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 旧約聖書のヨブ記についていくつか疑問に思うところがあるので、教えて頂きたいと思います。
 まず、ヨブ記38章2節に「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」とありますが、これは、流れ的に(といっても私が読んでいる聖書の日本語訳的にということですが)エリフのことを言っているのでしょうか。また、同様に41章12節の「わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない」とありますが、この彼もエリフのことを指しているのでしょうか。だとするなら、42章の7節で神様は、ヨブの3人の友であるエリファズ、ビルダデ、ツォファルには、「あなた方は、わたしについて真実を語らず、ヨブのようではなかった」と言及しているのに、エリフについては、ノーコメントなのはなぜでしょうか。

 私は思うのですが、結局このヨブ記というなんとも謎の多い書物がなぜ我々に与えられているのかということを考えると、その究極的な意味は解りませんが、ざっくり何が言いたいのかというと、神様は、ヨブという神様の前にも人々の前にもこれ以上ないと思われるような正しい僕であった人であっても、試練の中では、神様に不平を洩らすのであって、それは、至極当然のことであるのだということ、そして神様の愛は、私たち全てが抱くそのような思いをそのまま受け入れてくださることができる愛の方であるのだということ、それに対して何だかんだ屁理屈を言って、目の前で苦しみ悲しんでいる友をさしおいて神様や信仰、奉仕といったことを重んじてしまうところがあるので気をつけるように教えておられるのではないかと思うのです。
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。
とイエスは今日も語られているように思います。

A 回答 (8件)

これは、A No.6 yangmaskへのお礼に対する返答です。



>大事なのは、私自身がそのこと、つまり神様が私のことを愛していてくれることを信じていなければ何をしても、わたし達にとっては、何の意味もないことになるではありませんか。

   なるほど。「神様から愛されていることを確信する」ということの重要性を感じておられるということですね。それは大変根本的で大切な点だと思います。

   ところで、問題のコリント第一の手紙は使徒パウロが1世紀のコリント会衆に宛てて書いた手紙でしたね。当時のコリント会衆では、様々な問題が発生しており、中には裁判所に訴え出て信者どうしで争うということも起きていました。(6章) そこで、パウロが13章で言いたかったのは、コリントの信者たちが「互いに対する愛」を抱き、それを実際に示すべきだ、ということでした。

   もし、「互いに愛し合っている」なら、仲間に対して「辛抱強く」できますし、「親切」に接することができます。仲間の信者を愛しているなら、仲間を「ねたんだり、自慢したりはしない」でしょう。そういう観点でもう一度コリント第一13章を読んでみるのはいかがでしょうか。

   実際、ヤコブ2:8では、『しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである』と言われており、イエス・キリストもマタイ22:34-40で同じように言われました。つまり、「隣人を愛する」ということは最も重要なおきてであるということです。

   しかし、tokkeyさんが言われた「神様から愛されていることを確信する」ということもやはり大変重要です。実際、神の愛を確信し、それに感化され、動かされてこそ、隣人を愛するようになれるからです。ヨハネ第一4:11で、「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と言われているとおりです。

   本題からあまりそれるといけないとは思ったのですが、もしご意見・質問等あれば、http://okwave.jp/oodakedo/の〇〇だけど質問ある?の「聖書を学んで20年経ったけど質問ある?」にてどうぞ。
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この回答へのお礼

