出産前後の痔にはご注意!

天皇の血筋は一度途絶えて別人が継いだような話をする人がいますが本当でしょうか?
もしそうだとすれば、どの代(誰?)でしょうか?

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A 回答 (12件中1~10件)

#10です。

まぁ、素人の歴史論争で喧嘩にならない程度に楽しみましょうか。

1.平将門が、桓武天皇6世か5世か、というのはそれこそ論議があるところです。私は社会科学の分野でWIKIを引用しても論証にはならない(編集合戦などがあるのがその証拠)と思っていますが、#11で引用されていますので、WIKIの文章を敢えて引用すれば「桓武天皇の孫(もしくは曾孫)で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の三男・鎮守府将軍平良将(平良將 たいらのよしまさ/良持=よしもちともの子」と5世説を採っています。

「と伝えられています」と書かれておられますが、つまり6世説も一つの説に過ぎないということでしょう。

しかし、仮に6世だとしても別にかまわないわけで、それなら父親の平良将が皇位に就くなら血筋は絶えたといえないのか、ということですから。

2.「同時代の史料では事績の分からない「歴史の霧に包まれた人物」です。この三人の事績は、後世の編纂物でしか分かりません。」とのことですが、全く同じことは「継体天皇」にも言えるでしょう。

平良将については、将門記・吾妻鏡では事跡が確認できます。両書とも平良将の死後200年程度で成立しています。これは、継体天皇死去から日本書紀成立までの期間とほぼ同じです。つまり、どちらも同程度に「後世の編纂物」でしか確認できない人物です。

3.「下総国あるいは常陸国の土豪」以外の何者でもなく、無位無官であり、朝廷から見れば「平民」に過ぎません。

これまた同じことが、継体天皇にも言えるでしょう。歴史を結果から見るから、「天皇の血筋」となるのでしょうが、彼が皇位に就かなければ「越前の土豪」に過ぎないはずです。書記を読んでも、それ以前に彼が朝廷の官位に就いていた記録は無い(=つまり平民)はずです。というよりも、当時(書記成立時)の感覚でいえば官位に就く=臣籍降下ですから。

4.「実際に皇位に就いている継体天皇と、反乱を起こしたことでのみ後世に記憶されている平将門を同列に論じるのは無理でしょう。」

これもやはり、歴史を後世の結果から見た感覚です。将門が5世の子孫であることは、継体天皇と同列であり、異なる点があるとすれば継体は皇位に就き将門は就けなかった(就く気が有ったのかどうか不明ですが)という点だけです。

常識的な感覚でいえば、即位から20年間大和に宮を置くことができなかった(これは日本書紀の記述です)継体が、すんなり即位できたとは考えられません。その20年間に何があったのか? 将門が関東で起こしたと同じことをしたのかもしれません。そして勝者が歴史を書いた、と考えることも「私見ですが」可能でしょう。


ところで、私のそもそもの話は天皇の5世の子孫が「それは実態としては他人」なのか、「血筋」と言えるのか、という事です。平将門はその一例として出したに過ぎず、これが別に河内源氏初代の源頼信でも構いません。彼は、清和天皇5世の子孫ですから。

質問に正対して考えるなら、その点が問われるべきだと思いますが、いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

予想以上の回答に驚いています。
更に、私の知識の無さから皇室の系図自体を説明して頂いても、読むのが精一杯のようです。

私的には、万世一系ではなくても構わないです。
正当な血筋を引いたものであれば宮家から出なくても問題ないと思います。始祖が天皇家であれば問題ないでしょう。
そういった意味では今の秋篠宮家の息子であれば、継承権が十分存在するし、皇位を絶やさず、日本の天皇を継いでいただきたいと思うのです。

お礼日時:2009/04/02 23:44

「継体天皇が『応神天皇五世の子孫』であると言う日本書紀の記述を信用するとしても、それは実態としては他人であり、そこで天皇家の血筋が途絶えたも同然。

その論理で行くと、平将門も『桓武天皇五世の子孫』であり、東国で勢力を拡大した将門が京に攻め上って皇位についたと仮定しても『天皇家内部の争いで、天皇家の血筋は途絶えていないとなる」

という解釈が提示されましたが、これについていくつか。

1. まず、
「平将門は、桓武天皇の皇子の葛原親王の子の高見王の子の高望王(臣籍降下して平高望)の孫」
と伝えられていますので、「桓武天皇『6世』の子孫」です。継体天皇よりさらに1世代天皇から離れます。

2. 桓武天皇の皇子である葛原親王の実在は明らかで事績もはっきりしていますが、その子で後世の「公家平氏」の祖になった高棟王(平姓を賜って平高棟となる)の事績は明らかですが、葛原親王から平将門に繋がる
* 高見王
* 高望王(平高望)
* 平良将
の3名は、いずれも同時代の史料では事績の分からない「歴史の霧に包まれた人物」です。この三人の事績は、後世の編纂物でしか分かりません。

3. 平将門は、その経歴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86% …
を見れば一目瞭然ですが「下総国あるいは常陸国の土豪」以外の何者でもなく、無位無官であり、朝廷から見れば「平民」に過ぎません。反乱を起こして「新皇」を称するまでは、公の文書には一切登場していないはずです。
平将門が関東で反乱を起こした時、朝廷は
「関東で平将門と言う者が反乱を起こした。桓武天皇の皇子の葛原親王の末裔だそうな」
と言う認識しかなかったでしょう。

