
最近坐禅を始めたものです。たまたま夜船閑話を読み内観法を試してみましたが、坐禅と同じような気持ちでとても落ち着きました。
そこで疑問に感じたのですが、坐禅と内観法は行う姿勢が異なるものの、本質は同じではないのかということです。
一般的には内観法は健康法として説明されていますが、姿勢以外はやり方も同じだし効果も同じように感じます。夜船閑話では内観法により悟りを得たり、公案が解けたりもしたというくだりもあり、それなら坐禅をするのと同じではないのか、とも思います。
内観法は仰向けの姿勢で行うので、結跏趺坐のように苦しくはないし、常に姿勢に気を配って気が散ることもないので、集中力も高まり取り組み易く、坐禅よりも優れているように感じます。
坐禅と内観法がその本質において異なるものであれば、その違いは何かをお教えください。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
Mmkyからの追伸
内観の方法に決まった形式があったわけではない。ということを参考にお話しておきましょう。
釈尊の時代に、チューダパンダカという弟子がいたのです。このかたは兄弟で出家した内の弟で、兄は優秀だったのですけど、チューダパンダカは自分の名前さえ覚えられない人だったのです。現代であればそのような人は学校にも入れないし、例え、入ったとしてもついていけないので退学処分になりますね。当時も同じだったのですね。あまりにひどいので仲間からのけ者にされたわけです。弟子たちも釈尊にチューダパンダカを釈迦教団から追放してくださいと願い出たわけです。そこで釈尊は一度会ってみましょうと会いに行ったわけです。チューダパンダカはやることもないので毎日、精舎の中を掃除していたわけです。それを見た釈尊は、「彼は大丈夫だ。」と弟子たちに言って、チューダパンダカに近づき、「心の塵をはらわんと言いながら毎日掃除しなさい。」と指示したのです。
このことに弟子たちは驚きましたが、釈尊に従うしかなかったのですね。
チューダパンダカは釈尊に言われたことを忘れないように毎日毎日「心の塵をはらわん。」といいながら掃除に励んだのです。この話がお経に残っているのは、チューダパンダカが長い掃除修行のすえアラカンの境地に達したと認定されたからなのです。チューダパンダカは「心の塵をはらわん。」の意味がわかったということですね。これは禅宗でいうところの「心塵脱落」の境地と同じなんですね。チューダパンダカは毎日掃除しながら、内観である心の塵を払うことに気づき、禅宗の坊主は座禅瞑想しながら心の塵を払うことに気づいたということですね。釈尊は自身の経験から修行の心得として、苦楽の中道を説いています。これは各人が自然体で修行しなさいという教えなのです。足がしびれて耐えられないような状態で心が安定して思考できる訳もありません、つまり、修行形態は人なりでよいのです。形式にこだわらなくても良いということは釈尊の時代にはすでにあったのですが後代の弟子たちが自分の形式を宗派という形にしただけで、特に意味があるわけではないのです。日本の仏教形式は中国から伝来していますので、中国形式にこだわっているとこがありますが、釈尊が否定したものも長い間に沢山混じっていることもあるのですね。
例えば、火をつかう形式は釈尊が完全否定した一つですが、密教では一部やっていますね。
チューダパンダカの話はいい話ですね。
修行に形は無いということですね。そういえば坐禅でも、座るだけでなく、正座、椅子に座る、仰臥などありますし、歩行禅という言葉も聞いたことがあります。チューダパンダカの掃除の姿も、釈尊から見れば坐禅修行と同じと見えたんでしょうか。
仏教伝来のくだりは、私はよくわかりませんが、言葉で表せないものを伝え・広めるなかでは色々なことが起こるだろうなというのは想像出来ます。
mmkyさんの回答は解りやすく、ストンと腑に落ちる感じがしますのでベストアンサーとさせていただきます。
No.7
- 回答日時:
ANo.3です。
坐禅では「世界を捨て去る」事が出来ないからこそ、公案や内観法の様な行法をする必要があるんです。だから公案修行を捨てた曹洞宗は、何百年もの間、悟達者を輩出する事が出来なかったんです。
世界は心の産物です。五感によって認識された情報によって、心の中に世界が創られています。今、質問者様が認識しているのは、実存の世界そのものではなく、心の中にある世界です。世界=認識であり、我々ひとりひとりが世界の創造主であると同時に、ひとりひとりが隔絶された世界の中にしか生きられない囚人の様な存在でもある訳です。
