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神を信じていない人たちの理由としては、
神が一体我々に何をしてくれたのか?
と、いうことがあると思う。

神は人間のどんな危機にも干渉しない。
誰がどんな目にあおうとも、正義が悪に負けようとも、
神を信じているものが、どんなに祈りを捧げても、
神はあらわれない。奇跡はおこらない。

神が人間をつくったのか、どうかはしらない。
偉大な力を持っているのならそれでもいいだろう。
が、しかし何もしてくれない神を崇拝するのはなぜか?

罪もない人が理不尽に事故や災害で死んでいく現実を
考えると、仮に神は存在したとしても、神は慈悲の心は
持ち合わせていないのではないか、と僕は時々おもう。

クリスチャンのかたに神が我々に何をしてくれたのか
教えていただきたい。
何卒よろしくお願い致します。

A 回答 (16件中11~16件)

質問 >神が何をしてくれたのか?




回答

>人間のどんな危機にも干渉しない

でくれた。


>誰がどんな目にあおうとも、正義が悪に負けようとも、
>神を信じているものが、どんなに祈りを捧げても、
>神はあらわれない

でくれた。


>奇跡はおこ

さないでくれた。


加納姉妹の妹は加納クレタ。
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回答1,神の御心は人間なんぞには到底理解出来ないのだ。


    理解しようとすることなぞは傲慢である。

回答2,救済されるかどうかは、カルヴァン派の二重予定説によれば
    神によって予め決定されているはず。
    だから、何もしてくれない云々の問題提起は意味をなさない。

回答3,罪も無い人が、というが、罪云々は人間が勝手に創ったもので
    神には関係の無い話である。
    そもそも、罪が無い人間など、存在するのか。
    理不尽に、というがその理不尽かどうかの基準も人間か勝手に
    創ったものに過ぎない。
    その証拠に、罪とか理不尽などというのは、時代や立ち位置によって
    コロコロ変わるだろう。
    
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そもそも、キリスト教は



「信じる者は、死後天国へ導かれる」
(但し、自殺は不可)

という主旨、即ち

「死後救済」

が大前提ですから、貴方の文章にある様な

「現世利益」
(生きている内に何か良い事をして貰ったり、辛い事を減らして貰ったりする)

を求める、そして与えられない事を嘆くのが、筋違いなのですが。

(勿論、「キリスト教を信じる『だけ』でいい」「散々悪い事酷い事をしてきても、最後に悔い改め、懺悔すればいい」という訳でもありませんが)

もっと言えば、キリスト教が約束しているのは、

「魂そのものの救済」

であって、物理的物質的不幸や肉体的苦痛は勿論の事、「苦しい」とか「辛い」とか「悲しい」等は「感情」「精神」の領域ですので、「救済の対象外」でしょう。
(現世での事でもありますし)

「現世が苦しいのは仕方ない。しかし、キリスト教を信仰していれば、死後は天国へ導かれる(但し、自殺は不可)。だから、神を信じ、教えに従いましょう」

というのが、本来の姿でしょう。

「現世利益・救済」
(生前に、物質的に良い事がある)

は語ってはいない筈です。
(「奇跡」は本来、イエス復活等の様に「滅多に起こらない」もの)


日本では、神社仏閣でお賽銭と共に「神様・仏様、どうか……して下さい」等とお願いするのが、正月の風物詩となっています。

しかし、本来は

「自分は……する・出来る様に誠心誠意、力を尽くします。それを神様・仏様に誓います。どうか見守って下さい」

という誓願をするものです。「神様に何とかして貰いたい」というものではなかったのです。

「苦しい時の神頼み」

とは

「日頃から信心し、お供えしたり、掃除をしたり、神様や仏様の為にお詣りしたりていればこそ、誓願を掛ける者を見守って力を貸す事もあるだろうが、

日頃は不信心なのに、困った時だけ神様を頼るなんて呆れ果てたものだ。

又、日頃信心している様でも、自分に利益を与えてくれるのを期待して

『自分が困った時には、どうか助けて下さい。自分の願いを叶えて下さい』
『日頃信心してやっているのだから、助けてくれ。願いを叶えてくれ』

というのは、愚かしい限りだ」

というものです。

七夕の短冊も、元々は「願い事なら何でも」を書く物ではありません。

「書(字)の上達」を願って書くものです。勿論、上達の為に日々精進し練習していての事です。
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 こんにちは。



 何もしてくれない。もしくは 勝手に人をえこひいきするということをしてくれた。

 こういうことだと思います。

 不条理が――そして 条理も―― 無根拠にもとづくことを示している。



 No.1の回答に近いのですが それでも《神》ということばは あって 人びとのあいだに持たれている。甘えられている場合もあれば ののしって捨て去るためにでも言葉として用いられている。



 そのようにして われに還るきっかけを用意している。
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神は何もしてくれません。


それが当たり前です。

神が人の言うことを聞く。
即ちそれは悪魔です。

神はあなたのそばにいるのです。
そして共に笑い、共に泣く。
そしてどんな悪人や善人の人の上にも太陽を照らし、
雨を降らせてくれる。

それだけです。

>神は慈悲の心は
持ち合わせていないのではないか、と僕は時々おもう。
慈悲とは人が作った都合の良い感情です。
神はその上にいます。
人間の感情に惑わされるようでは、
それは人であり悪魔です。
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無神論者ですが回答してみましょう。



責任転嫁の最終的な押しつけ先を提供してくれた。
…ちがう?
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