4. 日本書紀に「応神天皇5世の子孫」と明記されており、実際に皇位に就いている継体天皇と、反乱を起こしたことでのみ後世に記憶されている平将門を同列に論じるのは無理でしょう。
私見ですが、平将門と皇室をつなぐ高望王=平高望は、関東で平氏を名乗り、後世に平清盛一族を生んだ「桓武平氏」を名乗る武士たちが「自分たちが平氏を名乗る根拠となる、皇室に繋がる祖先」として創作した架空人物と考えると辻褄が合います。
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幾人かの人が回答しているとおり,「血筋」とは何だという定義で回答は変わりそうですね。


日本書紀が一級資料であることを認め,その記述を信用したとしても,例えば,「継体天皇は応神天皇5世の子孫」という点はどうでしょう?
「5世の子孫」というのは,承平天慶の乱を起こした平将門がちょうど5世の子孫です。

桓武天皇-○-高望王-平良將-平将門
ですから,「5世の子孫」でも血筋だという話になると,乱を起こした平将門が京都に攻め上って皇位に就いたとしても,(それは皇室内の争いで)「血筋は途絶えていない」ということになります。

まぁ,普通に考えれば無茶苦茶な主張です。5世の子孫なんてはっきり言えば他人ですよ。ですから,継体天皇のところは途絶えたと考える方が良いのではないでしょうか。
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古代に遡って皇室の歴史を辿る史料は「日本書紀」しかないわけですが、この書物はそれほど「為政者の命によりかかれているので、不都合なことは一切書かれていません」というものではありません。



むしろ、日本書紀編纂時の皇室に伝わっていた情報を包み隠さずに、それほど整理もせずに、理屈が良く通らない所はそのままにして編纂されたと言うべきです。

例えば、継体天皇や応神天皇など、ここまでの回答者の皆さんが「皇統が途切れた可能性が高い」と指摘するような部分は、日本書紀が
「為政者の命により、都合の悪いことは省いた。為政者に都合の良いようにストーリーを作った」
のであれば、読む人が疑問を持たないようにきちんと話を作り込み、余分な情報は切り捨てる筈です。

何しろ、日本書紀が完成したのは720年、継体天皇の即位は507年、応神天皇の即位は270年です。継体天皇が即位してから200年も経っているのですから、国家権力が例えば継体天皇の即位を全く普通の即位としてストーリーを作ったとしても、誰も異を唱えることはなかったでしょう。

そもそも、この回答を見ている方々で、200年以上前(1800年ごろ)のご先祖の状況を細かに知っている方がおられますか?公家や大名の子孫でない限り難しいのではないでしょうか。

私の先祖は江戸時代の最初から最後まで続いた某藩の上士であり、先祖が某藩に仕官した17世紀初頭から明治維新までの系譜は、藩の記録と当家の記録で判明しています。明治維新以降の系譜も判明しています。
ですが、確実に分かるのは「歴代当主とその妻の名前と没年と享年」程度です。
私が「歴代当主の没年と享年から逆算した生年」を並べてみると、途中で兄弟相続があったようなのですが、実際どうだったのかは「分かりません」。
藩の文書、家の文書が概ね完全に残っていてもこれが限度です。

日本書紀の継体天皇や応神天皇や天智天皇・天武天皇を巡る描写は具体性があり、皇室にとって必ずしも名誉にならないような話も載っており、「為政者の作為が加えられた」と考えるのは無理があります。
日本書紀と言う書物を全面否定しない限り
「応神天皇の前で皇統は断絶していない」
「継体天皇は応神天皇の5世の子孫」
「天智天皇と天武天皇は兄弟」
と考えるべきでしょう。

また、飛鳥時代から奈良時代にかけて多くの女帝が即位しましたが、この方々は称徳天皇を除き「皇統を伝える男系男子が成人するまでの繋ぎとしての女帝」であり、男系による皇統は途切れておりません。
孝謙天皇が淳仁天皇を廃位して再度即位して称徳天皇となった段階で、天武天皇の皇統を伝える男子はほとんどいなくなっていました。
※ 「称徳天皇の崩御時に、天武天皇の男系子孫が皆無」ではありませんでした。下記のウィキペディアの「長屋王」の項目の系図を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B% …

そのため、称徳天皇の死後は、天智天皇の孫である白壁王(この人が天智天皇の孫であることには異論がありません)が、皇統を伝える男子として即位しました。天武天皇の子孫が、大津皇子の処刑、長屋王の処刑などの度重なる粛清(内ゲバ)で自滅した結果とも言えます。
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皆さんが書かれている事に追加して、最近提起されているのは天智・天武間の不連続です。


散見される年齢・呼称・エピソード等から兄・弟と言う関係が疑問視され、天武は帰化人で皇位を簒奪したという説があります。
大化の改新自体は新羅の歴史書の引き写しで実在が疑われていて(これは既に有力説)、それに係わる人物像は日本書紀の記述通りではないと思われています。
何れにせよ対外(=正史)的には皇位の正当性が主張されるので、万世一系とはある意味では神話と言えるでしょう。
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両統迭立という原則があります。


これは鎌倉時代のある天皇の後継者が2人いてどちらにするかの揉め事が
あった時に順番でとなって、以降その2人の子孫が交互に皇位を継承していくという
約束がありました。この両統迭立をぶっ壊したのが後醍醐天皇です。
よく南北朝で南朝が正統だから皇位が途絶えたとか言われますが、元々は
この鎌倉時代の両統迭立の始まりにさかのぼりますから、南北朝で皇統が
途絶えたとは言えません。
江戸時代には天皇家に子供が生まれなかった時のリザーブとして宮家が
指定されていてもし男の子ができなかったらこの宮家から男子を養子に
迎えるみたいなシステムが確立されました。その○○宮家も元は天皇の
子孫ですから、ここでも皇統の断絶はありません。

