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 1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。

 趣旨説明を述べます。

 2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。

 3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。

 4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?
 
 5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。

 6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?

 7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?
 
 8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。

 8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。

 9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。

 10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 

 11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。

 12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。

 13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。

 14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。

 15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。

 15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。

 16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。
 
 17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?
 
 18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。

 18-1.ひとつの解説をすでに得ています。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~
 一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。

  1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程
  i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。
 
 20. というふうに推し測った仮説です。

 いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。



 21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?
 
 22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。

 23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。

 24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。

 25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。

 26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。

A 回答 (3件)

お久しぶりでございます。


そして、
明けましておめでとうございます。


さてさて、この質問に対してどの視点から切り込みましょうか。
かりにガウス平面(複素平面)なんて考え方をしますと、複素数というのは(2次元の)ベクトルと考えることもできるんですよね~。
実数は一次元(x方向)のベクトル、もしくは、点で、
虚数もまた一次元(y方向)のベクトル、ましくは点
ということになる。
複素数は2次元のベクトルですね~。
複素数は2次元ですから、1次元の実数や虚数よりも多くの状態を示すことできる。


複素平面
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E7%B4%A0% …


歴史的にいいますと、
 x^2 = -1    (あ)
という二次方程式の解として虚数iというものが導入された。
(あ)という2次方程式の解は実数にないので、解なしでもよかったのですけれども、この虚数単位iなる謎の数を導入すると、数学の地平がひろがった。
特に、微分積分の分野で本当にひろがったんですよ。
それまで、指数関数と三角関数(サインとかコサイン)はまったく無関係な関数と考えられていたけれど、関数の範囲を複素数まで拡張すると、この両者は密接な関係があることがわかった。
複素数の関数では、微分できるものは積分でき、積分できるものは微分できるということがわかったのみではなく、微分を積分で、あるいは、積分を微分で表現できるということもわかった。
視野が著しく広がったんでございますよ。


ウィキペディアの複素平面の図をご覧になるとわかりますけれども、
実軸を時計回りや反時計回りに90度回転させたものが、虚軸ですね。
虚軸も90度回転させれば、実軸になる。
つまり、
回転という操作を(導入)すれば、実数は虚数に、虚数は実数になる。
回転の向き、つまり、時計回り、反時計回りに90度回転させるかによって、数の前につく±の符号は変わりますけれどもね。

ということで、
この回転させるという発想、今までとは違う視野や視点からものを考える、
ということが重要なんじゃないですかね。


この世界(複素数の世界)がどんなに美しいかといいますと、
オイラーの等式というものがありまして、
 e^(iπ) = -1
なんてものがあるんですよ。
eはネイピア数と呼ばれる無理数で、
 e = 2.71828…
値をもち、自然現象にはよく出てくる数。


オイラーの公式
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4% …

このあたりは斜め読みしてください。


☆7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?
◇へそが曲がっている(変な風に回転しちゃっている? あるいは、かわった方向のベクトルになっている)ということではないですかね。
そして、程度の差はあれ、すべての人もへそが曲がっていて、違った方向を向いているでしょうし、その方向に進んでいるじゃないですか。


☆12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。
◇状態や人の成功、志向性(指向性か?)などは、実数や虚数という1次元的なものと考えるよりは、2次元的やそれ以上の多次元的なものでしょうから、実数的というよりも複素数的でしょうね。
ですから、多次元の点やベクトルとして考えた方がよろしいのではないですかね。

そして、多次元の点から多次元への点へと推移してゆく。
この点を1次元的な視点のみで見詰めると、多様性が失われてしまうじゃないですか。



☆ 8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。
◇独りよがりであれば、虚数というよりもImaginaryの世界でしょうね。
そして、自分がどれだけへそが曲がっているか、わからない。
へそ曲がりの度合いは、他者(の考え方など)と比較してみなければわからないので。

