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デカルトを読まれた方ならお分かりだと思いますが、いかがでしょうか?

デカルトの世界観

彼は形而上学において精神が身体(物体)とは独立な存在であることを強く主張する。

身体の存在を疑っても疑うところの「われ」はあるのだから、疑うところの「われ」は身体とは独立でなくてはならない。

「私は考える、故に私はある」というとおり、「われ」のあり方は、物体とはまったく違う。

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A 回答 (9件)

欧米は、このデカルトの影響で、精神と体は


全くの別物である、という心身二元論的な考え方が強いようです。

これに対して、日本では、遺骨収集にも熱心なこと
から判るように、心身一元論的な考えが強いと
言われています。
遺跡調査などで人骨を発掘していると、欧米人はなにも
感じないのに、日本人は段々とおかしくなって来る、と
言われています。

だから欧米が、心臓移植などについても抵抗がないのに
対して、日本は抵抗が強いのです。

最近は、内臓にも記憶物質が発見されたりして、
科学的には一元論の方が有利となっております。
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愚かしくもデカルトは動物にそなわった知能、理性、意識を否定し


動物が打たれたときに発する叫び声は痛みを表すのではなく、時計やゼンマイの玩具を落としたときにバネや鐘がガチャンと鳴るのと同じと言ってますね。

今時、動物はおろか植物にも感情が有ると言う学者さんもいますよ。
ただ、時間と死の概念を持っているのは人だけの様な気がしますが・・・

コーギトー・エルゴー・スムですね。
それで、己だけは→我が人種だけは→人間だけはと考えたのでしょう。
きれいごとを言っても、バチカンやコーカソイド独特の傲慢な選民意識が表れています。

精神と身体は別物?
違います。
精神とか心は、脳を含む体からの単なる反応の一部です。
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純粋な高度な精神世界があって欲しいとは思いますよ。



空間的に一切邪魔になりませんし、時間旅行も自由自在。
でもそれには対象となる夢や目的が必要。
人間以外を羨んだり憧れたりしても、
三次元で無理とする経験を
理解しようがために経験できないのも事実。

例:二次元の恋人と籍を入れたり、子育てしたり、離婚調停をする。
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我の在り方も物質に依るしかない。


という考え方をしてます。
我独りでいくら世紀の大発見をしても、深く考えても、
それが何に何の影響を及ぼします?

精神も体現されてこそ性質が表せ、
価値を見出せるほどに精神を持つ人間の存在が同時に体現されていてこそ。
人間は人間が関わることでしか価値はないと思ってます。

デカルトが言いたいのは身体がなくとも
諸々の起因として存在が可能ということですかね。
それでも吹く風のようなものと思います。
風を調べようと袋に込めても空気しか入っていない。

風に意味をつけようと、名付けようと
呼び戻す術もない。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

物質が考えたり、空想したりはしないと思います。

物質に備わっているのはあくまでも物質であり、五感を通して、私たちは廻りで起きていることを認識しているだけだと思います。

そうして脳に集まってくる様々な情報を分かりやすく分析して言葉やイメージ、創造しているのは、物質世界ではなく、独立した精神世界ではないかと思います。

お礼日時:2012/05/11 17:48

肉体は精神とは別物(Independent)だと思いますが、精神は肉体に依存して(Dependent)居ると思いますがなぁ。

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精神(心)と身体は一つですが、意識と身体は別物です。



我(意識)は「疑う」という心の働きを観照しますが、
意識は身体に依存しておらず、我という個別性もありません。

意識は独立単体で存在している訳では無く、
天地に満ち満ちている。

個にして全であり、全にして個。
それが「存在」です。
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紙の表と裏は、明らかに「別」の面である。


しかし、どうやっても「裏の面」だけで存在できる
ものではない。
不確定性原理において存在性は、“相補的不確
定性”に基づくが、その「相補」は、「位置(S:空間
的確定性)と運動量(St:時間的相対変化)」と
「時点(T:時間的確定性)と質量(Ts:空間的相対
変化)」の2対、即ち“時間性=記憶”と“空間性=
予測”の相補分化を成す。
そして、どのパラメータでも絶対的に確定化しようと
すると、それと対を成すパラメータが無限不確定に
発散し、即ち、「物事を原理的に確定化せず、現象
表面的な経験的定性化に応じて、有限的存在性は
派生する」と言えるのだ。
裏表2つの面を、分離していっぺんに見る事はでき
ないように。
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独立という言葉を吟味する必要があると思います。

独立というのはほかのものを利用してこそ可能です。この場合ほかの者の存在がなければ独立的に存在することが可能でないということになって、逆説ですが、ほかのものに依存しなければ独立できないということになります。結論的には体に依存して独立しているということになると思います。体あっての私ではないでしょうか。
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その通りです。

心は脳の働きだと考えられていますが、脳は物質であるため、脳も心によって造られています。
つまり、「われ」とは自分の心のことをいいます。
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Qデカルトの身心二元論、わかりやすく教えて!