ですので中世以降は確実に皇統は途絶えていません。

そもそも書かれている歴史がすべて本当であれば天皇の血筋は絶えたことが
無いはずです。すでに他の方が書かれているように古代にはその書かれた
史実が怪しいケースがいくつかあります。
特に継体天皇は日本書紀でさえはっきり書いていないし、「継ぐ」という
漢字を使っていることから血筋ではないだろうというのが一般的な
見方です。

万世一系の血筋というのは実は日本書紀を信じればですので、日本書紀を
作ることを決めた人がそれまでの歴史を改変して、いくつかいた日本の
大王を天皇というひとつの血筋に配置したと考えられます。天皇という
言葉もこの時代に使われ始めたものです。その日本書紀を作らせたのが
天武天皇です。日本書紀は天武天皇の偉大さを書き綴ったものでもあるのですが、
なぜか天武天皇の生年が書かれていません。このため天武天皇自身が
実は覇王(それまでの王室を倒して王となった)だという意見もあります。
ちなみに桓武天皇は天智天皇のひ孫で、桓武天皇以降は男子女子とも
天武天皇の血を引く人は皇室にはいません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

かなり難しいですね。

お礼日時:2009/04/02 23:36

天皇の血筋が続いているか、いったん切れているかは


万世一系の解釈によっても代わります(この解釈は時代で変わります
この解釈は古代と近代では違います 近代は天皇に子供がいない場合
系統の男子の子孫(少し血筋がある)が継いだ場合でも万世一系になる
というのが解釈ですが、古代はこの万世一系についてはあまり厳密に考えておらず対応はされましたが女帝や継体天皇のような例もあります
またこの子孫が本当の血筋かどうかは
古い日本書記 古事記等をたどることとなりますが、これらの
書物も為政者の命によりかかれているので、不都合なことは一切書かれていませんので信憑性は永遠のなぞです

途切れた可能性は皆さんがご指摘のとおりです

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E4%B8%96% …
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>天皇の血筋は一度途絶えて・・・



この「血筋」という範囲を、質問者さまは、「どの範囲まで」とお考えになりますでしょうか?

親から子へ、子から孫への直系だけと考えるならば、今現在もアブナイ感じです。
このまま皇太子さまに男子が生まれず、秋篠宮さまと紀子さまの御子・悠仁さまが将来的に天皇になられたとすれば、そこで、もう直系ではない事になるでしょう。

親同士が兄弟の場合なら血族?・・・さらに、その親同士なら?・・・という風に。どこまでを血族とみなすのかで、少し変わってくるような気がします。

そういう意味で、現在の天皇家は、どこかしらで「つながりがある」と、過去の文献に記載されているので、「代々続いている」となっているわけですが、すでに、先の回答者の皆様がお書きのように、その文献の記述が正しいかどうかは、未だ研究中・・・なかには、矛盾がいっぱいの記述もあります。

1、10代・崇神天皇・・・日本書紀で、初めての天皇という意味の「ハツクニシラススメラミコト」と称されるとありますが、神武天皇も「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれたとありますので、このまま純粋に理解すると、初代天皇が二人いた事になってしまいます。

2、15代・応神天皇・・・すでに出てますが、先代の天皇の子供だとすれば、妊娠期間がおかしく、仁徳天皇と同一人物とも言われています。

3、26代・継体天皇・・・この方も、すでに出てますが、5代ほどさかのぼった血筋の福井出身で、天皇に迎えられたにも関わらず20年ほども、都のある大和の地へ入る事ができませんでした。

4、49代・光仁天皇・・・100年間続いた天武天皇の血筋から、いきなり、壬申の乱で負けたはずの天智系へと変わります。

5、100代・後小松天皇・・・それまで、正統とされていた南朝から北朝の天皇へと変わりました。

以上がよく指摘されている部分ですが、最近では、記紀にはっきりと兄弟と書かれている天智天皇と天武天皇の関係にも矛盾するところがあり、中には、「この二人は兄弟ではなかった」と考えるかたもいらっしゃるようで、そういう「単にアヤシイ」のも含まれば、まだ他にもあるとは思いますが・・・

また、血筋を直系と考えたなら、現在の天皇家は、「119代光格天皇からの7代しかない」という意見もあるようです。
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この回答へのお礼

血筋と言っても、全くの他人で無ければ直系であると考えます。
そう考えると、繋がっているということですね?

秋篠宮家が息子が継いだとしても問題ないと私的には解釈しています。

お礼日時:2009/04/02 21:11

>天皇の血筋は一度途絶えて別人が継いだような話をする人がいますが本当でしょうか?



古事記・日本書紀・続日本書紀にも記述があります。
そもそも、「万世一系」は明治政府が決めた事です。
科学的な調査が進み、既に古代天皇についても色々と明らかになっています。
誰でも知っている「仁徳天皇陵」は、既に「大仙古墳」と呼ぶのが一般的になっていますしね。
神武天皇に至っては、この「神武陵」が幕末に15062両で新規造営した!との幕府資料もあります。朝廷の懐柔政策の一環でしようか。

>もしそうだとすれば、どの代(誰?)でしょうか?

多くの学者が唱えているのは・・・。
4世紀の崇神・垂仁を中心にした三輪王朝。
5世紀の応神以降の河内王朝。
6世紀の継体以降の近江・越前王朝。
継体天皇の場合は、その名が示す通り「天皇家の血筋が絶えたので、遠く越前まで血縁者(応神天皇の五代目の孫)を探し出して天皇に即位した」と古事記にあります。
体制を継ぐ天皇でした。

室町時代の南北朝は、一種の同一王朝内での内紛に過ぎません。
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>天皇の血筋は一度途絶えて別人が継いだような話をする人がいますが本当でしょうか?