内観法や公案修行の眼目は、世界は心の産物に過ぎないと気づかせる所にあります。認識作用の産物である心の働きを見ている「意識」こそが、本来の私であり、人の本性です。その意識に立ち返る事が「悟り」であり「世界を捨て去る」という事なのです。
何故、白隠内観法が「本来の私」を探させるのかと言うと、その「本来の私」は探すという方法(行為・有為)では、絶対に見つからないからです。公案が答えの出ない問題を突きつけてくるのも、それと同じ理由です。力尽きるまで思いっきり握り続けていれば、やがて行為が抜け落ちた「無為」の瞬間が訪れ、雲の切れ間から青空が覗くかの様に「本来の私」を垣間見る。これが公案や内観の原理です。
夜船閑話の逸話は、禅病になるほど坐禅に打ち込んでいたからこそ、内観法によって悟りを得た(世界を捨て去った)り、公案が解けたりもしたと言う話なのであって、内観法が行法として坐禅よりも優れていると言う様な話ではありません。人は行法によって悟るのではなく、自力が尽き果て機縁が満ちれば、自然と悟りに立ち返るのです。
公案や内観法が「する事(有為)」の極みであるとするなら、坐禅は「しない事(無為)」の極みです。無為とは、全ての物事に行為と言う名の自我の手垢を付ける事無く、本来の私のまま、人の本性たる意識のまま、悟りのままで居ると言う事です。それが自己(個別性)を忘じると言う事なのです。でも、本来の私を知らなければ、本来の私のままで居る事は出来ません。
本来の私、人の本性たる意識は、世界を捨て去るその日が来るまで、真の姿を表す事はありません。実際には常に出ずっぱりで、別に消えたり隠れたりはしていないのですけど、他の色々なものと混じってしまっていて、明確に区別が出来ない状態にあります。明鏡止水なんて言いますけど、人類のほぼ全員が曇鏡流水の状態にあるのです。だから先ず、それを何とかせねばならんのです。
公案や内観法が「する事(有為)」、坐禅は「しない事(無為)」の処が私の理解が間違っていたのかもしれません。
私は、内観法では3つ(本によっては4つ)の題目を唱えながら、他の事は考えないようにするものと理解していました。ちょうど、坐禅における数息観のような関係で。
そうではなくて、題目を唱えながら「本来の自分を探すという方法(行為・有為)」を行い、結果として探しだせるものではないことを悟るということだったんですか。
書物でも、題目を唱えるまでしか書いてなかったので、その先を誤解していたようです。
ご指摘、ありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
>>>内観法は『空』と『十二因縁』という法則を悟るために造られていないからです
>>が分かりませんが、何処が違うのでしょうか。
原始仏教での座禅の目的は、悟りを開いて死後、『病気事故災害戦争飢餓など』の不幸の多い、この人間世界に再び生まれず、永遠の寿命の天界に生まれることを目的としています。
これが成就したことが自分自身で分かることが悟りなのです。
それには法則を理解することが大事です。
空の論理とは、この世界が実在する世界ではなく、空(幻)の世界であるという大真理を理解することが一番大事なことです。
この世界が夢のように幻の世界であれば、人間はなぜこの世に生まれるか。という原理が分かります。
つまり、人間は進化論のようにこの世に生まれるのではなく、夢は心の記憶によって造られていることを理解しなくてはなりません。この法則を説いたものが『十二因縁』という法則です。
>>>内観法で心は安定しますが、悟りを開いて解脱することはできません
>>夜船閑話では「底の難信難透、難解難入底の一着子、根に透り底に徹
>>して、透得過して大歓喜を得る者、大凡六七回。」と書かれています。
>>これは解説では、悟りの意味で書かれていました。
阿含経には『安那般那の法』というのがありますが、一般に言われている座禅や内観法に酷似しています。
しかし、この修行は最終的な修行であって、法則を知らず、解脱の目的も分からずに行えば意味の無いものになってしまうのではないかと思います。
阿含経で一番大事な言葉は『無常・苦・空・非我』という法則です。
(1)この世は無常(変化・生・滅)である。
だから、病気になったり災害に遭ったり、死んだり、生まれたりする。
(2)それ故この世は苦である。
これらの無常は『病気事故災害戦争飢餓など』苦しみに帰結する。
(3)その理由は『この世は空(幻)である』からである。
この世界は識(記憶)で造られた幻の世界である。
(4)この世界は空(幻)であるため、『非我(無我)』である。