デカルトの身心二元論をわかりやすく説明してください。
特にわからないのは、
「物(身体)は延長を本質とし,心(精神)は非延長的な思考を本質とする」
という考え方です。ここでいう「延長」とはなんのことなんですか?
急ぎの用なので本を読む時間がありませんでした・・・
至急お願いします!!!!!m(._.;)m

Aベストアンサー

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広がりとか言ったりしますが、要するに、縦、横、高さ(3次元なので)
があることです。1つでも2つでもいいんですが。
でもどれもないってことは物体である以上ありえないですよね。
どれもないものは、だから精神なわけです。

延長というのは物体が空間の中に存在する以上、必然のことであり、
空間を一定の量占めて、そこにあるという存在の形式でもあります。
デカルトはこれを実体「物質」の属性(本質)とします。
これはスピノザやロックも受け継いでいきます。

分かってしまうと何でもないことなんです。少なくともデカルトにおいてのみ言うなら^^;
ただいかにも専門用語!といった感じなので戸惑われるかもしれません。

「方法序説」なんかは薄いし、肝心のところさえ読めばすぐです。
意外と分かりやすいので、気になるようでしたらご一読を。

デカルトが流行ってらっしゃるのでしょうか^^;
心身二元論については下の方の質問にも答えているので
それを参考にして頂けるとありがたいのですが、
さらに「延長」について説明します。

延長は、物体を語るうえで重要な概念です。(観念論じゃなくてよかった^^)
物体を定義しろ、という時に何を思い浮かべます?
重さはないけれど、物があるってことありますよね。真空とか。
で質料とかもかなり微妙ですし、不可入性とかも言われたりしますが、
まず何よりも先に立つのは延長です。
延長は広...続きを読む

Q哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。
講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか? 

いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)

Aベストアンサー

追伸:
>つまり各指の「自」および「他」は手の一部、つまり同じものの一部なのですね。これが共有可能であ>ることの証明です。 すべての生き物、存在物、人間も全く同じ原理なのですね。
>この部分だと思いますが、「東洋的」というのは具体的に誰のどの部分(どんな著書?記録?経典だとしてもどの時代のものの解釈なのでしょうか?)のものなのでしょうか?

○釈迦仏教(哲学)の基礎:涅槃教の一節、((一切衆生)悉有仏性)、曹洞宗の開祖、道元禅師道元禅師(山川草木悉有仏性)などが全て仏性で繋がっているという認識のことのですね。
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近代では、京都学派の哲学者の西田は、これを、自身あるいは自と他の関係に置き換えて、「絶対矛盾的自己同一論」を出しています。矛盾する自、あるいは矛盾する他は自身の一部であるという認識ですね。
どれもわかれば簡単なことですが、解説書読んでも、解説するものがわかっていないので理解は難しいですね。これも参考に。

Q「ご連絡いたします」は敬語として正しい?

連絡するのは、自分なのだから、「ご」を付けるのは
おかしいのではないか、と思うのですが。
「ご連絡いたします。」「ご報告します。」
ていうのは正しい敬語なのでしょうか?

Aベストアンサー

「お(ご)~する(いたす)」は、自分側の動作をへりくだる謙譲語です。
「ご連絡致します」も「ご報告致します」も、正しいです。

文法上は参考URLをご覧ください。

参考URL:http://www.nihongokyoshi.co.jp/manbou_data/a5524170.html

Q「心」「意識」「精神」の類似点、差異点を教えてください。

ご存知の方、宜しくお願いします。

「心」「意識」「精神」の類似点、差異点を教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
「意識」とは「状態」
「心」とは「構造」
「精神」とは「心の構造によって形作られるもの」
ということになると思います。