何度も有難うございます。
教えていただいた、ページには、是非拝見させていただきますので、また宜しくお願いします。
本当に有難うございました。

お礼日時:2012/06/17 06:26

「ヨブ32:2彼がヨブの三人の友達にも怒りを起こした。

それは、彼らが答えを発見する事が出来なかったにもかかわらず、ヨブを罪に定めたからだった。」                                                                                                                        「32:17私が‘私も私の分を答弁し、私も私の意見を述べてみよう’と言った。」                                                                                                        ここで、ヨブおよびヨブの三人の友達に言っているのはエリフです。                                                                                                             エリフが自分のことをエリフ、彼、私と言っているだけで、ヨブ記を著者はエリフです。                                                                                                  ヨブ記1:6でサタンが登場し、41:1でも登場します。                                                                                                                    「41:1Canst thou draw out leviathan with an hook? or bore his jaw through with a thorn? 貴方がつり針を彼の鼻に入れる事が出来るでしょうか。棘で彼の顎を縫う事が出来るでしょうか。」                                                                                                                                  無知な人々がleviathanをわにと翻訳しましたが、聖経はイザヤ27:1でリビヤタンを竜であり、蛇であると教えてくれます。                                                                                                                                      即ち、リビヤタンは竜であり、蛇であり、サタンです。                                                                                                                サタンはいつも彼の僕である人々を使い、偽りの答えをさせます。                                                                                                                                                                 このようなわけで、42:7でヨブの友達3人が登場し、エリフが書かれてないのは至極に当然なことだと言える事が出来ます。                                                                                                                                        イスラエル人はイエスキリストを信じるのでは無く、殺しました。                                                                                                             ヨハネ啓示録はイスラエルが受ける苦難について書かれてあります。                                                                                                                  ダニエルの70週の最後の1週間が啓示録4章から19章までの7年です。                                                                                                                                                          そして、最も苦しい時間が啓示録12:14に書かれてある三年半の期間です。                                                                                                              ヨブ記は全部で42章で、三年半の苦難を啓示しでいます。                                                                                                                                                           42ヶ月は三年半の間に受けるべきイスラエルの罪に対する報いです。                                                                                                                 ヨブ記はエリフを通じて、これの事を予表として書いたのです。                                                                                                                                                              救われて無い異邦人の人々はイスラエルが受けるべき大患乱に引きずられ参加します。
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この回答へのお礼

大変お待たせして申し訳ありませんでした。
いろいろ教えていただいて感謝です。
エリフのくだりも納得です。
ご指摘の通りに読むのが自然ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/17 06:22

これは、A No.2 yangmaskへのお礼に対する返答です。



>一点、お聞きしたいのですが、回答者様は>一方、初期クリスチャンは違います。と書かれていますが、現代のクリスチャンは、どのように考えられているのでしょうか?

   イエス・キリストはマタイ13:24-30で小麦と雑草の例え話をされました。つまり、小麦(本物のクリスチャン)がやがて雑草(偽のクリスチャン)に覆われて見分けがつかなくなるという預言的な例え話です。実際、その通りになり、イエスの使徒たちの死後、急速に背教が広がりました。その結果、キリスト教という名のもとに様々な悪事が行なわれてきたことは周知の事実です。

   イエスはマタイ7:21-23でこう言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

   ですから、現代のクリスチャンに関して言うと、すべてのクリスチャンが神とキリストからの是認を受けていないことは明白です。しかし、それでも「雑草」ではなく「小麦」である本物のクリスチャンが存在することは確かです。現代の本物のクリスチャンは初期クリスチャンと同じ精神を抱く人々、つまり試練の下でも喜びを保つ人々であるはずです。

   その点で、今まで私が見聞きした資料の中でも一番感動したのは、「ナチの猛攻撃に対して堅く立つエホバの証人」というビデオでした。ナチス・ドイツの時代、エホバの証人は戦役を拒否し、また「ハイル・ヒトラー」というあいさつをさえ拒否したために、あるいは伝道活動をやめなかったために、その多くが逮捕され、強制収容所に送られました。彼らは宗教的なグループとしては唯一単独のグループとして扱われた人々で、それを見分けるしるしとして囚人服に紫色の三角形(パープル・トライアングル)が付けられました。

   彼らはエホバの証人の活動をやめるという宣誓書に署名するだけで強制収容所を出ることもできました。しかし、そのほとんどは妥協しませんでした。過酷な労働、食事は餓死寸前のこともあり、拷問や懲罰を受けることもありました。もちろん死んだ人々も大勢います。彼らは本当に苦しい状況にありましたが、喜びを失うことがありませんでした。彼らはその収容所の中でさえも伝道をやめず、仲間の囚人たちに聖書の希望を伝えていきました。その結果、彼らの伝道を受け入れた人も多くおり、改宗した囚人は収容所内でひそかにバプテスマを受けました。

