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 ( a ) ヒトは 時間的な存在である。

 ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。

 ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。

 ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。

 ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。

 ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。

 ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。

 ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。


      *


 ◆ 《へび》の問題


 § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味

 次の文献によって わたしなりの分類をします。

  ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM …

   ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~

    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂

    (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
           あらぶる者:悪魔::荒魂

    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。

    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。

    (ε) ゆえに エロスを象徴。

    ~~~~~~~~~~~~~~    


 § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。

 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。

 この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。

 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。

 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
 こういう見方を持ちます。

 § 4 この場合のムイシキは 

    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ

 のことです。

 § 5 ムイシキの逆襲(?)

 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。

 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。

 すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。

 § 6 ムイシキとは 亡霊なり。

 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。
 その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。

 § 7 聖書におけるヘビの克服物語

 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。

 いちおう理屈をつければ こうです。

 悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。

 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
 ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
 ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。

 § 8 聖書の関係個所を引きます。

 ▲(創世記3:14-15) ~~~~
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

  「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。

  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。

  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この部分すなわち

  ▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
  ~~~~~~~~~~~~~

 という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。

 § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――

 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
 〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 民はモーセのもとに来て言った。

  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主に祈った。
 主はモーセに言われた。

  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
 ~~~~~~~~~~~~~

 § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――

 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。

 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 11 いかなる事態であるか?

 もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?

 感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。
 理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。
 ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

A 回答 (24件中11~20件)

ありがとうございます。



身近なところから、また仕入れました。

・父性からくる社会的責任感
・永遠性の保存(バーバーの女房は川に飛び込んで自害して破滅的に保存しています)

が理由にあがりました。

別の例で
ドンキホーテ(懐古型保守のロマンを批判する目的のはずが、社会不安の世論がロマンチシズムに
       魅了された)

重愛の回避は了解しました。

かくされたたくらみとして、スノッブな上司に足蹴にされているOLの生産性の底上げ
の為の落としどころ(全体生産性)をさがしています。
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この回答へのお礼

 つづいてです。
 むつかしいなぁ。

 ★ ・父性からくる社会的責任感
 ☆ これは あります。つまりあるいは 家族に対して誇りある父親たらんとする責任感もです。

 ★ ・永遠性の保存(バーバーの女房は川に飛び込んで自害して破滅的に保存しています)
 ☆ これは どうでしょう?
 故人となったから 遺された者にとっては 永遠の存在となったであろうということですか?
 そうかも知れないけれど そんなことをしなくても 互いに人であることは その存在そのものにおいて 関係の絶対性が成っていると 思いますよ。もともと きづな はあるのだと。


 ★ ドンキホーテ(懐古型保守のロマンを批判する目的のはずが、社会不安の世論がロマンチシズムに魅了された)
 ☆ そうかも知れません。
 懐古の《古》の中身がどうかで そのロマンのあり方が違ってくるかとも思いますが ともかく《世間がもし閉塞感に満ち不安がただよっているとしたら ともかくのロマンチシズムに魅了される》ことはありましょう。


 ★ ~~~
 かくされたたくらみとして、スノッブな上司に足蹴にされているOLの生産性の底上げ
 の為の落としどころ(全体生産性)をさがしています。
 ~~~~~
 ☆ 《足蹴にされる》理由が分からないのですが あまり仕事で役に立たないことがそれでしょうか? だから 生産性を底上げしなければならないのだと。
 《スノッブ》であることが 一枚噛んでいましょうか? そこのところなど 情況がまだ把握しがたい面があります。
 まぁ まづは互いにその場の一員としてやっていくのだという仲間の感覚を身に着けることも必要でしょうし そうするとよいと思ったりします。

お礼日時:2012/04/08 15:29

ピント外れの答えのように思いますが お許しを



質問は「感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物」とあり
ますが、この命題は正しいか という問と理解します。

答えとしては ご指摘の通り 正しいとおもいます。聖書を創った人
々が 当時の民俗話に出てくる悪イメージの蛇を用いて人間に原罪
を背負わせた ということだと思います。それ以後 聖書とともに 蛇
の悪イメージが拡大されたと思います。聖書に現れる神様も人が創
ったものという考えがあります。神は言葉で人に語りかけます。要す
るに 神をふくめた聖書物語は 他の物語と同じく 言葉のテキスト
として取り上げてもよいモノです。蛇物語もマリア処女懐胎物語も 
言葉であり 言葉のスサノオ/アマテラス方式の分解が可能であり
また言葉での再構成も可能であると思います。

しかし、bragelonneさんは 神については 非経験ひらめき(B神)で
あると発言されています。また これは 言葉では表しえない とも言
われます。これは感性の領域ではないか とも疑われますが 感性
は言葉で表され やはり感性ではない と結論づけられていると思い
す。だから聖書の言葉の神(A神)は人の創ったモノで偽神なのです。
A神とB神は無関係であって 本来は A神を 神議論に乗せることは
ない のです。しかしながら 聖書を深読みしていきますと 人類に対
する普遍的な言葉が 多く語られており あるいは多くの人が偽神で
はあるが 神としてみています。だからA神とB神はとどこかで繋がって
いるのではないか という疑いを持っておられように思われのです。そ
の延長に蛇の話が質問になるのではないか と思います。しかし、聖
書は単なる一つのテキストとであって 蛇は理不尽な扱いをうけた動
物なのです。それ以上に深読みに拘る理由はないとおもいます。もっ
とも 聖書以前に 蛇が悪のイメージに どうしてなったのか 私は理
解していません。爬虫類は その昔 哺乳類人類の祖先をいじめてお
り 爬虫類を嫌悪するDNAが人にはある という話もありますが まっ
たくあてにはできません。

私は「神とは非経験のひらめき」のような経験はしていない 普通の
オッサンです。私にとって bragelonneさんの発言は信頼に足る モノ
でしょうか。何万回 同じことを発言されたとしても この説明だけなら
信頼に足るかどうか疑問がのこります。疑問解消は bragelonneさん
より外のひとの同様の発言がある場合です。胡散臭い人物の発言で
あっても 同様の発言をしている データを多く集めれば話は変わりま
す。共通の非経験ひらめき が 発言者同士で確認されれば おおき
な声で 神についての発信ができます。古来よりの神様は 大方 キ
リスト様を含めて粉砕されるでしょう。この場合、共通非経験ひらめき
をして 発言者同士が唯一のB神をもつこと となります。

他方、bragelonneさんの神発言は  ただbragelonneさんが言ってい
るだけのもので 非経験のひらめきではない という立場の人もいま
す。経験上のA神です。言葉で説明されています。ここでは その言葉
を信じている人と信じてない人に分けられると思います。後者は 信じ
てない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるで
しょう。

言葉を信じる人は その中に矛盾があっても 何も問題ないのです。一
度理解すれば記憶が固定され それが正しいとされるのです。アマテラ
スは それを利用したのです。スサノオを完全に制覇できるのです。多く
の信者をもつ宗教は その典型でしょう。固定記憶を訂正するのは大変
です。大きな間違い、たとえば 固定記憶のために大量に信者が死亡し
たことを認識し わずかに残っている内部のスサノオがこれはおかしいと
大きく反抗しないと訂正できないのです。聖戦の名のもとに アマテラス
は とんでもないことを 起こす可能性があるのです。それは 固定化さ
れた記憶に問題があり、思考が停止しているからだ と思います。が 
逆に 固定化記憶に落ちたとき 人は何の不安もなく 迷いなく 涅槃寂
静の世界のような状態になるのも事実でしょう。平安の世界です。
ではどう対処するべきでしょうか。固定記憶(思考停止)の領域を できる
だけ 狭めるのです。スサノオを温存するのです。例えば 多くの信者を
抱える宗教ではなく 個人個人が個人の神(C神)を信じていくという
狭い思考停止を創るのです。人の数だけ小さいC神がいていいとおもうの
です。思考の活性化を強化していく ということです。

もう一つの 神を信じない 人は どう思考していくのでしょうか。何らかの
主張はあるわけです。その主張を非論理的と論理的に分けてみます。非
論理的とはスサノオが優先して自由に発言し 論理主張はしていない場
合です。芸術分野で よくみかける と思います。理屈は通ってはいない
が 感覚的に相手の言いたいことは分かるという場合です。基本のDNA
が作用しているのではないか と思います。
論理的とは 典型的なものは数学とか自然科学でしょう。矛盾はないが
証明できない原則から 構造体を演繹構成し 科学においてはそれを実
証していくもの と思います。原則を立てるところ は スサノオ的ですが 
あとはアマテラス的であります。原則とは これ以上には 言葉の説明で
は堂々巡りとなる 言葉なのです。神がいる あるは 神がいない は原
則なのです。神がいるとして 論理的な演繹構成体は可能であると思い
ます。ただし 実証は 難しいと思いますが。

もう一つの無意識下の問題ですが 脳機能のMRI、CT、脳酸素分布測定
などの翻訳機によって 無意識が言葉になりつつあります。言葉になれば
ス/ア分解できるのです。段々には 無意識問題も論理的に分かってきて
いると思います。それでも無意識の領域は残るわけですが 反応がないだ
けに捉えどころがないと思います。

以上 大変失礼いたしました。
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この回答へのお礼

 まいった。持ちこたえられるのですが まいった。

 おうけい9608さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。



 まづ ムイシキの問題を先に見ます。
 ★ ~~~~
 もう一つの無意識下の問題ですが 脳機能のMRI、CT、脳酸素分布測定
 などの翻訳機によって 無意識が言葉になりつつあります。言葉になれば
 ス/ア分解できるのです。
 ~~~~~~
 ☆ ス/ア分解 つまり 知覚か概念か あやまちうるスサノヲ人間語か 普遍性をめざすアマテラス人格語および科学語か これらが 分かるようになるのですか。
 征服欲ないし支配欲――《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまい》とひそかに堅く心に誓った人間の思惟および行為の形式としての――は アマテラス語理性による産物であると明らかになりましょうか?
 