この三つの共通点といいますと、それはこれらが全て「神経系の働き」を指すものだということですね。この内、「意識」といいますのは神経系、厳密には大脳皮質での情報処理過程で発生する「現象」であり、他の二つとはその定義が全く異なります。それは「有意識」という「特定の状態」を指すものであり、これによってどのような情報や結果が扱われるかということは一切の関係がありません。大脳皮質の意識に上る対象がなければそれは発生しませんし、大脳皮質を介さない情報処理や、自覚の成されない結果選択は「無意識行動」と分類されることになります。
このように「意識」といいますのは「状態」です。そして、これは神経系の情報処理過程やその結果を示すものではありませんので、他の二つとは全くの別物です。

では、「心」と「精神」の違いとは何かということになるわけですが、「精神」といいますのは元々心理現象や生理構造を科学的に分類したものではありませんので、その定義は極めてあいまいです。これに対しまして近年では、長い間謎とされていた我々の「心の構造」に就いてたいへん多くのことが解明されるようになりましたので、この辺りはもはや哲学の力を借りる必要がそれ程ありません。
心理現象とは「知覚入力―結果出力」という神経系の情報処理によって発生するものです。そして、我々の脳内では知覚入力に対して価値判断を下し、結果を出力するための中枢系が以下のように三系統に分かれています。
「生命中枢:無条件反射(本能行動)」
「大脳辺縁系:情動反応(情動行動)」
「大脳皮質:認知・思考(理性行動)」
この内、本能行動を司る「生命中枢の無条件反射」といいますのは、それは遺伝子にプログラムされた全人類に共通の反応規準であり、幾ら学習体験を積み重ねてもこれが変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。ですから、如何なる場合であろうとも結果は予め定められているわけですから、これを「心の動き」とすることはできません。
これに対しまして、与えられた状況に応じて我々の脳内に様々な「心の動き」を発生させているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。大脳辺縁系には身体内外のあらゆる知覚情報が入力されており、ここではそれに対する「利益・不利益の価値判断」が行われることによって「情動反応」が発生します。この知覚入力に対する価値判断を行うための反応規準を「情動記憶」といい、これは生後体験に基づいて大脳辺縁系に獲得された「学習記憶」です。大脳辺縁系では何の入力に対してどのような反応を発生させたのかという結果が随時記録されますので、それは我々の「価値観」として成長してゆくことになります。そして、この価値観によって形作られるものが、そのひとに宿った「精神」です。

通常、我々が「学習記憶」と呼んでいるのは大脳辺縁系の情動記憶ではありませんよね。それは大脳辺縁系の「YES・NO」のように単純な結果ではなく、何時何処で何をしたといった具体的なものであり、個人の思い出から数学計算の技術、成功・失敗の結果からその社会の法律・道徳に至るまで、生後の実体験や教育によって大脳皮質に獲得されたありとあらゆる情報であります。大脳皮質はこの記憶情報を駆使し、知覚情報からは得ることのできない「未来の結果」を予測します。従いまして、大脳皮質の司る理性行動といいますのは、その全てが未来予測による「計画行動」であり、原因と結果の自覚された「意識行動」ということになります。
ところが、大脳皮質の導き出した結果が如何に高度で理性的であろうとも、実際に心が動かなければそれが実行に移されることはありません。つまり、大脳皮質の役割とは未来の結果を予測してより価値の高い計画行動を立案することであり、それに対して最終的な決定を行うのは「心の動き」を司る大脳辺縁系であります。ですから、大脳辺縁系に何の情動反応も発生しなければ、我々は一切の行動を選択することができません。
「ここは理性的な行動を執るべきだ」、与えられた状況に対して大脳皮質が判断を下し、それに対して大脳辺縁系が「賛成・YES」と反応することによって、それは初めて実行に移されます。

上記の中枢・三系統における機能分類を「脳の三位一体説」といい、現在では我々の「心の構造」というものがここまで判明しています。
ならばこれに基づき、
「大脳辺縁系の情動反応=心」
「大脳皮質の理性行動=精神」
とできるならば、生理学的にも解剖学的にもたいへん明解なのですが、基本的に「精神の定義」というのが元々あいまいであるため、これでは一般に扱われている概念とはどうしても一致しません。
このため、
「心とは構造」
「精神とはその構造によって形作られるもの」
ということになります。
我々の「心の動き」といいますのは、喜怒哀楽などの直接的な情動表出から高度に論理的な意思決定まで、その全てが大脳辺縁系の情動反応を中核として行われています。これが「心の構造」です。そして、大脳辺縁系にどのような価値観が獲得され、大脳皮質にどれだけの知識を持っているかによってその結果が異なります。従いまして、「道徳な精神」や「ひとを愛する気持ち」あるいは「目的に対する不屈の精神」などといったものは、みなそのひとの「心の構造」によって形作られているということになります。
また、価値判断を行う中枢系も、そのときの覚醒状態によっては反応の結果が異なります。ですから、精神といいますのはあれやこれやと極めて広範囲な概念ではありますが、これまでのような解釈を行うならば、このようなものを「精神状態」と呼ぶこともまた可能となります。