この世界は幻の世界であり、自分の心が造った映像に過ぎないため、自分という者は存在しない。
この四つの法則で『非我』を悟るようになっているのです。
だから、公案で『非我』が解けたとしても、仏教の修行にはならないと思います。
夜船閑話にも阿含経のことが出てきます。いつか読んでみようと思います。
ただ、「この世界は空である」「自分という者は存在しない」ということと、禅で言うところの「真実の自己(無衣の真人、本来の面目)」とがちょっと異なっているような気もしますが。
当初の素朴な疑問が、宗教論議的になってきて荷が重いので、ここでは、こういう考え方もあるよということで理解させていただき、今後の勉強とさせてください。
No.4
- 回答日時:
ご質問の意図は、座禅よりも内観の方がやりやすいので内観を座禅の替わりとしたいがどうかということだと思ってお答えします。
はじめたばかりの座禅は辛いわけで、そこで無理をしても挫折に近づくだけでしょう。
そこで緩めるべきところは緩め、締めるところは締めるわけですが
他のやり方を食い散らかす、自己流にアレンジするというのは最悪の方法だと思います。
常識的には、メソッドは厳格に守るかわりに実施時間を短くし負担を軽くするものだと思います。
>坐禅と内観法がその本質において異なるものであれば、その違いは何かをお教えください。
本質を判断するには両方に精通しなければなりませんが、順調なひとほど寄り道はしませんからね・・・
ご回答ありがとうございます。
MOG777さんのおっしゃる通り、坐禅と内観法が同じであるとすれば、こだわりやとらわれを捨てて、自分に適した方法でやってよいのではと思います。これは同じであるとした場合の話ですが。
ただ、これまでの回答にもあるように、坐禅は坐禅・内観法は内観法と区別され、別ものとされています。なので、その違いはなんなのか、どのように使い分けするのが正しいのかを知りたいと思っています。
No.3
- 回答日時:
坐禅は「自己を忘ずる」為に行うものであり、公案参究は「世界を捨て去る」為に行うものです。
白隠禅師の内観法は、腹式呼吸をしながら「私は誰だ、本来の私はどこにあるのか」と自問自答をする訳ですけど、原理的には公案参究に近いものと考えて下さい。つまり、坐禅と白隠内観法は、本質的には別物だと言う事です。
確かに坐禅と白隠内観法には、丹田練磨や、禅定の力(定力)を練り上げる等の、共通点も見受けられます。しかし坐禅の本質は忘我にあって、世界を捨て去る前に自己を忘じたとしても、それは見性ですら無い、単なる禅定の体験に終わってしまいます。
見性とは、本来の自己の在り方、即ち、無相なる自己の姿を観る事です。そしてそれが「世界を捨てる」という事でもある訳です。世界を捨てた後にも残るものが有って、それをどうにかする為に坐禅をするんです。本当の坐禅は見性して後、初めて行う事が出来る様になるのです。未見性の坐禅は、単なる丹田練磨や、定力UPのトレーニングにしか成り得ません。もちろん、それはそれで得るものは多いので、行う価値は十分にありますけどね。
瓦を磨いても鏡にはならない様に、先ず自己や世界の真の姿を観ない事には、坐禅は坐禅になりません。未だ観た事も無いものを、忘れる事は出来ないんです。本質的には全く別物である坐禅と白隠内観法を、似た様なものに仕立て上げているのは、質問者様ご自身なのですよ。
坐禅は形が命です。結跏趺坐の姿勢について煩く言うのにも、それなりの理由があるからです。世界を捨て去る前に自己を忘じても意味が無いのに、まず坐る事から始めるのにも理由があります。そして白隠内観法が仰向けの楽な姿勢で行うのにも、ちゃんとした理由があるんです。
坐禅は坐禅、内観は内観なんです。坐禅がキツイから内観だとか、内観はダサいから坐禅だとか、行法としての優劣だとか、効率だとか、伝統だとかを口にする人はいっぱい居ますけど、そういう問題じゃ無いです。先ずは自身で納得するまで坐禅して下さい。それでラチあかない場合に、白隠内観法とかでパッと道が開ける事もありますから。
ご回答ありがとうございます。
>坐禅は「自己を忘ずる」為に行うものであり、公案参究は「世界を捨て去る」為に行うものです。
>内観法は・・原理的には公案参究に近いものと考えて下さい。
これをまとめると
内観法は、「世界を捨て去る」までが限度。
坐禅は、「世界を捨て去る」かつ「自己を忘ずる」して悟りに至る
そこが違うところですよ、という理解でよろしいでしょうか。