もしそうだとすれば、どの代(誰?)でしょうか?

25代武烈天皇は皇子女を残さずに崩御し、応神天皇から始まる応神王朝は断絶し、「応神天皇五世の孫」とされる26代継体天皇が即位したことを指しているのだと思います。古代のことなので文献資料も乏しくはっきりしたことは分からなく、諸説入り乱れているわけですが、「応神天皇五世の孫」などという遠い関係で即位した例は他になく、実際は血縁関係にないという考えと、応神王朝の傍系との説の二説が大きく分けてあります。
なお、継体天皇は24代仁賢天皇の皇女である手白香皇女を皇后として二人の間に29代欽明天皇を儲け手います。欽明天皇は現皇室につながり、大王視されています。

以上、参考まで。
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Q天皇について

1.天皇の血筋(家系)はどこまでさかのぼることが出来るのでしょうか?
2.途中で別の一族に変わっていることは無いのでしょうか?
例えば源氏や平家の人間が成り代わったなど、藤原氏登場以降で何かエピソードありましたらお願いします。

Aベストアンサー

形式的に初代の神武天皇が紀元前660年に即位して以来、今上天皇(当代の天皇)まで万世一系(絶える事無く)の血で繋がっているとされてます。
ただ学者によってはいろいろ説もあり、例えば10代崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」が名前なので、この方が初代ではないかという説や26代継体天皇は25代の武烈天皇に子供が無かったので、越前から迎えられたが、大和に入るまで20年を費やしたのは、別の王朝により武烈天皇が殺され征服したのではないかとか言われております。
また14代仲哀天皇(大和武尊の息子)は筑紫の橿日宮に入った時に后の神功皇后が神がかりして新羅を討つように言われたが、神のお告げを無視したため神の怒りに触れたとありますが、密室で妻と部下の建内宿禰の3人で密議をしてる時に部屋が暗くなり、神の怒りにより死んだと書いてありますから、暗殺されたと見るむきもあります。
39代弘文天皇は即位前は大友皇子と呼ばれ、天智天皇の息子でしたが、母親の身分が低いため皇太子にはなれず、伯父の大海皇子が皇太弟でした。
ところが天智天皇は死期を悟ると息子に位を譲りたくなり、何とか弟の大海皇子を殺そうとしますが果たせず、彼の死後壬申の乱が起こり、大友皇子は自殺に追い込まれます。
その為、明治時代までは歴代に数えませんでしたが、明治時代に弘文天皇として、歴代に数えられるようになりました。
学者によっては壬申の乱に勝った大海皇子(天武天皇)が本当に天智天皇の実弟か疑問視する向きもあり、現実彼から48代称徳天皇までは天武系の天皇として位牌が別にしてあるようです。
49代光仁天皇からはまた天智天皇の子孫の血筋になります。
この後は皇統が室町時代に南北に分かれ、どちらが正当か争いもありますが、どちらの系統も血筋的には天皇家です。
形式的には途中で他氏が成り代わる事はなく、藤原氏が娘を天皇に嫁がせ、外戚として結びつきますが、父親はあくまで天皇家の物ですから、男系として皇族が位を伝えていきます。
唯一、足利3代将軍義満が天皇になろうとしましたが、後一歩で果たせずに終わりました。
因みに足利義満は後円融天皇の従弟にあたり、当人は女系であれば俺が即位してもと考えたのかも知れません。
割を食ったのがトンチ小僧の一休さんで、彼は100代後小松天皇の皇子であり、天皇になってもおかしくない血筋でした。

形式的に初代の神武天皇が紀元前660年に即位して以来、今上天皇(当代の天皇)まで万世一系(絶える事無く)の血で繋がっているとされてます。
ただ学者によってはいろいろ説もあり、例えば10代崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」が名前なので、この方が初代ではないかという説や26代継体天皇は25代の武烈天皇に子供が無かったので、越前から迎えられたが、大和に入るまで20年を費やしたのは、別の王朝により武烈天皇が殺され征服したのではないかとか言われております。
また14代仲哀天皇(大和武尊の息...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q天皇は続いてきたのか

以前テレビか本か忘れましたが、家系図が残ってる中では?天皇が世界で一番長いという事に対して学者か誰かが子供の時に殺されたのもいるのにと疑問を持っていました。誰も全ての天皇を見てきたわけではないので、こういう話は一応そういう事にしてある話なのかもしれないですけど不確かにしてもどうなんでしょうか?

Aベストアンサー

古事記、日本書紀が編まれた8世紀以降(聖武、第45代のあたり)は、その時点時点での歴史書や文献が比較的残るようになったので、天皇家系の継続という点では疑問が少なくなっているようです。しかし、古事記・日本書紀の記述する聖武以前についてはかなりの疑問があると言われています。
知っている範囲でざっと紹介します。このように、古事記・日本書紀がかなり無理なつじつま合わせをしており、皇統の連続性を文献で完全に確認するのは非常に難しいというべきです。

- 第2代(綏靖)から第9代(開化天皇)までの所謂「欠史8代」。つまり8人の天皇は実在しなかった、家系上の創作に過ぎないと言う説があります……これらの天皇には政治的な治績がほとんどなく、またその年齢が異常に長い(100歳以上もあり)ことや、すべて長男相続(当時は兄弟相続が普通)であることなどから、「創られた天皇」ではないかと言われています。異論もありますが。

