよりレベル高いと思うよ~
まあ理屈っぽく言葉遊びして自己満足したがるオナニー期は俺もあったな~(笑)ただの勉強先行経験不足。
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この回答へのお礼

 同じ内容の投稿は どちらかが削除される。どちらか分からないので こちらにも応えておこう。

 ★ 学歴、仕事も、収入も確実にあなたよりレベル高いと思うよ~
 ☆ よかったね。
 この《レベル》にこだわるのは レベルが低いんだとか何とか言ってたよ。

 ★ シンプルがバカかあ~(笑)
 ☆ 多義だとは言っておこう。

 ★ まあ理屈っぽく言葉遊びして自己満足したがるオナニー期は俺もあったな~(笑)ただの勉強先行経験不足。
 ☆ やっと全部を読めたようだね。ん?

お礼日時:2012/01/08 17:52

シンプルがバカかあ~(笑)


学歴、仕事も、収入も確実にあなたよりレベル高いと思うよ~
まあ理屈っぽく言葉遊びして自己満足したがるオナニー期は俺もあったな~(笑)ただの勉強先行経験不足。
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この回答へのお礼

 ★ 学歴、仕事も、収入も確実にあなたよりレベル高いと思うよ~
 ☆ よかったね。

お礼日時:2012/01/08 17:48

理屈こねてるだけの奴はダメよ。


机上のみでなく、もっと行動し、もっと経験積んで、もっと学べば、もっとシンプルに整理できるから。
できる人間はいつもシンプルだよーん。
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この回答へのお礼

 ★ シンプル
 ☆ ってばかのことだよおおおん。

 読んでいないのに
 ★ 理屈こねてる
 ☆ ってよく分かるもんだね。

お礼日時:2012/01/08 17:24

ボルジョレーネさんはじめまして.まえに回答をいただいた者です.



このあいさつ文は,無意識,非思考の庭,情動制御系,
これらの経験からなる情動力動が独り歩きした形になってい
ます.文章を読めば,書いた人の波動が感じ取れるという,
教祖なる者のいいぶんも,まんざら嘘ではないようです.

いちばん危険なのが『悟り』という状態ではないでしょうか.
へたをすると,目の前の認識が薄れてしまう症状になります.
これに似た症状では,量子論症や,相対性理論症など,間
的な行動にいざなわれる病状がみうけられます.これは閉じた
世界観を生み出し,広い世間を狭くしてしまうのです.

やはり人の道さんのように,有る物は有る.遠くて果てが見
えないものは無限.旨いもの食うたら嬉しい.と,認識でき
るのが,まともな人間であるゆーことに賛成したいのです.

あれはあれで,けっこういい人やあ思うんですよ.
いちびっちょるだけやあ思います.
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ いちばん危険なのが『悟り』という状態ではないでしょうか.
 ☆ たぶん――これは考えてみれば 短絡的な反応でもありますが そしてそれでよいと見做してのことですが―― 《無意識》についてのさとりが いちばん きびしいのではないでしょうか? たちがわるくなります。
 自分にも相手にも それは無意識のしわざであると 言い出したら もう止まりません。その思い込みたるや 十年はつづくしろものであるように見えます。