複素数で考えるよりは、ベクトルで考えた方がわかりやすいんじゃないですかね。
座標なんてものは任意なんで、どのベクトルを座標軸に採用しても構わない(笑)。
別段、座標軸は直交している必要もないから、
ブラゲロ軸、ネムネコ軸などの多数の座標軸を用いて、一つの点(現象とか)を表現しても構わない。
ブラゲロ座標1、ネムネコ座標2、プラポタ座標-1etc.で、
(1, 2, -1, …)
で一つの点を表現してもいい(ニコニコ)。



☆ 11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。
◇べき乗は、回転を表わすんですよ。
 (-1)^n
は180度回転を何回させたかですよ。
1^nは360度をn回回転ですね。
で、
 i^n
は反時計回りに90度回転を表わす。(虚軸→実軸→虚軸…)
べき乗は、実際は拡大と回転ですけれどね~。

へそ曲がりの韓国人も何十度か回転させれば、おそらく、へそ曲がりでなくなる。
ですが、
自力でこの回転をする能力や勇気を韓国のお人が持っているかどうかはわかりません。
私が思うに、韓国のお人は、2次元平面上で±180度や360度する力は持っているかもしれないけれど、これ以外の角度で自力回転することはできないのかもしれない(笑)。

事大主義なんて、まさしく、±180度の回転ですし…。


とりあえず、こんなところで。
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この回答へのお礼

 こんばんは。そして あらためまして あたらしい年 おめでとうございます。
 ご回答をありがとうございます。


 或る程度までは ついて読んで来ました。

 けっきょくただちにタトエの問題になります。
 ◇ つまり、 / 回転という操作を(導入)すれば、実数は虚数に、虚数は実数になる。
 ☆ このことについて〔だと思うのですが〕 何とか実物に対応するかたちで理解したいと思って 文系人間としてはタトエをネツゾウするわけです。

 1. ふつうの実物のかかわる二次元座標において 複素数 a + bi はふつうは b = 0 として x 軸の a なる点が ワレの位置になります。 a は 存在としての一により 1 でよいと思いますが ここでは 実数としての a で行きます。

 2. x 軸は 意志のあり方を表わします。 y 軸は その意志を表現するときの行為になります。前項の( a, 0 )なる点は まだ意志行為には到っていない場合です。

 3. この a 〔つまり ( a, 0 )〕なる地点にあってワレは 意志をなお保持しつつも(または 意志をけっきょくあらぬ想像に用いつつ) いわゆる現実から離れる。そしてこれを どうタトエで表わすか?

 4. 考えたことは――検索でいろんなサイトを参照しつつ考えたことは―― ワレは あらぬ想像を成すときには地点 a から空を飛ぶのだと見ます。

 5. そこでさらに 次を参照するならば 《空を飛んだワレ》が 虚数 i であり――しかもこのとき b = 0 であった b にあたかも実数のマボロシが付着して・つまりそれは 通常 ワレという一( 1 )であると捉え―― この i となって浮遊するワレは たとえばですが 原点( 0, 0 )の上を天翔けている状態にある。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 18-1.ひとつの解説をすでに得ています。
  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。

   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程
   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 6. すなわち もしこのときワレがさらにこの浮遊状態を確認しそれでよしと思ったなら――つまりそういう意志を働かせたなら・ということは b = 0 がすでに何らかのハタラキをおこなっていて b = 1 ならその一になるのですが―― けっきょく虚数の i なるワレは あたかも現実に戻る。ともかく意志を発動させたという現実に戻る。

 7. それは 原点の上空を飛行していたのが 現実の x 軸の上に舞い降りる。しかしながらそれは ( -a, 0 )なる地点であるだろう。

 8. 意志行為としての y 軸がまだなお 0 (ゼロ)であるとすれば 初めの a 点の反対側に移った恰好となる。虚数 i の翼をはばたかせて飛び上がったワレは ( -a, 0 )なる地点に舞い降りた。

 8-1. 現実ではあるが 視野が狭くなっているはずだ。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 独りよがりであれば、虚数というよりも Imaginary の世界でしょうね。
 そして、自分がどれだけへそが曲がっているか、わからない。
 へそ曲がりの度合いは、他者(の考え方など)と比較してみなければわからないので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 9. マイナスも 現実であり 愛は意志でありヱクトルであるが 負の向きのヱクトルも 愛である。と見なされる。現実は 寛容である。