 ただしもっとも 感性も じつはけっきょく絡まっていますので やはり全体としては 《スサノヲ( S )‐アマテラス( A )》連関としてあるとは 思います。それをも分解し得れば でかしたぞ 科学! ですね。



 今回の問題とそれを解く鍵は 次のくだりにありましょうか。
 ★ ~~~~
 他方、bragelonneさんの神発言は  ただbragelonneさんが言ってい
 るだけのもので 非経験のひらめきではない という立場の人もいま
 す。経験上のA神です。言葉で説明されています。ここでは その言葉
 を信じている人と信じてない人に分けられると思います。後者は 信じ
 てない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるで
 しょう。
 ~~~~~~
 ☆ この最後の
 ★ 信じてない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるでしょう。
 ☆ が 神の神たることを物語っていませんか? あるいはつまり
 ★ 信じる・信じない
 ☆ という言葉――つまり 表現ですね――そのものが 神を示唆していると思うのですが。

 示唆していないとすれば すべては《考える》の世界であるとなります。
 つまり 世界は合理か不合理かで割り切れるものとなります。経験合理性の世界です。
 でも 《非合理》の領域があるかも知れない。

 言いかえると 合理と不合理との世界を超えたところの非合理の領域は あるのか無いのか分からない。分かるか分からないかが 人間には 分からない。
 だから 《考える》ではなく 《信じる(あるいは 無根拠において非思考として受け容れる)》があります。じんるいは この《信じる》という言葉を 幸か不幸か 持ち合わせています。

 《信じる》の世界においては 狭義の信じると そして信じないとがあり これらふたつは 互いに同等です。表現の違いだけであって 中身はまったく変わりないものです。
 中身も違うというときには――つまり 有神論と無神論とに違いがあるというときには―― その《神 ないし 無い神》がどういうものであるのかが人間に分かったときです。

 《無限》とは何か? その中身が人間に分かったときには この神についても 信じるではなく 考えるというコトが起きます。でもおそらく そのときには そのように合理・不合理の世界に足を踏み入れたと捉えられた非合理なる無限=神は じつは 無限=神ではなかったと分かるとも思います。なぜなら 非合理は 合理・不合理の世界に含まれるようになったからです。そのようにあらたに拡大して出来た《合理・不合理の世界》を超えて じつは今度はそして今度もあらたな非合理の領域が 人間には想定されてくるはずだからです。
 
 もしそうでなければ それはわれわれ人間が神になったときです。
 《合理・不合理の経験世界と非合理の場》という全体世界をわれわれ人間が《考える もしくは 感じる》をとおして知ることが出来るようになるときです。





 ★ ~~~~
 もう一つの 神を信じない 人は どう思考していくのでしょうか。何らかの
 主張はあるわけです。その主張を非論理的と論理的に分けてみます。
 ・・・
 論理的とは 典型的なものは数学とか自然科学でしょう。矛盾はないが
 証明できない原則から 構造体を演繹構成し 科学においてはそれを実
 証していくもの と思います。原則を立てるところ は スサノオ的ですが 
 あとはアマテラス的であります。・・・
 ~~~~~~
 ☆ このうちの
 ★ 原則を立てるところ は スサノオ的ですが 
 ☆ が印象的です。そこにヒラメキがあるのではないでしょうか。

 次のご指摘の分析するところは 前回から強烈な説明力を持つと思いましたが DNA を取り上げていることなど印象的だと思います。
 ★ ~~~~~
 非論理的とはスサノオが優先して自由に発言し 論理主張はしていない場
 合です。芸術分野で よくみかける と思います。理屈は通ってはいない
 が 感覚的に相手の言いたいことは分かるという場合です。基本のDNA
 が作用しているのではないか と思います。
 ~~~~~~~
 ☆ 女性がしばしば 自分の見解について必ずしも論理を尽くして説明しないとすれば それはすでにヒラメキにおいて結論が分かっているという思いがあるからなのかも知れません。
 《女(スサノヲ)‐男(アマテラス)》なる連関――しかも通念として支配関係にまで片寄った連関制――は むかしのものですが ただしあんがい《ヒラメキ》をめぐる知恵は 女性的なるものであるかも分かりません。ヒラメキとしての知恵は自然本性として 男にも女にもそなわると言いたいのですが その自然本性からの乖離が 男の場合 世の中に出てシガラミをたくわえて いちじるしくなるのかも分かりません。それも むかしの話でしょうか。

 次のご指摘と分析も 女性的なるスサノヲ性ということが 基軸になっているように思われました。
 ★ ~~~~
 ・・・大きな間違い、たとえば 固定記憶のために大量に信者が死亡し
 たことを認識し わずかに残っている内部のスサノオがこれはおかしいと
 大きく反抗しないと訂正できないのです。聖戦の名のもとに アマテラス
 は とんでもないことを 起こす可能性があるのです。それは 固定化さ
 れた記憶に問題があり、思考が停止しているからだ と思います。が 
 逆に 固定化記憶に落ちたとき 人は何の不安もなく 迷いなく 涅槃寂
 静の世界のような状態になるのも事実でしょう。平安の世界です。
 ~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ わずかに残っている内部のスサノオ
 ☆ は 具体的には世界の女性のみなさんに期待するところが大きいのではないでしょうか。
 
 あるいはまた 《固定記憶ないし思考停止》という場合と そして《思考および判断を中断する》というエポケーの場合とは 分けて捉えるべきでしょうね。後者は ヒラメキに還るということを含むと思います。前者は アマテラス語――たとえば《聖戦》――による独走にさらに向かうということだと見ます。



 今回は 順序が前後しましたが 次のようにご回答そのものから説き起こされています。
 ★ ~~~~~
 質問は「感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物」とあり
 ますが、この命題は正しいか という問と理解します。

 答えとしては ご指摘の通り 正しいとおもいます。聖書を創った人
 々が 当時の民俗話に出てくる悪イメージの蛇を用いて人間に原罪
 を背負わせた ということだと思います。それ以後 聖書とともに 蛇
 の悪イメージが拡大されたと思います。

                      聖書に現れる神様も人が創
 ったものという考えがあります。神は言葉で人に語りかけます。要す
 るに 神をふくめた聖書物語は 他の物語と同じく 言葉のテキスト
 として取り上げてもよいモノです。
 ~~~~~~~~
 ☆ ご文章を分断してしまいましたが その後半の問題について考えたところを上に述べて来たわけでした。