 ★ ~~~~
  これに似た症状では,量子論症や,相対性理論症など,間
 的な行動にいざなわれる病状がみうけられます.これは閉じた
 世界観を生み出し,広い世間を狭くしてしまうのです.
 ~~~~~~
 ☆ そうですね。そうかも知れませんし ただ これらの科学関連の症候群は その中身がつねに問い返されます。問い質すことが出来ます。だとすると まだそれをつうじて互いに共通の理解に到る道は 残されているように思います。
 まっ そのときにも自分からは発信するけれどもほかの人からは受信しないという半鎖国状態の場合は 手がつけられません。とは思いますが その理論の中身がつねに問題になるという点では 無意識論症にくらべるなら まだましかも知れません。
 ともかく無意識論症の場合は まったく中身のない事柄を持ち出して来て すべてはそれの所為だと決めつけるわけですから 手に負えません。
 その人びとが 医者として 患者を呼び込んでいるわけですから どうしたもんでしょう?



 人の道さんは 意志疎通が途切れるところがあります。わるいくせです。
 二度三度言えばもう分かったはずであるところを 同じことを十度二十度こちらに言わせて それでもまだ分かったと言わず 自分の殻に閉じこもっています。
 根はいい人なんだだけでは コミュニケーションにおいては だめでしょうね。(十度二十度と 上に言いましたが それでは効きません。もう五十回くらいは 同じことをわたしは言い続けていますから)。

お礼日時:2012/01/08 17:39

とりあえず文章長すぎて読むのやめたが、


言いたいのは、無意識がどうだろうが、あなたはもっと『超意識』して、社会に貢献しなさいということ。
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この回答へのお礼

 ★ 超意識
 ☆ なんてのは 知らないが
 ★ 社会に貢献
 ☆ してるよ。
 あんたは どうだい?

お礼日時:2012/01/08 16:56

そもそも、心はソフトウェアに過ぎません。

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この回答へのお礼

 ばっふぁろうさん ご回答をありがとうございます。

 ★ そもそも、心はソフトウェアに過ぎません。
 ☆ この一文とにらめっこをしても あまりピンとくるような反応が出て来ません。

 心は 神経組織ですから ハードヱアではないかとも思いますが それは別としまして。

 たぶん ソフトヱアだと言ってしまっておくとまづいと思われることは――やっと反応が生まれましたが―― 単なる方程式なのでもないというところではないでしょうか?
 言いかえると 思惟と内省そして行為一般について人はそれぞれそのクセから始まって 慣わしをつくり そこからみづからの価値観をかたちづくりそうして生き動き存在するとすれば 《思惟および行為にかんするわが方程式》といったものは たしかにあるかと思います。思いますが この心に持つ方程式は あくまで動態です。
 わが身と心より成る一体の存在動態は しかも生身のしろものです。けっきょく 方程式が作られていると言っても じつは基本はつねに 白紙においてみづからの思惟も判断も成している。こういうことではないでしょうか?

 そういう意味で 自我や超自我やエスなる無意識 これらは 部分要素として仮りに取り出せるとしたとしても 要らない。事後的な分析にとっても 事前における思惟と判断にとっても けっきょく要らない。かえって 《わたし》という全体存在ないし人格存在のあり方を曲げてしまうことの多い余計なものである。
 こう問うています。どうでしょう?

お礼日時:2012/01/08 15:13

私は心理学にも現代思想にも暗いので


詳しいことは分かりませんが、
社会的責任の主体としての「わたし」と
内面におけるさまざまな心理的要素の
複雑な集合としての「わたし」を
分けて考えれば、
もっと簡潔に考えられるのではないでしょうか。
後者の場合なら「無意識」なる概念を
全面的に廃棄する必要も無いような気がします。
あなたの論旨を誤読していたら
申し訳ありません。
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この回答へのお礼

 いたづらに(もしくは わざと でしょうか)くるいてさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。まづ総じて言って
 ★ あなたの論旨を誤読していたら 申し訳ありません。
 ☆ いえいえ そうではなく むしろ趣旨説明欄における論旨に沿って 別様の答えをみちびいておられるようです。――このように受け取りました。

 ○ 部分的要素はそれとして 持って使えるところで使って行けばそれでよいではないか?

 ☆ このようなご見解だと思います。

 そうですね。《無意識》なる概念とは何ぞや? から考えてみて互いにあらためてみづからの見解をかたちづくる。こういう筋道になるでしょうか?

 問題は 一にも二にも 《領域》をこしらえているところです。ちょうどブディズムが似たような概念として《アーラヤ識》を持ち出すと思いますが 本能〔の残骸〕や欲動や衝動といった《何だか知れないが 〈それ〉もしくは〈あれ〉とでも呼べる身体の動きないしうごめき》を取り上げるだけではなく それだけではなく そのようなウゴキが起こる領域を心ないしからだのどこかに《無意識》として設定すること ここにあると考えます。

 ふつう わたしは衝動買いをしてしまったというところを わたしはわが無意識なる領域にモノを何の考慮もおこなうことなく買ってしまえという命令が芽生えたのを知ってそれに従ったとでも言うのだと思います。
 文学表現としては 自由勝手ですが 哲学ないし学問としては いただけないのではないでしょうか?
 もっと言えば あのときわたしには やつを何とかしてしまえという悪魔の声が聞こえた わたしは単純にこれに従った。それだけのことなのだ。とでも言うような自己の行為にかんする分析を生じさせます。あたかもそれが 学問の裏づけのある説得的な弁解であるかのごとくに。

 それもこれも みな無意識の設定という間違いから来ているのではないでしょうか?
 という説明を持ちますが 果たしていかがでしょうか?


 * むろん《ただ意識していなかった》という意味に限定して《無意識のうちに》と表現するような場合は別だと思います。そうではなく 無意識という得体の知れない闇の親分の所為に 何かと してしまうようなその無意識理論が 元凶です。

お礼日時:2012/01/08 15:00

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