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  戦国時代は国取り合戦の時代だと思いますが、それに関して素朴な疑問があります。
例えば現代なら自分の領土がどこからどこまでかは地図を見ればすぐ分かりますが、ろくな地図も無い時代に、自分の領土の端がどこなのかをどうやって把握してたのでしょうか。またその面積の広さをどうやって理解していたのでしょう。
 武将にしてみれば、自分の領土が他の武将の領土にくらべてどのくらい大きいのか小さいのか、また隣の国を分捕ったところで、その国はどこまでがその国なのか、当然目で見渡せるわけではないので、どうやって理解していたかを知りたいです。
 「あの山からあの山までの麓から内側が自分の領土」とか「あの川とこの川の間の部分が自分の土地で、それから向こうは隣の国」とか、そういったアバウトな感覚で把握していたのでしょうか。
 どうも昔の人の土地に関する感覚(把握の仕方)が不思議です。この辺に詳しいかた、是非教えてください。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

武将が気にしていたのは、直接自分の役に立つ土地だけだったのではないでしょうか。

農業ための田畑とか水源、漁業のための川や湖や海や、狩りのための山。国の大きさを考えたとき、国の面積そのものより、こういった自分の利用できる資源や、自分の支配下にある人の数の方が大事だったのではないでしょうか。隣の国との境は、そこに大事なものが(例えば霊峰とか金山とか)なければあまり関心を払わなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。確かに武将にしてみれば厳密に自分の土地面積を把握するよりも、実際に自分の領地に住んでいる住民からの年貢や自然資源のほうに関心があったのでしょうね。なにしろ自分の国は自分で守らなければならず、今のように中央政府が地方に地方交付税を交付して援助するなどどいう制度はなかったのですから。かなりアバウトだったことがわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/28 15:17

 江戸時代の大名の領地ですら○×村は、○○藩の知行地という位しか決まっていないので、地図などで厳格に領地の堺(川などの分りやすい堺があれば別でしょうが…。

)を決めていたとは思えません。

 ちなみに、江戸時代では大名の領地は将軍(幕府)がそれを規定した領知判物 or 領知朱印状を発行しますが、それに添付される領知目録に村名とその石高がずらずらと書かれます。
 (大きな大名になるととんでもない数になって何枚も紙を使う。ただし郡を一円支配していて他との摩擦がない場合には郡名で略す事も有る。また一つの村を複数の大名や旗本で分け合っている場合もある。)

 江戸時代だと、数万石程度の大名ですら新田開発で1万石以上開拓してしまえる位、村と村の間には未開拓な土地が有ったのですから…。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。考えてみればある程度厳密に土地の測量や実態を把握し出したのは秀吉の頃からなので、それまでは土地に対する認識がかなり曖昧だったのでしょうね。自分の領地がどこからどこまでかはおおまかにしか把握してなく、それで問題もなかったのでしょう。なんかおおらかな時代だったような気がします。ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/28 15:15

そのへんは、アバウトです。

とてつもなくアバウトです。

例えば埼玉県の秩父地方は甲斐の武田家と相模の北条家の国境地帯でした。で、どっち領だったのかというと、当時の秩父の人たちは武田家にも北条家にも年貢を納めていました。ただし、そうなるとやたらに年貢が重くなるので年貢を半額にしてもらっていたのです。
つまり、国境地帯では年貢を半額にするというのが制度として存在していたのですね。いってみれば「グレーゾーン」だったわけです。
そんなグレーゾーンを作っておくことは統治者側にもメリットがあります。そもそも、統治者側もその地域には十分な軍事力の支援を与えられないからグレーゾーンになるわけです。前述の秩父地方についていえば、甲斐(山梨県)側からも相模(関東)側からも峠を越える地域にあるので軍事的な影響力をお互いに与えることができません。またそこまでして手に入れたいというほどの地域でもありませんでした。
で、グレーゾーンにしているメリットですが、武田信玄が亡くなったときに北条側が「信玄が死んだという噂を聞いたけどどの程度信憑性が高いかどうか秩父衆を使って調べろ」と命じた書状が残っています。相手側にも年貢を納めていたので人と情報の交流があったので、そういうことを調べるにはうってつけだったわけです。

もうちょっと南側の八王子あたりは、最初は上杉家の支配下でしたが川越夜戦の影響により上杉家が没落すると武田家が浸透していきます。その後、北条家が関東に支配権を確立していくと北条の影響力が増していき、滝山城が北条の支配下になるに至り北条家の領土となりました。それでも、相模湖あたり(現在は神奈川県)は双方に年貢を納めるグレーゾーンでした。武田と北条が直接対決した三増峠の戦いのときは相模湖(註・相模湖はダム湖なので当時は相模湖はありませんでした)周辺の地域は武田側についたようです。