 あと 固有に《表現の問題》というものもあると見ます。
 眠り猫にゃあさんとのやり取りで 《とぼけた問答といった文学上の手法》について触れたところもあります。

 そしていつも引き合いに出しますが 《ねたむ神》という表現は 《たのしい我が家》という表現と同じように・つまり《たのしい》のは我が家がではなく我が家にあつまる人びとがであるのと同じように 《ねたむ》のは 神がではなく神のもとにあつまる人びとがであるという表現の結構があるかと見ます。

 ★ 神は言葉で人に語りかけます。
 ☆ むろんこれも 聖書記者の文学上の腕の見せ所である問題です。言葉が本当に聞こえたりあるいは モーセは顔と顔とを合わせて友だちのように神と話したと書いてあったりしますが そういう経験上の事象はありません。ぜんぶ 《神とわれとの関係》を仮りに人間の言葉で表わそうとすれば こうなるという試みです。

 そうして 《へび》 このヘビは もうそろそろ おしまいにしましょうというところだと思います。(動物虐待のことではありません)。



 ぜんぶ引用しなければならないとなると 困ってしまいました。みなさんも 精神の胃袋で消化して行かれることでしょう。

お礼日時:2012/04/08 11:10

貴重な意見、ありがとうございます。

勉強になります。

さて、神の予知と人間の自由意志の問題について質問いたします。
あなたは、神はアダムとイブを創造した時に神に逆らう「自由」、「自由意志」を賦与したという立場をとっています。そうすると、ここで問題になるのが、神がアダムとイブを創造した際に、神がアダムとイブの裏切り、すなわち禁断の実を食べることを予知していたのか、予知していたとしたら選択の自由がはたしてアダムとイブに与えられていたのか、ということです。
人間には行動についての自由意志が与えられおり、その選択は神ですら予知できないのなら、神の全能性に重大な疑義が発生します。
予知していたというのなら、これは決定論になります。つまり、神はアダムとイブが自らを裏切ることを承知で創造したということになります。言葉を換えれば「裏切るように創造した」ということになり、そこには人間の選択の自由、自由意志の存在する余地がなくなります。
「それは禁断の実を食べたという結果からの議論であって、創世記はその話を事実として受け入れ、そこから人間存在について考察をすべきである」とお叱りを受けそうですが、神の予知・予言と未来、人間の自由意志との関係性の問題は、人間の自由意志を考えるうえで避けて通れない問題だと思います。
『人の行動があれこれ予定されているというよりは基本的に人にそなわる自然本性のそのあり方や人自身による自己表現のあり方 これらが予知されているという意味です。』
というのは、この問題について立ち入ることを避けているように思われます。問題のすり替えです。
この点についてお考えがありましたら、ご意見をお聞かせください。
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この回答へのお礼

 ねむりねこにゃーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 『人の行動があれこれ予定されているというよりは基本的に人にそなわる自然本性のそのあり方や人自身による自己表現のあり方 これらが予知されているという意味です。』
 というのは、この問題について立ち入ることを避けているように思われます。問題のすり替えです。
 ~~~~~
 ☆ これは 次のような・人間にとっておよそ共通に見られるところの思惟の形式や行為の類型を言ったものです。

 ☆☆(No.9お礼欄)~~~
 10.
 ・・・
 《善と悪を知る木から採って食べた》 これは 善とそしてその善にさからうへそ曲がり(それとして名づければ 悪)とについて 自由意志によって判断し選択するということそのものです。
 ~~~~~~~~~


 ですから 《悪》は存在しない。という定理になりましょうし・つまりは悪は 善の損傷行為でありその結果の善の欠如なる状態であるとなりましょうし 《善》はと言えば これはただただ主観的な思いと判断によるものと考えられます。
 おのれの心がよしと思うことが 善なのだとです。それは この心の善にさからうときに 動悸がはげしくなったり顔を赤らめ冷や汗をかいたり 言葉はしどろもどろになったりします。ゆえに ここで 善とその善の損傷とを分けることができます。

 おそらくはそれでも この善は 人間に共通のことであるとも見ます。存在とその存続ということをその核心とすると見るときです。いのち と 生きること これが善であると。(良く生きるとまで言わずとも 生きることだけで 善であり それでよいと見ます)。
 善についての主観の共同化は 望めると見ます。そして 悪は存在しない。善を損傷する行為とその結果を 便宜的に悪と呼ぶ。つまり 悪は そう名づける現象があるのみだと。

 これなどは この話の以前に・つまり善と悪を知る木から採って食べる話の以前に 神は 人を造って《はなはだ良しと見た》と書き込んでいるゆえにいっそう 《悪は存在しない》ことを言おうとしているとも読めます。聖書記者の観想――その以前に ヒラメキ(直感および直観)――のたまものだと思います。

 つまりこれら一連の流れやそこでの人間のおこないについて すべて神はお見通しだと 記事は言おうとしていると思うのですが どうでしょう。
 つまり乱暴に言ってしまえば 楽園を追放されたあとのそのアダムやエワの姿 これを見て神は よしよしと言ってほほえんだことでしょう。あとは おまえたち人間にこの世界をまかせたよと言ったことでしょう。
 その《まかせたよ》は イエス・キリストの――物語における十字架上に去って行ったあとの――復活という言ってみればウワサが成るまで待たなければならなかった。

 キリスト・イエスによる《もう律法も宗教も要らないよ。一人ひとり自由に神を――あるいは人によっては〈無い神〉を――受け容れ信じて しかもその信仰は生活世界の背景にしりぞけておいて あとは経験合理性をとおして互いの話し合いをつうじて共に生きて行こうぢゃないか》という呼びかけが成るだけです。二千年も経って まだまだですが。

 だって 神は人間の精神であると思っている人がわんさかいるのですから。観念の神は死んだと言っても 別の観念の神(つまり アイドル)を片っ端から求めています。

 十字架上で何ひとつ抵抗すら出来ずまたしなかったキリスト・イエスなる《つまづきの石》に つまづき続けています。

 直後のご回答者であるおうけい9608さんは わたしが思うに(もう長いあいだやり取りをして来ています) 無い神を受け容れておられる信仰者だと見ますが それでも《神は人間の想像物だ》と表明なさっています。(このあと わたしは 談判に行って来ます)。


 家の土台の四隅に置く隅の親石と言うんでしょうか 大工たちが この石はダメだ 土台のための石には向かないと見て捨ててしまった石。ちょうどそれと同じように はりつけにされて捨てられた石。つまづきの石。
 《おしえ》や律法など《考える》の対象物を残して去ったならば 人びとはその経験事物やあるいは思想としての深みなどに捕らえられて ただあたまをひねるだけでおしまいになってしまいます。石につまづいてしまいます。(それでも 残した言葉などがあれば それは 非合理に満ちています。わざとそうしたはずです)。
 もちろん これらのことも神はお見通しです。


 と言ってわざわざ神のことを出さなければならないことが おそらくキリストとその神の心に逆らっているのかも知れません。

 だって あの羊飼いの少年らにこそ イエスの誕生のことはそうっと告げられたのです。ときは満ちたと。

 ならばこんにちでも 名も無い人びと 地道に生活する人びとには ぶらじゅろんぬよ 何を血迷ったことを言っておるのか もうすでに《わたしはすでにこの世に勝利している》とイエスが言ったことを忘れたか と言ってやれと神は告げていることでしょう。

 でもおそらく これからが 本番でもありましょう。




 ★ 予知していたというのなら、これは決定論になります。
 ☆ なりませんよ。こうしろ ああはするなとは いっさい言っていないからです。道徳規範は 愚の骨頂 くそくらえ!! と キリスト・イエスのおかげで 言えるからです。
 真理を知れば きみたちは自由になる。の本番の世界が あたらしくひらける?