こんにちは。
「意識」とは「状態」
「心」とは「構造」
「精神」とは「心の構造によって形作られるもの」
ということになると思います。

この三つの共通点といいますと、それはこれらが全て「神経系の働き」を指すものだということですね。この内、「意識」といいますのは神経系、厳密には大脳皮質での情報処理過程で発生する「現象」であり、他の二つとはその定義が全く異なります。それは「有意識」という「特定の状態」を指すものであり、これによってどのような情報や結果が扱われるかということは一...続きを読む

Q他者の意識の存在を確かめることはできないのでは?

心の哲学の議論を見ていると、他者には意識があることが前提として語られています。
自分の意識が存在すること、これは確実です。しかし、他人に意識があることを確かめることはそもそも不可能です。そんな不確実な「他人の意識」というものを前提として議論が進められる「心の哲学」に、私は疑問を持っています。皆さんはどうお考えでしょうか。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 傘寿に突進している老齢のせいかすぐ忘れますので、他のご回答を読む前に書かせて頂いております。投稿を終了してから拝読いたします。

○ 屁理屈みたいですが、補足をお願い申しあげます。
 1. 他者の意識の有無の確認ですが、その仕方や内容において、自己の意識の有無の確認と同じでなければならないでしょうか?
 2. 自己の意識の有無の確認はどのように行い、どんな確認ができているのでしょうか?
 3. 他者の意識の有無が不確実であるということは、具体的ご経験でしょうか?それとも思索による気づきとしての、普遍的経験や理論でしょうか?
 4. ご質問では哲学の議論としておられます。哲学の議論についてのみに問題になることなのでしょうか?
 4-2. 他者の意識の存否は哲学の議論の他は、問題にする必要はないのでしょうか?或いは他の面においては存否が確認されているのでしょうか?
 5. 哲学の議論において、他者の意識の存否に疑念を持もたれたご経験やご認識をされたことがあるので質問されているのでしょうか?
  それとも理論的に、或いは思考により疑念がおきた、ということでしょうか
 6. ご質問者さんは、哲学の問題や投稿においては、他者の意識の存否を意識的に念頭においておられるのですか?
  同時にご自分の内面としての思索・思惟に自己をおいておられるのですか?
  (その念頭に置くこと、自己の内面思索に置くこと、その仕方は自己性において大きな意味があるかも知れませんね。)

○ 私見
 生理や肉体で個別になっている、私たちの各個の意識って、以外に共有的であると存じております。意識の共有がないところでの議論は成立しないでしょうね。
 そういう中での自己と他者だと存じております。時にはその共有性や存否についての確認と、創成は必要とされることですね。
 私は一端的ヒンドゥの哲学の片端をかじっています。意識は個々の生体よりも創成している意識の中にあり、そこから、多数の個別意識が樹木の葉やガス管に繋がるガスレンジのように噴いてきているのであると、存じます。
 以上のように思っておりまして、上記の補足のお願いを致しました。どうか勉強させてくださるようお願い申しあげます。

 傘寿に突進している老齢のせいかすぐ忘れますので、他のご回答を読む前に書かせて頂いております。投稿を終了してから拝読いたします。

○ 屁理屈みたいですが、補足をお願い申しあげます。
 1. 他者の意識の有無の確認ですが、その仕方や内容において、自己の意識の有無の確認と同じでなければならないでしょうか?
 2. 自己の意識の有無の確認はどのように行い、どんな確認ができているのでしょうか?
 3. 他者の意識の有無が不確実であるということは、具体的ご経験でしょうか?それとも思索によ...続きを読む

Q英語で「個数」「件数」は?