だから、よく本などで○○家の領土なんていって地図が色別に分けられていますが、あんなにはっきりと分けられていたわけではなく、もしそれを絵の具で塗ったとしたらその国境辺りは水で薄めて混ぜた色にしたほうが現実的だったでしょうね。また、もしその時代に行って地元の人に「ここは○○家の領土ですか?」と聞けば国境地域であれば「このあたりは双方に年貢を納めているよ」という答えが返ってくることが多かったと思います。
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この回答へのお礼

詳しいご回答をありがとうございます。戦国時代は自分の領土を広げるのが最大の目的ですから、自分が実効支配している土地をかなり厳密に把握しているのかと思いましたが、そうとういい加減だったようですね。グレーゾーンで誰の土地か分からないような地域もあったようで、武将にしてみれば厳密に土地を把握するより、自分の領地に住む住人から上がってくる年貢の方が第一だったのでしょうね。詳しい説明で良く分かりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/28 15:12

領地は、「あの川とこの川の間の部分が自分の土地で、それから向こうは隣国」ということで十分です。

 防衛や領地の統治(隷属民などの支配)の上からも、住居地や耕地などが微妙に隣接するようなところに領地の境を作るのではなくて、それなりに明確な自然の境が認識できるところを境にします。現地に立った場合、目で見渡して「ここが境だ!」と云われたら、同意するかどうかは利害が絡むにしても、位置そのものは明確にわかるようになっています。
 
現代でも、自宅の敷地、自分の田畑や山林がどこかは、道路やあぜ道、川、用水路、崖線などを境にして認識します。道や川が境にならないところでは境界石等を置いて見通しで境を認識します。正確な測量地図や面積、長さなどは問題にされることもあまりありません。村境や国境にしても同様です。 http://kurumenmon.com/ogoori/kunizakai/kunizakai … http://www13.plala.or.jp/discover-fnks/3hatakato … http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/jousetu/b … http://www.furukabe.com/keieichi/fk_honmoku.html
 
「現代なら自分の領土がどこからどこまでかは地図を見ればすぐ分かります」というのは本当ですか。 地図を見ても地図の上で線が引かれていれば、その線が境であることはわかりますが、実際の土地に線はないので、実際の領土の位置はわかりません。 道路や川、塀、標識がなければ、現代でも、境の位置はわかりません。
 
下の絵は、江戸末期の境界争いの決着絵図です。これでも十分だったのです。
遙か以前の戦乱の時代、人口も村落規模も小さく、互いに離れている時代にはもっとラフだったと思います。
 
平安末期から鎌倉、室町には荘園の境の争いが、武士、地頭、寺社、公家などの間で頻繁に発生しますが、数メートルの位置が問題になることはないです。耕作地や農民の支配帰属、税や賦役の権利が重要なので、人が耕作している境がありますので、そこを認定できれば十分なのです。 (洪水や土石流、河川の流路が変わってしまうなどのことがあり、境界がわからなくなってしまうと、やっかいでしたが)
「戦国時代の領土について」の回答画像3
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。いろいろURLを紹介していただき、参考になりました。確かに現在のように数メートル単位で厳密に領地を決めていたということはなさそうですね。ただ境界線は今と同じように川や山や道路が目安になっていたようです。ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/28 15:09

生産性の低い鎌倉時代あたりから、


紛争の原因というのは土地の境界争いや
水利権と相場が決まっています。

日本全国にこういう施設が残ってたり、
未だに活用しているところがあります。
http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/sanbu-i …

AさんとBさんの田んぼの境目はどこ。
川の水を全部自分ところに引きこんで、こちらの使う水がない等、
それらを村単位で裁いたり、裁き切れなければお上に
裁量を請うわけですが、

そのあたりをおざなりにした室町幕府が衰退し、
地域の真の実力者が差配したことが戦国時代のはじまりとなります。

戦国大名は配下にその地域を実効支配している小領主を
抱えているわけで、それらの小領主の下にいる村落などが
自分の領土という感じになります。

だいたい国境は川や山などでおおよその目安になっていたでしょう。

戦国時代は他国は今の外国というくらいの認識ですから、
他国と自国の大きさなどは比べるという発想自体が
なかったのではないでしょうか。

そして、大切なのは生産力(米の石高)であり、
納められる年貢の量なわけです。
それさえ、まともに把握されだしたのは秀吉が天下を統一して
検地をしてからの話ですし。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。正確に土地の面積や年貢高を把握しだしたのは秀吉の頃なので、それまではかなり自分が実効的に支配している土地面積はいい加減にしか認識してなかったのでしょうね。戦国時代は領土を広めるのが目的ですから、どうやって自分の領土を把握していたのかと思いましたが、けっこうアバウトだったようですね。ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/28 15:07

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