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A 回答 (26件中1~10件)

 No.1です。

ご返答をいただきました。

 ★ ~~~~
 ただし、「分かるか分からないかが分らないナゾの何たらかんたら・・・」などとゆーたら、その瞬間に理解不可能となり共同性は失われ全て終わりになります。
 ~~~~~~
 ☆ これが 《説明されうると思われる〈主観の共同性〉》です。

 ★ 理解不可能
 ☆ というよりは 《分かるか分からないかが分からない》のです。《理解可能とも理解不可能とも人間の能力では決められない》ナゾなのです。

 いいですか。理解可能であれば・あるいははっきりと理解不可能だと分かっているのであれば それは 《非経験の場》ではありません。

 言いかえると そのときのサトリは 経験知であり経験科学による世界の理解という域を出ません。認識論にすべてがおさまるというひとつの――あさはかな――世界観です。

 言いかえると 《説明可能性》とは このナゾについての代理表現によるということを意味します。
 一般にじんるいは 《かみ》という言葉をもってその代理表現をして来ています。さらに そこから人びとは言いかえました。《風・息⇒霊》(プネウマ・スピリトゥス・ルーアハなど)です。

 風は思いのままに吹く。
 もののあはれを知る。
 梵我一如。

 などなどと 何とかして代理の言葉でながら 説明しようとして来ました。そこに《アルケー》を入れてもいいですよ。 

 けれども すべては 仮りの表現です。
 しかも この仮りの言葉をとおして おれは分かった・わたしはさとったという人も出ました。

 そうかも知れないと人びとが思うのは――明らかにインチキと分かる神学やサトリ観を除けば―― やはりいわゆる自然本性として その神ないしサトリのことが じつは 分かっている・知っているということです。

 一切衆生 悉有仏性

 と言うぢゃないですか。



 ★★(表題の問い) 悟ったとき人は何を思い、何を行うのか。
 ☆☆(回答No.1) どうして〔あなたは〕 すでにさとりを得ているのに 得ていないと言いたくなるのか? この問いに代えるとよいはずです。 
 ☆ このように思いこのように――たとえばですが――発言するでしょう。
 
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この回答へのお礼

 
あなたの言葉は判り難いが、とりあえず簡単に焼き直してみるとこーなります。

人は初めから皆悟っている。

何を悟っているかゆーと、この世には「分かるか分からないかが分らないナゾの何ものかが存在する」ゆーこと。

それが神である。

こんな感じになるかと思うが、問題はそれでどーなるの、そこから何が生まれるのゆーことに尽きるのではないでしょうか。

お礼日時:2012/08/14 18:44

 法然上人のようになると思います。



 また、現代(近代)のお坊さんの伝記を見ると・・・・

 歩めば若草を踏まぬようにし、衣にたかった虱は殺さず干してやればてんでんに散っていくとし、歩みながらも米粒に名号「南無阿弥陀仏」と書き、触れ合う人々に佛との結縁を願い与えた。

 何を為すにも念仏はしていて、宗教者が奇跡を起こさねばと、身はここに置きながら遠くの縁者の枕もとに心を飛ばしたり、この辺で不慮の死を遂げた人は無いかと云い、古井戸に向かって念仏し亡者の霊を成仏させたりしたらしい。
 でもそんなことは取るに足らぬことで、人間として生まれた事ほどの奇跡は無いといつも云っていた。

 また、両手に筆を持ち同時に違う和歌を書いたり、書物を片手に持ち、一方の手でその本の表紙をなぞるだけで、その内容を理解したとも言う。(これは妙観察知という心の働き、との事です)

 
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 こまったもんだなぁ。




 定理:だれも言ったことがなければ そうなる。


 無い神も神も 非経験の場として同じ無根拠のナゾである。
 非経験の場は 経験世界における有る・無いを超えている。なんど言ったらわかるんかなあ。
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 ★(No.25お礼欄) ~~~


 自分が勝ちそうなときは思考の庭に入り、負けそーになると非思考の庭に入るとか。

 要するにそーゆーことではないの。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 心的現象としてふたつの階層がある。こういうことでしょうね。《経験世界のものごとを相手とする経験思考》の領域と《非経験の場を受け容れているという非思考の庭》なる――ほとんどマボロシの――境域とのふたつの階層です。
 
 この階層構造は つねに《わたし》の心(=身ないし神経組織等)において成り立っている。こういうかたちです。