私も、坐禅は坐禅、内観は内観なんだとは思います。過去に先人達が悟りを開き後世に伝えてきている訳ですから、それぞれの意味とか用法みたいなものがあるのだと思います。ただ、書物にしても、インターネットの検索にしても、それぞれについて解りやすく理由も説明いただいておりますものの、その二つを並べてみたときに何が違うのと言うところが良く分かりません。
違いが解らない事で、似た様なものに仕立て上げているのかも知れません。なので、間違った方向に進まないように、この疑問を解決したいと思い、質問させていただきました。
その辺のところを、解りやすく解きほぐしていただけないでしょうか。
No.2
- 回答日時:
>坐禅と内観法は行う姿勢が異なるものの、本質は同じではないのかということです。
○ 簡単に言えば同じものです。内観を行うこと、これをサマデイと呼びそれが座禅になったものです。
座禅の境地、心塵脱落、明鏡止水などは静かなリラックスした状態で過去を振り返り、反省しながら心の垢や塵を払って行った結果の心の状態を表すものです。静かなリラックスした状態で過去を振り返り、反省しながら心の垢や塵を払って行くことが座禅であり、内観なのです。つまり、座禅修行は内観修行そのものですね。
仏教での内観の修行とは何かと言えば、心の宇宙を発見して行くことなのです。自分の内にうがち入り掘り下げて行くと宇宙が見えてくるというのが仏教の教えであり、そのための一歩が心塵脱落、明鏡止水の状態を維持することなのですね。これが座禅と呼ばれるのですが、究極は各自が内に持つ仏性を観ることなのです。
科学者は望遠鏡で宇宙を見ようとしますが、これが外観ですね。自身や宇宙を客観的に観るということですが
客観的に観るには限界があるのですね。望遠鏡で観て宇宙は137億歳ですが、内観で宇宙を観ると400億歳になると言われています。そのような差が外観と内観では出るのです。悟りは内観にありと言われるゆえんですね。
日本の座禅の余談を書いておけば、座禅の開祖道元禅師が悟った「心身脱落」と叫んで洞宗禅師の天童如浄より印可を受けるのですが、これは洞宗禅師の勘違いではないかと言われています。
道元の「心身脱落」を「心塵脱落」と聞き間違えたということなのです。まあ道元は日本人ですから中国語の発音が似ていたということですね。このあたりから座禅の内観修行がおかしくなってきたのかもしれませんね。
心の塵を払わんが内観修行の導入ですから静かに考えることができるならどのようなスタイルでも良いのです。もし、さらにほって心の宇宙を垣間見たいのであれば、仏性つまり仏陀に帰依することですね。仏陀に帰依したものものが心の内の仏陀を観ることができるということなんですよ。それが仏教なんです。
ご回答ありがとうございます。
「簡単に言えば同じものです。」と言い切られたのには、正直およよよ・・といった感じです。初心者には外見上解らないような効用に違いがあるよ、と言った回答を期待していたものですから。これでは苦労して結跏趺坐している人の身も蓋も無い様な。
大変この分野にお詳しいようで、内容が深くかつ予想外のご回答を頂いたこともあり、正直消化不良の状態で、お礼を書いています。洞宗禅師の勘違いから始まる、日本の禅に疑問を呈するくだりも初めて聞きました。
私の理解を超えたレベルになっておりますので、他の方々のご意見も聞いてみたいと存じます。
No.1
- 回答日時:
座禅の本来の意味が間違って考えられているように思います。
原始仏教に於いて、座禅は禅思といって三十七菩提の思考をする修行なのです。そういう意味に於いては内観に酷似しています。
しかし、根本的には違っていると思います。
なぜなら、内観法は『空』と『十二因縁』という法則を悟るために造られていないからです。確かに内観法で心は安定しますが、悟りを開いて解脱することはできません。
つまり、原始仏教における座禅とは悟りを得て輪廻から解脱し、死後、天界に生まれることを目的としているのです。
早速のご回答ありがとうございます。
回答で、下記の個所が理解できませんでした。もうすこし噛み砕いてご説明いただけませんでしょうか。
>内観法は『空』と『十二因縁』という法則を悟るために造られていないからです
が分かりませんが、何処が違うのでしょうか。
>内観法で心は安定しますが、悟りを開いて解脱することはできません
夜船閑話では「底の難信難透、難解難入底の一着子、根に透り底に徹して、透得過して大歓喜を得る者、大凡六七回。」と書かれています。これは解説では、悟りの意味で書かれていました。
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