   生存者の一人が言っていましたが、「早く家に帰してください」とではなく、「最後まで耐え忍ぶ力をお与えください」と祈ったとのことでした。彼らはなぜ忍耐しなければならないのか、その結果どうなるのかということを理解していました。さらに、私が感心したのは、ナチスの崩壊後に収容所から出てきた人々が、迫害した人々を恨んだり憎しみを抱いたりしなかったということでした。終戦後、元ナチ党の人が改宗してエホバの証人の仲間に加わることを希望した時、彼らはそれを喜んで受け入れました。

   ローマ帝国の時代の初期クリスチャンというと、私たちの価値基準から少しずれがあって分かりづらい面がありますが、このように現代のクリスチャンが迫害を忍耐した実例は大変分かりやすく参考になりました。確かに、初期クリスチャンの精神を受け継いだ「小麦」つまり、本物のクリスチャンが現代にもいることは明らかだと思います。しかし、「キリスト教」と名の付くものの多くが「雑草」であることも事実だと思います。

   ところで、初期クリスチャンのように「試練の下でも喜びを保ちつつ忍耐する」にはどうすればよいのか、またヨブのように「義を貫く、確信を曲げない」ためにはどうすればよいのか、その点は解明できましたか?
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この回答へのお礼

 また、レスが遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした。
また、丁寧にお答えいただき有難う御座います。エホバの証人のエピソードなどは、大変感動しました。
確かに彼らの信仰は、立派だと思います。私は以前、あるところで、エホバの証人の人達と知り合い、暫く交わる機会が与えられたことがあるのですが、彼らは、みなピュワで、優しく思いやりのある暖かい人々でした。でも一つ残念だったのが、これは、別にエホバの証人の人達だけでなく、我々プロテスタント、カトリック関係なくそうなのですが、少し聖書の言葉に捕われ過ぎて不自由になっているように思うのです。神様は、私たちに本当の自由を与えられておられるのであり、私たちは、神様の作品であり、神様から深く愛されていることを、もっと素直に喜ぶべきではないかと思うのです。
 
 yangmask様の質問

>ところで、初期クリスチャンのように「試練の下でも喜びを保ちつつ忍耐する」にはどうすればよいのか、またヨブのように「義を貫く、確信を曲げない」ためにはどうすればよいのか、その点は解明できましたか?

に対する私なりの答えは、こうです。

私は、以前、第一コリント13章の「愛」とは、何なのか、あの御言葉は何を言いたいのだろうか、と考えたのです。
 なぜ、愛がなければ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても何の値打ちもないのか。なぜ、持っているものの全てを、貧しい人たちに分け与えても、自分の命を焼かれるために渡しても、愛がないなら何の役にも立たないのか。なぜ、愛が信仰と希望よりもすぐれているといえるのか。
 ここでいう愛とは、私たちが心に抱く、愛情のことを言っているのではありません。もしそうなら、持っている全てを分け与えても役には立たない、ということにはなりません。ではこれは、神様の私たちに対する愛のことをいっているのか。それも正確に言えば間違いです。私たちが神様に愛されていることは、絶対的なことであり、私たちが求めていかなければならないようなものではないからです。
 使徒パウロはローマ人への手紙8章の中で、神の愛から私たちを引き離すものは、この世の中に存在しないと断言しています。
 ですが、神様がいくら私たちを愛していてくださっていてもそれだけでは、私たちが何かするのも、しないのも同じことです。大事なのは、私自身がそのこと、つまり神様が私のことを愛していてくれることを信じていなければ何をしても、わたし達にとっては、何の意味もないことになるではありませんか。
 このことをコリントI13章の御言葉に当てはめて読んでみると分かリ易いと思います。