 このふたつの階層についてさらに詳しく分析したものは 次のような図示です。

 ○ (思考領域と非思考の庭との構造) ~~~~~~~~~~~~~
   (:ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
  _______________________
  “インスピレーション”=ロゴス(β):異言
     中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
         
  “インスピレーション”=ロゴス(γ):預言
     本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理



  ・クレド: credo (= I believe. )
  ・コギト: cogito (= I think. )
  ・ロゴス: ことば・論理
  ・ラチオ: ratio (計算・思考)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち 《非思考の庭》と《思考の領域》とをつなぐかに思われる《インスピレーション》の境域があるとも考えられます。
 このヒラメキの境域は けっきょく《非思考の庭》としてのひとの境位と言わば一体であると捉えられます。
 非思考の庭は 非経験の場を受け容れたものと言うとき 《受け容れる》という部分は ひとの経験的な意志行為であるゆえ けっきょく経験思考の領域とのあいだに位置して 現実にハタラキを持つ。と考えられます。
 それが ヒラメキであり そのヒラメキが コギト(考える)を呼び覚ますとも捉えられるのではないか。

 これが ひとの心的現象の全体像です。
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この回答へのお礼


 

お礼日時:2012/08/16 14:27

 言いたいことがあれば 趣旨説明欄に先に書いておけばよいのに。



 今からでも遅くないから ひとふし披露すればよいのではないですか?
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この回答へのお礼

 
あなたにアルケーの神について語ったところで、何らの意味もないと判断したのでやめます。

その代わりに非思考の庭について問うてみたい。

あなたがゆー非思考の庭とは完全なる非思考を意味するのではないでしょう。

もし完全な非思考を求めるのであれば、これから貝になりますとかゆーて貝になる意外にない。

しかしそんなことは人間に出来る訳ないのであるから、完全な非思考など有り得ない。

するとこの非思考の庭とはところどころ非思考になる、つまり自分の都合の良い時だけ非思考を求めるゆーことではないの。

例えば金を借りるときは思考の庭に入り、金を返す時になると非思考の庭に入るとか。

あるいは自分が勝ちそうなときは思考の庭に入り、負けそーになると非思考の庭に入るとか。

要するにそーゆーことではないの。

すると思考の庭から出て、非思考の庭に入るタイミングは何時なのか、非思考の庭から出て思考の庭に戻るのは何時なのかとか判断をしなければならないが、その判断はなかなかの計算を要することであって非思考の庭に居て出来る訳ない。

要するにあなたがゆー非思考の庭とは、単なる御都合主義ではないの。

そーゆーことは考えんの。
 

お礼日時:2012/08/16 12:47

 ★ 傑作である。

/ だからあなたは実に面白いとゆーておきます。

 ☆ よかろう。
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この回答へのお礼

 
bragelonneさん、あなたは1つ忘れてることがあるんでないの。

それは神についてのわたしの考えはどーなのかゆーこと、つまりアルケーの神についてのことであるが。

例えば、もしわたしが(1)の立場をとるゆーのであれば、アルケーの神についても同じことで考えても無駄であるとゆーべきではないのかとか、何かゆーておることに矛盾があるのではないのかとか訊くべきではないの。

そんなこともーどーでもえーの。


 

 

お礼日時:2012/08/16 00:57

 (1)と(2)は 無神論と有神論とである。



 どちらも その《無い神》も《神》も《非経験の場》であるなら まったく互いに対等な信仰である。
 人間の言葉で説明する仕方が違うのみ。

 《奴隷ではない》と自称する(1)の無神論も ひとはその《無い神》から見れば ゴミである。とこころえているのが きよらかなおそれである。
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この回答へのお礼

bragelonneさん、あなたはここでいろんな言葉を使って長らく語ってきましたね。