- 崇神帝(10)による征服説。第9代から第10代での家系の連続性には疑問があることになります。なぜか崇神の帝は、初代の神武の帝と同じく「日本を初めて治めた天皇」と呼ばれています。これは、実は崇神が神武と同一人物、あるいは神武の始めた王朝を崇神の帝が征服したのではないか、などの説があります。

- 応神帝(15)による征服説。第14代仲哀との間に歴史的な連続性に疑問があると言われています。母が神功皇后で、この方も実在に疑問が持たれており、応神の帝が仲哀の帝(実は仲哀の帝も実在性が薄いとする説があります)に取って代わるか、婿入りするかして王朝を継いだのではないか、とも言われています。

- 継体帝(26)の出自の疑問。武烈の帝(25)が、古事記などでは非常に残虐な天皇として描かれた上に、子供がないままに亡くなり、かつ皇統を継げる第1世王(父が天皇の皇子)が絶えたことが述べられています。継体自身は応神の帝の5世の子孫(5代前が応神)という極端に血のつながりの薄い皇族であり(これも事実かどうか、疑う研究者が多いようです)、また即位から大和の地に入るまで20年もかかったことなどから、継体を征服者と見る研究者も少なくないようです。
また、継体の前例が、その後において「5世王までは皇統を継ぐ権利がある」という慣例となって伝えられていくことになります。

- 継体以前にも仁賢(24)、顕宗(23)の継嗣にあたっても奇妙なエピソード(播磨の辺りで牛飼いの子になっていたのを、飯豊皇女が見いだして皇太子にした……など)があり、血統の連続性に疑問があります。ちなみに飯豊皇女は清寧の帝(22)が亡くなった後、やはり皇統が絶えたために、臨時に女帝として即位されたとも言われています。

古事記、日本書紀が編まれた8世紀以降(聖武、第45代のあたり)は、その時点時点での歴史書や文献が比較的残るようになったので、天皇家系の継続という点では疑問が少なくなっているようです。しかし、古事記・日本書紀の記述する聖武以前についてはかなりの疑問があると言われています。
知っている範囲でざっと紹介します。このように、古事記・日本書紀がかなり無理なつじつま合わせをしており、皇統の連続性を文献で完全に確認するのは非常に難しいというべきです。

- 第2代(綏靖)から第9代(開化天皇)ま...続きを読む

Q天皇家はどこまで遡ることができますか?

とあるHPを拝見して、天皇は万世一系であるかということが議論されていました。
内容がよくわからなかったのですが……。

学問的に天皇家の直系の血筋はどこまで遡ることができるのでしょうか?
(直系でなくてもいいですが)

南北朝のときは、親戚同士で争ったのでしょうか?

また、中国では、孔子や諸葛孔明などの子孫がいるといいます。(テレビでやっていました)
中国でいるのですから、日本でも皇室に匹敵するほどの歴史を持つ家系があると思います。
しかし、そんな話は聞いたことがありません。
古い家系はほろびてしまったのでしょうか?

Aベストアンサー

天皇家は神話まで遡りますから、何処までが神話の世界で何処からが現実の歴史か?
その境を何処につけるかによって
>学問的に天皇家の直系の血筋はどこまで遡ることができるのでしょうか?
の回答が変わってくると思います。


今上天皇(現天皇)は125代目にあたります。
 (北朝は加えません)
この系統を南北朝以前の部分で出区分けしてみると
 初代神武天皇~9代開化天皇
 10代崇神天皇~14代仲哀天皇
 15代応神天皇~15代武烈天皇
 16代継体天皇~
となるかと思います。
ですから皇室の祖先と思われる天皇は上の様に複数出てくるのです。

神武天皇は神話色が強く歴史学上では架空視されております。(もちろん肯定する人もいます。)
天皇というのは後につけられた名称です。
神武天皇はカムヤマトイワレヒコ。
日本書紀では神日本磐余彦、古事記では神倭伊波礼ヒ(=田比を併せた字)古等と表記されています。
以降、二代スイ遂天皇カムヌナカハミミノスメラミコト、安寧天皇シキツヒコタマテミノスメラミコト・・・と続くわけですが、こちらの名のつけ方に作為的な部分があることと、日本書紀・古事記共に記載が少ない事
から、後世の創作という見方も強いです。

崇神天皇~も実在・架空の意見が分かれるところです。景行天皇・ヤマトタケルノミコトなど神話的な要素も若干含んでいます。

応神天皇からは賛珍・・・倭の五王に比類され実在視する向きが強いです。

と、皇祖となりうる三人の天皇を挙げましたが、この三人のみ「神」という文字が付くのが、また意味ありげですね。

ここまでは実在か否かという問題がありますが、もうひとつ注意する点で「万世一系」という問題がありますね。
これら三つの系統は系図の上では続いているものの、異なる王朝を後世くっつけて一本にしたという説も存在します。

次に16代継体天皇~ですが系図を見ると解るとおり、子孫や弟・従兄弟への相続ではありません。
遠い親戚の様なものです。
中国三国志時代の、後漢正統と蜀漢くらい離れてます。
海外の王朝では、これだけ離れると別の王朝として認識されることもあるでしょう。
また本当に血縁があったのか否か?と否定的な説もあります。

ということで
> 学問的に天皇家の直系の血筋はどこまで遡る
> (直系でなくてもいいですが)
では上に上げた4人のうちのいずれか。
諸説によるという事でしょうね。


ちなみに第二次大戦前では「天皇・万世一系」に加え
国民全てが天皇の子(子孫)という考えもありました。
日本の名字の祖の大部分を占める源・平・橘も皇室から分かれたものであり、他の姓(藤原など)も天皇の祖である神の同族であるから・・・
もちろん今日の学問上では否定されます。

天皇家は神話まで遡りますから、何処までが神話の世界で何処からが現実の歴史か?
その境を何処につけるかによって
>学問的に天皇家の直系の血筋はどこまで遡ることができるのでしょうか?
の回答が変わってくると思います。


今上天皇(現天皇)は125代目にあたります。
 (北朝は加えません)
この系統を南北朝以前の部分で出区分けしてみると
 初代神武天皇~9代開化天皇
 10代崇神天皇~14代仲哀天皇
 15代応神天皇~15代武烈天皇
 16代継体天皇~
となるかと思います。
ですから皇室の祖...続きを読む

Q過去に女性天皇がいても万世一系なの?