 9-1. 現実は 寛容である。多様性を多次元的にみとめあう。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  状態や人の成功、志向性(指向性か?)などは、実数や虚数という1次元的なものと考えるよりは、2次元的やそれ以上の多次元的なものでしょうから、実数的というよりも複素数的でしょうね。
  ですから、多次元の点やベクトルとして考えた方がよろしいのではないですかね。

  そして、多次元の点から多次元への点へと推移してゆく。
  この点を1次元的な視点のみで見詰めると、多様性が失われてしまうじゃないですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 9-1. ◇ 別段、座標軸は直交している必要もないから、 / ブラゲロ軸、ネムネコ軸などの多数の座標軸を用いて、一つの点(現象とか)を表現しても構わない。
 ☆ そうなんですか。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ブラゲロ座標 1、ネムネコ座標 2、プラポタ座標 -1 etc.で、
  (1, 2, -1, …)
 で一つの点を表現してもいい(ニコニコ)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーむ。だとしたら ワレは 多くの人びとと交通しその意志や気持ちが互いに交差し錯綜していることがあり得ますね。


 10. 《回転》を 以上のように想像し ネツゾウしました。地に足をつけたかたちでないと 思考がすすみません。

 11. ◇ 虚軸も90度回転させれば、実軸になる。
 ☆ だとすれば ( a, 0 )から飛翔して 原点( 0, 0 )の上空へと飛び上がるというタトエも ピッタリですよね? (たぶんこれは どこかでヒントを得ていると思います。が 《都合よく》忘れています)。


 12. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  ということで、
  この回転させるという発想、今までとは違う視野や視点からものを考える、
  ということが重要なんじゃないですかね。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしこうだとしますと a 地点から 原点上空へと想像の翼に乗って飛翔すること自体は あり得る。と捉えたほうがよいのでしょうか? それは だとすると エポケーのようなコトになりましょうか。
 ただし 地点 a に戻って来ることが大事である。と。

 13. ◇ 1^n は360度を n 回回転ですね。
 ☆ はっはあ。ワレの自乗・冪乗は 360度回転ですか。もとのワレに戻って来るというところが ミソですね。

 14. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 で、
  i^n
 は反時計回りに90度回転を表わす。(虚軸→実軸→虚軸…)
 べき乗は、実際は拡大と回転ですけれどね~。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも 90度というところがミソでしょうか。あんがい 現実と対応しているぢゃないですか。横車とか 横様(⇒よこしま:邪ま)。


 15. ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 へそ曲がりの韓国人も何十度か回転させれば、おそらく、へそ曲がりでなくなる。
 ですが、
 自力でこの回転をする能力や勇気を韓国のお人が持っているかどうかはわかりません。
 私が思うに、韓国のお人は、2次元平面上で±180度や360度する力は持っているかもしれないけれど、これ以外の角度で自力回転することはできないのかもしれない(笑)。

 事大主義なんて、まさしく、±180度の回転ですし…。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 90度回転から おなじように90度回転することを 突然変異のごとく 期待するというかたちになりましょうか。《事大主義》は 別の質問でも取り上げました。


 面白く・たのしくなって来ました。

お礼日時:2015/01/13 21:13

#1の回答者様はご質問者の長大な「議論」を真面目に受け取った様ですが、


ご質問者は「虚数」を文字通り「虚」だと誤解しているから、私は敢えて
お教えしよう。
実数は「リアル」、虚数は「イマジナル」で全く等価だ。
実在をフーリエ展開すると、どちらも現われる。
なおイマジナルの現われない展開も可能なので、もし御存知無い方がおいでなら
わきまえておいて頂きたい、研究者でそれを知らないと学会で吊し物だ。
確かにイマジナルな「成分」は通常触れる事が出来ないが、ちゃんと「実在」
し、それは「消去」できない。

ご質問者は五次元目でも探されると良いだろう。
二十八次元まであるそうだ。

この回答への補足

 この際 ついでと言ってはなんですが 訊いちゃおう。

 【Q:哲学する人間は 触媒である。】 ~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8866566.html

