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平安~鎌倉期にかけての東国では聖徳太子信仰が盛んだったそうですが、なぜ聖徳太子が直接活躍した地でもない東国でとりわけ太子信仰が盛んになったのでしょうか?
聖徳太子と東国との繋がりを示す論拠があれば教えていただきたいと思います。

聖徳太子の嫡男・山背大兄王が蘇我氏に攻められた時、家臣が「東国に落ち延びて再起を計りましょう」と言ったそうですが、ここにも東国が出てきますね。なぜ東国なのでしょうか? 上宮王家と東国には特別な関わりがあるのでしょうか?

A 回答 (2件)

東急世田谷線に西太子堂という駅があります。

三軒茶屋から一つ目の駅ですが、余り有名ではないかも知れない。太子堂は、その辺りの地名でもあって、もちろん聖徳太子にちなんだ地名です。

確かに東国では鎌倉時代に聖徳太子信仰が盛んでしたが、東国だから、ということではありません。遅れていた東国が鎌倉時代にやっと、進んでいた西国に追いついたということなのです。

開拓・開梱が進んでいた西国に比べて、東国の開発は遅れました。源頼朝が鎌倉幕府を開く前の若い頃、伊豆に流刑にされていたことは知っていると思うけど、決して伊豆七島でも離れ小島でもありません。三島からたった10kmしか離れていないところだったのです。平安時代末期でも、そんな調子ですから、山背大兄王の時代はなおさらです。要は朝廷の支配の及ばない辺境の地で、立て直しましょうという意味だったわけです。

ちなみに仏教宗派の一つにその名も聖徳宗があります。聖徳宗は戦後に法相宗から分離独立した宗派ですが、名前で分かるように聖徳太子を宗祖と位置づけています。法相宗は奈良仏教の一つで、大変古くからある宗派です。

太子堂という地名が大阪府八尾市にあることで分かるように、聖徳太子信仰は決して東国限定だったわけではないのです。

貴族中心に普及した平安仏教に対し、鎌倉仏教は武士・百姓に普及しました。東国の無学無教養な武士・百姓に布教する為には、難解な教義を説いたところで誰もついてきません。
貴族・西国・平安仏教に対抗して鎌倉仏教が生き残る為には東国の武士・百姓に布教して経営基盤を確立しなければなりません。その為のツールが聖徳太子信仰であった訳です。
昔、聖徳太子という大変えらい人がいましたというだけですから、東国の無学無教養な武士・百姓にも非常にわかり易いのです。

話は変わりますが、防人は知っているかな。防人は朝鮮半島からの海賊の侵略を防衛する為の軍事制度でしたが、それは東国から徴用されたのです。どうしてわざわざ遠隔地の東国から九州まで行かなければならなかったのか。いうまでもないでしょうけど、新幹線などありません。

とりあえずここまでにしておきます。
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この回答へのお礼

非常に納得のいく説明をありがとうございます。西国からの輸入なんですね。その輸入に鎌倉仏教が大きく関わっているとすると、東国に太子信仰を本格的にもたらしたのは親鸞聖人が元祖なのかもしれませんね。

最後の段落の謎掛けはちょっと答えに迷います。東国人は勇猛だからというくらいに思ってましたが、他に大きな理由があるのでしょうか?

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/18 15:57

信濃の善光寺が鍵らしい。



http://ci.nii.ac.jp/naid/110000977186/
http://ci.nii.ac.jp/els/110000977186.pdf?id=ART0 …

http://enlight.lib.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-MAG/ma …

近畿圏に太子信仰が成立
真宗の聖人として、選び取られ、善光寺聖が東国に拡散させた
鎌倉期に東国武士団が西国にも領地をもらい、東西交流をしたがその際の信仰上の核になったのが善光寺

ということらしい
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この回答へのお礼

リンク拝見しました。確かに善光寺信仰と太子信仰は1セットで論じられることが多いですね。
次の方の回答にもありますが、東国で発祥した信仰ではなく近畿からの輸入ということなんですね。

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/18 15:52

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