質問は単純です。
英語で「個数」や「件数」をなんというか、です。

とりあえず、思いついたのは、numberでした。
たとえば、「りんごの個数」は"a number of apples"ですか?
でも、"a number of"は「いくつかの」という意味ですよね。

「データの件数」は"a number of data"でしょうか?

私は英語はほとんど出来ませんが、numberは「個数」というよりも「番号」という意味であるような気がしてなりません。

Aベストアンサー

>「個数」や「件数」をなんというか、です。
>とりあえず、思いついたのは、numberでした。
意外に思われるかもしれまんせんが、語の選択はnumberであっています、と思います。

>「りんごの個数」
the number of (the) apples

>「データの件数」
the number of (the) data

>numberは「個数」というよりも「番号」という意味であるような気がしてなりません。
実は、昔、私も、「個数や件数はなんていうのかな、え、number? え、本当?」と、奇異に感じたことを、思い出しました。

Q我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器官には何ら問題が無い事が判明した。そして生命維持装置にかけて栄養補給すれば延命させることが可能と結論した。母親は延命を望んだ。そのようにして子供は10歳になった。

 さて、彼は自分の手や足が「そこ」にあることを知ることが出来るでしょうか?それどころか外に世界があることを知り得るでしょうか?また、自分自身を知っているのでしょうか?彼の精神はあるのでしょうか?無論、脳は医学的に見て損傷はなく、栄養補給も絶えず受けつづけたとします。彼は「見る」ことも「聞く」ことも「触る」ことも「味わう」ことも「嗅ぐ」ことも経験出来ないので、夢を「見る」ことも「聞く」ことも・・・~も出来ないでしょう。

 そういうことから、「我思う」為には外界の刺激が必要であって、「我有り」の方は根本にはなり得ないように思うのですが、いかがですか?長い質問でした。

 世界が存在すること、或いは実在という概念に対してその全てを疑ってなお自らの思惟体験は揺るぎ無いものであることから観念は自ずから存在する、としたこの主張に対していささかの疑問を持ちました。そこで次の様な妙な問題を考えました。

 ある子供が産まれた。彼は目が見えず、耳が聞こえず、何かに触れてもそれを感じることが出来なかった。およそ感覚と呼べるものが欠落し機能しない。しかし彼を診察すれば血液の循環や心肺機能は正常で,感覚器官と、それらに関連する神経系以外の、脳やその他重要器...続きを読む

Aベストアンサー

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があったのです。つまり、現実存在(エクシステンティア)の成立という話になれば、それは現象の存在の自明性に繋がり、また現存在の存在了解にも繋がっていたのです。
 
  現象の存在の自明性は、フッサールが西欧の哲学の歴史のなかで、反復的に主張したことで、「人間の現存在」による、存在物の「存在了解」は、ハイデッガーが考えたことです。
  現象の存在が自明であるということは、現存在の存在了解によって自明であるのです。デカルトの懐疑は、思考のモデルであって、疑っている自分が存在していることは疑いがない、つまり、思考主体=主観の存在の自明性は、最小の答えであって、デカルトや他の人が見、聞き、触れている、様々な事物の存在性も疑いがないものだということです。つまり、悪魔が幻覚をデカルトあるいは私たちに見せているのだとしても、その幻覚の事物は、幻覚という実体規定のもとで、自明的に現象として存在しているからです。
 
  わたしが思考している、わたしが懐疑しているという時の主観的世界の構造のなかでは、思考している主体、懐疑している主体の現なる思惟存在、懐疑存在が自明であり、思惟存在や懐疑存在の「存在の構造」解析は、存在事実の自明性によって乗り越えられているというべきでしょう。
 
  つまり、貴方 robking さんは、貴方の思考モデルで、思考実験してみたのですが、まったく感覚から遮断された子供とか、その子供のまわりの生命維持装置とかに言及し、それを思考モデルで使用している以上、「外界の存在物や、その感覚刺激」が、「思惟する我の存在」に先行して存在しなければならないなどと言ってみても、そういう思考内容の現象的存在が、現に、貴方自身の思考の構造解析以前に、自明であるということです。
 
  ポイントは二つで、一つは、存在は、現に phyein しているものであるということと、もう一つは、存在物の存在了解を主体が行えないとしても、そのことは、主体にとって、存在物が存在しないことにはならないということです。つまり、貴方の問いかけは、根本的に無意味に、わたしには思えるということです。
 
  注)「存在の構造解析」とは、現なる現象存在を、構造の設定で整序しようとすることを意味します。つまり、形而上学的構造を措定することで、現なる現象世界のありようの説明または根拠付けを行おうとすることです。