 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、神様が愛していてくれることを信じていないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、神様が愛していてくれることを信じていないなら、何の値打ちもありません。
 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、神様が愛していてくれることを信じていないなら、何の役にも立ちません。
 神様が愛していてくれることを信じている人は、寛容であり、神様が愛していてくれることを信じている人は親切です。また人をねたみません。神様が愛していてくれることを信じている人は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。神様が愛していてくれることを信じている人は決して絶えることがありません。

 では、愛が信仰と希望よりすぐれているといえるのは、どういうことでしょうか。それは、神様が愛していてくれることを信じていなければ、信仰も希望も成立しないからです。神様から愛されていることが信じられなくて、どうして、信仰を持つことができるでしょうか。同様に神様から愛されていることが信じられなくて、希望を持つことなどできないということになりませんか。
 ですから、
「試練の下でも喜びを保ちつつ忍耐する」にはどうすればよいのか、またヨブのように「義を貫く、確信を曲げない」ためにはどうすればよいのか、について実際私自信は何も立派なことは言えませんが、ただただ、どんな時も神様が私のことを愛していてくれているという確信を持ち続けていたいと願うばかりです。

有難うございました。

お礼日時:2012/06/14 12:47

お礼と質問、ありがとうございます。



☆☆☆
>そうだとすると、38章3節「さあ、あなたは勇士のように腰に帯びを締めよ。」の「あなた」は、誰のことになるのでしょうか、これもヨブのことでしょうか。だとすると、この文章の中に2人称と3人称の言葉が同一人文物をさしていることになりますが、それは、不自然なことはないでしょうか。

それほど不自然なことではないのではしょうか。
たとえば、いたずらをした子供に母親が
「これをしたのは、だぁれ?」
と質問することは、よくあることでしょう。
母親は自分の子供がそのいたずらをしていることを知っています。
でも、あえて《三人称》にして尋ねています。
《誰》がやったのか、その責任の所在を子供に自覚させるために、子供の口から聞き出すためです。
それと同じです。

要するに、神は「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と質問して、ヨブ自身の口から
「わたしです」ということを聞きたかったわけですよ。その行為者としての自覚と、罪の自覚をヨブに求めたというわけです。


>「わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない」とは誰をさしている言葉か?

ここで、《彼》になっているのが不思議だと疑問を持たれたのでしょう。
《彼》は単に疑問文の《誰》の三人称を受けているだけです。だから、《彼》にならないといけない。
 (英語で言うと《who》と《his》の関係。)
神は《誰》《彼》の正体は知っているけれど、あえて分からないふりをして、三人称を使っているのですよ。



☆☆☆
ヨブはこれ以上ない正しいしもべである。
これは比較級的なもので、他の人間よりは、いくらかは《まし》程度の意味。
神と等しい絶対的に正しい人の意味ではないです。
《神よりヨブ(自分)が正しい》と考えるのは、ヨブ記にある《ヨブ》と同じ過ちを犯してしまう、
ということです。



☆☆☆
じゃ、エリフは?

エリフは《神の代弁者》的存在。
この時、神がエリフに《聖霊》を与えて、彼の口から語らせたのか、
エリフが、ヨブたちの話を聞き、過ちに気づいたのか、
それは分かりません。

いずれにせよ、神はエリフの発言を《よし》とした。
だから、エリフはお咎めなし、というわけです。

でも、僕は《聖霊》に一票です。
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この回答へのお礼

なるほど、分ってきました。私がただ小難しく考えていただけだったのですね。
エリフの件も納得です。確かにそ考えるのが自然でしょね。
感謝です。

お礼日時:2012/06/04 08:30

 こんにちは。



 回答ではなく 傍からエールを送るような投稿です。よろしかったら。

 【Q:きみはヨブを見たか。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5684019.html

 ▲ (アウグスティヌスのヨブ論) ~~~~
 神はヨブが試されることを悪魔に許した。
 ヨブは試された。
 悪魔は困惑させられた。

 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。

 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。

 ヨブは言っております。

   主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
   主の御名はほむべきかな。(1:21)