お礼日時:2012/04/08 09:48

神田川は愛がさめましたよということを湾曲しているともとれます。



しかし、アニメはどちらもとてもチャーミングな女の子という設定です。
そして、殿方はフリーです。
やっぱり、何らかの事情や、それほどでもないので、この度はすいませんが、
ということでしたら、ここまではよくある話だと思います。
そこに癒される理由が謎です。
ハッピーエンドで癒されるわけではない、というところが
妙な話だと思うのですが。
なんか、そっちのほうがよっぽど恐いのですが。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 まづ不平不満です。
 ★ 殿方
 ☆ という表現には 何だか封建的なにおいが感じられます。というのは 一般的ではないのかなぁ。みなさんに聞いてみたいですね。

 むかしは――いまも 人によっては目上の相手の目をぢかに見つめてはいけないと言ったりします(ただし 欧米化により しっかりと相手の目を見て話をしなさいとも言いますね)―― えらい人に対するほど 直接的な接触は避けたようです。見ては目がつぶれるとまでその迷信は行きつきました。
 つまり言いたいことは 相手のことを呼ぶときに なんぢ(汝)から御前を通り越して 《あなた(=かなた=彼方)》にまで間接的な接触や呼びかけの方法が行きつきましたし 敬称としては《さま(様)》を用います。

 これは 相手が 見えていないとこちらが言っています。直接にはわたしはあなたさまを見ていませんと。
 つまり その相手は存在として漠然とだけ分かっていますと言う意味で 《さま》なのだと考えます。あなたがそこにおいでである《様子》がこちらには見えていますと言っています。
 《殿》は 相手の存在を 《様子》のひとつのかたちとしてその御殿と言うのでしょうか その家を表わす言葉で呼びかけている。と思います。

 ただし この殿という呼び方から 殿方になると どうも偉い人は男であるという通念からなのか 男性に対する敬称になったのではないか。そうだとしたら これも くそくらえです。とはお思いになりますか?



 アニメのことが・その話の内容が分かりません。
 ★ きっと、ハンフリーボガードとかもそうだと思います。
 ☆ これは 映画カサブランカでしょうか。これは わたしは 質問にまで挙げました。のでよく知っていますが ほかのアニメはとんと分かりません。

 ★(回答No.10ですが) ~~~~
 「俺にほれちゃあいけないぜ」がロマンで癒しみたいです。
 
 普通そこにいやされますか。
 きっと世の中の女の人は100%わかってません。
 それなのに掘り下げられて語られていないのです。
 変じゃないですか。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ いやあ たぶん 
 ★ 「俺にほれちゃあいけないぜ」がロマンで癒しみたいです。
 ☆ もあれば 別もあって たぶんカサブランカのボガードは 別だと見ます。自然本性は 自由意志の主体である人なる異性を ふたり同時に愛することができない。重愛はできないという能力を 自然本性が持つと見ます。

 能力によって イングリッド・バーグマン(ベルイマン)が 夫とボガードとの二人を愛することは出来ない。またそんな位置に置かれているバーグマンを ボガードは 能力によって愛する(愛を復活させる)ことは出来ない。それだけのことと見ます。
 つまり水の低きに就くように自然本性の志向性は そのまま流れていきます。この能力・それをそなえる自然本性 これを大事にすることが 生きることであり ともに生きることであり もし言うとすれば愛です。
 そのあと 言うとすれば 具体的に相手がだれのだれべえとか 何の何子とかが決まります。人間愛が ツイ関係や性愛に先行します。しかもそれは 自然本性における感性であり 感性としての能力であり それにもとづく志向性です。これが 神の愛です。



 神田川のその後のゆくえは 分かりませんが いづれにせよ スサノヲ人間語とその感性に耳を片向けていれば 道はおのづと明らかになると見ます。どうでしょう。

お礼日時:2012/04/08 11:44

すいません、実のところ、ちょっとよくわからないです。


どこから、とっかればいいのかもわかりません。

神田川という歌の「あなたのやさしさがこわかった」とか、
男の人がこわいって言ってるみたいです。
怒るとこわいのが普通ですよね。

とても身近にいる人は、ジブリの「くれないの豚」、
「カリオストロの城」が大好きで、何回もみています。
ロマンは癒しだそうです。
きっと、ハンフリーボガードとかもそうだと思います。

「俺にほれちゃあいけないぜ」がロマンで癒しみたいです。

普通そこにいやされますか。
きっと世の中の女の人は100%わかってません。
それなのに掘り下げられて語られていないのです。
変じゃないですか。
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この回答へのお礼