  それは具体的に言えば、一切の感覚刺激のない子供の脳における主体意識というものを一方で考えながら、同時に、そのような主体にとっては、超越的な、外部世界の存在を、簡単に自明的に述べている(構造措定している)ということです。主体に超越的な世界の存在を措定しておきながら、主体の成立にとっては超越的な世界の存在が先行すると言ってみても、何の意味もないということです。
 
  なお、アプリオリな認識・知識については、わたしは、統覚精神実体の存在を構想していますから、それは自明的にあり得るだろうという考えです。イデアー世界は存在するだろうという考えです。
 
---------------------------
  どうも、何を述べているのか、分かりにくい人もいると思いますので、補足的に易しく説明します。
 
  つまり、robking さんが考えている、思考実験を行っているという場合、思考している robking さんの思考している主体の現象存在は疑いがないということです。しかし、仮に robking さんが、AB歳だとして、AB年ほどの色々な記憶を甦らせて、色々な経験をしてきたなあ、と考える時、考えている事実・事態・現象は、現実存在ですが、記憶にあるAB年は本当にあったのか、あるいは、5秒前、宇宙人が、robking さんの脳に、そういう嘘の記憶を投射し注入したのではないのか、本当は何なのか分からないということです。これがデカルトの懐疑の意味なのです。
 
  感覚を完全に遮断された子供の脳に宿ると仮定した主体意識にとっては、実は、外部世界は超越的で、いま上で述べた、AB年の人生が、本当にあったのか、宇宙人が5秒前に記憶を注入したのか、どちらか分からないと言うのと同じ意味で、外的世界があるかないか、子供の主体には分からないということです。これは感覚遮断しているので分からないのではなく、私たちであっても、窓から外をみて、美しい風景を見て、素晴らしいと思っても、それは、よく見ると精巧な壁の絵だったとかいう可能性から考えると、外的世界の現象的立ちのぼり(pyein)は疑いがないが、そういう世界・風景が、例えば「物質実体」として存在しているかどうかは(超越的命題であって)分からないということです。
 
  robking さんの思考のなかで、感覚遮断された子供の主体意識が考えられており、また、外部の生命維持装置などが考えられているのであって、これは、robking さんの思考のなかでの現象存在であり、図式であって、最初から子供の主体にとって超越的な外的世界を設定しているので、それでは、子供の認識の成立に外的世界からの刺激が不可欠になるのは当たり前の話だということです。(カントの主観の構造のような話です)。
 

 
  デカルトの懐疑は、存在物が自明的に存在するということは、自明的に真かという懐疑であったはずです。
  中世哲学では、存在物(レース)が存在することは自明的に明らかであり、それは、神が存在することが自明的に明らかであるからですし、存在物が存在することが自明的に明らかであるので、神の存在も自明的に明らかなのです。
 
  神が存在するのは自明であるという中世哲学のテーゼは、トートロジーのように聞こえますが、デカルトが考えていたよりも、その存在についての構想は、深度があ...続きを読む

Q空腹を我慢して、いざご飯を食べると腹痛があるんです。

以前から時々なんですが、時間がなくてご飯を食べるタイミングをなくしてしまった時、そのあと食事をすると食事中に胃がキリキリ激しく痛みます。みぞおちの辺りが痛み、背筋を伸ばすこともできず、歩くこともできず体を丸めていないと痛くてどうしようもありません。冷や汗も出る感じです。段々やわらいで、2時間ぐらいするとその後は痛みもなくなりけろっとします。
いろいろなサイトを見ると「空腹時に痛む」とか「食後しばらくすると・・・」など書いてありますが、私のは食中から食後にかけてです。私が思うに、本当に時々ですし「なにもお腹に入ってない時に急にご飯が入ってきたから、お腹がビックリしたのかな?」なんて思っているのですが、病気だったらどうしようと思い書き込んでみました。どうぞ教えて下さいませ。

Aベストアンサー

胃酸が足りないようです。あまりかまないで食事をする癖、またストレスがある場合になるらしいです。
りんごジュースが効くと聞きましたが…
私の場合はストレスです。今も格闘中ですが、
危険そうなときは
なるべくやさしいお粥などを食べたりしています。

Q哲学の授業でレポートを書くのですが・・・

テーマを、「主体の構造 自己意識と存在への開き」「意志の構想と意義への問い」「人間の共同存在の哲学的解明」のどれかから選ぶのですが、本を調べようにも一体何に関する本を探したらいいのかもわかりません・・・。
何でもいいので、何かヒント・キーワードなど教えてください!お願いします!

