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質問させていだだきます。

先日、ラッセルの世界が5分前にできたてきな考え方を知りました。なんか小難しい話だなと思っていた時
ふと思いました。もしこの世界が本当に5分前にできて、あるはずもない出来事を「覚えて」生まれてきたならば
その過去の記憶は自分にとってどんな意味を持つのかなぁ~と。
ラッセルの通りなら過去の記憶今の私にとってなんの意味もないものになってしまう。
自分にとって過去の記憶があることは私が私であること的な感じだと思っていたのですが、
そうではないようになってしまいます。 

みなさんはどう考えますか?

A 回答 (7件)

記憶は、私が私であることの自己認識。


今どうして行くかの行動規範。
この先(未来)、私は何を目指して生きて行くかの行動原理。

私は、この3つに意味を成すと思います。
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5分まえどころか0.005秒前でさえそうだということなんです。



目に入ってきた光が脳に到達するまでも時間は経過しているはずで
脳内の現象ですから、それさえも過去の記憶といえば記憶です。

そうすると我思うが故に我ありどころか単純に見る聞くことさえ記憶です。

一方で、それこそ刹那では完全に停止した世界となり消えて無くなるはずです。
そんな世界を幾つ積み重ねても無いものは無いのですけどね。

しかし、そうはならずあなたは光を見ている。

世界はまるごとあなた自身だということになります。
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記憶とは時間によって生じているのではなく、記憶が


過去=時間を規定しているのだ。
なぜなら、過去とは存在しないものだから。

無=不確定性無限の潜在としての認識可能性において、
その感受表面(量子相互作用=現在=光速)から自我仮説
(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と時空仮設(予測=
空間の広がり=未来=光速下)が相補分化する上で、その
時間軸は仮想的な余分な軸であり、それを持ち込む事で
絶対確定において無限不確定(=無)化する存在性を、経験
的に階層現象表面的に定性化する事を可能にしているのだ。

相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によって
しか存在は無い、という帰結を潜在的に持っている(客観的時空
や絶対的存在というのはない)。
その無限不確定性の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク
定数hの収束の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は
光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての
時空仮説=宇宙を認識するのだ。

「プランク定数hの収束」とは、不確定的広がりの収束=物体の
収縮=宇宙膨張を意味する。
つまり、宇宙膨張の意味するところは、あらゆる一瞬に本質的
定数であるhは異なる=異なる認識可能性を自我化する事だ。
精神病で、他人に自我を投入して自他の別が不明瞭になる、
というものがあるが、宇宙の起源は、まさにそうした狂気によるのだ。

そして、その自我仮説によって派生した時空仮設(環境認識)に
おける無の射影が量子性(相対性理論の四次元時空の時・空
軸の等距離点に生じる相殺点(ライトコーン))であり、「何かある
んじゃないの」という自我仮説を、「本当は無いんだけどね」と無に
還元するものなのだ。

そしてもう1つ、時系列化された認識可能性の他の認識可能性
=他人についても、その社会化に応じた他我化(自己の生命性
の環境への敷衍)において、自己=宇宙としての自覚につながり、
自己存在の本質(自己の必要としての環境)に根ざした生による、
矛盾のない最大限の精神的充足は可能になる。
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>もしこの世界が本当に5分前にできて、あるはずもない出来事を「覚えて」生まれてきたならば、自分にとって過去の記憶があることは私が私であること的な感じだと思っていたのですが、そうではないようになってしまいます。



それで良いと思います。(文章は長すぎますが)

そもそも「この世界が本当に5分前にできて、」という仮定の話で、この仮定自体がファンタジーだからね。
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ラッセルのことはあまり知りませんが、そういった「過去のことは証明できないし信じられない、あいまいだ」ということはごく普通にみんなが常識としていることなのではないでしょうか。

ラッセルさんが言わなくてもね。
だからこそ旧約聖書をマジで信じている人が世の中にたくさんいるし、司法はアリバイやら物的証拠を血眼になって探し回る。大昔の(今もかな)権力者は自分の都合がいいように歴史を作ってきた。彼らは記憶を自由に書き換えることに自信を持っていた。つまりはそんなことが昔から常識だったからでしょう。

私は現代の科学を信じるのと同様に自分の記憶を信じます。かなりボケが出てきて古いことがあいまいになってきていますが、仰るように、記憶は私の全人格というか、アイデンテティそのものですし、そんな自分をヴァーチャルな幻想だなどと否定することはできません。
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こんにちは。

毎日毎日暑いね。こう暑いと10月辺りは、

50℃くらいになっているんじゃないかと ヽ(・∀・)ノ ワチョーイ 

代数学屋なんだけど、この頃よくこちらにも参加させてもらってます。

「宇宙開闢○分前仮説」って奴かな?

 #ラッセルのパラドックスか。名前は知らなんだ。

別にこれを深く考えたところで、仮説だからね^^;

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

真か偽か分からないことなのでね、中途半端に考えるよりも?

と思ってみたり。 #この辺りは、数学屋の本分が見え隠れか?


まぁ、しかし、こういうときは 「コギト・エルゴ・スム」に行くんでしょうかね。


「自分が過去を考えていることは、他の誰も否定できない」

ゆえに私の存在は揺るがない。


これで好いと思うけれども。

その過去が、例え作られたものであっても、現実にあったことであっても、

自分で思い出していること に違いはないのだから。

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。

そうなんですよね、まぎれもなく自分が思い出していることに焦点をあてると
「われ思うゆえにわれあり」がでてきてくれるんですよ。そう考えるとやっぱり
記憶ってのは内容はあんまり意味がなく、存在すること自体に意味が
あるものなんですかね。


貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/23 17:12

はじめまして。


私は「その人が、どう行動するか」というテーマにおいてとても重要な意味を持つものだと思います。

例えば、記憶がない状態で行動選択するとしましょう。
どう行動すればどういう結果を招くか・・・想像もつかずに行き当たりばったりになってしまいます。

なので、記憶とはそういった状態に陥らないための思考材料として与えられている。と私は考えます。

chickenさんの考えに似てましたね;;
偉そうに語っちゃってスミマセンでした。
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。

なるほど、「行動を制御するもの」としての意味をもつですか。
記憶と行動。心と体のように密接に関係しているのですね。

だとすれば、偽りの記憶から生まれた行動というのは、私がした
行動として真実なんですかね?

自分で言っていてわけわからん(-A-)


貴重なご意見ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/23 16:05

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