 はあとまいんどさん お早うございます。

 ★ ~~~
 神田川という歌の「あなたのやさしさがこわかった」とか、
 男の人がこわいって言ってるみたいです。
 怒るとこわいのが普通ですよね。
 ~~~~~
 ☆ たとえば要するに 結婚にこぎつけたとか ふたりのきづなが確かめられたとか とてもうれしいときには むしろ――男も女もですが―― 《こわい》感じがして 畏れを持つこともよくあるのではありませんか?

 要するに こわいくらい しあわせであると。


 これは 人にとってふつうの感覚だと思います。ふつうの人間にとって とてもうつくしい気持ちなのだと思います。


 世の中のことはみな 移ろいゆくものだからです。人の心さえ それをまぬかれません。
 諸行無常 諸法無我と言うそうです。

 世の中は 空だと見るふたりが その空ゆえに世の中をほんのちょっと互いに・そしていっしょに照らして行こうと誓い合うのは 自由への道だと思います。



 このあと つづくほかのお二方のほうへ行って また戻って来ます。

お礼日時:2012/04/08 08:38

ご意見ありがとうございます。



ご指摘のように、アダムとイヴの蛇による堕落の物語を人間の「自由意志」の問題とする見方は存在します。しかし、これは人間の自由意志に価値を置く近代的な発想、もしくはヘレニスト的発想であって、旧約聖書の創世記がテキストとして編纂された時代のユダヤ民族にそのような思想があったとは考えられません。旧約・新約聖書が成立した時代は当然のこととして奴隷を使役していた時代です。彼ら奴隷は自らの自由意志で奴隷になったのでしょうか。疑問です。少なくとも、旧約聖書は奴隷使役の正当性を近代的な自由観あるいは人間の自由意志からは説明できないと考えています。
また、私は「アダムとイブの堕落は人間が死すべき運命になったことに対する神話的説明である」と考えます。あるいは「人間は誘惑に弱いもの、躓きやすい存在である」という警句だと思っています。こうした人間理解は新約のイエスの言葉にも認めることができると思います。
「もし右目なんぢを躓かせば、抉(くぐ)りて出(いだ)して捨てよ。五体の一つ亡(ほろ)びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益(えき)なり。」(マタイ伝第五章29)
このキリストの言葉に端的に示されるように「キリストの愛の教えは誘惑に躓きやすい人間のための教え」ではないのでしょうか。僕はそのように理解しています。
また、アダムとイブの蛇による堕落の中では、人間の「自由意志」の問題よりも、むしろ禁断の実を食べることによって、「彼らの目が開いて善悪を知るようになった」、こう言い換えることも可能だと思いますが、「彼らが(善)悪を発明した」ことに主眼があるのではないでしょうか。アダムとイブは善悪を知る智慧を手に入れる代償として楽園追放と死すべき運命という憂き目にあったのですから。まして、ここでは蛇の存在は問題になっていません。
さらに付け加えれば、創世記を素直な気持ちで読めば分かることですが、アダムとイブが恥じおそれているのは「神の言いつけに背いた」からではなく、「自分たちが裸であることを知った」ためです。神の言いつけに逆らったという自らの行為の責任を自覚したためではありません。アダムとイブが自らの行為の責任とその結果の重大性を自覚したのは、楽園を追放の事態に至ってからですから。

>7-7.《神にもさからいる自由意志》という主題は、これは(ユダヤ・キリスト教)独自のものでしょう。
ということですが、ギルガメシュ叙事詩の洪水神話に見られるように、バビロニア神話でも人間は神の掟、意志に反した故に滅ぼされようとしたのです。「人間が神に逆いうる」自由を有することは、何もユダヤ・キリスト教独自の考え方ではありません。バビロニアの神話にまったく無縁なアメリカ先住民の神話にもこうした話があるように、これを自由意志の問題と結びつけるのなら、世界の多くの神話にもそれを認めることが可能ですから。読みようによっては、ギルガメシュの人間的苦悩に注目すれば、ギルガメシュ叙事詩は、神に定められた運命に対する挑戦、神への挑戦の物語、まさに「人間の自由意志」の物語と考えることができます。
要するに、読み手側がテキストをどのような態度、視点で読むか、そしてそこから何を読みとるかの問題だと思います。( 「8.このようにして《元ネタ》との――あえて言えば 次元の――違いが明らかであると考えます。」の返答)


>9.ミルトンが≪失楽園≫…
ミルトンの悪魔観を否定していらっしゃるようですが、悪魔=堕天使の図式はキリスト教、すくなくともカトリックの悪魔観ではないでしょうか。
ミルトンの「失楽園」を読んでいらっしゃらないようでしたら、ぜひ、お読みになることを薦めます。「失楽園」の主題はまさにあなたのおっしゃる「自由意志」だからです。もっとも、ミルトンはイブを誘惑したサタン・ルシファーの口を借りて、人間の苦悩、自由意志の問題を取り扱っていますけれども。
また何故天使の姿をしたサタン・ルシファーが、堕天使たちが蛇・龍の姿に変えられたのか、分かりやすい説明があります。

>9-4.ゴータマ・ブッダについては美女マーガンディヤー事件がその思想の欠陥を示していましょう。
なぜ、この事件がその(ブッダの)思想の欠陥性を示しているのでしょうか。僕には理解できません。この事件がブッダの思想性の欠陥性を示しているというのなら、マタイ伝第4章などに見られる「キリストの荒れ野の試し」もその思想性の欠陥を示しているのではないですか。キリストもブッダも悪魔、つまり、悪魔という言葉で象徴される、さまざまな人間的欲求を克服したから偉大なのであり、人類の教師になったと私は考えます。この点について、ご意見があったら、よろしくお願いします。

これはユダヤ・キリスト教の神ヤハウェの全能性に関する議論になるのであまり触れたくないのですが(感情論、水掛け論、いわゆる神学論争になるので)、すべての創造を終えたヤハウェは「はなはだ善かりき」と言います。つまり、創世記を素直な心で読めば、この時点でヤハウェはアダムとイブの背信行為を予測できていなかったということになります。ここにヤハウェの全能性についての疑義が生じます。この矛盾を解決するために、「ヤハウェはアダムとイブが自分に背くべき運命を持つ存在として創造した。一見、アダムとイブが禁断の実を食べることは、アダムとイブの「自由意志」からの選択と見えれるが、それは見かけだけのこと。人間に自由意志はない。人間の運命は産まれた時にすでに創造主である神によって決定されている」という解釈もキリスト教から提出されています。また、ユダヤ・キリスト教の影響を受けて成立したイスラム教も人間の宿命論・運命論の立場をとっています。
ヤハウェの全能性を前提とすれば当然の帰結と考えますが、これについていかがお考えですか。

蛇の話からだいぶ脱線してしまいましたけれども。
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この回答へのお礼

 眠り猫ニャーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まづお事割りしておかねばならないことは この質問において聖書の解釈はすべて 質問者であるわたしの考えによるものです。それを提示して 情報交換をねがっています。

 したがって いわゆるキリスト教ないしその下での神学からは基本的に この質問のたたき台は 自由です。

 それでは 吟味検討するに値しないということでしたら その旨をお伝えいただければ よいのだと考えます。


 1.
 アダムとエワの物語をめぐって。

 例によって わたし独自の視点で話をすすめます。

 2. 
 神の予知と人の自由意志

 ★ すべての創造を終えたヤハウェは「はなはだ善かりき」と言います。
 ☆ であるのに――つまりそのように確かに書いてあるのに―― その《良しと見た》ことを アダムらの楽園追放のあとの時点(つまり そのときの 《人間》たちの置かれた状態)において捉えるとは 何ごとか?

 すなわち

 ○ 神の予知において そうであった。

 このひと言で説明されるのではないでしょうか? 何らむつかしいことはないと思います。

 3.
 とぼけるという文学上の手法

 ★ つまり、創世記を素直な心で読めば、この時点でヤハウェはアダムとイブの背信行為を予測できていなかったということになります。
 ☆ たとえば木の実を食べたあと 神は《アダムよ きみはどこにいるのか?》と問うています。きわめて頓珍漢なことです。食べるなと言っておいた木から採って食べたことは 言わば周知の事実なのですから。
 むろん それらは すべて神にとって予知されていたことです。ちょうどそのように捉えるという恰好です。
 人の行動があれこれ予定されているというよりは 基本的に 人にそなわる自然本性のそのあり方や人自身による自己表現のあり方 これらが予知されているという意味です。

 4.
 初めから(創世記の記事から) 存在論としての大論文なのだ。
 
 ですから 別にアダムという名の男とエワという名の女が 何をした・かにをしたという歴史物語ではないわけです。特定の人びとの人生をのぞいてみるというのではなく 《人間》一般の歴史であり もっと抽象的に捉えれば 《存在》論であるわけです。 
 モーセに名を明かす場面を例にとって考えれば分かることではないでしょうか。(でも アブラハムからあとの歴史は 文学の味わいをも込めて書かれていると思います。特定の人の一回性としての行動にもとづく人生のあゆみです)。


 5.
 自由意志を否定する議論は いただけません。

 ★ 人間に自由意志はない。
 ☆ という議論は いただけません。そうなると 刑法が成り立ちません。責任が問えなくなるはずです。犬や猫が違法行為を犯したというのと同じになるからです。

 6.
 ● 予定調和

 これは関係ないと言うべきでしょう。仮りにもしそうであったとしても そのことは 人間にとっていっさい分かりません。ですから 予定調和と言おうが予定不調和と言おうが あるいは 未定調和と言おうが未定のみと言おうが それらが神の意志として言われている限りでは 人間にとって意味は 分からないのですし けっきょく 〔意味が〕ありません。
 (いい結果が出たとか わるい結果が出たとか見るのは すべてそれが人間が見ることである場合には そのことについての神の心は 分からないという意味です。おそらく生涯を終えてからでも いい・わるいは 人間から見て決められないでしょう)。

 

 7.
 奴隷と自由意志

 ★ 少なくとも、旧約聖書は奴隷使役の正当性を近代的な自由観あるいは人間の自由意志からは説明できないと考えています。
 ☆ おっしゃる意味が分からないのですが 戦争奴隷にしろ債務奴隷にしろ 戦争に出かけたのも債務をかかえたのも その人の自由意志によります。ということだけの話だと思いますが。
 ● 自由意志
 ☆ という言葉は あんがいあたらしいようですが。


 8.
 イエスは つまづきの石である。

 ★ 「キリストの愛の教えは誘惑に躓きやすい人間のための教え」ではないのでしょうか。僕はそのように理解しています。
 ☆ たぶん――それはそれとして 経験的な知恵の問題なのでしょうが―― 見方は そうではない見方が キリスト信仰のものとしてあるはずです。