「万世一系」の意味を教えてください。

高校日本史の授業では、推古帝など女性が天皇に就いた例や、本来の皇位継承者をさしおいて別の人間が即位した例もあった、と習いました。ぱっと見た感じ、「万世一系」とは違う気がします。どうなんでしょうか?

Aベストアンサー

現在問題になっているのは「女系天皇」であって、女性天皇ではないことをまずご理解ください。
愛子さまが即位された場合、父親は現皇太子さまですから「男系の女帝」になり、これは過去に数人みえます。
しかしながら父親が皇族ではない天皇は前例が無く、愛子さまが皇族の血を引かない一般庶民と結婚され、その子供が次代の天皇になられた場合、男女に関わらず史上初の「女系天皇」となり、遺伝子学者や伝統を重んじる方々から反対を受けています。
系図上は初代の神武天皇以来男系の子孫が皇位を継承してきましたが、全てが直系という訳ではありません。
例えば26代の継体天皇は近江に生まれ、越前で育った豪族ですが、前代の武烈天皇が子孫が無く亡くなった為に応神天皇の5世の孫という血統をかわれ、武烈天皇の姉の手白香皇女と結婚し皇統を継ぎました。
この場合も継体天皇自身は応神天皇の血を受けてますから男系になります。
ただ一説では天皇家とは無関係の他人で、武力クーデターで皇位を簒奪したのではないかとも言われています。
これは天武天皇もそういった説があることを付け加えておきます。
この説では中大兄皇子(天智天皇)は大海皇子(天武天皇)は実の兄弟とされているが、実は異父兄弟(或いは他人)で、正当な皇太子の大友皇子(弘文天皇)を殺して皇位を簒奪したのではないか・・・、という説も。
いずれにせよ「万世一系」というロマンがある以上、今の時代にそれを壊すことが正しいことかどうか、私は疑問をもっております。

現在問題になっているのは「女系天皇」であって、女性天皇ではないことをまずご理解ください。
愛子さまが即位された場合、父親は現皇太子さまですから「男系の女帝」になり、これは過去に数人みえます。
しかしながら父親が皇族ではない天皇は前例が無く、愛子さまが皇族の血を引かない一般庶民と結婚され、その子供が次代の天皇になられた場合、男女に関わらず史上初の「女系天皇」となり、遺伝子学者や伝統を重んじる方々から反対を受けています。
系図上は初代の神武天皇以来男系の子孫が皇位を継承してき...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q宮内庁はなぜ日本史の解明に非協力的なのか

よく宮内庁は皇室の歴史が明かされるのを嫌う傾向にあると聞きます。
仁徳天皇陵は全く調査をすることが許可されてないのでしょうか。
(社会科の先生からはこう聞きました)

日本は今や世界屈指の近代国家です。
しかし、日本の天皇の由来は全く混沌としています。

ならば、なおさら古代日本史の解明は国家の義務なのではないでしょうか。
その機関たる宮内庁が非協力的というのはどういう態度なのでしょう。
その理由が宗教上にあるというのなら、次に繋がるかどうかは別として
今回は一応納得します。

Aベストアンサー

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしまいます。

で、そういう立場からすると、過去の「作られた歴史」が暴かれてしまうことは権威の根拠に関わってしまいます。例えば、天皇家というのは実は朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族の末裔ではないかという話があります。倭国(日本)は百済の支援をして当時の倭国としては大軍事力を半島に派遣して白村江の戦いで敗れてしまいます。なぜ倭国が百済に過大なまでの支援をしたのか、単なる同盟関係であっただけではなく、実は百済が天皇家からみると「本家」で、倭国は百済の分家ではないのかという話があります。
日本ではその後いわゆる壬申の乱が起きて天武天皇が即位するんですが、大友皇子と大海人皇子の関係とかどうも日本書紀を読んだだけではよくわからんことが多いのです。そのへんについて日本書紀が改竄というか捏造というかそういうことをしたことは間違いないのですが、どのへんを歴史を書き換えたのかはよくわかりません。
もし仮に「皇室はかつて朝鮮半島からやってきた渡来一族の末裔である」ということが明らかになってしまったらどうなるでしょうか。嫌韓のネット右翼がなんと言い出すかどうか考えただけでも恐ろしいですね。今のところ皇室半島渡来説は荒唐無稽で根拠のない話ということになっています。なぜなら、日本書紀にも古事記にもそんなことは書いていないからです。しかし、日本書紀も古事記も時の権力者にとっての「大本営発表」なので歴史の削除、捏造、針小棒大などは当然あるわけです。あるけど、ないことになっている。それが我が国の古代史に対する学会の立場です。古代史は天皇家についてはアンタッチャブルの領域なのです。