 以下を問います。


 カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。

 あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。

 つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。


 相手がけっきょくわれに還ることをうながす。
 そういう化学反応が その相手に起こる。
 こちらは さして変わらない。
 もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うように成る。
 化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。
 カタリスト=触媒である。



 韓国人は 話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。
 また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。
 これに対して触媒たらざるを得ないと思う。

 中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。
 アマアガリ・シンドロームである。
 これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。

 
 欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。
 宗教も倫理も科学も人格もみな 世界の模範であると思い込んでいる。
 表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。
 生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となって癒してやらざるを得ない。

 
 哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。
 ときは満ちたであろうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この虚数のタトエの問題と密接につながっています。ので この《触媒》といったタトエは 不都合なところがありますか? とぜひお尋ねしてみておきたい。よろしかったら おしえてください。

補足日時:2015/01/10 21:53
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この回答へのお礼

 ご批判は 大歓迎です。
 まづは ご回答をありがとうございます。

 ★ #1の回答者様はご質問者の長大な「議論」を真面目に受け取った様ですが、ご質問者は「虚数」を文字通り「虚」だと誤解しているから、私は敢えてお教えしよう。
 ☆ はい。議論はあくまで《たとえ》としてですが  そのタトエにおいて《虚数》を文字通り《虚》である・すなわち《現実ではない》と受け取っています。

 ★ 実数は「リアル」、虚数は「イマジナル」で全く等価だ。実在をフーリエ展開すると、どちらも現われる。
 ☆ ええっと このあたりになると質問者には理解が行き届かなくなるのですが。・・・

 まづ
 1. イマジナリーというのですから それは 大きな現実の一環であるとしてもあくまで《想像》による認識に成るモノゴトなのではないのですか?

 2. 想像の世界であるということは 事実とは直接につながらないところの観念としての認識ないし意識である。のではないのですか?

 3. 《実数は「リアル」、虚数は「イマジナル」で》あると なぜ《全く等価だ》となるのでしょう?

 4. そして 《実在をフーリエ展開すると、どちらも現われる》ということですが ここらへんは まったく歯が立ちません。

 5. それでも 推測をおよぼしてたずねてみるなら 《どちらも現われる》という認識の中身についてですが 虚数は やはりあたまの中の観念としてだけのものではないのですか? 実数が じっさいのモノゴトの数量としてのあり方と対応しているというかたちでは 虚数は その対応がないのではないですか? (分からないまま尋ねていますので そこのところは ご容赦をお願いします)。

 6. あるいは 虚数が ただの想像上の認識だけに限られないとすれば それは i^2 = -1 というようにしてこの《マイナス1》が現実のものごととあたかも対応するというだけのことではないのでしょうか?

 6-1. 《マイナス1》という現実とは どういうことか?

  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~
  18-1.ひとつの解説をすでに得ています。
   ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。

   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程
   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程
  
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 虚数《 i 》のままでは 現実のモノゴトと対応しない。それはひとが 遊魂とでも呼ぶような想像力一色の状態になる。
 ただし――タトエの問題に入っていますが―― 虚数としての想像(へそ曲がりの想像)を重ねて実行するなら その結果としての心の状態は むしろあたかも現実として現われる。それはしかも もはや世界をそのままでは見ることが出来なくなっている。という見方です。

 6-2. まぁ 早い話としては 《すねている。ひねくれている》状態でしょうか。ただし人格の全体でそうなわけです。慰安婦のハルモニらの状態です。


 7. 問題は ここで いま虚数をタトエに使っているのは あくまで人間とその思考〔および感覚〕についてだということです。あるいはつまり 人間の意志行為についてこそ 実数と虚数という概念をタトエとして使っているわけです。つまりは 思想や意志の行為について じつは《マイナス1》というような負の数量や状態は ほんとうにはあり得ない。こう考えるわけです。
 自然本性にさらかっている。《われに還る》といった状態が半永久的に猶予されている状態であると。