ざっと並べると、例えば、

非経験の場
非思考の庭
神、代理の言葉、代理表現、仮りの言葉
分かるか分からないかが分らないナゾの何ものか
説明されうると思われる〈主観の共同性〉
真理がすべてにおいてすべてである
いま・ここなるわたし
永遠の現在
神は 《わたし》と はげしく・しづかに かかわっている
あの世などというのはあつかいません
すでにさとりを得ている
きよらかなおそれ
     ・
     ・
     ・
そのおかげでわたしは随分振り回されたが、あなたの考えを簡単に結論すると、「人はみな神は永遠のナゾだから無条件に受入れる以外ないと悟っている 。」、たったこれだけだった。

傑作である。
だからあなたは実に面白いとゆーておきます。
 

お礼日時:2012/08/16 00:13

 ★(No.20お礼欄) ~~~~


 ( a ) 人は初めから神が永遠のナゾであることを悟っている。
 ( b ) 誰にとってもこの悟りによって真理の探求は既に完結しているのである。
 ( c ) だからこれ以上神について探求すべきものはなく、人は永遠のナゾとして神を無条件に受入れればそれで皆自由になれるのである。


 ( d ) 同じ自由になるにしても、解放されて自由になるのと無条件に受入れて自由になるのとでは180度違うのであるからこの差ははっきりさせんとね。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。
 まづ( a )は 初めに結論の命題をしっかりと置くのがよいでしょうね。

 ( a-1 ) 人は初めから(生まれつき) じつは 神について知っている。

 ( a-2 ) 神は 無根拠のナゾであると。

 ( a-3 ) ゆえに 赤子は 《聖なるアマエ》として言わば《さとり》を得ている状態にある。成長しつつ 自己がウソつきであることをも知ってからは 《きよらかなおそれ》においてである。

 ( a-4 ) 神は 《非経験の場》として想定されうる。



 ( b ) 誰にとってもこの悟りによって真理の探求は既に完結しているのである。


 ( c ) だからこれ以上神について〔《考える》において〕探求すべきものはなく、人は永遠のナゾとして神を無条件に受入れればそれで皆自由になれるのである。

 ( c-1 ) この《自由の道》は 《わが心に神を受け容れたという非思考の庭》としてのわが生きることの動態なのであるから 《わたし》は 人びととの社会的な関係性において生きる。

 ( c-2 ) この自由の道をあゆむそれぞれわが姿を 伝え合う。

 ( c-3 ) これについては じつは《考える》によって哲学として 言葉で説明し合おうといういとなみがともなわれる。

 ( d' ) 解放には 闇の中をさまよっていたところ ひとのあたたかい思いやりに触れて凍れる心が溶かされる場合や 科学の発達によって医療のめぐみを受けてすくわれる場合のごとく 経験的な人智や人為としての光による解放があるとともに さらにはみづからの存在(つまり身と心)そのものが すでに燈心として火をともされてあるというあり方へと変えられるような解放とがある。

 ( d-1 ) 後者の解放は 《真理》の光に照らされてわが心の燈心に火が着いた場合である。
 世の中の屑にもひとしい《わたし》を 何ものかナゾの無根拠が えらびだして火事にしてしまった。この火は 消えなくなってしまっている。
 ・・・
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この回答へのお礼

 
ここに神についての考えられる2つの悟りを並べてみました。


(1)人はみな神は永遠のナゾだから考えても無駄であると悟っている。

(2)人はみな神は永遠のナゾだから無条件に受入れる以外ないと悟っている。


あなたの考えを簡単に結論すると(2)になるでしょう。

たったこれだけのことをゆーのに思えば随分と長い道のりであったが、あなたのペースに合わせると必ずこーなるのであるから仕方ない。


(1)と(2)を比べてどちらがより自然でしょうか。

普通自由になりたいと願うのであれば、解放されることを選ぶのではないか。
果たして自由になりたいと願う者が盲目的に従うことを選ぶであろーか。

無条件に従うことによる自由の立場をとるあなたの考えは、極めてヒンズー的ですね。
彼らインド人とヒンズー社会はこの考えをベースに数千年前から現在に到るまでカーストを維持してきたのです。
あなたの発想は基本的にこれと同じです。

しかし私を含め普通の日本人にはこのよーな考えはなじまない。
どー考えても(1)が自然である。
普通に考えて(2)は有り得ない。
何故なら人は奴隷ではないからである。
 

お礼日時:2012/08/15 23:05

 ☆☆(回答No.17) ~~~


  ★(No.16お礼欄) 結論としては 神からの解放かな?
  ☆ ええ。観念の神からの解放です。
 ~~~~~~~~~~~~