 キリスト・イエスが《つまづきの石》であるということは 〔いま述べることがどこまで一般的な話になるか分からないまま述べるのですが〕 むしろ《誘惑》には まづ――相手の存在を自分のと同じようにとうとぶことにおいて―― 乗ってみる。話に応じる。ということを示す場合があると見ます。
 つまりむしろ――世間の知恵から見れば――《つまづく》ということです。それは じつは イエスなる《つまづきの石》にはつまづかなかった・つまり キリストを受け容れたことだと見るというものです。
 
 9.
 つづきの話。わが心なる非思考の庭としての信仰

 ですから
 ★ おしえ
 ☆ は どうでもよい。律法はどうでもよい。こういうことだと見ます。
 互いにその存在をとうとび愛すること これが言うならば《愛》です。
 しかもそれは《おしえ》の問題ではなく すでに信仰としての・信仰にもとづく自己表現であり その動態です。愛は この表現過程にしかない。と見ます。

 その自信や保証は 人間としての自分の能力や努力にはないと分かっているからです。無根拠に対する非思考として そう行動するのです。
 では 勝算はあるのか? あってもなくても そのようにキリスト・イエスなる躓きの石を受け容れているという意味です。


 10.
 あらためて ヘビの問題

 ★ アダムとイブは善悪を知る智慧を手に入れる代償として楽園追放と死すべき運命という憂き目にあったのですから。まして、ここでは蛇の存在は問題になっていません。
 ☆ 《ヘビの存在は問題になっていない》なら そのことが 初めからの・そしてイエスに到るまでの眼目であったと見るものです。
 《善と悪を知る木から採って食べた》 これは 善とそしてその善にさからうへそ曲がり(それとして名づければ 悪)とについて 自由意志によって判断し選択するということそのものです。

 11.
 答責性

 これが 自由意志による自由な自己表現につねにともなうと言っていると見るわけですが この答責性について言えば確かに アダムらはきちんと答えていません。筋の通らない言い訳をしています。
 でもそのことが 説明責任をともなうということを示しています。それだけのことだと思うのですが。

 神に対して答弁するというのでなくても みづからの良心に対してどう言い訳するかの問題であると考えます。そういう自然本性についての議論だと見ます。


 12.
 『失楽園』

 ★ ミルトンの悪魔観を否定していらっしゃるようですが、悪魔=堕天使の図式はキリスト教、すくなくともカトリックの悪魔観ではないでしょうか。
 ☆ そのとおりです。おっしゃるとおりです。ローマ教会もプロテスタントの教義も 屁の河童です。


 13.
 ギルガメシュ

 ★ ギルガメシュ叙事詩の洪水神話に見られるように、バビロニア神話でも人間は神の掟、意志に反した故に滅ぼされようとしたのです。「人間が神に逆いうる」自由を有することは、何もユダヤ・キリスト教独自の考え方ではありません。
 ☆ もしそうおっしゃるのなら そうなのでしょう。そしてそのように アダムとエワの話に 自由意志の主題を読み込んでもだいじょうぶだと見ます。つまり シュメール人の神話を見下していたという咎がわたしにあります。

 14.
 ゴータマ・ブッダの美女マーガンディヤー事件

 あとあとまで尾を引いたことが〔ブッダの思想の欠陥〕です。
 マーガンディヤーによって復讐が繰り広げられました。ブッダの信奉者の国王第三夫人でしたかが マーガンディヤーによって 館ごと・侍女たちごと 火を放たれ焼かれてしまいました。
 そのときブッダが言った言葉が 振るっていたと思います。まるで 人が死ぬということについて 何の感情もない言い分だったのでは?

 15.
 アクマ

 ★ 悪魔という言葉で象徴される、さまざまな人間的欲求を克服したから偉大なのであり、人類の教師になったと私は考えます。
 ☆ キリストの場合(つまり旧約からの聖書の場合) アクマは飽くまで民俗としての迷信でありまぼろしであると明らかにしたと見ます。
 また
 ★ 人間的欲求を克服した
 ☆ というのは 人間にとって捉えるならば それも飽くまでキリストなる神のチカラがはたらくのに与かることだという見方です。(むろん 努力はしますが 最終的に決めるのは めぐみのチカラです)。
 確かに《教師》と呼ぶこともありますが 問題はそうではなく 《つまづきの石》を教師や愛の教えとして捉えることではないというところにあります。受け容れることにあります。しかも イエスはふつうの人間ですが キリストは そうではないのですから 《非思考》において受け容れることになります。理性も知恵をも超えていますから。

 こういったふうに考えます。

お礼日時:2012/04/07 21:15

すいません。



必要以上の情欲への畏れによる、情報の疎語による非生産的
になる状況のことでした。
こちらでも調べておきます。神話でも心理学でもいいので
なにかわかりましたら、よろしくお願いします。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 必要以上の情欲への畏れによる、情報の齟齬による非生産的になる状況のことでした。
 ☆ 《情欲に対する必要以上のおそれ――おそらく この場合は 恐れでしょうね。なぜなら 《必要以上のことなら かしこき(畏き・賢き)おそれを持つこともないでしょうし そもそも《情欲》なら 畏(かしこ)むこともないでしょうから――》でしょうか。
 
 いづれにしましても 
 ★ 情欲
 ☆ の定義が そちらのほうで はっきりしません。こちらのほうでは 前回述べました。
 そういうところだと思いますが。

お礼日時:2012/04/07 19:47

創世記に登場する蛇の物語には実は元ネタがあります。


ギルガメでシュ叙事詩に、親友エンキドゥの死を目撃したウルクの王ギルガメシュが不死の秘法を求めて、不死の人ウトナピシュティムのもとを訪ねます。で、ギルガメシュは、「なぜ、不死になれたのか」と質問しますが、「それは神の恩寵によるもので、人間の手ではどうしようもない」と告げられます(この話の中でノアの洪水の元になった話が出ます。メソポタミアの主神エンリルが人間の不正に憤り、洪水で人間を根絶やしにしようとします。その時、智慧の神であるエンキ(エア)がウトナピシュティムにエンリルの人類抹殺計画をこっそり教え、同時に船の作り方を伝えます)。その話を聞き落胆したギルガメシュにウトナピシュティムは「若返りの薬草」を手渡します。不死は手に入れられなかったけれど、若返りの薬草を手に入れた帰り道に、ギルガメシュは沐浴をします。その沐浴の最中に、ギルガメシュが岸に置いた薬草を蛇が食べてしまい(※)、ギルガメシュは「若返ることも」できなくなった。人間は死ななければならないという定めが確定してしまう。
創世記のアダムとイブが蛇によって不死の命を失う話の元ネタがこれだとされています。

(※)古代メソポタミアでは、脱皮を繰り返す蛇は不死・若返り、さらに智慧のの象徴とされていた。

またバビロニアの主神マルドゥークの神話には、原初の女神ティアマット(塩水の女神)は蛇・龍の姿をしており、マルドゥークがティアマットを退治した死骸から人間などの生物が発生したという話もあり、旧約聖書が生まれる数千年前から人間と蛇との関係は深いんですよ、メソポタミア神話の世界では。(ティアマットの旦那さん、真水の神様アプスーは、それ以前に、子供である天界の神様たちを根絶やしにしようとして、反対に子供達によって殺されている)

また、古代の人々にとって蛇は、うねうねとした姿から川、あるいは川の神と同一視されていましたから、唯一神ヤハウェを標榜するユダヤ・キリスト教では他の土着の神様同様に徹底的に排斥されたという経緯もあります。さらに言えば、創世記の蛇は、人間ではないのに人間の言葉を話すでしょう。これは中東地域で蛇は智慧の象徴であったということを伏線にしています。ミルトンの「失楽園」などでは、ルシファー・サタン(*)が姿を蛇に変えてイブを誘惑したということになっていますが、これはキリスト教の堕天使=サタンという悪魔観が成立してからの後付けの話です。ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」でも蛇はツァラトゥストラの智慧の象徴です。
グノーシス思想の中には、創世記に出てくるあの蛇が人間に智慧を与え、この世を支配する怒り・妬み・裁きの神ヤハウェのくびきから解放したとする考えもあるので、面白いですよね。
(※)ミルトンは、ルシファー・サタンを「ハエの王」ベルゼバブ(カナンの主神・バール)と同一視しています。そう言えば、バールによって倒されたカナンの神モトは川の神様で蛇・龍の姿をしていたな。

要するに、蛇=悪者という図式が成立するのは、ユダヤ・キリスト教、イスラム教が世界に広まってからの話ということです。

また、英雄や神の蛇・龍退治の話には、氾濫を繰り返す川を克服した、王もしくは支配者が川の治水工事したということを表現しているという一面もあります。古代人は、歴史をそのまま事実として記すのではなく、神話に仮託するということをしていました。川は、単に恵みをもたらすだけでなく、破壊・災害をもたらす側面をも合わせ持っていましたから。

蛇は、単に性力の象徴としてだけではなく、フロイトが主張するように、夢の中では男性器の象徴でもあります。夢の中では、性に対する否定的なイメージ・道徳観、倫理観から、男性器の歪曲化、象徴化が行われ、男性器は細長いもの、尖ったものなどに姿を変えるとされています。で、男性器が勃起するかのように、鎌首を持ち上げる蛇はそのものずばり男性器の象徴ということになります。フロイトのこうした考え方は、精神医学をポルノに変えたという批判はありますけれども(笑い)。

蛇と男性器・性力の関係でいうと、インドのタントラ(仏教の後期密教の一派)などの中で説かれるクンダリーニという考え方があります。
人間のおヘソのあたりにはクンダリーニという蛇が潜んでいて、瞑想・ヨーガなどによってこれが覚醒すると、クンダリーニがその鎌首を持ち上げ、脊髄を伝わって強い快感・エクスタシーが体をうつ。これを一種の悟りとみなす考え方です。
性的な快感と宗教的な快感・法悦(エクスタシー)との近親性から生まれた思想だそうですが…
その一方で、日本の今昔物語の中では、「蛇が法師のマラ(勃起した男性器)を口にし、淫を受けて死んだ」という興味深い話があります。
もっとも、これはお釈迦様が弟子に向かって「たとえ男性器を蛇の口に入れても、けっして女性器の中に入れてはいけない」という強い戒め、教えが伏線となっているものと考えられますが…。それはそれとして、人間の精液を蛇が飲むと死んじゃうという考えは、かなりぶっ飛んだ考えですよね。


摩羅(マラ):釈尊が悟りを得るのを邪魔しようとして現れた悪魔。この時、マーラは自分の美しい娘の裸の姿で釈尊を誘惑しようとした。これと似たような話がゾロアスター教の開祖・ゾロアスタ(ツァラトゥストラ)にも出てきます(いわゆるペルシア民族は、インドの支配民族アーリア民族と同族で、両者には言語だけではなく共通の神話が存在するためといわれている)。ただし、ゾロアスター教では性行為は神聖な行為で、人間は性行為・出産に励まなければならないという違いがありますけれど。ゾロアスタ教では、性的禁欲を唱える仏陀を悪魔、もしくはその手先と見なします。また、新約聖書にあるキリストを誘惑しようとした悪魔の話は仏陀の成道、ゾロアスタの話などが元ネタであるとする説もあります。