 と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )
 ~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

まずは、お礼が遅くなったことをお詫びしておきます。

>回答ではなく 傍からエールを送るような投稿です。

ありがとうございます。

貴重なご意見にも感謝します。

まだまだ、学ぶべきことは、沢山ありそうですね。

感謝です。

お礼日時:2012/06/03 08:59

ここで聖書に関しての質問をよく見かけますが…


私なりの解釈を答えてもいいんですが…,控えます。
本当に知りたいならアラム語,ラテン語,の聖書,それにもとずく歴史(中立の)を学んでみてください。
それと聖書編纂史,及び永井訳等
そうすれば自分なりの解釈が導きだされると思います。
かじった程度で他の人の解釈に感化されても,それは自己満足にすぎません。
真理を知りたければ自ら学ぶべしです。
ただ質問することはいいと思います,きっかけになります。
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この回答へのお礼

まずは、お礼が遅くなったことをお詫びしておきます。

>本当に知りたいならアラム語,ラテン語,の聖書,それにもとずく歴史(中立の)を学んでみてください。

確かにそうですよね。言われている意味は解ります。私もそう思う時がよくあります。
ただ、それらの言語を母国語としていない人間が、学ぼうとするなら、その情報量は、とんでもないことになりそれは、ただ、母国語の違いだけでなく例え同じ言語であっても、それが書かれた時と私たちとの2000年あるいはそれ以上の時間的隔たりは、そう簡単には、埋められるものではないことは、想像に難くない訳でして、勿論やる前からそんなこというなとお叱りをうけそうですが、でも、私の言わんとすることもご理解いただけるかと思いますが、そういうこともあり、やはりそいう学びをされた方にお聴き出来ればという願いもあるのです。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/06/03 08:54

   前半の質問については、No.1のNemurinekoNyaさんの回答が正論だと思います。

ところで、後半の質問、「私は思うのですが、結局このヨブ記というなんとも謎の多い書物がなぜ我々に与えられているのかということを考えると、その究極的な意味は解りませんが、・・・」について回答したいと思います。つまり、このヨブ記から何を学べるのかという点ですね。

   このヨブの忍耐と1世紀(使徒たちの時代)の初期クリスチャンの忍耐とを比較してみると興味深い洞察が得られます。ヨブは確かに忍耐しましたが、「もう死んだ方がよい」というようなほぼ絶望的な状態で忍耐しました。一方、初期クリスチャンは違います。

   例えば、使徒たちが迫害された時のことについて、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行った」と記されています。イエスご自身が、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と教えられたのです。その弟子ヤコブもまた、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と勧めました。(使徒5:41、マタイ5:11,12、ヤコブ1:2)

   そうです、初期クリスチャンはヨブとは対照的に「喜びを保ちつつ」、忍耐することができました。この比較から何を学べますか。まず、試練に遭っても喜びを保つにはどんな要素が関係しているのかが明らかになります。これを(1)の要素と言うことにします。要するに「引き算」ですね。初期クリスチャンがしていて、ヨブがしなかったこと、その「差」からその(1)の要素は明らかになるでしょう。

   さらに、ヨブは喜びを保つことができませんでしたが、それでも彼は忍耐をし通しました。弟子ヤコブもヤコブ5:11でヨブを忍耐の模範として挙げています。では、人が忍耐し通す(=義を貫く、確信を曲げない)にはどんな要素が関係しているのでしょうか。喜びを保つという(1)の要素とは違った別の要素が関係していることは明白です。それを(2)の要素と言うことにしましょう。それで、ヨブ記を分析するとその(2)の要素を理解することができるのです。

   このように、ヨブと初期クリスチャンを比較する時に、(1)どうすれば試練の中でも喜びを保つことができるのか、また(2)どうすれば忍耐をし通すことができるのかが洞察できます。もし関心があれば、別途詳しく回答します。
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この回答へのお礼

まずは、お礼が遅くなったことをお詫びしておきます。

誠に申し訳ありませんでした。

貴重なご意見感謝です。

一点、お聞きしたいのですが、回答者様は

>一方、初期クリスチャンは違います。

と書かれていますが、現代のクリスチャンは、どのように考えられているのでしょうか?