 つまり 《神からの解放》って言うもんだから それは そのままではおかしい。
 《観念の――インチキの――神からの解放》ということでしょう? と説明したまでですよ。

 
 あるいは こう言い直せばよいのです。

 ○ 神への解放 または 神を受け容れることとしての解放

 と。

この回答への補足

 
結論としては神の無条件受入れによる自由への道かな?
 

補足日時:2012/08/15 22:15
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この回答へのお礼

では仰せの通りに修正するとして、このよーな結果になるのでしょーか。


人は初めから神が永遠のナゾであることを悟っている。
誰にとってもこの悟りによって真理の探求は既に完結しているのである。
だからこれ以上神について探求すべきものはなく、人は永遠のナゾとして神を無条件に受入れればそれで皆自由になれるのである。



同じ自由になるにしても、解放されて自由になるのと無条件に受入れて自由になるのとでは180度違うのであるからこの差ははっきりさせんとね。

お礼日時:2012/08/15 22:08

 ★(No.17お礼欄) ~~~~


 観念の神ではない神とは何のことですか。
 観念の神と信じる神?
 何がどー違うの。
 初めから2つ用意してましたゆーことなの。
 ~~~~~~~~~~~~

 もうすでに説明し終えています。

 《非経験の場》と経験世界。
 《信じる》と《考える》。
 《非思考の庭》と《思考・科学》。

 
 《分かるか分からないかが分からない》 これが 神であり真理です。
 真理をさとると 《考える》の経験世界は すべて 相対性の世界であることが見えて来ます。
 そこより 因果関係からの自由を得るようになりましょう。

 

この回答への補足

 
神について語るのであれば、まず自分の神について語るべきではないの。

あなたは非経験の場が神であるとゆーて語りはじめたが、いつの間にか観念の神なるものが現れて、これは死んだ神であって非経験の場とは違う神であるなどとゆーもんだから、はたまた話が混乱してきよった。
だれも観念の神のことなど持ち出して来てはおらんはずなのに、いつの間にか観念の神と非経験の場なる神が2つ現れて来て話が分からなくなってしもーた。

もともと判り難い言葉を使い、不要な修飾語を散らばめて増々判読不能にした上、最後にゴマ化されてはもー手の施しよーがありません。
 
 

補足日時:2012/08/15 19:40
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この回答へのお礼

 
死んだ神のことなど語ってどーするんです。

あなたがこれまでここで語ってきた神、非経験の場について、あなたの言葉が判り難かったのでわたしなりにまとめたものを示したのです。

(再掲)

人は初めから神が永遠のナゾであることを悟っている。
誰にとってもこの悟りによって真理の探求は既に完結したのである。
だからこれ以上神について探求すべきものはなく、人は皆神から解き放たれ自由なのである。

あなたがここで語ってきたことを繋ぎ合わせるとこのよーになるのではないのですか。

お礼日時:2012/08/15 19:05

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