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この回答へのお礼

 ねむりねこにゃーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ずばり言いますと――つまり すでに復唱せずにずばりお応えしますと――

 1. 聖書は アブラハムの信仰に始まってモーセによるそれの集団にとっての宗教化(規範化)を経てイエス・キリストによるその宗教の揚棄(個人における信仰の復活)までを歴史的経過としても理論としても書き記した。

 と考えます。あるいはつまり そこに添えるなら

 2. アブラハムに(つまりその当時はまだアブラムと名乗っていた人間に)非経験なる神との――主観における受け容れとしての経験行為としての――関係が成ったあと 歴史をさかのぼって 始祖のアダムとエワにまでたどりついた。そのあと このじんるいの初めやあるいは世界の初めから説き起こし アブラハムにまでも話をたどり着かせた。

 ということであろうと推測するものですが 問題は いまの《ヘビ》の主題にかんしてなら こうです。

 3. とうぜんユダヤ民族にとっての聖書に表わされた信仰ないし宗教ないし思想(生活態度)は その話題を 先行するシュメールやアッカドあるいはエジプトのいろんな民俗や神話から持って来ています。ギルガメシュ神話からは かなり決定的な話素を 七つくらいは 《パクって》来ているとか聞いています。
 ですから 問題は それぞれの主題についてそれらを聖書記者が――同じ話題でありながら――どのように扱っているか。これにあると考えられます。

 4. 《ヘビ》の主題についてなら 基本的に――という意味は 新約聖書のキリスト・イエスにまで到るその《料理》の仕方を総合するとということですが―― 結論は《へびは 要らない》 これだと見ます。

 5. 言いかえると 世界にはいろんな《ヘビ》の物語が語られている。(つまりたとえば むろん 中国でも 龍として天子を象徴するまでになっている)。これを 同じくユダヤの民のあいだでも 聞いていたし受け容れてもいた。よって 基本的には――つまりその時点での聖書記者の心つもりとしての長期の観点からすれば―― 《ヘビは 要らない》であるのだけれど まづはその扱い方として神との関係をめぐる人間の物語の中に あたかも主役をおびやかすほどの存在であるかのごとく 採り入れた。

 こうして長い時間・つまり千年二千年をかけて ヘビを料理しようという魂胆だったのではないか。こう見るというものです。

 6. ちなみにたとえばですが モーセからもだいぶん経ったあとのこと ヨブの物語においては ヘビはアクマに昇格していますが 飽くまでヤハヱーの管轄下におかれています。人間の意志の弱さや歪みによっていわゆる悪のおこないをするということをも超えて ひとつの見方からすれば 次のごとく見られるようにも描かれています。
 つまりは 神は愛する人間を特にえこひいきして 人一倍いぢわるをする。すなわち ヘビないしアクマを送ってさまざまな試練をあたえる。ヨブの心を練って練って練り上げた。そこまで 人間の次元においても ヘビ退治は すすむ。あとは イエスの磔とそこからの――物語においては――復活 これで締めくくるという魂胆であった。

 7. で 初めにもどって 女である人類の始祖エワを誘いそそのかしたヘビの話ですが そしてエワの誘いによって夫のアダムも同じく その善と悪とを知る木から採って食べたのですが 要するにこの話は 《自由意志》の理論をつたえようとしています。

 7-1. すなわち ヒトは 自由意志がそなわっており これによると 自分の心の思いにしたがって思惟し行為をおこなうこともその意志によって成すのだと言うことを示している。動物がその本能で行動するのとはわけが違うのだと。

 7-2. しかもこの自由意志によるなら 心にさからって振る舞うことにおいて わが神にも逆らっているということが 《自由に》行なわれ得るのだと言っている。つまりそうエワやアダムはさとった。

 7-3. よって 木の実を食べたあと 神からたとえばアダムは 《アダムよ きみはどこにいるのか?》という声を聞いて どぎまぎしたように 《自由なる思惟と行為 つまりは 自己表現の自由》には 答責性がともなわれるということ。こうもふたりは さとった。

 7-4. その後 エデンの楽園を神によって二人は追われるわけですが こうしてヒトが人間となって存在するという理論が成った。ここまでが 《神は世界を見て それをよしとした》ところに入ると見ます。

 7-5. 説明責任をともなう自由意志 これを備えた人間 この存在は したがって――説明責任を負うということからして―― 互いにカカワリを持ちマジワリを持つ社会的な存在だと知った。〔存在論は 人と人との《関係(カカワリ)の絶対性》を見させ 交通(マジワリ)ないしコミュニケーション論をその主要な課題とする〕。

 7-6. むろん指摘しておっしゃるように 《その自由意志ないし精神もうつろい行くことがあり その身は朽ちるべきものである》つまり《われわれ人間は 時間的な存在である》つまり《死すべきもの》だということも 言われていると思われるからには ギルガメシュのこの話はたしかにパクっていましょう。

 7-7. したがって 要するに 《神にもさからいうる自由意志》という主題 これは 独自のものでしょう。そうして 知恵をさづける者としても誘惑する者としてもそのヘビは 大きくその存在をうったえているように描かれているけれども やがて消え失せるまぼろしとしても触れられている。(趣旨説明欄の§7から§10までを参照ください。エワの子孫とヘビとのたたかいのことが ほのめかされています)。

 8. このようにして 《元ネタ》との――あえて言えば 次元の――違いが明らかであると考えます。

 その点についてのご見解が示されていればよかったかと考えますが いかがでしょう?



 9. つまりはたとえば のちのちの歴史においてミルトンが《失楽園》を著わしたと言っても 要らぬお世話であり ただのおままごとだとなります。

 9-1. ニーチェは あたまから おかしいです。=趣旨説明欄( f )。フロイトのくだらなさについては 触れません。

 9-2. ★ 要するに、蛇=悪者という図式が成立するのは、ユダヤ・キリスト教、イスラム教が世界に広まってからの話ということです。
 ☆ 《ヘビ=アクマ》説は まぼろしであるという問題だと見ます。イエスにおいて まぼろしすら消えたという意味です。

 9-3. 《タントラ》教は 勝手にやってくれです。

 9-4. ゴータマ・ブッダについては 美女マーガンディヤー事件が その思想の欠陥を示していましょう。



 以上のようなたたき台をしめして 問い求めをいっしょにすすめてみませんかと言っています。どうでしょう。ご批判をあおぎます。

お礼日時:2012/04/07 07:48

bragelonneさん、こんばんは。



☆ たぶんただし 理性のほうが 偉いという前提でおっしゃっていませんか?


はい!その通りです。・・・その通りでした。
いつも、ありがとうございます。
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 うけたまわりました。


 お応えは 前回No.1のお礼欄と補足欄に書き込みましたので それをあらためてでもご覧ください。 
 そして ほかの回答者さんとのやり取りにも 目をとおしていただければさいわいです。
 ということで ここは このようなかたちにてです。

お礼日時:2012/04/07 06:27

谷戸の解説ありがとうございました。


現在ではあまり使われない言葉ですが
俳句の世界では今も使われている言葉です。
鎌倉に住んでおられる俳人の方が時々用いています。

野蛮人の報告書のつづきです。
・・・・・
ヘビがユーモラスに見える時もあります。
木や草の蔭から、しっぽを出している時です。
何か棒みたいなものがあるな、と思っていると
音もなくゆっくりと動いていって蔭にすーと入っていきます。
しっぽの先が伸びたままの状態で、ゆっくりと動いていくのは何となくユーモラスです。
あの、くねくねとした動きは好きになれませんが・・・こちらはどことなく、のんびりした感じで面白いです。
・・・・・
昔は、どこの農家でも鶏を飼っていました。
卵から、ひよこをかえして育てていたものです。
その、かわいいひよこを狙ってヘビがやってきます。
朝見てみると、お腹が膨らんだヘビがいた事がありました。
食いすぎて満腹なのか、とぐろを巻いて動きません。
こいつ、とばかりに捕まえては叩いて藪の中に放り投げたりしました。
しかし、殺したりはしませんでした。
何となく殺してはいけないという気持ちがあったと思います。
一番いけないのは、鶏を食う習性がついてしまった犬です。
犬も鶏も放して飼っていた時代でしたから、犬の中には野犬でなくても鶏を食らうようになってしまった犬が時々いたものです。
こちらはもう絶対に許されない感じでした。
大切な鶏が一晩のうちに何羽もやられてしまうようになると
もうダメだな、ということで抹殺されてしまう。
そしてその犬の肉が近所に配られてきます。
私もその肉を煮たものを見ましたが、どうしても食えませんでした。
赤い肉で、ほとんど脂身がなかった感じでした。
犬を食う・・・なんて野蛮だと思いがちですが、まだまだです。
近所のつわもの曰く・・・猫よりも犬のほうが旨い
皆なで酒を飲むとそんな話を笑いながらしていたのを思い出します。
こんなですからシマヘビを食うぐらいは平気です。
・・・・・
ヘビは殺しちゃいけない、というのはよく聞きました。
石を投げて追い払ったりもしましたが、たまには友達とやってしまった事もあります。
それは怖かったからだと思います。
ヘビは私にとって今でも特殊な感じのする生き物です。
他の動物と比べて、いまいち親しみが感じられない。
いつでも、何か目に見えないところにいて、急に出てくる化け物のような感じがします。
化け物の解釈はいろいろでしょう。
化け物といえば、カル羅は龍を常食としているみたいですが
龍の味ってどんなかな・・・
いやはや、野蛮人の馬鹿な空想でした。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 おおむね次のように受け留めてよろしいでしょうか。
 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~
  § 19 おそらく日本人は 共生の知恵にたけている。

 《なほびたま》にしろ《あらみたま》にしろ そのようにヘビを取り扱ったとしたら さらにそこにエロスの領域のことどもをも捉えた場合には すべて《モノはコトである》の世界観(§ 17)またそれとしてのミクロコスモスなる《わたくし》の中におさめて(§ 16) もしそれがモノスゴイことであったとしたら むしろそれをウヤマヒ きよらかなおそれをいだきつつ 共存しようとするのではないだろうか?
 ~~~~~~~~~~~~~