また、皇室は一応ずーっと続いているということになっていますが、南北朝で相当ヤバいことになっています。血統の正当性という立場からいえば、南朝が正当です。しかし、北朝は時の権力者足利尊氏によって成立しており、最終的に南朝が北朝に吸収される形で再統一されています。このときの北朝系の血筋がね、どうなんだよってところなんです。私もその時代はそんなに詳しくないのですけれど。
で、戦後すぐに「我こそは南朝の末裔であり、正当な皇室の血筋である」と名乗り出た人がいたのです。世間でいわれるところの熊沢天皇事件というものなんですけどね。単なる気が狂ったおっさんが「わしは天皇である」といっただけならこんな歴史には残らないです。熊沢天皇事件が戦後事件史のひとつとして残っているのは「そういわれると、そうかもしれない」というのがあったからなのです。熊沢天皇は「北朝(現皇室)は南朝から帝位を簒奪し不法に即位している」と訴えたのですが、「そういわれりゃあ、そうだよな」ってところはあるんですよ。熊沢天皇は結局のところ南朝の末裔であることを証明することができなかったので最終的には「自称南朝の末裔」ということになったのですけどね。一時的であれ宮内庁は頭を抱えたのですよ。GHQは熊沢天皇に興味を持っていて、場合によっては昭和天皇を退位させて熊沢天皇を(GHQの手先として)即位させるんじゃないかと警戒したのですね。

宮内庁の仕事は、現在の皇室の伝統を次代に繋げることです。皇室にはなんとかの儀、かんとかの儀、と年がら年中しきたりだらけなのですが、それを続けることが最も重要なんですね。伝統の継続というものの頂点にある存在といってもいいでしょう。「歴史的に見て正しい」かどうかはむしろ邪魔なんですよ。まあ宮内庁関連の人といったら公家の末裔とか松平家の末裔とか父は貴族院議員とかそんな人たちばっかりですからね。しもじもの者が入りたいといっても入れてはくれません。

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしま...続きを読む

Q日本の皇統が断絶しなかった理由は?

諸外国では幾度となく王家が滅びそしてまた別の王家が登場したりしています
しかし日本は2500年に渡って皇統が途絶える事無く続いています

諸外国でよくあるクーデターで天皇の失脚による御家断絶も暗殺もありません(暗殺は1度ありましたが皇統は途絶えませんでした)
その理由は何でしょうか??

Aベストアンサー

位についた個々の天皇の繋がりだけから考えると判り難くなるかと思います。
血統が繋がっていない、繋がっている、財力がどうの、権力がどうのという議論に突入してしまいます。

皇室というか天皇を頂点とした組織をなぜ必要としたのか、と考えると比較的判り易くなるかと思います。

とくに、藤原氏が勃興してきた平安中期以降と平安時代末期に勃興してきた武家勢力の政治的価値判断が大きな要因となっています。
藤原一族にせよ、武家勢力にせよ、なぜ天皇一族を排斥しなかったのかということです。
これは、統治権の正統性を誰がどのような形で認めるのかという論拠の問題です。

日本の政変では、政敵の一族を子孫まで含めて完全に抹殺してしまうという手法は取られませんでした。
ヨーロッパや中国などユーラシア大陸での統治権の争奪戦は、常に言語習慣の異なる異民族どうしの抗争が主体でした。
文字通り完全に支配するか支配されてしまうかという闘争です。
言語が全く違う上に、生活習慣まで違う相手を理解するというのは至難の業です。
更に地理的条件から、いつでもどこにでも生存空間がありますから、一度不信感を持った相手は抹殺しない限り安心できません。
ということで、相手を抹殺することによって支配権を獲得するという習慣が出来上がってしまいました。
誰かの承認など必要としません。

狭い日本列島内では、これとは全く逆の現象が生じました。
藤原一族が天皇一族を排斥すると、その支配権の正統性を保証する人も機関も存在しなくなります。
万が一天皇一族の子孫が正統性を主張すると非常に厄介なことになってしまいます。
まして、狭い京都の町でゴタゴタやったら到底収拾がつかなくなります。
この為に、排斥するのではなく利用するほうが遥かに政治的エネルギーは節約できます。
つまり皇室の存在は政治的に非常に便利で有益なものでした。

武家というのは、平氏であれ源氏であれ、その初代である人間は天皇の子供でした。
つまり天皇に直結した一族ということになります。
この一族が天皇一族を排斥するというのは自己矛盾が生じます。
さらに、平氏、源氏と二つの系統が存在したために、どちらかが支配権を獲得しても、皇室による承認を得ることが必要となります。
万が一相手が皇室の承認を獲得してしまうと、自分達の支配権が正統性を失います。
武家にとっても、藤原氏同様に皇室は便利で重宝な存在でした。
信長も支配権がほぼ手中に入り始めた段階で平氏を名乗りました。
家康も初めは藤原氏を名乗り後に源氏を名乗りました。
江戸時代にも、徳川氏は元より各大名も朝廷の序列身分でる四位上だの五位だのという称号を得ていました。
天皇の正統な臣下であるという証明です。

明治維新の際にもこの政治的習慣が作用して、錦の御旗を掲げた官軍なる形態がとられました。
薩長の行動の正当性を皇室が認めたという形をとりました。

昭和初期に苦しくなった軍部が自己正当化のために皇室を徹底的に利用しました。
ついには神にまで祀り上げてしまいました。
占領軍である米国もこの機関の有用性を理解して、皇室を抹消しませんでした。

現在でも、形式的であるにせよ、内閣の任務に就く人間は総理大臣以下皇居で認証式というものを執り行います。
外国の外交官も着任すると、着任の挨拶、親書の提出という形で天皇に面会します。

すなわち皇室という機関を設けることによって少ない政治エネルギーで、正統性が保証されることになります。
真に便利な機関です。

ということで1000年でも2000年でも続くでしょう。

位についた個々の天皇の繋がりだけから考えると判り難くなるかと思います。
血統が繋がっていない、繋がっている、財力がどうの、権力がどうのという議論に突入してしまいます。

皇室というか天皇を頂点とした組織をなぜ必要としたのか、と考えると比較的判り易くなるかと思います。

とくに、藤原氏が勃興してきた平安中期以降と平安時代末期に勃興してきた武家勢力の政治的価値判断が大きな要因となっています。
藤原一族にせよ、武家勢力にせよ、なぜ天皇一族を排斥しなかったのかということです。
これは、統...続きを読む

Q天皇陛下は家康・信長・豊臣家の子孫?

