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題名通りです。

 病気になってよく「神様が与えてくれた試練」と言う人がいますよね。

どうしてでしょう?

その病気で亡くなったら試練に負けった事になりますか?

病気したのは神様のせい?

なんか愚痴っぽいですが意見を聞かせてください。

A 回答 (11件中1~10件)

同じ困難でもそれが「苦労」によるものなのか「努力」によるものなのか。


困難に対して受動的は「苦労」、能動的な「努力」。
病気は後者を嫌でも引き出してくれるんじゃないですかね。

病気に限らず仕事だって同じだと思いますよ。
ただ仕事は生命の危機にひっ迫していないから、前者でとどまってしまう人が多いのではないでしょうか。
仕事でも常に危機感を持って取り組んでいれば自然と後者、つまりは「努力」をするようになり、そして成功へと導いてくれるものだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

仕事の行すごくいいなと思いました。

お礼日時:2012/06/19 23:48

病気はマイナスですね マイナスだから病気と言うのです。



ただ病気にかかった人が(私も幾つか持ってますが)前向きになれるように これも神様の試練だと言えば

そうか乗り越えられるんだと 安心できますよね 前向きになれますから そう言うのでしょう

一病息災とかも言いますしね 病気してなかったら 無理に無理を重ねて過労で交通事故にあったり

病気をしている人の気持ちもわからないですからね 病気になってよかった という人も多いですよ

治らないからですね。 そう思う方が前向きだということですね。

何一つ病気をしない人の方が珍しいでしょうけど 

お釈迦様が言った四苦 生老病死に入ってるくらいですから いいことじゃないです

考えようによっては山登りをしてるようなものですね 苦しい思いをして登って

頂上にたどり着いたら治癒です 頂上まで行かなかったら病気のままです。

神様は人の心の中にいらっしゃいます 心のネットワークの中に存在しているんです

病気は身体 心ともつながってますから 病は気からと言う事で 神の試練と思うのはいいことですが

神が治してくれる訳じゃないので 「薬は要らない」などと言ってはいけません

とまあ 言うことでしょうね。みなさんお大事に☆
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>病気は試練ですか?



 これまでの病歴は、尿道炎、膀胱炎、クラミジア、ヘルペスぐらいで今はいたって健康です。
 
 試練というより代償でしょうか。

 病気になったのは自分のせいです。

 

 
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天は乗り越えられる試練しか与えないとか不幸は天が与えた試練だなんていうのは頑張る気持ちを高めるための「檄」ですが、その気持ちも大切だと思いますよ。



人生を船で海や川を下ると例えることがありますが、船が川を下れば穏やかな場所もあるし急流や岩場もあります。それを乗り越えるためには様々な情報を手に入れて対応しなければなりません。
それに船が進めば舳先には波が立ちます。つまり人が進めば必ず障害が生まれるのです。それを乗り越えなければ前には進めません。生きている限り障害はやってくるのです。

死は負けなのか・・少なくとも大昔の人はそうは考えなかったようです。
この世が仮の世界、或いは修行の世界で、あの世が本来のいるべき住まい。そういう考えも世界中には多いです。
今でも浄土宗や浄土真宗では死は穢れではなくもとの世界に戻ったということ。なので「お疲れ雅でした」と送り出すのだそうです。
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病気はタダの生理現象です。


試練でもなんでもありません。
試練だとしたら、御指摘の通り
死んだ場合はどうなるの?
です。

考え方、心の持ち方の問題です。

試練と考えて、前向きに生きろ、
頑張れ、ということでしょう。

こうやって、ごまかし、ごまかし
して、何とかして人間は生きて
行くのです。
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 病気になる。

自分が弱い立場に成る訳ですね。そこで何を感じるのか。生きることの意味を考えることです。ただ、苦しいだけで終わり亡くなったら試練に負けたことになるでしょうが、死ぬ事の意味、今まで生きてきたことの意味など他人に言わなくても良いのです、分かればそれで良いのです。負けていないです。

 いろいろと本を読むと、病に関しては切っ掛けを与える場合もあるようです。私も病に倒れて大変な事に成ったけど、その後は生きることは何かより深く考えましたし、人生の転換期にもなりました。

 自分を見つめ直す時間かもしれません。


 試練というより、見つめ直す時間だと思いますね。


 自分は元気だとか、健康が当たり前と思っている事が間違いですからね、そういった人には試練かもしれない。一病息災という言葉もありますから。
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基本的に生きていくことそのものが試練と言えます。


欲望や苦しみ
楽をしたい心や妬み嫉み
嫉妬や独占 孤独やわがまま

人は様々な事に目が曇りがちです。

正しい(と本人が信じる)道を行くためには
これらの事を受け止めなおかつ
自ら選択しなければなりません。

それ故これを「試練」と呼びます。

病気は苦しみの一つですが
死とは一瞬のことを指すのであり
生はそこまでのすべてです。

病気で死のうが事故で死のうが
誰かに殺されようが老死であろうが
それは負けではありません。

そこまでどう生きてきたかが
まあ勝ち負けで言ったら勝負です。

神様や仏様は信じる心の中にあるのですから
それはある意味この世界すべてを表します。
つまり貧困も無慈悲も悪も善もすべてが。
だからみんな神様のせいといっても嘘ではありません。
ただそれはつまり

人間に生まれたのも
意思を持ったのも
知識を得たのも
育ててもらったのも
悩んだのも喜んだのも楽しんだのも
みんな神様のせいということです。

だから恨むというのも変ですね。
自分的には感謝するのもどうかと思います。
世界と同じく
大切にするというのが正しいと感じています。
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病気も試験に落ちるのも、失業も離婚も試練だと思います。



全てが順調にすすんでいくことはあり得ません。自分がしっかりしているつもりでも、事故に遭うことはあります。

何か起こった時に車がエンストしたと同様に、感情的にならずに分析しながらこの状況をいかにして脱出するか、の人生ゲームだと思ってトライしています。

体調不良で半寝たり起きたりを1年半以上して、かなり人生が変わりました。

ビートたけしが事故で入院したあとに映画監督としてカムバックしたように、病気は今までの人生に一旦停止のボタンを押してくれます。ここで何を考えるかは個人によります。

病状やケガが助からない状況では「試練」にはなりませんが、試練はリハビリから始まると思います。失業もここから立ち直るのが試練です。

運命は天が与えたとしても、出口はいくつもあり選ぶのは自分自身です。その中に勝ちも負けもあるのでしょう。
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病気になったのは神様が与えてくれた試練かどうかは分かりませんが、キリスト教の信者さんは、病気を試練だと捉えることが大切だと考えておられるのです。



その結果として、回答No.1のtslineさんが仰っているような能動的な努力ができるようになり、いかなる状況においても、より良く生きられるのです。

地球上には70億人と莫大な数の生物がおります。神様と言えども、それら一人ひとりに気を配るほど暇ではありません。神様がおられるとしたら、神様でも、自分のことや周囲のことで多くの作業があることでしょう。わざわざ手間をかけて、一人の人間を病気にさせることはされないでしょう。
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原因がわからないなら、神さまのせいにしておけばイイじゃん。



深く考えて言ってないです。
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