よろしければ、その辺りのことも教えていただけたら嬉しいです。

有難うございました。

お礼日時:2012/06/03 08:44

>ヨブ記38章2節に「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」



 ヨブ!!のこと。
 そして、さらに言えば、
  エリファズ、ビルダデ、ツォファルのこと。

 第36章に
 「わが言葉は真(まこと)に虚偽(いつわり)ならず。
  知識も完全(まった)き者 汝の前にあり」
 とあるように、
 エリフは、ここでは、いわば《神の代弁者》みたいな存在。

 ヨブは、みずからを智慧のある者と考え、
 《神より自分が義(ただ)しい》
 と考え、神にあれこれ不平を言っている。

 というわけで、第40章で
 神の
 「非難する者 エホバと争わんとするや。神と論ずる者 これにこたえよ」
 という質問に対して、
 ヨブが
 「ああ われは賤しきものなり。
  何となんじ(神)に対して 答えまつらんや。
  ただ手をわが口に あてんのみ。
  われ すでにひとたび言いたり。
  また 言わじ。
 」
 と、
 自分が犯したこれまでの過ちに気がついたときに、
 神は、お許しになったというわけ。


>何だかんだ屁理屈を言って、目の前で苦しみ悲しんでいる友をさしおいて神様や信仰、奉仕といったことを重んじてしまうところがあるので気をつけるように教えておられるのではないか?

 神さま、ヨブに対して結構、無茶するけれど、
 『お前、全然、分かっていないな』
 と内心に思いつつ、
 ヨブの問いかけにはちゃんと答えているじゃない。
 《こいつ、駄目だ。救うにあたる存在じゃない》
 なんて見放さず、なんだかんだ言いつつ、最後まで付き合って、見守っているじゃない。
 僕は、「十分に優しい、《愛)の神さまだな」と思うけれど。
 そもそも、ヨブの財産とか幸せというのは、神さまが彼に対して特別に、一時的に与えたものでしょう。
 それを神さまが取り上げたって、文句をつけられる代物(しろもの)じゃない。
 それに、最後は、ヨブが《みずからの過ち》に気づいた時点で、
 二倍にして与えてるんだから、めでたし、めでたしじゃない。
 イエスの
  『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』
 と矛盾しないと思うよ。

 ヨブ記の神さま、結構無茶をするけれど、《いけにえ》を要求していないしさ。
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この回答へのお礼

まずは、お礼が遅くなってしまい大変失礼いたしました。

ただ、読解力の乏しい小生にとりまして、今一つ仰られているところの意味が理解できません。
また、同様に私の書いた質問の内容も、書き様が紛らわしいというか、焦点がボケていたために、私が言いたいことを伝えきれていなかったことも回答者様には、誠に申し訳ないことをしてしまったと反省しております。

 ということで、改めて疑問点からまとめ直してみることにしましたので、よろしければ、お付き合いいただけたら幸いです。

・ヨブ記38章2節に「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と41章12節の「わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない」とは誰をさしている言葉か。

・42章の7節で神様は、ヨブの3人の友であるエリファズ、ビルダデ、ツォファルには、「あなた方は、わたしについて真実を語らず、ヨブのようではなかった」と言及しているのに、エリフについては、ノーコメントなのはなぜでしょうか。
でもって、この問いに対する回答者様のお答えは、

>ヨブ!!のこと。
 そして、さらに言えば、
  エリファズ、ビルダデ、ツォファルのこと。

とのことですが、そうだとすると、38章3節「さあ、あなたは勇士のように腰に帯びを締めよ。」の「あなた」は、誰のことになるのでしょうか、これもヨブのことでしょうか。だとすると、この文章の中に2人称と3人称の言葉が同一人文物をさしていることになりますが、それは、不自然なことはないでしょうか。

お礼日時:2012/06/03 08:35

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