 8. タトエの領域に入ったあとは さらにタトエで考えるなら 《マイナス》の状態というのは人間にとって たとえば《嘘・イツワリを言いおこなうこと》やあるいは《或る種の仕方ですこやかな状態から離れたさまにあること》を言うと言えば 言えないこともない。とも考えられます。

 9. ということで ここでは 《精神の錯乱》状態を 虚数の世界にあるという譬えで捉えています。ふつうの意志行為として――その能力が欠けた状態にあるという理由により――みとめられない。という問題のことです。心神喪失を言います。

 10. バカの壁ならぬ虚数の――つまり現実から遊離した想像上の――壁が そのとき精神にむろんみづからの手で建てられた。といった見立てになります。具体的には典型的には現代の韓国人の状態を指して言っています。




 (5)番の問題は 次のように説かれているようです。:
 ★ 確かにイマジナルな「成分」は通常触れる事が出来ないが、ちゃんと「実在」し、それは「消去」できない。
 ☆ ということは: 

 11. この《実在》が (6)から(10)にかけての《負の数 または 精神のマイナスの状態》だけを言っているのではないか? とうたがわれます。(タトエの問題ですが)。



 ★ ご質問者は五次元目でも探されると良いだろう。二十八次元まであるそうだ。
 ☆ 分からないながらのウタガイと問いとをゆるされるならば こう問いたい。:
 
 12. つまり そのような高次元の世界は 四次元の現実〔および ほんとうには 《非思考の庭》なるナゾの領域をつけ添えようとしていますが〕と具体的に対応しているのでしょうか? 

 13. けっきょくこうです。もしそのような虚数をふくむ高次元の世界が 四次元の現実世界のモノゴトと対応しているとすれば その対応関係というのは タトエで言って或る種の《ふつうにすこやかならぬところの病的な内容》を持つに到っているのではないか? これです。

お礼日時:2015/01/10 21:48

虚数の特徴は;



1.自乗するとマイナスになる。

2.実数とは原則的に相互作用しない。

3.0(光量子)を介してのみ相互作用する。

1によって4次元時空のベクトルにおいて自乗で作用する
時間軸との虚数関係が空間軸との等距離点において相殺
されて0の面(ライトコーン)をつくったり、相互作用において
自乗で作用するエネルギーの値が超光速において虚数に
なり自乗によってマイナス=時間軸逆行と等価となる(現在
(感受表面での量子相互作用=光速)からの対発生を可能
にする)など、「現象においてマイナスとなる」という特性が
ある。

それは、2、3から、現象において階層現象表面的に、いい
加減に捉える(経験(時系列化=時間軸)の介入、階層現象
表面的に生じる非光速性)事で仮想的に、自我仮説(時間
的流れ=経験=過去=超光速)と空間仮説(空間的広がり
=予測=未来=光速下)の相補分化を可能にしている。
即ち、本質的ではなく現象的に環境的な存在性が派生して
いる事を反映しているのだ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 問題は もしこのように示された理論認識を基にしてこの大きな現実世界を見るなら どういう見方になるのか? ここにあるのでしょうね。




 ★ 即ち、本質的ではなく現象的に環境的な存在性が派生している事を反映しているのだ。
 ☆ ということだそうですが  もしこれを 《存在》が《現象》と《本質》とのふたつに基本的に分かれる――つまり現象だけでは存在ではないということである――というのならば その《本質》とは何か? 

 あるいは そのように二つの存在に分かれると解釈したことがマチガイなのか?


 あるいはさらにもし その本質が《0の面(ライトコーン)》にあり そのおそらく無に還元されるということであるのならば それは ふつうの現実としての心的現象や人間のこの世界における生活はどうであると捉えたことになるのか?

 《無が潜在している》ということなのか? またそうだとすると それはどういう意味なのか?
 つまりたとえば ふつうのこの生活としての現実は それが無だということなのか? です。

 

 虚数と実数とは
 ★ 3. 0(光量子)を介してのみ相互作用する。
 ☆ というとき 実数と相互作用するのなら その虚数は 現実なのか?

 こういった問いが必然的に提出されるように考えられます。

お礼日時:2014/12/30 09:20

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