ニコニコ動画には、「天皇陛下の御先祖様を16代前まで遡ってみた」
というのがあって、それによると現在の皇室は、織田信長・徳川家康・
豊臣秀吉(の母)の子孫であるとの事だそうです。
だとすれば、現代の皇室は日本史オールスターですね。

残念ながら、どういうわけか私はこの動画を見る事が出来ないんですが
皇室が上記の人物の子孫だというのは、どういう流れになるんでしょうか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4182383.html
ちなみに天皇が徳川家康の子孫という部分はちょっと違うという
指摘があるようです。(他のルートで繋がっている可能性は大ですが)

Aベストアンサー

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信通」に嫁ぎます。
そして次の第五代臼井藩藩主になる「稲葉知通」を産みます。
その「稲葉知通」の子「稲葉恒通」が臼杵藩第六代藩主になります。
その「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になったのが徳川家康の血筋の女性です。

ここで、ちょっと話を置いて、徳川家康に行きますが・・・
徳川家康の次男に「結城秀康」という人がいまして福井藩藩主となります。
この人も子供がたくさんいまして、その六男「松平直良」が大本藩藩主となります。
その「松平直良」の三男「松平直明」の娘が、臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になりました。

そして臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」と、その正室(お嫁さん)の間に娘が産まれます。
つまり、ここで「信長」と「家康」の両方の血をひく子供ができたわけです。
この娘さんが、公家の勧修寺家の当主「勧修寺顕道」に嫁ぎます。
そして跡継ぎの「勧修寺経逸」を産みます。
その「勧修寺経逸」の娘「勧修寺ただ子」が、第119代天皇である光格天皇に女官として仕え、後に光格天皇の子供を産みます。
その子供が第120代天皇になった仁考天皇です。
ここで「徳川」「織田」の血が天皇家に入りました。
そして第121代の考明天皇、第122代の明治天皇、第123代の大正天皇、第124代の昭和天皇、そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。


豊臣家の場合は・・・
秀吉には、「日秀」という実姉がいました。
この「日秀」が結婚し「秀勝」という子供が産まれます。
この「秀勝」を秀吉が養子にしたりしますが、それは置いておいて・・・
その「秀勝」が結婚し娘が産まれます。
この娘「完子」が公家の名門「九条家」に嫁ぎ、その跡継ぎを産みます。
そして時は流れて・・・
第123代天皇の大正天皇に九条家の娘さんが嫁ぎます。
そして第124代の天皇となる昭和天皇が産まれました。
つまり、ここで「秀吉」の姉の血が天皇家に入りました。
そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。

「織田」と「徳川」なら探せば他にも繋がってるルートが複数あると思います。はい。

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信...続きを読む

Q天皇は本当に万世一系?!

 こんにちは。

 早速ですが質問です。
 天皇は本当に万世一系なんでしょうか?
 類似の質問はいくつかあるようですが,ずばり,「本当に万世一系か」という質問は,検索をかけてみてもみつからなかったので,質問させていただきました。

 なお,特定のイデオロギーにかたよった回答は求めていません。あしからず。

Aベストアンサー

血筋が全く絶えていないと証明するには、今上陛下のDNAと大昔の天皇陛下のDNAを比較する他はありませんが、それをするにはタイムマシンが必要ですね。逆に途絶えていると証明することも同様の手段が必要です。
要するに、証明することも否定することも出来ないのです。


しかしながら、私の考えによれば、天皇家は万世一系です。

万世、というのは非常に長い間、というほどの意味ですが、少なくともこの1000年間は今上天皇陛下まで男系でずっと来ていますし、天皇制という制度自体は、その意味を変えながらも、自律的にその立場をこの1500年ほどは保っています。
また途中、日本としては唯一の「乱世」である戦国時代や、日本としては唯一の外国による占領(太平洋戦争直後)をも経験していますが、とぎれることがありませんでした。


勿論、疑うのであれば、例えば各年代の皇太子さまが本当に天皇陛下とのお子さまかまで疑うことは出来ます。この意味においては、両陛下がご健在の折に誕生されたとしても、疑おうとすれば疑えます。特に宮中が乱れていた戦国時代などは、疑おうとすればいくらでも疑えるでしょう。
しかし、そのような疑いは、単に疑いのための疑いであります。事実、歴代の天皇陛下は陛下としての存在をされておられるので、万世一系という表現に大きな誤りはないと思われます。

血筋が全く絶えていないと証明するには、今上陛下のDNAと大昔の天皇陛下のDNAを比較する他はありませんが、それをするにはタイムマシンが必要ですね。逆に途絶えていると証明することも同様の手段が必要です。
要するに、証明することも否定することも出来ないのです。


しかしながら、私の考えによれば、天皇家は万世一系です。

万世、というのは非常に長い間、というほどの意味ですが、少なくともこの1000年間は今上天皇陛下まで男系でずっと来ていますし、天皇制という制度自体は、その意味を変えなが...続きを読む


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