Aベストアンサー

 
まず、何の質問をされておられるのでしょうか?

哲学概論または哲学通史の授業のレポート課題で、こんな問題が出るはずはないとおもいます。もっと特徴的な哲学者に固有の用語を使っている場合とか、タームとしてある程度限定されたものを使って課題が出されている場合、それは、誰の考えにあるとか、いうはなしになります。

けれども、ここまで一般的で、しかも現代哲学のテーマであると同時に、哲学史を通じて問題になっている主題をあつかう場合、これだけでは、何のことか分かりません。

つまり、授業で実際に、どういう話を先生が行ったかで、全然、考える方向が違ってきます。

たとえば、「人間の共同存在の哲学的解明」とは、「間主観性」の問題を尋ねているのか、または、独我論に対し、哲学はどのように、主体の共同存在性を確保してきたのか、という問題を尋ねているのかで、答えが違ってきます。また「間主観性」といっても、独我論に対する反論として問題が立ちます。

「主体の構造」「存在への開き」「人間の共同存在」というと、現代哲学の問題のようにおもえますが、カントの哲学についての現代からの批判的展望として、こういう問題を立てることもできます。

これは、先生が授業で何を話したのか、ということが問題になります。授業に出ていれば、これらの課題で、何を尋ねているのか、分かるはずです。何か具体的な、特定の話や、現代倫理学概論のような話が、授業で行われたのだとおもいます。

だから、こういう問いは、その先生の授業を受けていたひとに、どういう哲学者の名前がよく話に出ていたか、どんな話があったか、参考書として何があげられていたか、を教えてもらうほうが、よほど有効です。

その上で、さらに、質問するというのは具体的なアドヴァイスが可能だとおもいますが、現在の質問内容では、アドヴァイスはできません。

これらの三つの課題を眺めると、現代倫理学の実践的課題についての理論的考察の問題のようにおもえます。そういう概論的話を、先生が授業でしたのだとおもいます。

現代倫理学入門というような本をみると、これら三つの課題に対応した問題提起が記されている可能性があります。内容を確認していませんが、比較的に安くて、入手しやすい本として次のような本があります。

>> 「現代倫理学入門」講談社学術文庫
>> 加藤 尚武 (著) 文庫 (1997/02) 講談社
>> 価格:¥820

次のような本もあるようですが、高いですし、入手は難しいとおもいます。(内容は分かりません)。

>> 「エチカとは何か―現代倫理学入門」
>> 有福 孝岳 (編集) 単行本 (1999/11) ナカニシヤ出版
>> 価格:¥2,400

現代倫理学入門というのは、新書で、そういう本がいくつか出ているともおもいます。授業に出ていたひとに尋ねることと、もうひとつ、大きな本屋に行って、現代倫理の入門書を探してみて、目次を見て、先の三つの課題に対応するような問題があつかわれているようなら、その本を参考にするのがよいでしょう。

本全体を読む必要はなく、それらしい話のある部分をもとに、自分なりに、課題に合うように、まとめるのがよいでしょう。
 

 
まず、何の質問をされておられるのでしょうか?

哲学概論または哲学通史の授業のレポート課題で、こんな問題が出るはずはないとおもいます。もっと特徴的な哲学者に固有の用語を使っている場合とか、タームとしてある程度限定されたものを使って課題が出されている場合、それは、誰の考えにあるとか、いうはなしになります。

けれども、ここまで一般的で、しかも現代哲学のテーマであると同時に、哲学史を通じて問題になっている主題をあつかう場合、これだけでは、何のことか分かりません。

つまり...続きを読む

Q「今日も今日とて」の意味を教えて下さい

「今日も今日とて」の意味を教えて下さい。
前後の文章から、単純に「今日も」という事かなと思ったのですが、「今日とて」がひっかかります。
「今日」は「キョウ」でいいんですよね?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

同じ意味の重ね合わせで、強調してるのです。

「今日も」、今まで通りなんだ、
「今日とて」明日になれば変わるかも希望をもっていたとしても、「今日とて」変わらない。という事ですね。

音を踏んで、何も変わらない事を強調表現しているのです。


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