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 徳川家の側室は、
二度と外(?)に出られなかったと聞きましたが、
本当なのでしょうか?
また、江戸城無血開場の後は、どうなったのでしょうか?
ご存じの方、よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、あなたへの回答から書きますと、

>>二度と外(?)に出られなかったと聞きましたが

神社、仏閣への参詣は、「信仰の厚さ」を示すものとして、礼賛されていましたので、例えば、先代将軍やその母の命日などにかこつけて、寺社への参拝には、結構、出歩いていました。
ただし、いくら信心深いからと言って、毎日とか毎月などはできませんでした。せいぜい、年1~2回位ではありましたが、城外に出て「うさ晴らし」をし、時には、そのついでに芝居見物などをしたりしていました。

>>また、江戸城無血開場の後は、どうなったのでしょうか?

実家がある者は、実家に帰されました。
また、「江戸に残りたい」と申し出た者は、御三卿(一橋家、清水家、田安家)の家に身を寄せました。

(よもやま話)
(1)信心の厚さを礼賛するものとして、将軍も毎朝、仏間で正室や母、側室などを従えて、代々の位牌に向かって手を合わせました。

(2)夫に先立たれた側室は、「薙髪(ちはつ=髪を短く切る)」をして、桜田御門内にある御用屋敷(または、比丘尼屋敷、桜田御用屋敷とも呼ばれた)に移って暮らしました。
また、5代将軍綱吉の側室「お安の方=安子」は、侍女一人を供につれて尼寺へ行った、と言う記録もあります。ただし、側室でもありましたので、「お安の方」がどこの尼寺に行ったかは不明です。

(3)徳川幕府最後の頃の側室。
11代家斉の側室「お蘭の方、または、お楽の方」=香琳院(こうりんいん)・・・12代家慶の母。
12代家慶の側室「お美津の方」=本寿院・・・13代家定の母。
なども、千代田城無血開城後には、13代家定の正室(正確には、継々室、つまり、3番目の正室)篤姫と一緒に一橋家の離れに身を寄せています。

(4)なお、江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民はただ単に「御城」と呼んでいました。
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大奥のことですね。


http://homepage1.nifty.com/SEISYO/oooku.htm
外出禁止と言うのは建前だけだったかも知れません。

江戸城無血開城後ですが、昨年NHK大河の篤姫や、篤姫関連の民放でも出てきていますが明治時代は江戸城を出て、徳川家として暮らしています。
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