 
 立川流とそしてほかに密教・女性原理だとかの質問が出ましたので その向こうを張って 次の情報を掲げます。断片的かも知れませんが 《へび》の問題とそのような問題を真剣に(くそ真面目に)考える宗派をどう扱うかの問題 このふたつの点においてです。

 ● (キリスト教の異端とされるカタリ派)~~~
 【Q:グノーシス主義の良さをおしえてください】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3183765.html
 [回答No.1]

 「絶対的二元論」を唱えました後期カタリ派(南フランスや北イタリアに広がった)では、そもそもこの宇宙には、光(精神)と闇(物質)の二つの神がおり、対立していました。

 物質をつかさどる神は、人間(生物)という牢獄を創り、精神をその中に閉じ込めてしまいました。
 そのため、物欲にまみれた人間界では、腐敗に満ち溢れます。

 人間世界の回復のためには、囚われた精神の解放が必要です。
 そのために、色々な戒律などが行われます。
 (その戒律の中には、性交渉の絶対禁止{自慰行為も禁止}があります。これは、子供が生まれる事は、牢獄の増加につながるという考え方によりますが、誘惑に負けて性交渉をしてしまった人は、今度は徹底して性交渉をする事が良いとされました。これは、性交渉により肉体を酷使する事で、精神を閉じ込めておく牢獄が弱くなると考えられたためです)

 当初カトリック教会もコンスタンティノープル総主教も、ボゴミール派にもカタリ派にも弾圧を加えてはいませんでした。
 二元論運動の広まりにより、二元論者が、既存の教会を破壊したり十字架を撤去するなどの行為を行うようになったため、弾圧に乗り出します。
 ~~~~~~~~~~~

 ▲ (ヰキぺ:カタリ派) ~~~~
 § 興亡
 〔* 途中からの引用ですが〕・・・
 1229年、カタリ派への対抗策として異端審問制度が実施された。
 南フランスにおける異端審問は13世紀を通じて行われた。
 1244年、カタリ派の最後の砦であったモンセギュールが陥落し、立て篭っていた多くのカタリ派信者が改宗を拒んで火刑に処せられた。
 その後も捕らえられたカタリ派指導者たちが異端審問によって処刑を宣告された上、世俗領主に引き渡されて処刑されたことで徐々に南フランスにおけるカタリ派の影響力は低下していった。
 最後の「完徳者」ギョーム・ベリパストが捕らえられたのは1321年であった。
 1330年を過ぎると異端審問所の資料からカタリ派の名前は消えていった。信徒たちは山中や森に逃れ、各地へ離散していった。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 いやはや。
 ★ ~~~~
 ヘビは私にとって今でも特殊な感じのする生き物です。
 他の動物と比べて、いまいち親しみが感じられない。
 いつでも、何か目に見えないところにいて、急に出てくる化け物のような感じがします。
 化け物の解釈はいろいろでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ 《化け物》感はあるのですね。
 そこから 《くそ真面目》にまで成るかどうか。・・・でしょうか。

 

お礼日時:2012/04/06 23:03

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